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退化  作者: ツジセイゴウ
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後編

 洛東大学病院外来待合所。

 多くの患者が診察の順番を待っている中、テレビから漏れ伝わる首相の演説が、殊更に大きく廊下に響いていた。

「日本国民の皆さん、私は今敢えて皆さんに「忍耐」ということをお願いしたい。皆さんの苦しみは私にも痛いほどよく分かります。でも今私たちがやらなければ、私たちの子供はさらにその何倍も苦しむことになるのです。私たちこの苦しみを子供たちに引継ぐわけには行きません。日本のため、国のため堪え忍ぶことが今私たちに求められているのです。」

 テレビ画面一杯に映し出された首相の顔はいつになく紅潮していた。新しい産児制限法が施行されて後、政府の締め付けは日増しにきつくなっていた。法律に違反して子供を産む人を取り締まるため、厚生労働省の下部組織として新たに遺伝性緑内障監視委員会(緑監委)が設置された。緑監委の主な任務は、緑内障遺伝子保持者の発見と監視であり、産児制限法の違反者に対しては逮捕権まで有していた。

「お国のために耐え忍ぶ、か。いつかどっかで聞いたような台詞やなあ。ホンマ、何でこないなけったいな法律が出来よったんかいなあ。」

 テレビを見ていた患者の一人が呟いた。誠は、その声に、はたと足を止めた。「お国のために耐え忍ぶ」、日本の危機を救済するという名目のために、一体何人の尊い命が、しかも生まれる前に奪われていったのか。そして、障害者の人権はいとも簡単に踏みにじられていく。

あの日以来、誠はせっせっと例の診断書を書き続けていた。偽の診断書を書いてくれる医者がいるという噂は、口伝て、ネット伝に広まり、多い時は、日に何通も書くこともあった。

 診断書を書く誠の目は輝いていた。あと自分の目は何年見えるか分からない。せめて目が見えるうちに一人でも多くの人を苦しみから救済したい。今の日本には若年性の緑内障患者は少なく見積もっても数百万人はいる。その何万分の一でもいい。自分の力で子供を生ませてあげることが出来るのなら、自分の身はどうなってもいい、と誠は思っていた。


「いや、お願い。お願いだから、産ませて。いやーー。」

 廊下にけたたましい叫び声が鳴り響き、患者の視線が一斉にその声の方に向けられた。見れば三十過ぎと思われる女性がストレッチャーで運ばれていくところであった。ストレッチャーの脇から数人の看護師が女性の体を押さえつけている。女性は必死の形相でその手をはねのけようと暴れ回っている。

 騒ぎを聞きつけて、誠がストレッチャーの方に駆け寄ろうとしたその時、一人の看護師が注射器を片手に大慌てで誠を追い越していった。しばらくして、女性の叫び声は次第に静かになり、やがてカラカラというストレッチャーの車輪の音だけになった。女性を押さえつけていた看護師は、やれやれという表情で一人また一人と手を離した。

「一体、何事ですか。」

 誠は、そんな看護師の一人に声をかけた。

「中絶ですよ、中絶。あれですよ、ほら、いつもの。」

 看護師は馴れた口調で、特に悪びれる様子もなく答えた。その声には同情の気持ちなど微塵もなく、わずかに嘲笑の響きさえ感じられた。

「ちょ、ちょっと、待ってください。」

 誠は、走り去るストレッチャーを大声で呼び止めた。ストレッチャーを取り囲んでいた医師や看護師の人垣がさっと割れて、上に乗せられた女性の姿が露わになった。恐らく鎮静剤でも打たれたのであろう、先ほどまであれほど騒いでいた女性がぐったりとなっていた。

「何か、ご用ですか。」

 「産婦人科」と記された胸章を付けた医師が誠の前に立ち塞がった。

「止めてください。あんなに嫌がってたじゃないですか。」

 産婦人科の医師は、怪訝そうな表情で誠の胸章をジロジロと見回した後、ふんと笑い飛ばすように言い返した。

「先生、そりゃあ無理ですよ。緑内障ですよ。緑内障患者が子供を産んだらどうなるか、眼科の先生なら一番よくご存知じゃ・・・」

「分かってます。よーく、分かってます。でも、この人、あんなに嫌がってたじゃないですか。産ませてあげてください。一人くらい産んだって、大したことじゃ・・・」

 誠が言い返そうとしたその時、誠と産婦人科医師の間に、二人の男がのっそりと割って入った。

「先生、無理なものは無理なんですわ。」

「あなた方は?」

「私たちですか、私たちはこういうもんですわ。」

 二人の男はチラリと手帳のようなものを誠に指し示した。そこには「厚生労働省遺伝性緑内障監視委員会」と記されていた。

「先生、こればかりはいくら先生でもね。」

 男の一人が冷たい口調で誠の耳元で囁いた。

「そ、そんなバカな。人一人の命がかかっているんですよ。あなた方、お腹の赤ちゃんを中絶するということが、どういうことか分かってるんですか。赤ちゃんの命を奪うっていうことですよ。」

 誠は、廊下中に響き渡るような声で叫んだ。

「先生、私たちもよーうその辺のことは分かっとります。でも、これは規則なんですわ。緑内障の遺伝子を持ってるもんは子供産んだらあかん、そう法律で決められとるんですわ。まあ、先生、そういうことですので。」

 男は、医師や看護師に先へ行くよう目配せした。

「ちょ、ちょっと待ってください。止めてください。」

 誠は、手を伸ばしてストレッチャーの手すりを掴もうとした。その時、もう一人の男が誠の行方を遮った。

「先生、ええ加減にしてください。私ら、国からの指示でやっとりますんや。ご存じないかもしれませんが、私らには逮捕権いうもんがありますねん。要は、警察と一緒ですわ。先生、あんまり面倒起こしはるようでしたら、公務執行妨害いうことで、行くとこ行ってもらうことに・・・」

「そんなもの、関係ありません。人の命と・・・」

 誠が、さらに男を押しのけて手を伸ばそうとした瞬間、白衣の胸ぐらをむずっと掴まれた。

「あかんもんは、あかんのや。ええ加減にせーよ。こらー。」

 男は、大声で叫ぶと、誠の体を両手で突き戻した。押された拍子で誠は体勢を崩して、どっと床の上に崩れ落ちた。

「ま、待て、待って。」

 誠の空しい叫びを残して、ストレッチャーはすべるように産婦人科処置室の中へと消えていった。

 待合所はシーンと水を打ったように静まり返り、人々の視線は一斉に二人の男と倒れた誠の方に注がれた。人々の目には怨嗟の念が込められていた。

「ほらほら、見せもんはもう終わりや。法律破りしたらどないなるか、皆もよう分かったやろ。」

 男たちは、ぶつぶつ言いながら産婦人科の方へと消えていった。誠は、白衣の裾を手で払いながら、ゆっくりと立ち上がると、男たちの後姿に燃え上がる炎の視線を投げかけていた。


 眼科部長室。

「林田君、一昨日の話耳にしたんだが。病院の廊下で厚生省のお役人さん方と一騒動あったそうじやないか。困るなあ、ああいうことをしてもらっては。」

 どうやら先日の件が教授の耳にも届いたようであった。高柳教授は、この前にも増して険しい表情になっていた。一方の誠はというと、もう何を言われても聞く耳持たぬという様子で立っていた。

「このご時勢、ああいうのは許されんのだよ。これは、一個人の問題では済まされない。お宅の病院ではああいう問題医者を抱えておられるのか、ということにもなりかねない。とにかく、厚生労働省から目を付けられたら一大事だ。私の責任者として立場も考えてくれよな。」

 誠は相変わらず黙ったまま教授の話を聞いている。

「とにかく、この件は明日の教授会でも話が出る。まあ、私も出来る限りの弁明はするつもりだが、恐らく君には系列の病院に行ってもらうことになるだろう。いいかね。」

 誠は、もとより今日の帰結は予想していた。いや、むしろ自分の方から言い出すべきであったと思っていた。

「そうですか、お世話になりました。失礼します。後のことはどうぞお気遣いなく。」

 誠は、自信たっぷりの口調で即答すると、くるりと踵を返した。部屋を出て行こうとする誠の後姿に対し、しかし、教授は意味深な最後の言葉を掛けた。

「林田君、これは君のためを思って最後に忠告しておくが、君、最近何かよからぬことに手を染めてはいないだろうね。」

「よからぬこと?。」

 誠は立去ろうとした足を止め、後ろを向いたまま聞き返した。

「いや、それならいいんだ。この世の中は善人ばかりじゃない。壁に耳あり、障子に目ありだ。くれぐれも身辺には気を付けるんだな。」

 誠は、その教授の言葉を聞くとも聞かずともなく、ドアノブに手を掛けた。

 

四 悲劇


 一ヶ月後。結婚式場。

「誠さん、このドレスはどうかしら。」

 二人は一ヶ月後に迫ってきた結婚式の打ち合せをするため、東山にあるホテルのブライダルルームを訪れていた。真由の手には、ウェディングドレスのカタログが握られていた。

「真由の晴れ姿を見るのもこれが最後になるだろう。一生の思い出になるものにしよう。」

 誠は最近ますます低下してきた視力を庇うかのように、カタログに見入っていた。出来る限り目の話しはしないつもりでいても、ついつい口を衝いて出てしまう。自分の視力に残された期間がもうそう長くはないということは、眼科医である誠自身が最もよく分かっていた。しかし、今の二人にはそんな辛い話しも平静をもって聞くことが出来た。

「新郎新婦のお席は、出席者の皆さんと同じ高さにさせて頂きます。」

 コーディネーターが披露宴会場の設営につき説明を続ける。バリアフリー、最近ようやくこの言葉が定着してきた。頻繁にひな壇を上り下りする新郎新婦にとっては、わずかの段差も気にはなる。誠の目が不自由であることを知っての上で、出来る限り健常者と同じように自然な披露宴をと願っての、心憎いばかりのホテル側の気配りであった。二人はそんな細やかなホテルの配慮が気に入って、ここを結婚式場に選んだ。  

