プロローグ
冬の深まる中、海里の心は晴れない。パートナーの記憶が戻らぬまま、彼女の憂い顔を見る日が増えていた。
ある日、魔女に呼び出されると、目の前に複数枚の高額紙幣がつきつけられる。ただただ戸惑う海里に、かなえは告げる「ミッションを与える」
手に負えない主に、記憶の戻りつつあるパートナー、果ては新たな依頼が海里の元へと舞い込む。平穏な暮らしは、まだ少し先のこと。
ある女性の記憶――
一つ、つまらない話をしたいと思う。主人との馴れ初めだとか、こっ恥ずかしいことこの上ないのだが、何となく語りたくなってしまったのだから、仕方がない。
こればっかりは、記憶に強烈に焼き付いていて離れそうもない。そう、この日は雨が降っていた。紫陽花の花が鮮やかに映るこの季節は好きではあるが、雨が続けば趣味の散歩に出ることも出来ない。朝から正直、不機嫌であったことを覚えている。
「よろしく」
紹介された彼は、はっきり言って頼りない。恩人の勧めを断わり切れずに顔合わせはしたものの、こんな人と一緒に過ごすのかと思うと気が滅入った。少なくとも自分がこれまで努力してきたのは、世間知らずの坊ちゃんを相手にするためではない。
顔合わせの場ではあるが、情けなく愛想笑いを浮かべるこの人を前にして、私は眼を合わせることすら嫌悪していた。いっそのこと、大暴れして破談にしてやろうかとも思ったが、恩人の顔を潰す訳にもいかない。柄にもなく、大人しくこちらも愛想笑いを浮かべてやったのも今ではよい思い出だ。
どうして一緒になったのか。いざ問われると、返す言葉がない。いやいや、理由はあるのだが、理屈で片付けたくないというか何というか。
「よ、よろしく……」
困ったように頬を掻きながら未来の主人は再度そう言っていた。その時の表情ったらない。まるで情けない。
だが、私は気づいてしまった――この人は、磨けば必ず光るということを直感してしまった。
「……」
無言で私は手を差し出す。本来であれば、こんなことなど私の中ではあり得ない。だが、現実に相手を認めてしまったのだから仕方がない。
「あ――」
手と手が触れあった瞬間、彼が浮かべた表情の眩いことったらない。世間知らずの坊ちゃんではあるが、手垢にまみれていない、彼自身の自然な笑顔が毀れる。こんな顔をする人を、私は見たことなどなかった。無垢なその表情を見て、私の将来は決まってしまったと言ってもいい。
ああ、そう言うと何だか相手の所為にしているようで厭だな。これも、私が決めたことだ。
笑う彼を見ていると何だって出来るような錯覚に陥ってしまう。ただただ命令に従う一生かと思っていたが、私はこの瞬間、この坊ちゃんを一人前の男に育て上げるという使命を帯びたのだと思う。
緊張する相手のために笑ってみせた彼は、将来素敵な男になる。なら、その時までゆっくりと待つことにしよう。
「彼女、美人だね」
私に聞こえない声で恩人に告げたつもりだろうが、筒抜けだ。私は案外耳がいい。
だが、褒められると悪い気はしない。厭々来たものの、屈託ない笑顔を見てしまっては悪態のつきようもない。まして、手の感触がよかったのだ。それだけで、私はこの人に尽くしてみることに決めた。
知らずの内に緩んでいた表情を整えながら、彼の将来を夢想する。私の鼻に、間違いはない筈だ。