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9話 屋敷への帰還

 夜会は華やかさを極め、煌びやかな装飾と甘美な音楽が会場を包み込んでいた。


 貴族たちが優雅に談笑する中、ドワイト公爵が何かを言いかけた時、クリスチャンがまるで獲物を横取りするかのように割って入ってきた。


 彼はクリスチャンを見るなり、顔をしかめ、嫌悪感を露にする。

 彼の整った顔立ちが険しく歪み、薄い唇が引き結ばれた。



「おや、ドワイト公爵。この度は、このような盛大な夜会に御招待いただき、ありがとうございます。お会いするのは国政会議以来ですね。お元気そうでなによりです」



「……そうですね。本日は遠路はるばる、お越しいただきありがとうございます、ブレンシュタイン公爵。まさか、本当にお越しいただけるとは夢にも思いませんでしたよ」



 明るく穏やかなクリスチャンの発言に対して、ドワイト公爵は一段と冷ややかな声で彼に言葉を返す。


 彼らの周囲の温度が、数度下がったように感じられた。


 どうやら、この2人は以前からあまり仲が良くないようだ。

 両者の間には、目に見えない険悪な空気が漂っていた。


 クリスチャンは冷たい視線を向けるドワイト公爵から一転して、私に視線を移し、いつになく爽やかな、しかしどこか作り物めいた顔で私に笑いかけた。



「……アミィ、ずっと探していたんだよ?急にどこかへ行ってしまって。一体俺がどれだけ寂しかったことか」



 彼の言葉は甘美だが、その瞳には自己中心的で傲慢な闇が宿っている。


 やはり、クリスチャンは紛れもないクズである。



(……表面的には心配しているような言葉を並べているけれど、結局は自分の思いに反した私に気に食わないだけ。やっぱり、クリスチャンはクズ以下ね)



 体調不良を訴えて休むと告げた妻を見つけても、心配するどころか自分が寂しかったと主張する。


 妻の苦痛よりも自分の感情を優先する。

 妻への気遣いが全くない、最低な男だ。


 しかし、それでも今の私は彼に反抗することはできない。

 彼の権力の前では、私はあまりにも無力だ。


 いつかこの恨みを必ず晴らし、復讐をしてやる。

 この屈辱を、決して忘れない。


 だから今はこの怒りを抑えなければ。


 平静を装い、彼の前では従順な妻を演じなくては。



「……心配をかけてしまい申し訳ございません。他の方とのお話はもうよろしいのですか?」



 私は極めて冷静に彼の望む従順な妻として話す。


 声が震えないように、精一杯努めた。



「ああ、もう終わったよ。だからそろそろ帰ろうと思うんだけど、君は……ドワイト公爵と話し中だったようだね?俺はお邪魔だったかな?」



 クリスチャンはこめかみをピクピクと痙攣させながら、そう言った。

 彼の内心の苛立ちが、その微かな動きに表れている。


 私がドワイト公爵と話していたことが、気に食わないようだ。


 妻を大切にしない癖に、他の男性と話しているだけで苛立つだなんて、なんて嫉妬深い男なのだ。


 彼が持つ感情は、私に対する愛情からの嫉妬心ではなく、所有欲、あるいは支配欲から来る嫉妬心だ。


 まさに、DV旦那の典型的なパターンである。



「……話していたなんて、そんな大層なものじゃありませんよ。少し足元がふらついてしまって、私が転びそうになったのを、親切なドワイト公爵様が助けてくださっただけですわ。そうですよね?」



 私が同意を求めるように、ドワイト公爵へ振り返ると彼は何も言わずに首を縦に振る。


 するとクリスチャンは大袈裟にため息をつき、こう言った。



「そうだったのですね。ドワイト公爵、ご親切に私の妻を助けていただきありがとうございます。おかげで私の妻は無事でした」



 クリスチャンは『妻』という言葉を強調してドワイト公爵に礼を述べた。


 すると、ドワイト公爵はため息をつき、クリスチャンをギロリと睨みつけながらゆっくりと口を開いた。



「感謝は結構です。私は相手が誰であろうと、困っている者がいれば、手を差し伸べたでしょうから……しかし、彼女が大切ならば、まずは心配の言葉でもかけてはいかがですか?彼女はあなたの大切な妻なのでしょう?」