 二人は、コーディネーターに案内されて、さらに控え室からチャペル、バンケットルームと下見をして回った。いずれも段差は取り払われており、これであれば車椅子でも不自由なく移動が出来る。二人は一ヶ月後に迫ったその日を頭に思い浮かべながら、幸せ一杯にホテルを後にした。


 夕暮れ少し前に、二人は誠のマンションに戻った。エレベーターホールを抜け廊下を進む間に、二人は誠の部屋の当たりに佇む怪しげな二人の人影を見かけた。こんな時間にこんなところで一体何を。泥棒?、いや泥棒にしてはきちんとした身なりである。それにこそこそした様子は微塵も感じられない。それどころかその目つきは人を威圧するように鋭かった。二人の手に緊張が走る。真由が二人を避けるように通り過ぎようとしたその瞬間、二人のうちの一人が声を掛けてきた。

「林田誠さんですね。厚生労働省の者ですが、ちょっとお伺いしたいことがありまして。検察庁までご同行願えませんか。」

 その人物は例の手帳らしきものをチラリと見せると、すぐに屈強な腕でガッシと誠の手首を掴んだ。抵抗する間もなく、あっという間に誠はエレベーターホールまで連れて行かれた。

 エレベーターホールには先程真由と誠が乗って上がってきたエレベーターがそのまま待機していた。男二人は誠の両脇を抱えるようにエレベーターに乗り込んだ。慌てて乗り込もうとする真由の身体を遮るように、一人の男がしゃがれた声で呟いた。

「ご心配いりません、すぐに済みますから。」

 真由が何かを口にしようとした時には、無情にもエレベーターのドアが閉じていた。慌てて非常階段を駆け下りる真由。薄暗くなりかけた階段は、やはり視力の落ちた真由には辛かった。何度も階段を踏み外しそうになるのをじっとこらえながら、ひたすら階下を目指す。わずか三階差を降りる時間が無限に長く感じられた。

 やっとの思いで、一階のエントランスまで降りた真由が表通りに出た時、バタンと車のドアの閉じる音がした。音のした方を真由が振り向いた時、誠を乗せた車は既に人気のなくなった通りを急発進していった。真由は呆然としたままマンションの前に佇むだけであった。


 翌日。

「真由さん、誠が検察に連れて行かれたんですって、一体あの子ったら、何を……。」

 電話の向こうの節子の声は明らかに動転していた。節子にしてみれば、目の不自由な誠が検察庁の世話になるようなことをしたとうことが全く信じられないという風であった。

「大丈夫です、お母様。きっと何かの間違いです。誠さん、すぐに戻ってきますよ。」

 真由は自信あり気に電話に向って話してはみたものの、内心は不安な気持ちで一杯であった。とうとう恐れていたことが起こってしまった。例の診断書のことが当局の知るところなった以上、何事もないでは済まされないであろう。真由の心のうちには、絶望感だけが黒雲の如く沸き上がっていった。節子に悟られまいとするものの、電話で話す真由の声は既に涙声になりつつあった。

 しかし、真由は気丈であった。その日のうちに「緑内障患者友の会」の事務所を訪ねた。もはや個人の力ではどうにもならない。組織の力を借りれば誠を助け出せるかもしれない。真由はワラにもすがる思いで事務所の門を叩いた。

 「友の会」の事務所は、烏丸にある雑居ビルの最上階にあった。四人乗るのがやっとの狭いエレベーターがゆっくりと六階まで上がる。エレベーターを降りると、すぐ眼前に雑然とした事務所の風景が広がった。

 事務所の中は騒然となっていた。全国から寄せられた署名と思われる紙片がうず高く積み上げられ、五人いる職員全員が引っ切り無しに鳴る電話の応対に追われていた。壁には産児制限法反対を唱える大きなポスターが貼られ、その横には今日までに集められた署名の集計結果を示す棒グラフが描かれていた。

 受付で事情を説明すると、やがて所長らしき男性が応対に出た。

「いやー、林田先生のことはよく存じ上げています。先生には何百人という数の緑内障患者がお世話になりました。いやそれどころか全国にいる何百万という患者にも多大の勇気を与えて下さいました。本当に林田先生には足を向けては寝られませんよ。」

 真由はよかったと胸を撫でおろした。この人達が誠の救出に力を貸してくれるに違いない。百万人の会員がいると言われる友の会が動けば、政府としても黙ってはいられないはすである。そうすれば誠はすぐに真由の手の元に戻ってくる。しかし、そう思ったのも束の間、真由は次の瞬間冷たい言葉を耳にしていた。

「お助けしたいのはヤマヤマですが、今は少しタイミングが悪すぎます。実は来週早々にも、反対同盟は百万人の署名を集めて政府に産児制限法の撤廃を求める陳情をすることになっています。こんな大事な時に、抜け駆けで法破りをしていたことが表に出るのは、いかにもまずい。たとえそれが人道的に見て正しいことでも、そうは見ない人もこの世には多くいます。

 私たちは今回の陳情を何としても成功させたいのです。今度の陳情が成功すれば、産制法は撤廃になるはずです。そうすれば何もかもが終わるのです。もう少しの辛抱ですよ。」

 所長は自らの抱負を熱っぽく語った。あまりの熱心さに真由はそれ以上説得を続ける術を失った。あと一週間待てば全てが解決する。真由はこの言葉を信じた。しかし、このことが後になって取り返しの付かない大事に発展することを、この時の真由は予想だにしていなかった。


 検察庁取調室。

「先生、ええ加減に吐いたらどないや。楽になるでー。悪いことは言わへん。先生が診断書書いた人のリストあるやろ。そのありかを教えてくれるだけでええんや。ほなすぐに家に帰れるで。捜査に協力してくれたら、あんたも無罪や。全部まあるうー収まるんや。」

 誠は狭い取調室に入れられていた。誠を取り囲むように二人の捜査官と思しき人物が、一人は椅子に腰掛け、一人は誠の後ろに立っていた。誠はそんな二人を無視するかのようにように黙っていた。もう何時間もこんなことが続いていた。テーブルの上の灰皿には煙草の吸い殻が山のように溢れ、取調室の中は目が痛くなるほど煙が渦巻いていた。

「わーれ。ええ加減にせーよ。お役所なめたらえらい目に遭うど。」

 突然捜査官の一人が、凄んできた。ガシャーンという椅子が吹っ飛ぶ音がしたと思うと、次の瞬間誠は手首に焼け付くような痛みを覚えた。捜査官が繰り出す火攻めをじっと耐える誠の額には脂汗が滲み出た。

「ほんましぶといやつやなー。ええか、耳かっぽじってよう聞きやー。おまえらの一人や二人どないでもなるんやでー。取調中に急性心不全ということにでもしょうか。」

 今度はもう一人の捜査官が誠の胸座を掴むと、グイッとばかりに締め上げた。襟が締って息が出来ない。苦しみに歪む誠の顔。次の瞬間、誠はどっかと投げ出され、床の上に倒れ落ちた。倒れる際に、こっぴどく机の角に顎をぶつけた誠は、アッパーカットを食らったようにクラリと来た。

 顎をぶつけた時に弾みで眼鏡が飛ばされたのであろう、誠の眼前は湯煙に包まれた風呂場のように変わった。四つん這いになった誠は手探りで眼鏡を探して取調室の床を這いずり回った。捜査官は爪先で誠の横腹に足蹴をくれながら嘲笑を飛ばした。

「情けないなー、盲いうんは。なんやーこのざまは。しゃあーない、今日んところはこれまでにしたろ。続きは明日や。一晩よう考えてみー。」

 二人の捜査官は担当の係官に誠を留置所に連れて行くよう指示すると、声高に笑いながら取調室を出ていった。


 真由のアパート。

「誠さんたら、こんなに。」

 真由は誠から預かったファイルをパラパラと繰った。ハードカバーの分厚いファイルが二冊、これまで誠が診断書を書いた人達の記録である。捜査官に連行される二日前、それを予感するかのように誠は密かにファイルを真由に預けた。このファイルが捜査官の手に渡っていたら一大事である。これまでの誠の努力が全て灰塵に帰するところであった。

 真由は一枚一枚丁寧にファイルされた診断書のコピーを繰っていった。この一人一人が誠の手によって子供を授かる機会を得た人々である。本来なら大罪となる誠のこの行為が、しかし多くの人を苦しみから救ったのである。常人に出来ることではない。

 その時、真由はふと診断書と一緒に綴られた一通の手紙に目が留まった。几帳面な字で書かれた便箋は全部で三枚あった。


林田先生

 先日は本当に有り難うございました。おかげ様で無事元気な男の子を産むことができました。先生に教えられた通り、たとえ私の目がどうなろうとも、そしてたとえこの子の目がどうなろうとも、私たちは絶対に先生のご恩を無駄にはいたしません。

 遺伝子により人の命を選別する、そんな馬鹿げたことがいつまでも続くとは到底思われません。命は神から授かるもの、それを人の手でどうこうしようなんて、いずれ天罰か下ります。

           < 中略 >

 でも、私は先生のことが大変心配です。本来なら頂いた診断書はあってはならないもののはずです。この診断書が先生ご自身の地位と引き換えになりはしないかと気が気でなりません。どうかご自愛なされて、くれぐれもご無理なさいませぬよう。     かしこ


 手紙とともに、一枚の赤ん坊の写真が出てきた。無邪気に笑う赤ん坊の瞳は黒く、そしてキラキラと輝いていた。こんなつぶらな瞳が緑内障に冒されるということが、真由には信じられなかった。いつかきっと治療法が見つかる、いや見つけなくてはならない。真由はそう実感するのであった。

 真由は、丁寧に診断書を繰っていった。最後の診断書のナンバーは「五九八」、そして書かれた日付は三日前となっていた。誠は連行されるつい先日まで、欠かさず診断書を書き続けていたのである。

自分が書いた論文のせいで多くの人々が苦しむ結果となったことを、誠は常々悔やんでいた。誠はきっと罪滅ぼしのつもりで、この診断書を書き続けてきたのであろう。真由は今ようやく誠の気持ちが分かり始めたような気がした。

