第一章 異変
はじめまして、小鳥遊湊人と申します。
歴史ミステリー×ロマンスの物語『霧の向こうに眠るもの』を連載開始いたします。
祖父の死の謎を追う高校生・蓮と、行方不明の父を探す幼馴染・栞。
二人が辿り着く「消された村」の真実とは——?
全12話完結予定です。
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十月の東京。銀杏が黄金色に染まり始めた頃だった。
文京区の住宅街を歩く藤崎蓮の手元で、スマートフォンが光った。放課後の帰り道、どこからか金木犀の香りが漂ってくる。
画面には、おじいちゃんからのメッセージ。
『蓮、今度の日曜、来れるか? 大切な話がある。』
おじいちゃん──藤崎幸造は、東大で日本中世史を教えていた元教授だ。定年後も研究を続けながら、蓮の家から歩いて十五分ほどのマンションで一人暮らしをしている。
蓮はおじいちゃんっ子だった。両親が共働きで忙しかったこともあり、幼稚園から小学校低学年までの放課後は、ほとんど書斎で過ごした。古い洋書の匂い。紅茶の香り。時折出題される「なぞなぞ」。
『この数列の意味、当ててごらん。3-14-159……』
『円周率でしょ、おじいちゃん』
『ほう、すぐにわかったか。じゃあ次は難しいぞ』
暗号やパズルを解く楽しさを教えてくれたのも、おじいちゃんだった。
──大切な話。
メッセージで用件を詳しく書くタイプじゃない。直接会って話すのが好きな人だ。わざわざ「大切な話がある」と書いてくるのは珍しい。
返信を打とうとした瞬間、着信が入った。
母からだった。
*
「蓮……おじいちゃんが……」
電話の向こうで、母の声が震えている。
「え? どうしたの」
「亡くなったの……今朝……」
世界が止まった。
「……え?」
自分の声が、ひどくかすれていた。
「心臓発作だって。朝、連絡がつかなくて、管理人さんに部屋を開けてもらったら……もう……」
母の言葉が、嗚咽に変わる。
蓮は立ち尽くした。銀杏並木が揺れている。金木犀の香りがする。何もかもが数秒前と同じなのに、世界はまったく違うものになってしまった。
おじいちゃんが、死んだ。
「嘘だろ……」
呟いた声は、誰にも届かなかった。
*
通夜と告別式は、慌ただしく過ぎた。
おじいちゃんには友人や教え子が多く、式場は人で溢れていた。蓮は喪服を着て、ぼんやりとした意識のまま頭を下げ続けた。
現実感がない。
遺影を見ても、どこか他人事のような気分だった。あの穏やかな笑顔が、もうこの世にいないなんて。
葬儀の最中、視線を感じて顔を上げた。
参列者の中に、見覚えのある男がいる。五十代くらい。高価そうなスーツに、どこか余裕のある雰囲気。目が合うと、軽く会釈された。
誰だったか。見たことがある気がするが、思い出せない。
結局その男は、蓮に声をかけることなく去っていった。
*
葬儀から数日後。蓮は一人で、おじいちゃんのマンションを訪れた。遺品整理のためだ。
管理人から鍵を借り、見慣れたドアを開ける。
静かだ。
当たり前のことなのに、その静けさが胸を刺す。
靴を脱いで上がり、書斎へ向かった。
ここで何度も本を読んだ。暗号を解いた。紅茶を飲んだ。すべてが昨日のことのようなのに、もうあの時間は戻ってこない。
椅子に腰を下ろし、蓮はしばらく動けなかった。
気持ちを切り替え、遺品の整理を始めた。
本棚の本を一冊ずつ確認しながら箱に詰めていく。おじいちゃんの蔵書は膨大で、歴史書から推理小説まで様々だった。
作業を続けるうち、違和感が膨らんでいった。
──本の並びが違う。
おじいちゃんは几帳面な人だった。本は必ず「著者名の五十音順」に並べる。それがルールで、蓮が適当に戻すと叱られたものだ。
なのに今、その順番が崩れている。
他にも気になることがあった。
デスクの引き出しが五ミリほど開いている。普段なら完全に閉まっているはずだ。
窓際の観葉植物が枯れかけている。毎日欠かさず水をやっていたのに。
そして茶器棚の上に、割れた茶碗の破片。
おじいちゃんが愛用していた織部焼だ。普通なら片付けるはず。なぜ放置されている?
