4.■覚抵抗・黙―パートナー
「じっとしていてくださいね!」
ナナは語気をやや強めて、海里の背をなでていた。横には目を覚ましたばかりのアルシエンティーの姿がある。ナナの様子を伺っているが、今にも主の元へと走らんと落ち着きない様子でいた。
「夕个さんがどこへ行こうと、この子が教えてくれる筈です」
そうでなければ、もう手詰まりですね、とナナは語っている。確かにその通りだ。かなえの電話の内容からして、事態は一刻を争う。
「じゃ、行ってきますね――て、何です? これは」
ナナは今手に掴んだものに視線を合わせる。海里から放物線を描いて投げ出されたものは、携帯電話とジッポライターだ。
「携帯は餞別。大事にしてくれ」
ジッポは後で返してね、と眉根を寄せながら海里は言う。以前に彼から、ライターは形見のようなものだ、と聴かされていたナナはこの状況で一時とは言え、緊張感を忘れていた。
「――ッ」
公園に犬の鳴き声が響く。見れば既にアルシエンティーは駆け出していた。とっとと来いと言わんばかりだ。
「ああ、待ってアーシェさん! 私行ってきますから、大人しくしててくださいよ」
ジャンパーのポケットにジッポを仕舞いながら、ナナは走り出す。パートナー(仮)の青いスカジャン姿が遠ざかっていくのを見送り、海里はベンチから腰を上げた。
「アーシェ、どうして!?」
私は、ピンチに駆けつけるアーシェの姿に目を見開いた。多分、口も開いたままだろう――それくらい、思いがけないことだった。
「どうしてって、そりゃご主人様が好きだからですよ。ねー、アーシェさん」
ザザー、と走り込んで来た女性がアーシェとアイコンタクトをしている。公園で見た人だ。名前も知らない人だが、アーシェはご機嫌そうに一声吠えていた。
「ちょっと味見しようとしたら邪魔が入る。こんなのばっかりだ!」
男――タクミは、げふっと咳き込みながら、取り落としたナイフを拾い直す。先程のようにこちらへと詰め寄ってはこないが、またも地団駄を踏んで憤慨しているようだった。子どもみたいだと思っていたが、その様は――
「どうします、逃げますか? 時間稼ぎくらいならしますよ」
男前な台詞を語る女性が、タクミとの間に割って入ってくれた。スカジャンの背中には、土佐犬の刺繍。拳を握りしめて立っているその姿は、中々に様になっていた。本当に何者なんだろうか、この人は。
「どうって……」
それはともかくとして、相手はナイフを握り絞めてこちらを睨んでいる。逃げる方が正解なのだろう。海里兄のように妖と闘ったこともない自分では、やられてしまうのがオチではないか?
「――ッ」
よく響く声に振り向くと、愛犬と目が合った。十二歳の誕生日に出会った彼は、私の良き友人であり、私の良き理解者であり……
「あ、そうだ。いつまでもボクの理解者を放っておいちゃ、いけないね」
「夕个さん!」
男が正気を取り戻したのか、夕个の元へ歩み寄る。スカジャンの女性の口振りから緊迫が伝わってくる。あいつの口元には、まだ嗤いが張り付いているではないか。このまま放っておけば、次の犠牲者が出ることは必至。
「見せてやりたいね。分家だとか関係ないということを――」
夕个は短く、『疾風』と呟いた。その言葉に反応し、一目散に標的へとアーシェは駆ける。風を逆巻かせながら走るその姿は、夕个の命そのもの。その姿に言いようのない想いが胸に去来し、今にも叫びそうになる。
「何だ、この犬!」
振るう刃の先に、アーシェは既にいない。身を低く駆け抜け、男の脇を通り抜けては背後へ。追いかけるように刃を振るうが、それも空を切る。男を制圧するため、次第にスピードを上げていく。その牙は一点、相手の牙に照準を定めていた。
「アーシェさん、さっきよりもイキイキとしてる!」
ナナが感嘆の台詞をこぼした。速さは先程と同程度。だが主が命じたままに風と化した彼は、男を傷つけることなく、その右手からナイフを奪い取った。獲物を口にくわえたまま、勝ち誇るアルシエンティー。
「ああ、いけない!」
続き叫ぶナナは、男が左の手にもう一対の牙を構えていることを見逃さなかった。
「まったく驚かせやがって――」
後半は言葉にならない何事かを喚きながら、男がナイフを振るう。命令を終えた巨犬の背に、鋭利な金属が迫る――が、その切っ先が届くことはなかった。
「ゲ、フォッ!?」
どてっ腹に強烈なミドルキックを受け、男は身体をくの字に折る。呼吸を途切らせながら、胃の内容物を盛大にぶちまけていた。蹴り足と一緒に、コートの裾がはためく。
「アーシェには触れさせない、だって――」
ギリっと奥歯を噛みしめながら鋭く息を吐く。ローからハイへ蹴りをつなぐ。そのどれもが、綺麗に標的を捉えていた。
――犬養の力だとか関係ない。だって、私はアーシェのパートナーなんだから!