 何とかしなければ、この人の帰りを待っている人々はまだ何千何万といる。一日も早く戻れるようにしなければ。真由は電話帳のページを繰ると、誠の弁護人の電話番号を調べた。そして、受話器を取り上げようとしたその瞬間、電話がけたたましく鳴り響いた。

 ギョッとして取り上げた受話器の向こうには動転したような女性の声があった。

「ああ、真由さん。節子です。」

 一体どうしたのだろう。真由は節子の声の調子から只ならぬ気配を感じ取った。

「今、京都の洛北病院から電話があって、誠が風呂場で躓いて頭を打ったらしいの。かなりひどいらしくて、すぐに病院に来てくれって。私もすぐに向うけど、真由さん先に行ってもらえないかしら。お願い……。」

 節子はかなり動転しているらしく、その後が言葉にならなかった。突然のことで真由も驚いた。一体誠に何があったのだろう。そして怪我とはどの程度のものなのだろうか。

 真由は家を飛び出すと、すぐにタクシーを拾った。真由のアパートから洛北病院までは車で三十分程の距離である。しかし、夕刻時の京都は大変な交通渋滞でタクシーはノロノロとしか進まなかった。真っ直ぐに伸びた東大路のはるか向こうまで赤色の信号が並んでいるのが見える。

「運転手さん、お願いです。急いで下さい。」

「わかっとります。でもこの渋滞では、どうもなりまへんで。」

 運転手は気の毒そうに応えた。真由は諦めるかのように後部座席に身を沈めた。家を出て約一時間、タクシーはようやく洛北病院のエントランスに入った。真由は慌てて料金精算を済ませると、小走りに病院の中へと入った。診療時間の終わった受付は人気もなく、迫り繰る闇の中で自動販売機の明かりだけが異様に明るく輝いていた。

 ナースステーションで来院の目的を告げると、救急病棟に行くようにと指示された。 

 真由は長い廊下を息を切らせて走った。人気のない廊下にパタパタという足音だけがこだまする。真由はようやく林田誠という札の掲げられた病室の前に辿り着いた。丁度診察を終えた医師が部屋から出て来たところであった。

「ご家族の方でしょうか。」

 医師は真由の姿を見るなり、切り出した。

「ええ、婚約者です。で、具合はどうなんでしょうか。」

「出来る限りの処置はしました。でも予想以上に損傷がひどくて…。」

 医師は気の毒そうに首を横に振った。

「そ、それって、どういうことでしょう。」

 次に医師の口から出てくる言葉を予想してか、真由の両足はガクガクと小刻みに震え始めた。

「つい二時間程前のことでした。検察の方から電話がありまして、内の病院じゃ手に負えない患者がいるということで。何でも拘置所の浴槽でつまずいて転ばれたとか。林田さん目がご不自由だったようですね。それで、緊急手術を施しましたが脳挫傷による出血がひどくて、もう手の施しようがない状態で……。」

 そこまで聞いた真由は気が遠くなりそうになった。やっとのことで看護師に支えられるようにして廊下の長椅子に身を沈めた。それから暫くして気持ちを落ち着けた真由は、恐る恐る病室の扉を開いた。

「ピッ、ピッ、ピッ。」

 規則正しく心電図をモニターする電子音が静かな病室に響く。頭に二重三重に包帯を巻かれた誠は、痛々しい姿でベットに横たわったまま静かに眠っていた。誠の腕には点滴の針がさされ、ポタポタと落ちる輸液の滴が見えた。血の気の引いた誠の顔にはあちこち蒼いあざがあった。浴槽でつまずいて出来るようなものでないことは素人目にもはっきりと分かった。

「ひどい、ひどすぎる。こんなになるまで。どうして……。」

 真由はベットの傍らに跪くと誠の手をしっかりと握り締めた。それに反応するかのように誠の目が微かに動いた。ほとんど視力を失した誠の目は何かを探し求めるかのように空ろに中空を見詰めていた。

「真由?。そこにいるのは君か。」

「そうよ、誠さん、真由よ。分かる?。」

 そう言いながら、真由が握り締めた手の平に力を入れると、誠はそれに反応するかのように答えた。

「ああ、すまなかったな。心配をかけて。」

「ううん。いいのよ。それより早く元気になって。誠さんを待っている人が大勢いるわ。」

 真由は誠が書いた診断書のことを思い出しながら、誠にそう言った。話したいことは山のようにあったが、次から次へと湧き出る涙のせいで言葉にならなかった。

「ああ、そうだな。でも、そんなことより真由のウエディングドレス姿を早く見たいな。」

「見れるわよ。もうすぐ。きっと、きっと……。」

 真由は気も狂わんばかりに誠にすがりつくと、その腫れ上がった顔に頬ずりした。零れ落ちる涙が、乾き切った誠の唇を濡らす。

「疲れた、眠りたい。」

 誠がその一言を呟いた瞬間、心電図モニターの電子音が急に途切れ途切れになり始めた。すぐさま先ほどの医師と看護師が病室に駆け込んできた。

「血圧低下、五十〜二十。呼吸停止。」

「心臓マッサージ。カンフル静注。二十CCだ。」

 医師はバッと誠の胸を開くと、すぐさま両手を当ててエイッエイッと心臓マッサージを始めた。一方、看護師は注射器にアンプルから輸液を抜き取ると、素早く誠の腕に針を刺し込む。真由は、見ていられなくなり、病室の片隅にしゃがみ込んだまま両手で顔を覆ってしまった。

「エイッ、エイッ、エイッ。」

 医師の懸命の心臓マッサージが続く。しばらくして弱々しい心音が戻ってきた。

「真由……。」

 誠は最後の力を振り絞るように微かな声を出した。誠の口元に耳を近づけた真由が最後に耳にした言葉は。

「北山不動に行くんだ。北山……。」

「き、北山不動がどうしたの、そこに何があるの。」

 しかし、真由が叫んだその瞬間、プーッという音とともにモニターの画面に映し出された心電図の波形は完全に真っ平らな横線となった。医師は、そっと頚動脈に手を触れると、続いてペンライトをかざして瞳孔を確認した。

「午後九時十二分。お気の毒ですが。」

 医師は深々と頭を下げた。

「先生、何とかして下さい。ほらっ、誠の身体はまだこんなに温かいんです。まだ誠は生きています。先生、先生。」

 真由は必死になって医師の袖口にすがり付くが、医師は直立不動で頭を下げたまま微動だにしなかった。このような場面に慣れているはずの看護師もそっと目頭を押えて背を向けた。真由は誠の上体の上に突っ伏して、大声を上げて泣き叫んだ。

 そこへ一人の女性が息を切らして病室に駆け込んできた。節子であった。

「ま・こ・と…………。」

 病室の中の様子から一瞬にして全てを悟った節子は、そこから先が言葉にならなかった。放心状態の老親の目からは不思議と涙すら出なかった。まだ事の重大さを咀嚼しきれないでいるようであった。

五分程たってようやく病室から女性が号泣する声が廊下にまで響き渡った。真由は優しく節子の手をとりながら、だんだんと冷えていく誠の身体を一晩中いたわり続けた。


「南無大師遍上金剛、南無大師遍上金剛……。」

 葬祭場に読経の声が響き渡る。正面には白い菊の花に包まれた誠の遺影が飾られ、誠の亡骸は静かに棺の中で眠っていた。時折鳴り響く鐘の音が殊更にその場の侘しさを増幅した。黒の礼服に身を包んだ真由は、黒留姿の節子を支えるようにして立ったまま、焼香に訪れる会葬者の一人一人に深々と頭を下げていた。

「そうだったの。あの子がそんなことをねー。あの子ったら一言もそんな話はしてくれなかった。小さい頃から恥ずかしがり屋でね。人様に喜ばれるようなことをしてもいつも黙ったままで。」

 節子は手にしたハンカチでそっと目頭を押えた。誠はどうやら診断書のことは節子にすら話していなかったらしい。いらざる心配を掛けまいとする優しい気配りであった。

 二人がそんな話をしている間に、一人の乳飲み子を抱いた女性が焼香に立った。

「ほら。あの人があんたのもう一人のお父さんだよ。あの人がいなかったらあんたは生れていなかった。そして多分……、私もここにいなかった。」

 その女性は誠の遺影に向って子供に言い聞かせるように話をした。幼子はそんな母親の言葉の意味も分からず、無邪気な笑顔を振り撒いていた。

「あのー。誠さんとはどういうお知り合いで。」

 真由は焼香を終えて戻って来た女性に声を掛けた。

「林田先生は、私達二人の命の恩人なんです。あれは一年ほど前のことでした。初めての子供が出来て、それで国が定めたDNA検査っていうのを受けたんです。そしたら緑内障の因子があるって言われて、検査をしたらもう視野の三十パーセントも欠けてるって。まさか自分がと思いました。だって全く普通に見えてるんですもの。そしたら追い討ちを掛けるように、お腹の赤ちゃんを中絶するよう奨められて……。」

 ああこの人も同じだ、真由はそう思った。その女性は一瞬周囲を憚るような様子を見せたが、意を決したようにさらに心中を吐露した。

「私は絶望の余り、もう死ぬことしか考えていませんでした。そんな私を諭して下さったのが林田先生でした。先生は、どんな重い障害があろうと生れて来る子供に罪はない。そんな子供たちの将来の可能性を勝手な大人達の都合で奪い取っていいものか、とおっしゃいました。それであの診断書を……。」

 そこまで話すとその女性は大粒の涙をポロポロとこぼした。真由は、この瞬間この女性があの五九八人の内の一人であったと知った。

「そうでしたか。誠のためにわざわざご会葬下さいまして、本当に有り難うございました。あの子もさぞ喜んでいることでしょう。」

 節子が声を詰まらせながら、深々とお辞儀をした。しかし、次の瞬間、この女性の口から意外な言葉が返ってきた。

「私、心に決めました。明日テレビ局に行きます。行って全てを国民の前に明らかにします。こんな理不尽なことが許されるはずがない。私、先生の死を無駄にしたくないんです。」