「……誰かが、先に来てた?」
心臓発作。それが言われた死因だ。でも、この部屋の様子はおかしい。
誰かがおじいちゃんの死後──いや、死の直前に──この部屋を荒らしたんじゃないか。
蓮は改めて部屋を調べ始めた。
三十分後、床下収納の中に隠された封筒を見つけた。
普段なら気づかない場所だ。でも、床板の継ぎ目がわずかにずれていた。おじいちゃんが教えてくれた「観察力」が役に立った。
封筒を開けると、中には三つのものが入っていた。
一つ目は古い地図。関西地方──奈良、兵庫、滋賀、大阪の山間部にいくつもの×印が付けられている。
二つ目は手紙。おじいちゃんの筆跡だ。
『蓮へ。私に何かあったら、栞ちゃんを頼りなさい。──幸造』
栞ちゃん。
その名前に、心臓が跳ねた。
白河栞。幼馴染の女の子だ。小学校低学年の頃、よく一緒に遊んだ。彼女の父親・白河修一はおじいちゃんの弟子で、研究仲間でもあった。
でも五年前、修一が突然失踪してからは、栞とも疎遠になっていた。
三つ目は、意味不明の数列が書かれた紙切れ。
『16-1-3 7-2-1 12-3-2』
おじいちゃんが遺した暗号だろうか。どう解釈すればいいのか、見当もつかない。
紙切れの端には、もう一つの数字が走り書きされていた。
『1511』
これも意味がわからない。
蓮は封筒の中身を鞄にしまい、立ち上がった。
おじいちゃんの死は、本当に自然死だったのか。
この部屋で、何が起きたのか。
窓の外を見た。夕暮れの空がオレンジ色に染まっている。
おじいちゃんの言葉が、頭の中で響く。
『蓮、歴史には表と裏がある。本当に大切なことは、表の歴史には書かれていないんだ』
その言葉の意味を、蓮は今、初めて本当に理解しようとしていた。
*
その夜、自室で古い写真アルバムを開いた。
小学生の頃の写真。おじいちゃんの書斎で撮られたものだ。
蓮の隣に、黒髪の女の子が写っている。眼鏡をかけた、どこか大人びた表情の少女──白河栞。
二人は根津神社の境内で「宝探しごっこ」をして遊んだ。おじいちゃんが謎を出題し、隠された「宝物」を見つけるゲームだ。
ある時、本当の「宝物」を見つけた。
神社の裏手、大きな木の根元に埋まっていた星形の石。
『蓮くん、見て! 星の形してる!』
栞の興奮した声が、今も耳に残っている。
『きっと流れ星の欠片だよ』
そう言うと、栞は目を輝かせた。
あの石は今も机の引き出しにある。約十年前の思い出。子供の頃の宝物。
引き出しを開け、星形の石を取り出した。手のひらに乗せると、ひんやりとした感触。
『私に何かあったら、栞ちゃんを頼りなさい』
おじいちゃんは、なぜ栞の名前を遺したんだろう。
蓮は決心した。
明日、栞に連絡を取ろう。五年ぶりに。
*
翌日の放課後、栞の連絡先を探した。
昔の携帯に残っていた番号は繋がらない。SNSを検索しても見つからない。結局、おじいちゃんの手帳に書かれていた栞の母親・美咲の番号に電話をかけた。
三回目のコールで繋がった。
「はい、白河です」
落ち着いた、大人の女性の声。
「あの、藤崎蓮です。藤崎幸造の孫で……」
「まあ、蓮くん? 久しぶりね」
美咲の声が少し柔らかくなる。
「おじいちゃんが亡くなって……遺品を整理していたら、栞さんに連絡を取るようにって手紙があって」
電話の向こうで、一瞬の沈黙。
「……そう」
何か含みのある声だった。
「栞に連絡を取りたいのね。少し待って、番号教えるわ」
美咲は番号を教えてくれた。でも最後に、こう付け加えた。
「蓮くん。あまり……深入りしない方がいいわよ」
「え? どういう──」
「何でもないの。気にしないで」
電話は、そこで切れた。
*
待ち合わせ場所は根津神社だった。
蓮が提案したわけじゃない。栞に連絡すると、彼女の方から「根津神社で会いたい」と言ってきたのだ。
十月下旬の夕方。朱塗りの鳥居が夕日に照らされ、燃えるような赤に染まっている。参道を歩いていると、幼い頃の記憶が蘇った。
手水舎の前に、人影があった。
長い黒髪。眼鏡。手には文庫本。
五年の歳月は、彼女を少女から大人の女性へと変えていた。でも落ち着いた佇まいには、どこか昔の面影がある。
「久しぶり、蓮くん」
白河栞が、静かに微笑んだ。
「栞……変わらないな」
「そう? あなたは少し……大人になった」
眼鏡のフレームを軽く触る。その仕草に、わずかな照れが見えた。
「おじいさんのこと、聞いたわ。お悔やみ申し上げます」
「ありがとう。……栞のお父さんは?」
栞の表情が曇った。
「……まだ、見つかってない」
白河修一。五年前に突然姿を消した歴史学者。警察は「自発的な失踪」として捜査を打ち切ったが、栞は父が自分の意志で消えたとは信じていないらしい。