 ドワイト公爵は、真剣な表情で『妻』というワードを強調し、冷たくそう言い放つ。


 彼の言葉は、正論でありながらも、クリスチャンの無神経さを痛烈に批判している。


 彼の言葉を聞いて、クリスチャン葉一瞬目を吊り上げるが、すぐに元の爽やかな笑顔を浮かべる。

 しかし、その笑顔はどこかぎこちない。



「そうですね、公爵の言う通りです……ごめんね?アミィ。心配はしていたんだけど、それ以上に早く君に会いたくてさ」



 クリスチャンはそう私に謝罪するも、彼の目には怒りの色が見て取れる。

 彼の言葉とは裏腹に、目の奥には苛立ちの赤い炎が揺らめていてた。


 どうやら、ドワイト公爵は彼の地雷を踏んでしまったようだ。

 彼の言葉は、クリスチャンのプライドを深く傷つけたに違いない。



「大丈夫ですよ、気にしないでください。公爵様には感謝しております」



 私がそう言っても、彼の目が笑うことはなく、ひたすらに怒りを抑えているということだけは伝わってきた。


 その後、私とクリスチャンはこれ以上長居するのも得策ではないと判断し、屋敷に戻る為、ドワイト公爵に別れを告げる。



「では、我々はそろそろ失礼致します。また次の議会でお会いしましょう、ドワイト公爵」



「そうですか。では、お気を付けて」



 私は小さく会釈をし、クリスチャンに少し強引に手を引かれて会場の外へ向かう。



「ブレシュタイン公爵夫人」



 しかし、その時突然ドワイト公爵に呼ばれる。

 クリスチャンも足を止め、私たちは彼に向き直るように振り返る。


「何か?」



 私が聞き返すよりも先に、クリスチャンが彼の目をキツく睨みつけ、問いかける。



「貴方はお身体が弱いのですから、今後はノンアルコールのカクテルを飲むことをおすすめします……くれぐれも、御自身を大切になさってください」



 そう言う彼の表情は、私のことを心から心配しているように見えた。

 見え透いた嘘をつくクリスチャンとは違い、私を心から案じているように感じたのだ。


 彼の心地よい、あたたかな言葉に私は感謝を告げる。



「ええ、そうですね。ありがとうございます、ドワイト公爵様」



 私がそう言うと、ドワイト公爵は満足に口角を僅かに上げ、踵を返して会場の喧騒の中へと消えていった。



 その後、クリスチャンはいつになく早歩きで私の手を引き、屋敷の前に停めた馬車へと乗り込む。


 それから直ぐに馬車は動き出し、しばらくするとクリスチャンは大きなため息をつき、私をキツく睨み付けた。



「はあ……全く、貴方のせいで恥をかいたじゃありませんか?それも、あの気に食わないドワイト公爵の前で、だぞ?」



「……申し訳ありませんでした」



 私は素直に上辺だけの謝罪の言葉を吐く。

 心の中では激しい怒りが渦巻いているが、それを悟られないように平静を装った。


 しかし、それでも彼の愚痴はとどまることを知らない。


 彼は一方的に不満を述べ立て、私の気持ちなど全く考慮しない。



「アイツ、俺の行動を馬鹿にしやがって!何が心配の言葉をかけろ、だ!貴方ごときに心配なんてするわけがないだろう……まったく反吐が出るよ」



 彼はそう言うと、懐から上質な煙草を取り出し、慣れた手つきで火をつけ吸い始める。


 紫煙が立ち上り、狭い馬車の中に充満していく。

 煙草の煙が馬車内に充満し、私は刺激的な匂いに強く咳き込んだ。



「ゴホッ、ゴホッ……」



「うるさいですね、少しは静かにしてくれませんか?」


 優雅に足を組み、煙草を吸う彼の姿を他所に、私は背を丸め煙から逃げるように馬車の床にしゃがみ込む。



「なら、煙草をやめて……ゲホッ」



(く、苦しい……うまく息ができないわ)



 何とか抗議の声を上げるが、彼は煙草をやめるつもりはなさそうだ。



「何故だ?貴方が我慢すれば済む話でしょう?少しの間くらい耐えてください」



 この体に転生してから、私はかなり病弱になった。


 ほんの少しの温度の変化で体調を崩したり、頻繁に目眩を感じるようになったのだ。


 基本的に室内で大人しくしていれば良いのだが、さすがに煙草の煙を嗅げば、肺に負担がかかり、咳き込んでしまう。



「ごめんなさい、本当に煙草はやめてください……お願いいたします」



 前世の死ぬまでの時間はとても辛く、苦しいものだった。

 病魔に蝕まれ、息をするのもやっとだった。


 まるで、あの時のような息苦しさを感じ、私は過呼吸に陥り、強い恐怖心が全身を駆け巡る。


 すると、彼は流石にまずいと思ったのか、私の苦しそうな様子を見て、煙草を吸うのを渋々やめた。

 しかし、その顔には不満の色が濃く表れている。


 そしてその代わりと言うように、私の髪を思いっきり引っ張った。


 その衝撃のせいで、せっかくリディアにセットして貰った美しい髪型は崩れ、青い宝石の着いたリボンのアクセサリーは床に落ちてしまう。



「きゃあっ!や、やめて!……いや!」



 突然の苦痛と恐怖に、私の悲鳴が上がった。


 彼の突然の豹変に、私はやめてと叫ぶことしかできなかった。

 彼が吸っていた煙草のせいで、呼吸するだけで精一杯。


 抵抗する力は、もう残っていない。



「今日の貴方いつになく生意気ですね。そんな態度、二度と取れなくしてさしあげます、愚かで美しいアメジスト。貴方の類稀な美貌も、あの男を見つめる甘やかな視線も、全てが癇に障る」