 真由と節子は突然のことで大変驚いた。

「でも、そんなことをすればあなたは罪人。折角生まれてくるお子さんは一体どうなるんですか。」

 真由は咄嗟のことで何と言っていいか分からず、とりあえず女性を制した。しかし、この女性はひるまなかった。

「いいえ、私のことはいいんです。それよりも私は日本人の心にまだ温かい血が流れていることを信じたいと思います。黙っていては、不幸は広がるばかりです。お願いです。林田先生のこと、あの診断書のこと、全てを世の中の人に知ってもらいたいんです。」

 真由はさらに驚いた。この人はたった一人で権力に対して闘いを挑むつもりである。このか弱い女性のどこからそんな強い勇気が生れるのであろうか。人は苦難を経験すればするほど強くなるというのは、本当にあるものだと真由は思った。この人に比べれば、自分は何と情けないことか。一人で闘う誠の命すら助けることは出来なかった。返事をためらっていた真由を差し置いて、今度は節子がポツリと言った。

「宜しくお願いします。誠もきっと浮ばれることでしょう。」

 亡くなった我が子のことをそこまで考えてくれる人がいることが、節子には余程嬉しかったらしい。誠を罪人のまま見送ることは出来ない、何としても名誉だけは回復してやりたい、節子の目はそう語り掛けていた。

 夜九時を回り、ほとんどの会葬者は三々五々帰って行った。真由と節子は静かになった祭殿の前で、誠の遺影を見つめていた。人気のなくなった斎場の中は一層侘しさを増し、二人は心の中にポッカリと大きな穴が開いたことをようやく実感した。誠が死んでまだ四十八時間しか経っていないといのに、二人には無限の時が過ぎたように感じられた。

「お母さん、北山不動ってご存知ですか。」

 真由が、侘しさを紛らせるように尋ねた。

「北山不動?。」

「ええ、誠さんが息を引取る間際に口にしたんです。北山不動に行けって。」

 節子に思い当る節はなさそうであった。「北山不動」。どこかのお寺の名のようであったが、あまり聞いたこともない。一体、北山不動はどこにあるのか。そしてそこへ行けば何があるというのか。そして誠は何故あのような不可解なことを言い残したのか。

 二人は互いに顔を見合わせたまま思案を巡らせた。やがて真由は立ち上がると、葬祭場の電話ボックスに置かれていた分厚い電話帳を持って来た。真由がパラパラと電話帳を来る脇から、節子は肩を寄せ合うように覗き込んだ。北山クリーニング、北山酒店、北山病院、……、北山のつく名前は数多くあったが、結局「北山不動」という名は発見できなかった。余程小さい寺か、あるいは北山不動というのは俗称で別に正式名称があるのかもしれない。いや、そもそも京都にあるお寺なのかどうかも分からないのである。真由は諦めるかのように、電話帳を元に戻した。


 三日後。

 告別式を終えた真由は、節子の依頼で誠のマンションの片付けに来ていた。心労が祟ったのであろう、告別式の翌日から床に臥せっていた節子は、マンションの片付けを真由に頼んだのである。もとよりそのつもりでいた真由は、節子の依頼を二つ返事で引き受けた。

 見慣れたはずの誠のマンションも、主の姿を欠いては全く別の部屋のように思えた。しばらく人気のなかったせいであろう、テーブルの上には薄っすらと埃が積もり、デスクの上には読み掛けの本が開かれたままとなっていた。恐らく誠が連行されてからずっとこのままの状態であったのだろう。ベットの枕元に置かれた目覚し時計のコチコチという音だけが、一層その部屋の侘しさを増幅した。

 真由は書棚に並べられた本をいとおしむようにダンボール箱に詰め始めた。手垢の付いた本の一冊一冊に誠の思い出が詰まっている。そう思うと改めて一人取り残された寂しさが込み上げてきた。

 その時、真由は書棚の中に数札のポケットアルバムがあるのを見つけた。アルバムというよりは、写真屋でよく景品としてくれるような薄っぺらなホルダーである。真由は何とはなしにその一冊を手に取ると、パラリと開いてみた。

そこには誠と手をつないで嬉しそうに微笑んでいる自分の姿があった。半年ほど前、二人で訪れた大原三千院の門前で撮ったものである。たまたまそこに居合わせた外人観光客にシャッターをお願いしたのだが、その後散々英語で話し掛けられて困ったことが、ほんの昨日のことように思い出された。もうあの人はこの世にいない。真由の心の中に懐かしさが込み上げ、また目頭が熱くなるのを覚えた。

 真由はさらにページを繰っていった。どこかの居酒屋で友達とグラスを掲げる誠、海水パンツ一枚で水を掛け合っている誠、制服姿で緊張した面持ちで写った誠、いろいろな誠が次から次へと現れては消え、また現れた。真由は目を細めて誠の人生を振り返っていた。

 その時、ふと一枚の写真が真由の目に留まった。誠ともう一人、がっしりした体格の青年が写っている一枚の写真があった。どこかの寺の山門のようである。山門の奥には天まで届くような高い石の階段が続いているのが見えた。

 その写真を手にした時、真由はふと不思議な感覚にとらわれた。何故かこの場所が初めてではないような気がした。自分は遠い昔、この山門を通って行ったような気がする。でも一体ここはどこなのだろう。何か手掛かりになるものがないかと写真を見つめていた真由の脳裏に、はっきりと自分を呼ぶ声が聞こえた。

「真由、ゆっくりだよ。」

 その声は確かにそう言った。死んだ真由の祖母の声であった。真由がまだ小学生だった頃、祖母と二人で間違いなくこの地を訪ねたことがあった。目の不自由だった祖母は、真由を杖代りによく連れて歩いた。この時もそうであった。急な石段を駆け上がろうと無邪気に走り回る真由を、祖母はたびたび制しながら一歩一歩この高い石段を踏みしめて上がった、そんな祖母の姿を真由は今鮮明に思い出していた。

 真由は二十年以上も前の微かな記憶を辿った。確か電車とバスを乗り継いで京都の遥か北の方へ行ったような気がする。真由は書棚の中に地図がないかと探し回った。

 やがて「京都市市街図」というポケット版の地図があるのを見つけた真由は、ゆっくりと大判の地図を広げた。京都市は意外に広い。左京区と右京区は遥か北の山間部まで広がっている。真由は慎重に地図の上端からそれらしき場所がないかどうか調べ始めた。

 こうした大判の白い地図を見ていると、はっきりと視野が欠けているのが自覚できる。発症から三年、症状はさらに進んだようであった。真由は、そんな目を庇いながら、どんな小さな字も見落とすまいと慎重に地図を探した。混み合った等高線は山が急峻なことを表わしている。その等高線の間を縫うようにうねうねと曲がりくねった道路が北へと延びており、ところどころに集落を表わす地名と黒い点が描かれていた。

 真由の予感は的中した。京福電鉄の終着駅鞍馬駅からさらに北へ十キロ程行った山中にその寺は存在した。卍のマークの脇に記された「称明寺(北山不動院)」という文字には微かに鉛筆で囲った後が見られた。やはり誠はこの寺を訪ねたことがあるのだ。この写真はその時写したものなのであろう。

 しかし、一体誠はこの寺で何を見聞きしたのだろうか。そしてこの誠と一緒に写っている青年は一体誰なのか。この世の最後の言葉として言い残すほどの秘密がこの寺にあるというのか。子供の頃の真由の記憶では、何の変哲もない普通の寺であったように思える。それとも子供であった真由は何か重要なものを見落としていたのか。とにかく、何としても一度この寺に行かねばならない。真由は片付けもそこそこに、誠のアルバムから件の写真を抜き取ると、バックの中に差し込んだ。


 翌日、真由は鞍馬駅から北へ向うバスの中にいた。一日わずか三往復しかないバスの車内は、真由以外に地元の人と思われる老婆が一人とお遍路姿の女性が二人、全部合わせてもわずか四人の乗客しかいなかった。右へ左へと大きく揺れるバスの車窓からは洛北街道の鬱蒼とした杉木立が続いているのが見えた。

 真由はそんなバスの揺れに身を任せながら今後のことを考えていた。誠という大きな支えをなくした自分はこれから何を拠り所として生きてゆけばいいのだろうか。失明という重圧の中でこれまで懸命に頑張ってこられたのも、全て誠のお陰であった。その最愛の人を失った真由には、再び「生きる」ということに対する疑問が生じ始めていた。

 鞍馬を出て約四十分、バスは終着の北山背に着いた。北山背は洛北の山間にある寒村で、五十軒程度の家々が谷間に寄り添うように建っていた。目指す北山不動へはここからさらに歩いて三十分の道のりである。交通の便が悪いこともあって、専ら地元の人や修験道の行者等の限られた人だけが、この寺を訪れるようであった。

 バス停を後にして歩き始めると、すぐに山が目の前に迫ってきた。行き止まりかと思えるほどの狭い山道も、近づくと器用に曲がりくねって上へと続いている。そんな九十九折りの参道を息を切らせて上っていくと、やがてあの写真で見た山門が見えてきた。

 実物は予想外に小さかった。急な斜面に張り付くように建てられているため、スペースがあまりなかったせいであろう。山門の脇には、長年の風雨に晒されて消え入りそうになった「称明寺」という文字が微かに読み取れた。これでは写真にも写らないはずである。

 息を切らせて山門まで辿り着いた真由の背中はもう汗でびっしりと濡れ染まり、額からも玉のような汗が噴き出していた。しかも、ここから上はさらに急な石段である。真由は今ようやく祖母の言葉の意味が分かった。身軽な子供にとってはこの程度の坂はどうということはないが、年老いた身には相当きつかったであろう。そんなこととはつゆ知らず、無邪気に駆け上って行こうとしていた自分は何て冷たい人間だったんだろう。そんなことを考えながら、真由は石段の下で立ち止まって息を整えた。

「お先です。」

 そんな真由を横目で見ながら、先ほどのお遍路姿の二人は休むことなくスタスタと石段を上り始めた。こうした山道は幾度となく上っているのであろう、達者なものである。一頻り感心していた真由は、ようやく石段に第一歩を乗せた。見上げれば天まで届くかのような急な石段の最上部は下からでは全く見えない。先に進んだお遍路さんの姿は既に随分と小さくなり、石段の上に覆い被さるように茂った木々の枝の間に見え隠れしていた。