「す、ごーい……」
男が前のメリに倒れるのをスローモーションのようにナナは見送っていた。ぽかんと口を開けて、月並みな感想を送る。夕个は僕に一言しか送っていなかったが、ここまで綺麗に連携が取れるなんて、と。
『夕个さんがいたら、負けてましたね』
鮮やかなコンボを決める姿を見せつけられては、負け惜しみの言葉も出てこない。ナナは、名付け親が地面に沈まずに済んだことに胸を撫で下ろしていた。
「――がふ、がふぁ」
身体を沈めたまま、タクミは咳き込み続けていた。後は、警察に通報するだけで済むだろう。この男のことを何と説明したらよいか、夕个は携帯電話を取り出しながら思案していた。一一〇と番号を押したところで、微かに違和感を覚える。
一体、何に?
コール音を聴きながら視線をあちらこちらへと夕个は馳せた。男は未だ咳き込みながら、口から欠片をこぼしている。駆けつけてくれた女性は、口元を押さえて顔を青ざめさせる。
「――!?」
何より彼女が驚いたのは、あれ程元気だったアーシェが、ぐったりとその身体を横たえていることだった。
コヒューコヒューと、呼吸音だけが路地裏に響いた。否、呼吸音に甲高い雑音が混ざっていることが聞いて取れる。
「ケヘ、ケヘヘヘ、ハハァ――」
それは嗤い声だった。
ゴボリ、と音を立てて男の喉からまたしても欠片がこぼれる。拳大の無機物の塊に、夕个は我が目を疑った。紛れもなく、それは砂だった。
「――うっ」
夕个は込み上げてくる嘔吐感に、口元を押さえた。口腔内を砂利に埋められる異物感に、胃が暴れている。
ケヒヒ、と乾いた嗤いを立て、男はゆらりと立ち上がった。夕个の端では女性が膝を折って呻いている姿が視界に捉えられる。
「味見は、もうやめ、だ」
口から砂をこぼしながら、男が呻く。その拍子にフードがズレ、幼い顔に不釣合いの血走った瞳が顕わになった。乾いた嗤いを続けながら、男――少年がアルシエンティーをサッカーボールでも扱うように蹴とばした。
言葉通り、男は乾いた感覚をその場全員に押し付ける。通常の食事を受け付けなくなった彼の飢餓感、そして砂を頬張った感覚が夕个の舌へとリンクされた。
人と同じ物が口に出来ない。他人と感覚が共有できない――それは筆舌に尽くしがたい疎外感。
「抵抗する手足はいらない。ボクの話を聴いてくれる頭だけ、残ればいい」
タクミ少年は再びナイフを両手に握り直し、夕个へと歩み寄る。頼みの綱のアーシェは動けそうもない。喉をせり上がってくる幻覚に、身体は震えるしかなかった。
「おい――どけよ」
後はナイフを突き立てるだけ、それだけで全てが終わる。だというのに、夕个との間に割って入った人物に、少年は不快感を隠そうともしない。
「そんなに震える身体で、何をしようって言うの?」
「時間、稼ぎです」
青を通り越して、土気色の顔でナナは答えた。言葉を発してはいるものの、その足は震えている。
「そんなことして、何になるの?」
興味本位からか、タクミは尋ねてみた。答えようによっては、第二の理解者になるかもしれない。そうでなければ、女性を心行くまで喰すことができる。どちらにせよ自分は楽しめる、と少年は息を整えながら嗤った。
「さて、どうなるでしょうか。あなたにとっては面白くないことになると思いますよ?」
「何だそれ。つまらない返事だ」