 そう言い、クリスチャンは髪を引っ張りあげたまま、私の頬を何度も強く叩く。


 義母から叩かれるのとは違って、大の男のビンタは義母の何倍も大きな痛みを伴った。

 その衝撃は骨まで響き、視界が歪む。



「ごめんなさい、許してください……ごめんなさい」



 痛みと恐怖で上手く呼吸ができない。

 涙が溢れ、視界がぐにゃりと歪み出す。



(痛い、痛いよ。もうやめて。誰か、助けて……)



 心の中で必死に叫ぶが、声は届かない。


 しかし、それでもクリスチャンは屋敷に着くまで私への暴行をし続けた。

 彼の怒りは収まることを知らず、私はただ耐えるしかなかった。


 屋敷までの道中、何度も父から貰ったアーティファクトでこの光景を録画しようとしたが、私はそれを思いとどまった。


 今録画すれば、私の離婚は成立するかもしれないが、エレノアの親権を取ることはできないかもしれないからだ。

 大切な私の家族、エレノアを彼の手に残すことなど、到底考えられない


 せっかくなら、このアーティファクトでエレノアを冷遇している証拠を録画したい。

 そうすれば、親権獲得に有利に働くはずだ。


 娘を救い出すための、決定的な証拠を掴むまでは、軽はずみな行動は慎むべきだ。


 だからこそ、私はここでアーティファクトを使用することはなかった。


 今は耐え忍び、時を待つしかない。


 屋敷に着くと、クリスチャンは上機嫌で騎士を引き連れて馬車を降りて行った。

 彼は満足げな表情で、まるで何もなかったかのように明るく振る舞っている。


 私は、悔しさを滲ませながらも、赤く腫れた頬を抑えて何とか馬車を降りる。


 体中が痛み、立っているのがやっとだ。



「……だ、大丈夫ですか?奥様」



 普段はクリスチャンの言いなりの御者が、慌てた様子でふらつく私を支えた。


 彼の瞳には、 私に対する心配の色が滲んでいた。

 この屋敷の使用人の中では、彼はまだ善良な心を持っているようだ。



「大丈夫よ、ありがとう。少しフラついただけだから」



 そう言い、私は彼の手をやんわりと離し、離れの屋敷に向かって歩き始める。


 しかし、右に左にフラつく体のせいで、すぐに歩みが止まってしまう。


 足元は覚束ず、一歩踏み出すごとに頬に痛みが走る。


 その様を見兼ねてか、御者の男は私の元へ駆け寄り、私の肩に腕を回す。


 彼の腕は力強く、私の体をしっかりと支えてくれる。



「奥様、私が離れまで付き添います。私のようなものが高貴な方に触れてしまい申し訳ございませんが、我慢なさってください。そのままでは、倒れてしまいますから!どうか、無理をなさらないでください」



 私は御者の男の申し出に感心し、素直に彼の申し出を受け入れた。


 彼の親切が、凍えた心にじんわりと温かい光を灯してくれる。



「……そう、ありがとう。名前を聞いても良いかしら?」



「……私はトム・バスターと申します」



「そう、トムというのね……今日、あなたはこの家で冷遇されている、私を勇気を出して助けてくれたわ。この御恩は、いつか必ず返すわね」



 私がそう言うと、トムは焦り顔で首を横に振りながらこう言った。



「そんな!気になさらないでください!……私は、奥様とお嬢様が、公爵様や大奥様に傷付けられているのを見て見ぬ振りをした加害者です。そんなお言葉、私には分不相応でございます」


 彼はただの親切のつもりで、見返りなど求めていないのだろう。



「トム……あなたはとても、優しい方なのね」



 トムは褒賞を望むこともなく、自分の罪を認め、自らを加害者だと評した。


 彼の誠実さに、私は心から感動した。


 そんな彼の謙虚さに、私は感心し、必ずや彼に恩を返すと心に決めたのだった。


 いつか、彼が報われる日が来るように。


 トムに支えられ、ようやく離れの屋敷に辿り着くことができた。

 彼の支えがなければ、途中で倒れていただろう。



「到着致しましたよ、奥様」



「ありがとう、トム……悪いけど、玄関の扉を開けてもらえるかしら?」



「かしこまりました」



 当初の予定より大分遅くなってしまったが、ようやく屋敷に戻ってきた。

 疲労困憊で、一刻も早く横になりたい。


 屋敷の明かりは消えており、どうやらリディアとエレノアは先に眠りについているようだ。


 ガチャリと音を立ててトムが静かに扉を開ける。

 そして近くにあったアーティファクトで、玄関ホールの照明をつける。


 眩しい光が、暗闇を照らし出す。


 急に明るくなったことで、私は反射的に目を閉じた。

 そしてもう一度目を開くと、そこにはリディアがずぶ濡れの状態で、頭から血を流して倒れていた。


「ど、どうして!リディア!」


 私の悲痛な叫びが、静まり返った屋敷に響き渡った。

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