 真由は一歩一歩苔むした石段を踏みしめるように上り始めた。靴底にごつごつ当るこの石の感触は二十年前と全然変わっていなかった。その時、懐かしい祖母の声が再び聞こえてきた。

「真由、ゆっくりだよ。ほら、走ったら危ないよ。」

 祖母はこの時どれほど見えていたのだろうか。目を患って久しく、もうほとんど見えていなかったのかも知れない。かわいそうに、医者から見放された祖母は、最後に御仏の力にすがるためにここを訪れたに違いない。もっと優しく祖母の手を引いてあげればよかった。後悔の念とともに、真由の目は汗とも涙ともつかないものでグシャグシャになっていった。

 もうどれ程上って来たであろうか、突然視界が開け尾根伝いに涼しい風が吹いてきた。見上げると、微かに記憶に残っていた北山不動の本堂が視界に入ってきた。ようやく石段を上り切る頃、不思議と真由の汗も涙も乾き、かすかなしょっぱさだけが舌にまとわりついた。

 境内からは遠くまで続く洛北の山々が見渡せ、さらにその向こうに微かに京都の市街地が見えた。境内はきれいに玉砂利が敷かれ、正面に本堂、脇に宿坊、そして本堂の裏手にはさらに奥の院へと続く細い小道が見えた。昼下がりの境内には訪れる人もなく、セミの声だけがうるさいほどに鳴り響いていた。真由は息を整えながら宿坊へと向った。


五 皆空


「ごめんください。」

 宿坊の玄関に真由の声が響く。誰も返事がない。正面には置かれた巨大な屏風には「大悲大乗」という墨字が力強く踊っているのが見えた。留守なのであろうか。

「ごめんくださーい。」

 今一度、今度は少し声を大にして叫んでみる。やがて廊下を渡る人の気配がして、一人の男性が出迎えた。

「何かご用でしょうか。」

 気だるい夏の午後、訪れる者もない中で呼び出されたせいであろうか、少しむっとしたような無愛想な返事が返ってきた。

「あっ。」

 しかし、その男性の顔を見た真由は絶句した。そこに立っている男性は、あの誠と一緒に写真に写っていた人そのものであった。真由は一瞬戸惑ったが、すぐに返答した。

「あのー。住職さんにお会いしたいのですが。」

「住職は私ですが。」

 またまた驚きである。この人が住職?。見れば、TシャツにGパン姿、バサバサに伸びた髪の毛は、凡そ僧侶とは縁遠いいでたちである。戸惑いの色を隠せなかった真由は、しかし黙って例の写真を差出した。その写真を手にした住職は一瞬驚いた様子であったが、すぐ打ち解けたような笑顔になって応待した。

「いやー、なつかしい。林田君じゃないですか。この写真一体どこで?。」

 真由は何と言ってよいかわからなかったが、林田誠が亡くなったこと、そして彼が今際の際に北山不動に行けと言い残したことなどを順序立てて話した。

「そうでしたか、彼が……。そうですか。」

 住職は非常に落胆したような表情を見せ、しばらく言葉を失っていたが、ようやく真由を宿坊の中へと促した。玄関を上がり、長い廊下を右手に下っていくと居間に辿り着いた。かつては宿坊の受付として使っていたのであろうか、部屋の中央には大きな黒檀性の座敷机が置かれ、宗教関係の本や檀家帳と思われる綴りがうず高く積まれていた。

「少しここでお待ちください。」

 住職は、真由を案内すると一言言い残して宿坊の奥の方へと消えていった。一人取り残された真由は改めて部屋の中を観察した。二十畳ほどあると思われる部屋の天井には巨大な梁が剥き出しとなり、エアコンも入っていないのに冷んやりとした空気が漂っていた。一見すると、よくある田舎の寺の風景であった。

 しばらく部屋の中を見まわしていた真由は、しかし、おやっ?と思うものを発見した。「宇宙物理詳解」、「量子論入門」、「相対性理論解釈」など、凡そお寺とは縁遠そうな難しいタイトルの専門書が、檀家帳に混じって置かれていた。しかも、そのいくつかは明らかに読みかけの状態であった。一体誰がこんな難しい物理学の本を読んでいるのだろう。真由は少し違和感を覚えながら、住職が戻ってくるのを待った。

 暫くして、住職は冷たい麦茶の入ったグラスを二つ手にして現れた。一つを真由の前に差出すと、今一つを持ったままどっかと机の前に胡座をかいた。

「いや、ご挨拶が遅れました。住職の大西道継といいます。まあ、住職といいましても、まだ正式な僧侶の資格は取っていないんですが。」

 大西住職は、気恥ずかしそうに頭をポリポリ掻きながら、説明を始めた。

「林田君とは、大学時代の友人でしてね。彼は、洛大の医学部で眼科医を目指していました。一方の私は、多分信じられないでしょうけど、理学部で宇宙物理を専攻していたんです。彼とは、碁敵でもありまして、よく授業をサボっては碁盤の前に座っていましたよ。彼の碁は緻密でしてね、大雑把な私はいつも苦しめられていましたよ。でも最後はいつも私の勝ち。彼、物凄く優しい性格でしてね、ここに石を置けば死ぬって分かっていても、そこには置かないんですよね。」

 真由は誠の性格を端的に言い表していると思った。その優しさが結局は彼を死に追いやってしまったのかもしれない。それにしても真由が意外だったのは、この住職と思しき人が洛東大学で宇宙物理とかいう何やら難しそうな学問を専攻していたという話である。一体、宇宙物理とはどういう学問なのであろうか。そしてそんな学問を修めた人が何故このような人里離れた荒寺にいるのであろうか。そもそも、この人が言っていることは本当なのだろうか。真由がそんなことを考えている間にも、住職はさらに話を続ける。

「この写真は、彼が三年前この寺を訪ねてきた時に撮ったものです。その時、彼は既に目を患っていて、いつまで見えるか分からないって言っていました。それどころか、彼と同じ病気の人がこの日本に何百万もいると聞かされた時はショックでした。彼も、かなり落込んでいましてね、あのまま放っておいたら本当に自殺するんじゃないかって心配した位ですよ。」

 真由は誠の意外な面を聞かされて驚いた。真由から見れば誠のどこからあんな強靭な精神力が生れてくるのか分からなかった。しかし、今耳にしている誠は自分のイメージとは少し違った誠であった。一体、三年前誠の身に何があったのか。

「彼は、あの日一晩ここに泊まりました。といっても実際は徹夜でしたけどね。私は一晩掛かって彼に般若心経を説教して聞かせてやったんですよ。」

「はっ、般若心経ですか。」

 真由は一瞬聞き返した。そう言えば、誠からプロポーズされたあの夜、誠の口から同じ言葉を聞いた。本能寺で薪能を観賞したあの夜、能の精神は般若心経に通じるものがあると、誠は言っていた。誠と般若心経の繋がりは本当はこの地から発していたのだ。真由の心中から先程の猜疑心は消え失せ、真由は一気に大西住職の話に引き込まれていった。

「ええ、地元の人はうちのことを「お般若はん」と呼んでます。先代、と言いましても私の親父ですが、般若心経が好きで、よく人を集めては講話をやってました。ただ、私が林田君にしてやった話は少し、いえ随分と親父のものとは違ってたと思いますがね。」

 真由は、二十年前祖母がこの寺に来た理由が何となく分かったような気がした。祖母はきっとその般若心経の講話を聞きに来たに違いない。それにしても般若心経とはそんなに有り難いものなのであろうか。たった一晩で人の性格を変えてしまうようなそんな素晴らしい教義がこの世にあるものなのだろうか。宗教なんて冠婚葬祭のための手段くらいにしか思っていなかった真由にとって、俄かには信じられない話であった。

 しかし、真由はこの後、とてつもなく深遠なそして不思議な話を耳にすることになるのである。

 

 住職は改めて机の前に座り直すと、背筋を伸ばすようにして話を始めた。

「私は、お寺の子として生れたのが嫌でした。学校に行っても、いつもお寺の子、坊主の子といって皆にからかわれていました。親父は私に寺を継いでもらいたかったようなのですが、私はそんな親父が嫌で嫌で、とにかくここから逃れたい一心で勉強に励み、それで洛大の理学部に進学したんです。

 大学では宇宙物理を専攻していました。宇宙物理は今の最先端の科学技術を使ってこの宇宙の謎を解き明かそうという途方もなく壮大な学問でした。私は毎日が面白くて面白くて、すっかりお寺のこと等忘れて研究に明け暮れていました。」

 住職は当時を振り返るかのように懐かしそうに話を続けた。

「ところが、五年前のある日のこと、突然親父が重い病気だと知らされたんです。親父のやつ隠してたんでしょうね、病院に駆けつけた時はもう手も付けられない程の重篤な状態でした。でも親父は一言も寺を継いでくれとは言わなかった。その代わり、一回でいいから般若心経を読んでみろ、いや読んでくれ、と懇願するように言いましてね。それでこれを渡してくれたんです。親父はそのまま息を引き取りました。」

 住職は山のようにある書物の中から、一冊の単行本を取り出した。手垢で真っ黒に汚れたその本は「般若心経入門」と背表紙に書かれていた。特段何の変哲もない宗教の入門書のようであった。ここに一体何が書かれているのか。誠を変え、そしてこの住職まですっかり変えてしまった般若心経とは一体何なのか。

「最初はまた般若心経かよ、と思いました。でも親父がそこまで言うんなら読んでやるかと思いました。まあ遺言ですからね。ところが……。」

 ここで住職は一区切り置いて、すっかり生ぬるくなった麦茶をぐいっと飲み干した。

「最初、私が般若心経を読んだとき、これが宗教かと思いました。そこに書かれていることは、私が今必死になって研究していることそのものだったんです。私は大変なショックを受けました。もう気も狂わんばかりでした。」