「積もる話があるの。少し歩かない?」
栞の提案で、二人は境内を歩き始めた。
木々の間から夕日が差し込み、石畳に長い影を落とす。参拝客はまばらで、静かな時間が流れていた。
「おじいさんから、何か預かってる?」
蓮は頷いた。
「地図と、暗号みたいな数列。あと『栞ちゃんを頼れ』って手紙」
「見せて」
鞄から封筒を取り出し、栞に渡した。彼女は中身を一つずつ確認していく。その目つきは真剣で、まるで探偵が証拠品を調べているみたいだ。
「この地図……お父さんも、似たようなものを持ってた」
「本当に?」
「ええ。お父さんとおじいさんは、同じものを研究してたの」
栞は歩みを止め、蓮の方を向いた。
「何を研究してたか、知ってる?」
蓮は首を振った。
「知らない。おじいちゃん、あまり研究の話しなかったから」
「『消された村』よ」
「消された村?」
「歴史から抹消された、存在しなかったことにされた村。お父さんは『必ず見つける』って言ってた。そして……消えた」
栞の声に、押し殺した感情が滲む。
蓮は紙切れを取り出した。
「これ、意味わかる? 『1511』って」
栞が紙切れを凝視する。
「1511……どこかで見た気がする」
「何か関係あるのかな」
「わからない。でも……調べる価値はある」
紙切れを返し、栞はまっすぐ蓮を見つめた。
「蓮くん。一緒に調べない?」
予想していた言葉だった。でもいざ聞くと、心臓が大きく跳ねた。
「おじいさんの死の真相と、お父さんの行方を。私一人じゃ限界がある。でも二人なら……」
「危険じゃないのか」
栞は少し目を伏せた。
「危険かもしれない。お父さんも、おじいさんも、何かに巻き込まれたのかもしれないから」
「だったら──」
「だからこそ、真実を知らなきゃいけないの」
栞の目に、強い決意が宿っていた。
蓮は彼女の目を見つめ返した。
「わかった。僕も調べたい。おじいちゃんが何を追ってたのか。何があったのか」
「ありがとう」
栞が、ほんの少しだけ微笑んだ。
その笑顔を見て、蓮は胸の奥がざわつくのを感じた。
これが、すべての始まりだった。
*
帰宅すると、母がリビングでニュースを見ていた。
「あ、おかえり。遅かったね」
「うん、ちょっと……」
テレビに目をやった。ニュースキャスターが誰かにインタビューしている。
五十代くらいの男。高価そうなスーツ。どこか余裕のある雰囲気──。
蓮の目が見開かれた。葬儀で見た男だ。
「この人、お葬式に来てたよね」
母が画面を指した。
「え? 知り合い?」
「おじいちゃんの知り合いみたい。御堂圭一郎さんっていうんですって。IT企業の社長で、慈善活動も熱心にやってる人らしいわよ」
画面下にテロップが出ていた。
『霧峰財団 代表 御堂圭一郎』
霧峰財団。聞いたことのない名前だ。
御堂は穏やかな笑顔でインタビューに答えている。
「私どもの財団では、日本の歴史研究を支援しております。特に、忘れ去られた歴史に光を当てる研究者の方々を……」
その言葉を聞きながら、背筋が冷たくなった。
霧峰財団。御堂圭一郎。忘れ去られた歴史──。
偶然だろうか。おじいちゃんが追っていた「消された村」と、何か関係があるんだろうか。
疑問が、渦を巻き始めていた。
*
同じ頃。
文京区のマンションで、白河美咲は窓の外を見つめていた。
夕日は沈み、空が紫から藍色に変わっていく。
テーブルの上にスマートフォンが置かれている。先ほど、蓮から栞への連絡が入ったことは知っている。栞は嬉しそうな顔で出かけていった。
美咲は深いため息をついた。
「始まってしまったのね……」
誰に言うでもなく呟く。
自分にできることは、もうほとんどない。「深入りするな」と警告するくらいだ。
でも、それで止まる子たちじゃないだろう。
携帯を手に取り、ある番号を呼び出した。
三回目のコールで、相手が出た。
「私です。……ええ、二人が動き始めました。……はい、わかっています」
声は平坦だった。でも、目には複雑な感情が渦巻いている。
「これ以上は……私には止められません」
電話を切り、再び窓の外を見た。
夕日は完全に沈み、街に灯りが点り始めていた。
過去の闇が、再び動き出そうとしている。
そして自分の秘密も、やがて明らかになるのだろう。
美咲は目を閉じ、祈るような仕草をした。
どうか、娘だけは──。
第一章 終
第1話をお読みいただきありがとうございます!
この物語は、実在の歴史事件をベースにしたフィクションです。
廃村探索、暗号解読、そして切ない恋愛要素を詰め込みました。
次回は蓮と栞が暗号を解読し、最初の「消された村」へ向かいます。
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