少年は袈裟切りに、右の刃を振るう。ナナはこの状況でも引くことはない。後ろには、夕个がいるのだ。先程守ってもらったのだから、今度は自分の番だ。
『そうですよね? 海里さん――』
ナナは少年越しに、路地裏へ差し掛かった長身の男を捉えていた。丸眼鏡越しに、視線が交錯する。
「あのバカ!」
ここまでは身体を引き擦っていたが、飛び込んできた光景に悠長なことが言ってられないことに気づいた。
アーシェと夕个が揃えばと思っていたが、目に入ったのは何とも無残な光景だった。そして、今もナナがナイフを持った男の前に対峙している。
『自分に命令をかけるか? いや、間に合わない!』
必死であの手この手を考える海里と、ナナの視線が交差する。その時の海里は、届くかもわからないまま、一心不乱に叫んだ。
――ともかく身を守れ、と。
「一体、何が起こったの?」
夕个は目を瞬いてみせた。眼前の光景が未だ理解できない。吐き気が止んだと思えば、形成が逆転していた。タクミが仰向けに倒れ、女性に海里兄が駆け寄っている。大丈夫か? という海里兄に、ナナと呼ばれた女性はブイサインを掲げている。
この状況を整理するために、夕个は数秒前の出来事を思い出そうと、頭をフル回転させた。
「――は?」
タクミが驚いていた。得物を振り下ろした筈が、今はその手から便りのナイフを取りこぼしているのだ。
「ふざけろよ!」
喚き、左手のナイフが真っ直ぐに突き出される。この期に及んで、切ろうとしたのがいけなかったのではないか。夕个はリンクした記憶から、このナイフが刺突に特化した、彼の牙そのものであることを思い出していた。捕食のためにこれまで繰り返した行動をなぞる。
だが――ナイフはナナの胸へと突き刺さる寸前でその軌道を変えてしまう。手の甲がナイフの腹に合わせられていた。それもほんの一瞬。そのまま拳は固く握られ、ナイフの主へと迫る。
「シュッ」
短く吐かれる息。視線がその動きをかろうじて追いかける。真っ直ぐに進む拳と、その先を追って踏み込まれる足――見事な体重移動に、私は舌を巻いた。
「ちぇすとっ!」
柔らかいが、十分に気合の乗った声が響いた。ジャンパーのファスナーを弾け飛ばしながら繰り出さされた拳が、少年の胸に深々と食い込む。
「げ――」
何事かを紡ごうとした言葉が強制的に遮断され、男は後ろへ倒れていった――勢いのまま三、四メートル程後方へ。
いまだ突き出されたままの拳からは、既に力が抜けている。よい感じに脱力がされているのか、風に吹かれてスカジャンが踊る。その背中の土佐犬がやたらめったら強そうに見えた。
「ナナ、大丈夫か!」
海里兄が身体を引き摺りながら、駆け寄って来る。私ではなく、今少年をぶっ飛ばした女性へ。
「お前、何考えてるんだよ?」
海里兄の言うことは尤もだ。両手にナイフを構える男に徒手空拳で立ち向かうとか、正気の沙汰ではないだろう。
「何って、それは――」
私はこの言葉を聴いて、強烈な目眩を覚えた。
「時間稼ぎ、です!」
女性――ナナと言ったか、は誇らしげにブイサインを突き出していた。心配する海里兄にナイフの傷は見せまいと、左手をジャンパーのポケットに慌てて突っ込む。その仕草を見て、それまで思いもしなかった言葉が私の胸を突いた。
『海里兄、パートナーが見つかったのか……』