 これを聞いて真由もすっかり驚いた。般若心経が宇宙物理とどう繋がるというのか。般若心経と言えばお釈迦様が紀元前もの大昔に悟りを開いた教義ではなかった。それが今日の最先端の科学とどう繋がるというのか。

「関口さんとおっしゃましたか。関口さんはご自身がどこから来て、そしてどこへ行こうとしていると思われますか。いえ、あなただけではありません、この広大な宇宙に存在する万物がどこから来て、そしてどこへ向おうとしているのか、全てはこの疑問から出発するのです。」

 いよいよ難しい禅問答が始った。真由は入口からつまずいたような気持ちになったが、とにかく必死になって頭脳を回転させ始めた。

「般若心経の根元にある考え方は「一切皆空」です。この世にある物は全て「空」、すなわち空虚な物、本来存在しない物だという考え方です。今日の宇宙物理学では宇宙は「無」から生れたというのはもう常識になっています。何もないところから急激にビッグバンと呼ばれる大爆発を起こして、宇宙は生れました。そしてその後数十億年に渡って未だに拡大を続けているのです。

 しかし、量子力学ではこの「無」の状態の方をむしろ常あるいは安定的と考えます。逆に物質に満ち溢れた現在の宇宙こそが異常な状態、あるいは仮の姿なのです。ですから万物の存在はとても不安定です。形ある物はすぐに壊れ、そしてどんどん新しい物へと変化していく。仏教では、こうした現象を「諸行無常」という考え方で捉えました。」

 真由はもう頭の中が混乱してぐるぐる回り始めていた。般若心経と宇宙物理という二つのとてつもなく難解な話を同時に頭の中にぶち込まれたのである。恐らく誠も三年前に同じ話を聞いたのであろう。真由は必死になって誠の足跡を辿ろうとするが、住職の話の半分も理解できないでいた。小首を傾げている真由の様子を見てか、ここで住職は少しトーンダウンした。

「アッハハ、ごめんなさい、いきなり難しいお話をしてしまいました。もう少し分かりやすくお話しましょう。この世にある物質を細かく砕いていくと、それはやがて原子になり、さらにそれよりも小さい素粒子という物質にまで分解されます。この位は関口さん、あなたも高校の化学の時間に勉強したでしょう。」

 真由は高校の化学の授業を思い出していた。酸素、水素、炭素いろいろな元素記号、そしてそれらが電子をやりとりして新しい物質を作り出していくことなど、朧げながらに記憶が蘇ってきた。真由は黙ったまま、コクリと頷いた。

「現代物理学の理論では、この世に存在する素粒子には必ずそれに対になる反粒子が存在すると考えます。なにも無いところから物質が生れ出るためには、必ずそれと対になる反物質が同時に生れなくてはなりません。ゼロからプラス一が生れるためにはマイナス一が同時に生れなくてはならないのが道理です。物理学の専門用語で、これを「対生成」と呼んでいます。

 今の宇宙は、針の先よりもさらに小さい一点からこの対生成が猛烈なスピードで発生することで一気に生れたのです。しかし、先ほども言いましたように、量子力学ではこの物質が存在する状態を異常と考えます。従って、今この宇宙に存在している物質はやがてそれと対を成す反物質と出会い合体して消滅してゆきます。これを「対消滅」と言います。

 そしてどんどん宇宙は消えてゆき、最後はまた針の一点、つまり無に戻っていくと予想されています。勿論、私達が生きている間にそんなことは起こりません。宇宙が完全に無の常態に戻るには数百億年はかかるでしょう。ただ、そんな途方もなく長い時間も、宇宙創世の過程の中ではほんの一瞬の出来事でしかないのです。

 お釈迦様は、恐らくこうした宇宙の成り立ちを二千年もの昔、まだ科学も無い時代に悟られたのでしょう。仏教でいう「空」の思想は、宗教でも絵空事でもない、科学的に証明された紛れのない事実なのです。」 

 真由は気が遠くなりそうになるのを覚えながら、住職の話に聞き入っていた。この世には必ず始まりと終わりがある。人の一生もそうであるが、この宇宙自体もまたそうなのである。無から始まり、そしてまた無へと戻っていく。真由は何度となく住職の講話を咀嚼し、その深遠な意味を理解しようとした。

 しかし、住職の、般若心経とも現代物理学とも解らない講話はさらに先へと続いていく。

「「輪廻転生」という言葉を聞いたことがあるでしょう。」

「ええ、人は必ず生まれ変わるという意味ですよね。」

 真由は、それくらいなら自分にも分かるという気持ちで、即答した。しかし、住職の禅問答はそれでは許してくれなかった。

「確かに人々はそのように解釈しています。でも一旦死んだ人が、また生れて出てくるという意味ではありません。正確には、その人を構成している物資が形を変えるということです。人を細かく砕いていくとなんと六十兆もの数の細胞に分かれます。その細胞はさらに何十兆、何百兆という原子、つまり酸素や水素、炭素の粒の集まりより出来ています。

 人が死ねば、腐敗してその形はどんどん崩れてゆきます。そうまさに土に帰るのです。でも、人の身体を構成している物質は不滅です。私の肉体は滅びても、私の身体を作っている酸素の粒は、ある時は花に、ある時は犬畜生かもしれない、いえそれどころか単なる路傍の石ころにだってなり得るのです。この世に物質が存在し続ける限り、このサイクルは永遠に続いてゆきます。輪廻転生とはそういうことなのです。」

 真由は再び驚いた。人が生まれ変わるなどというのは確かに非科学的な話である。でもこの住職の話を聞けば妙に納得させられる。真由の肉体が滅びても、真由の身体を構成している物質は別のものに姿を変え存在し続けるのである。

「この世に宇宙が生まれた瞬間から消滅するまでの一切の過程は物理の法則によって支配されています。つまりあらゆる現象には原因があり、そして結果がある。あなたが今ここにいるのも単なる偶然ではありません。あなたのご両親がいて、そしてそのさらに向こうにご先祖様がいた、その結果なのです。この因果の全ては「無」から始っているのです。

 無から宇宙が生まれ、そしてこの地球が誕生し、やがてそこに生命が宿りました。最初は目に見えないほどの小さいものでした。それから数十億年の進化の過程を経て今の私たちがあるのです。仏教ではこうした一連の法則のことを「縁起」と呼んでいます。ほら、縁起がいいとか悪いとかいう、あの縁起です。

 人が病気になるのも、死ぬのも全て縁起によるものなのです。あなたの目の病気は、あなたの遺伝子のごく一部の塩基配列の書き間違いにより生じています。それも、ある意味ではこの縁起によって決められたと言えるのです。」

 住職が説明し終わるのを聞いて、真由は長い長い嘆息をもらした。一切皆空、輪廻転生、諸行無常、縁起、今まで宗教用語だ思っていたこれらの言葉一つ一つにこのような深遠な意味が隠されていようとは、思いもよらなかった。

 真由のような一人の人間がどうあがこうと、この縁起の法則は止められない。人は、いや人だけではない、凡そこの世に存在する万物は全てこの決められた法則に従って、長い長い時間をかけて再び「無」へと戻っていくのである。何という恐ろしくまた不思議な世界観であろうか。真由は何時の間にか両の腕に鳥肌が立っているのに気付いて、思わず手の平を当てて身をすくめた。


 住職はそこまで話すと、喉の渇きを潤すかのようにすっかり空になったコップをグイッと飲み干す仕草をした。

「少し休みましょう。私はまだ般若心経が説くもう一つの重要な思想についてお話しなければなりません。そのためにもっとふさわしい場所があります。」

 えっ、この講話にはまだ続きがあるのか。真由にとっては、これまでの話だけでも十分過ぎるくらいであった。この上さらに住職は何を話そうというのか。ためらっている真由を横目に、住職はさっさと立ち上がると、先に立って寺の奥へと向い始めた。真由も慌てて後に続く。

 宿坊の奥からは細く長い廊下が、裏庭を回り込むように本堂の方へと続いていた。強烈な真夏の日差しが木々の間からこぼれ、セミの鳴き声がうるさいほどに耳を衝いた。苔むした岩の間を流れる泉水も、暑さのせいですっかり淀んでいる。

 しかし、微かな遠雷とともに裏山から吹き下りてくる湿った風が、わずかに夕立の気配を感じさせた。住職は廊下を端まで進むと、さらにそれに続く渡り廊下へと進む。この渡り廊下は本堂の脇に繋がっていた。二人は渡り廊下を渡って本堂へと向った。

「さあ、どうぞ。暗いですから気をつけて下さい。」

 住職は本堂脇の扉を開くと先に中へ入り、真由を中へと案内した。庇が長く張り出した本堂の奥にはほとんど陽の光は届かず、真昼でもほんのりと薄暗かった。歩みを進める真由の足の裏には、冷たい板張りの床の感触が心地よく伝わってきた。住職に促されるまま、外陣の正面に着座した真由はそっと顔を上げた。

 天井の高さは五メートル位あるであろうか、薄暗くてよく分からない。正面の内陣の奥には本尊と思しき阿弥陀如来の像が安置され、仄かに揺れるローソクの火に照らされて安らかな御顔が浮かび上がった。像の前にはみずみずしい供物が添えられ、さらにその下に小さな経机が置かれていた。特に何の変哲もない、よく目にするお寺の本堂の風景であったが、今の真由には何故かとても新鮮な気がした。住職は真由の斜め前に着座すると、先程の講話の続きを始めた。

「般若心経はこの「一切皆空」の真理から始まり、やがて「五蘊ごうん皆空」へと人々を導きます。五蘊すなわち「しきじゅそうぎょうしき」の五つは、人々が物質を認識するパターンを言い表しています。つまり、あなたが物を見るという行為がどういうことなのかを説明したものです。

 人は「見る」、「聞く」、「触る」などの五感の働きを単純な一言で言い表してしまっていますが、実はこれは極めて複雑な物理現象の結果なのです。般若心経は、そうした人の認識のパターンを五段階の現象として捉えました。」

 真由は再び不思議な感覚に襲われはじめた。物を見るとか聞くということがそんな大袈裟なことなのか。そしてこの単純な人の動作をそこまで細かく分析することに果たしてどういう意味があるというのか。住職はさらに話を続ける。

しきは「いろ」という字を書きますが、これはこの世に存在する物質のことを言い表しています。あなたの身の回りに見えるありとあらゆる物、これらが全て「色」です。見るという動作は、この色に光が当るところからから始ります。

 光もまた光子という極小さい粒子の集まりです。この光子の束が物質に当ると反射され、四方に散乱します。その一部が、あなたの目の奥にある網膜に届き、そしてそこに並んだ視神経が刺激を受けるのです。これが般若心経でいう第二の段階、つまり「受」です。外界からの刺激を受け止めるという動作です。」

 真由は、初めて緑内障の診断を受けたときに説明された目の解剖図を思い出していた。目に入ってくる光りは最初に角膜というレンズを通過する。ここで屈折した光は次に眼球の中にある水晶体という液体の中を通り、網膜の上に像を結ぶ。網膜には光の刺激を受けるための視神経細胞が無数に並んでいる。この視神経が一つ一つ死んでいくのが緑内障の原因だと真由は聞かされていた。しかし、真由がその時受けた説明はここで終わりであった。人が物を見るためには、この先まだ三段階もの作業が本当に必要なのであろうか。住職はさらに講話を続ける。

「刺激を受けた視神経の中では、ロドプシンというタンパク質が変化を起こし、それによって電気信号が生まれます。その電気信号はすぐさま脳へと送られます。脳では送られてきた電気信号を再合成して、脳内に映像を再生します。これが三段階目の「想」です。想は想像するの想の字を書きますが、文字通り頭の中に映像を想い浮かべるという行為です。

 しかし、この時あなたの脳はまだこの映像を単なる図形としか見ていません。本当に物を見るためにはさらなる情報の分析が必要です。」

 真由は人間の感覚作用の複雑さに圧倒され、無言のまま住職の話に聞き入っていた。

「あなたの脳は、送られてきた電気信号の情報から色、形、大きさ、などいろいろな情報を読み取り、それが何であるか突き止めようとします。ある時は嗅ぐ、触るなど他の感覚器官の助けを必要とする場合もあるかもしれません。そうした行動が「行」なのです。

 例えば、赤くて、丸くて、手の平に乗るほどの大きさの物は何かというようにナゾナゾをしてゆきます。そして最後にそれが「りんご」だと答えを出す。つまり最終段階の「識」に至るのです。文字通り認識するということです。この全ての動作が完了した時、人は初めて物を見たことになるのです。」

 そう言いながら住職は、供物として備えられた果物の山を指差した。真由が視線を移したその先には、山と積まれたりんごと梨があった。この瞬間、真由は五蘊の全てを体験し、りんごを認識した。それに要した時間はわずかO・O一秒ほどである。

「見るという動作はこのように複雑な過程を経て実行されているのです。でも、人はこうした認識パターンを一瞬のうちに処理しています。ですから意識にすら上ることはありません。聞くという動作も、嗅ぐという動作も、全く同じです。全てはあなたの体の中で起きている物理現象の結果なのです。」

 そこまで話すと、住職はすっくと立ち上がると本堂正面の巨大な観音扉をパタリと閉めた。一瞬にして表からの光は遮断され、薄暗かった内陣はさらに真っ暗となった。わずかに残った二本のローソクの火に照らされて、かろうじて阿弥陀如来の塑像がボンヤリと浮かび上がった。

「ほら、こうやって光がなくなると本当に何も見えなくなるでしょう。所詮この世とはこんなものです。全ては外界とあなたの脳とのインターフェースの成せる業なのです。仮に物質の存在自体が「空」であるとしたら、見る対象となる物も、その機能を担うあなたの目も、脳も全てが、空虚なものなのです。五蘊皆空とはそういうことなのです。言い換えれば、あなたがこれまで見聞きしてきたものは全て五蘊が作り出した幻影のようなものなのです。」

 真由は今全てを聞き終わった。そして、誠が最期に「北山不動へ行け」と言ったことの意味がようやく分かった。

 「見える」ということが幻影であるとしたら、「見えなくなる」ということはそうした幻影が消えるということでしかない。光があるから目が必要となる。光がなければ目は無用のものとなる。洞穴ヤモリの目は退化してなくなってしまったのではなかったか。いつか誠の口から聞いた話が真由の脳裏に蘇った。

 一切皆空、輪廻転生、縁起、五蘊……、真由はこれまでに聞いた話を静かに反復していった。そしてその含蓄に富んだ内容を何度も咀嚼した。「見えなくなる」ということをあれほどまでに思い悩んできた自分が何と浅薄だったことか。真由は深い深い後悔の念とともに、言い知れぬ安らかな気持ちに包まれ始めていた。

「さあ目を閉じて、静かに心を無にしてご覧なさい。全ての五感を閉じ、外界とのインターフェースを遮断するのです。」

 住職はそう言うと、最後まで残っていたローソクの火を吹き消した。何もない漆黒の闇が襲ってきた。真由は言われるがままに目を閉じて、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の全てを一つ一つ閉じていった。途端に真由は不思議な感覚にとらわれ始めた。

 体全体が突然言いようもなく軽くなり、先ほどまで膝にごつごつ当っていた床板の痛みも消えた。真由は、自らの身体を構成している細胞の一つ一つが雲散霧消していくのを感じた。もう右も左も、前も後ろも分からない。生きているのか死んでいるのかすらも分からない。無限に広がる空間を自由自在に飛んでいけそうな、そんな不思議な気持ちにとらわれた。

 どのくらい経ったのであろう。ほんの五分くらいしか経っていないはずであるが、真由にはそれが無限の時間のように思えた。その真由の安らかな瞑想を破り、現実世界へと引き戻したのは、突然の突風であった。

 バタンという大きな音とともに、観音扉が両開きとなり、湿った空気が一気に堂内に流れ込んできた。ギョッとして二人が外に目をやったその時、ガシャーンという轟音とともに、眩い閃光が走った。咄嗟のことで何が起こったのか真由には分からなかった。しかし、次の瞬間真由は目を押さえて床にひれ伏した。

「目が、目が……。」

「ど、どうされました?。」

「目が見えないんです。目の前が真っ白で。」

 長時間真っ暗闇の中にいた真由の瞳孔は、これ以上大きくならないというほどに開いていた。その開き切った真由の瞳孔の奥底に落雷の強烈な閃光が一気に差し込んだのである。何億兆個という光子の束が、真由の網膜に並んだ視神経を直撃した。

 正常な人間の場合、明るい光りが目に入ると瞬時に反応して目を閉じるが、視力の半分以上を失っている真由の目は反応が遅かった。わずかO・O一秒の違いが、繊細な人間の視神経には致命傷となることがある。真由の視神経は完全に機能を停止してしまったのである。

「しばらく、ここで休みましょう。きっとすぐに見えるようになりますよ。」

 住職はそう言うと、鎹を使って風に揺れる扉を止めると、真由の隣に座った。外はいつしか真っ暗となり、大粒の雨がバラバラと音を立てて降り始めた。時折走る閃光と耳をつんざくような雷鳴が代わる代わる襲ってくる。湿気を帯びた風が真由の頬に横殴りに吹き付けた。

 五分、十分……、時だけが経過していく。しかし真由の視覚はなかなか戻ってこなかった。一時的な眩み目にしては回復が遅い。もうこのまま見えなくなってしまうのでは。真由の脳裏に不安がよぎった。一切皆空、五蘊皆空、真由は先ほど住職から聞いた講話を脳裏に写経するかのように何度となく復唱しながら、じっと待ち続けた。待つこと三十分、ようやく真由の目に朧げな住職の姿が戻ってきた。

「もう大丈夫のようです。」

 真由はまだ少し陰の残った目をさすりながら呟いた。

「そうですか、よかった。本当によかった。」

 住職はやれやれというように胸を撫で下ろした。そして、ゆっくりと立ち上がると先に立って真由を宿坊の玄関口へと案内した。先ほどまで滝のように降っていた雨も上がり、切れた雲間から傾きかけた陽光が一条の光となって差し込んできた。それとともに騒がしいセミの声も戻ってきた。

 真由の口にもう言葉はなかった。今の安らかな心の安寧をどのように表現しても到底言い尽くせるものではなかった。真由の心はようやく誠の心と融和した。溢れ出る涙を抑えながら、真由は何度となく住職に頭を下げると北山不動を後にした。

 豪雨に洗い流された山の草木、そして玉砂利の一つ一つまでが傾きかけた陽光に照らされて美しく輝いた。今の真由にとっては、周囲にある全てがみずみずしく、生まれ変わったように感じられた。


 丁度その頃、真由の知らない間に世の事態は大きく進展していた。

「♪♪さあみんな手を取り合おう。人は等しく生ける者、友に幸あれ光りあれ・・・」

 国会議事堂の周辺は十万人を超す群集で埋め尽くされ、高らかに歌う合唱の声が天までこだました。

「ご覧下さい。この熱気です。全国から集まった緑内障患者友の会のメンバー、そしてそれを支援する全国障害者協会、その他の支援団体の皆さんは、今百万人の署名を携えて、産児制限法の撤廃の訴えを起こしました。産制法の制定以来、数多くの議論がありました。人間の生きる権利かそれとも国家の存立か、多くの専門家の意見も真っ二つに割れました。しかし、日本国民は今ようやくこの論争に結論を出そうとしています。」

 昂奮したレポーターの声がテレビを通じて全国津々浦々に流れていた。今、何百万何千万という日本人がテレビの前でこの中継を見ているはずであった。一年半の忍従の時間を経て、今国民の怒りが爆発した。画面の片隅には、誠の遺影を掲げた節子の姿が、そして誠のお陰で一児を授かったあの女性の姿もあった。

「視聴者の皆さん、日本人はまだ捨てたものではありません。一年半前、あの産制法の公布の日以来、子供を産みたいという緑内障患者のために愛の診断書を書き続け、そして獄中で非業の最期を遂げた眼科医師林田誠さんの志は今何十万人いや何百万人もの国民に受け継がれようとしています。命を賭して闘ったその勇気ある行動は、曇りかけていた日本人の目に再び輝く灯火を点してくれました。彼の名は歴史に残る名医として長く後の世に語り継がれることでしょう。」

 押し寄せる群衆を眼前にして、我が子の遺影を胸にして微動だにせず佇む老親の姿は、見る人の心を打った。誠の善行は、口伝て、ネット伝に全国に伝わり反対集会を一気に盛り上げたのであった。

 世の中は皮肉なものである。誠の死後一週間、国連の下部組織である世界人権保護委員会が公式に日本政府に対し、産児制限法の撤廃を促す勧告を発した。

 翌朝の新聞には、産制法撤廃を確信する見出しが躍った。

「首相、産制法撤廃の検討を確約。」

「人道主義の勝利。産制法撤廃へ。」

 本来なら大喜びすべきはずのこの知らせも、しかし今の真由にとっては単なる文字列に過ぎなかった。何故これがもっと早く来なかったのか。せめてあと十日早く。そうすれば誠は死なずに済んだかもしれない。いくら名誉が回復されたとしても、逝ってしまった者は帰って来ない。人々の喜びが大きくなればなるほど、真由の悲しみは大きくそして深くなるばかりであった。あの楽しかった日々はもう戻っては来ない。あの優しかった誠の声もそして笑顔も。夢のように過ぎ去ったこの三年間が走馬灯の如く真由の脳裏を駆け巡った。初七日を迎えた真由は改めてかけがえのない人を失った悲しみを実感した。


 しかし、それから半年後。

「不思議ですね。進行が止まっています。」

 医師は二枚の視野検査の結果表を見比べながら、しきりと首を傾げた。視野検査表に描かれた真由の視野の陰影は半年前とほとんど変わっていなかった。末期の緑内障としては異例であった。

「やはり、進行が止まっていますね。半年前とほとんど同じです。」

 医師は今度は眼底鏡を覗き込みながら繰り返した。一頻り慎重に眼底の診察を終えた医師は、真剣な表情で真由に尋ねた。

「この半年間特に変わったことはありませんでしたか。例えば食生活が大きく変わったとか、何か変わった目薬を使ったとか、何でもいいんです。」

「変わったこと?」

 真由はしばらく考えていたが、考えうることと言えば誠の死くらいであった。人は精神的に大きなストレスを体験したときに、病気が発症したりあるいは逆に平癒したりすることがあるという。真由の緑内障もその類のことであろうか。真由はもうすっかり完全に失明することを覚悟していた。それが一転、緑内障の進行が止まっているという。これは喜んでいいことなのか、真由はまだ半信半疑であった。何かが原因で一時的に進行が止まっているだけかもしれない、また半年後には進んでいるかもしれない。

「とにかく、一度眼底写真を撮っておきましょう。隣の部屋で看護師の指示にしたがって下さい。」

 医師は眼底撮影の指示を出した。真由は指示されるままに眼底カメラの前に座った。

「では、目を大きく見開いてこの穴を覗いて下さい。赤い点が見えますね。瞬きを止めてこの点を見てて下さい。少し光りますが、瞬きしないで下さい、いいですね。」

 眼底カメラのレンズを覗きながら、看護師は器用に機械を操作する。もう何度となく眼底写真を撮っている真由にとっては、慣れた検査であったが、今日はいつもと違った。いつもは検査を受けるたびに症状は悪くなっていた。結果を聞くのが怖くて、検査を受ける眼球までが固くなっていくような気がしていた。

 だが、今日はとても気持ちがリラックスしていた。カメラを覗き込む瞳孔が自然に開いていくような感覚に襲われた。その時、眩いフラッシュの光が輝き、一瞬目の前が真っ白になった。

「あっ。」

 真由はこの瞬間、半年前のあの体験を思い出した。あの時は今の何倍も何十倍も強烈な刺激であった。

「そうですか、半年前ですね。眩み目にしては三十分というのは長すぎますね。やはり視神経細胞に何かが起きたんでしょうかね。とにかく次回の定期検査までは何とも申し上げられませんが……。」

 医師は真由の話しを聞きながら、カルテに何かを走り書きした。結局、詳しい原因も、また本当に治ったかどうかも分からないまま、真由の診察は終わった。


 その翌日、山村工房。

「真由、えらいこっちー。」

 親方が、一通の手紙を片手に真由のところに駆け寄ってきた。

「いやいや、えらいことになった。」

 見れば、親方の皺顔がさらに崩れて、ぐちゃぐちゃになっている。こんな嬉しそうな親方の顔を見るのは、真由が弟子入りしたいと言った時以来であろうか。

「親方。一体、ど、どうしたんですか。」

 親方は、何度も何度も手紙に目を通す仕草をして、ようやく真由に手紙の内容を告げた。

「お前のあの作品、ほら半年前にコンクールに出したあの清水焼の皿、あれが大賞に選ばれたそうや。」

「えっ?、ウ、ウソでしょう。」

 真由には全く望外の知らせであった。入選すら覚束ないだろうと思っていたあの作品が大賞?、何かの間違いではなかろうか。

「大賞に選ばれた関口真由氏の作品「カキツバタ」は少し霞のかかった淡い緑の色調と朱に輝く一輪のカキツバタの色が見事に調和し、何ともいえない優雅な雰囲気が描き出されている。これまでの清水焼きになかった新しい技法を用いたこの作風は、長年の伝統工芸に新風を吹き込むものとして高く評価される。」

 選評を読み上げる親方の声は、興奮と喜びで震え、次第に涙とともにかすれていった。

 視力の低下した真由は、ミリ単位の繊細な筆運びを止め、自らの見える範囲で描ける最良の方法を工夫していたのであった。その芸術性が高く評価されたのである。

「健常者には到達し得ない高い芸術性を体得する」、いつか本能寺で誠が話していたあの盲目の能楽師のことが思い出された。あの話を聞いたときは俄かには信じられなかったが、今の真由にはその意味がよく分かるような気がした。

 視力が低下し全く描く気力を失していた真由を励まし筆を持たせ続けたのは誠であった。「一OO%完璧なものなんてありえない。これも立派な作品だ。」あの誠の言葉がなかったら、今日の真由はなかったであろう。そしてこの作品も…。

 誠に諭されて後、真由は自らの視力の続く限り筆を動かし続けようと決心した。うまく描こうとする気持ちを抑え、見える範囲で最大限の努力をしてきた。どんな障害があろうとも、人間の可能性は無限である。その可能性を自らの手で摘み取ってはいけない。障害者と健常者を隔てるものはほんの紙一重なのである。


エピローグ〜退化から進化へ


 三年後。

「誠さん、私、緑内障の進行が止まったようなの。難しいことはよく分からないけれど、お医者様は強い光を一時に見たことで、遺伝子の退化プログラムが解除されたのが原因じゃないかって。失われた視力は元には戻せないそうだけど、残された視力だけでも日常生活は大丈夫そうなの。」

 今日は誠の命日であった。真由と節子は三年前のあの暑い夏の日のことを思い出しながら、誠の墓前で祈りを捧げていた。「林田家の墓」と書かれた墓石はどこまでも冷たく無言であった。真由は薄れていく誠の記憶を必死に胸に留めようと祈りを続けるが、誠は沈黙を守ったままであった。

 真由の症例を聞きつけた眼科学会がその後実験と研究を重ねた結果、強烈な光が一時に視神経に入り込んだとき、緑内障の退化プログラムが解除されるらしいことが分かった。かつては、光を避けることで遺伝子の退化が起こってしまった。今度は逆に一時に強い光を見ることで遺伝子の「進化」が起きたようであった。

何千年と受け継がれてきた退化のプログラムを解除する方法があることが、全くの偶然により発見された。もはや緑内障が不治の病ではなくなる日もそう遠くないことが予感された。

「でも、誠さん、私素直に喜ぶ気持ちにはなれない。最近はあのまま見えなくなっていた方が幸せだったんじゃないかと思えて。目が見えるようになればなるほど、あなたが私の傍から遠ざかっていく、そんな気がして。」

 真由がそう呟こうとした瞬間、今度は真由の耳にはっきりと呼ぶ声が聞こえた。空耳なんかではなかった。

「真由、それは君が進化したからだよ。」

「えっ、進化?」

 真由は思わず声を出して聞き返した。

「ほら、言っただろう。退化と進化は表裏一体、いや実際は同じものだって。人は体だけじゃなくて、心も進化するんだよ。いつも暗い陽の当たらない方ばかり向いて生きていると人は心までも退化してしまう。あの洞穴ヤモリの目のようにね。

 真由、君の心は進化したんだ。これからはもっと明るい方だけを見て生きていくんだ。どんな障害を背負っていても、いつも心を光の当たる方に向けていれば、人は必ず幸せになれる。君はそのことを身を持って体験したんだよ。もう大丈夫。僕がいなくても君は立派に生きてゆける。」

 真由の目に今はっきりと誠の姿が見えた。幻影なんかではなかった。人は死ねば必ず土に帰っていく。誠の身体を構成していた酸素原子や水素原子の粒々は、今墓石の傍らに咲く一輪のリンドウとなって、真由を見つめていた。風にそよぐその清楚な花を摘み取ろうとした真由の手は、しかしはたと止まった。今目の前に見えているものは所詮「空虚」なもの。そんなものを手にしなくとも、誠の心は永遠に真由の心の中に生き続けていた。

「真由さん、そろそろ戻りましょうか。」

 真由がはっとして顔を上げると、傍らには節子の顔があった。誠が亡くなってから、節子の身体はやつれてさらに一回り小さくなったように思えた。しかし、そんなことは微塵も表には出さず、真由の前では節子はいつも明るく振る舞った。

「ねえ、真由さん。お見合いしない?」

「お見合いですか?」

 真由は突然のことに驚いて、思わず聞き返した。

「誠が死んでもう三年になるし、あなたもいつまでも若くないんだから。私、いいお見合い写真一杯持ってるのよ。」

「あらー、いやだ。お母様ったら。」

 真由は、立ち上がろうとする節子に手を貸すと、頬を赤らめて苦笑した。野辺の石段に、二人の談笑する声が静かに消えていった。

(了)


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