4.■覚抵抗・黙
「どうして食べないの!」
母親の叫ぶ声が耳にささる。声の大きさがどうのというよりも、怒る母が怖しく私は泣いてしまった。久々に親戚が集まった際の会席で、私は初めて見た料理をとても口に運ぶことができなかった。
母も怖ろしいが、目の前の料理はそれと同じくらいに恐ろしかったことを覚えている。
どれも綺麗に盛り付けられていたのだが、生の魚が丸々船に乗っている。ギョロリとした大きな目は動くことはないが、口がパクパクと時折動くのだ。活け造りという言葉を知るのはもう少し後になってのことだが、この死んでいるのに動くモノを当時の私は口にすべきものだとは到底思えなかった。
「だって、だって――」
子どもなりに、食べられない理由を必死に説明していた筈だ。だけど、舌たらずな私の言葉は号泣していることも合間って、誰にも伝わらなかったことだろうと、今になって思う。
「全くあんたって子は!」
業を煮やした母が私に詰め寄ると、頬に短い衝撃を受けた――私の泣き声は一層強くなっていたに違いない。頼りの祖母は入院中であるし、伯母さんは私に共鳴したようにぎゃんぎゃんと泣くセンリをあやすので手一杯だ。私は痛みよりも、全く言い分を聴いてもらえなかったことに、言いようもない程哀しんでいた。
祖父に咎められて母ははじめて、しまったという表情を浮かべていた。これも今になって考えれば、という話だが。
当時、この子は本当に手がかからなくて、と人前に出る度に母親が言っていたことを思い出す。
そりゃそうだ。母親は世界中を飛び回っているんだから、たまに帰ってきた時くらいは静かに休ませてやりたいんだもの。それが、初めて会う大人もいる中、食べ物一つ食べられないことでこんなに怒られるなんて――幼子に理解しろという方が無理ではないか?
それまで手を煩わせることがなかった子どもが急に言うことをきかなくなる。親戚はおろか、周囲にうちの子は優秀なの、と嘯いていたアレにとってみては、とても許容できたものではないだろう。父親に至っては、おろおろと視線を右往左往させるだけで一言もこぼしはしない。優しさだけが取り柄というが、単なる日和見性格なのだとこの時に悟った。
大人になればこの状況を理解できないこともないが、この時の私はともかく泣いた。いつまで泣けば終わりなのかもわからずに。
「この魚、動いてる。気持ち悪ぃ……」
ポツリと、だがはっきりとした声が騒然となった会席の場に鳴った。
「……?」
それからが酷かった。泣く私をあやすとかどうのとかが、最早関係ない。突然空気をぶった切った男の子が、まず祖父にドヤされる。その母親が“お父さんが死んだことが悲しくないの!”と泣く。うちの母が追い打ちをかけ、父がキョドる――一言で言えば、まぁ散々だ。
私はこの日、時期当主だとかいう男の子の声を初めて聴いた。この日は後にも先にもこの一回だけで終わってしまったが。
私の気持ちを知っているかどうか。それはともかくとして、誰もが口を開けない空気の中、言いたいことを言う従兄。大人になった今では口にし難い“憧れ”とやらを抱いたものだ。
「……ふふ」
夕个は独り、やや自嘲気味に笑ってみせた。電話をかけた時には出ない癖に、自分を止めようと追いかけてくる姿など、正に伯父の葬式の日の彼そのものではないか。自分を理解できるかどうかではない――ただ、追いかけてくれた。これだけのことでこれ程にも心が震わされるとは。
「早く、いかないと」
思わぬタイミングでカイリ兄に出会ってしまったものだ、と夕个は胸中で呟いた。先程舌に得た感覚から、次の凶行が近いことを知る。急がねば、次こそは誰かの勝手で人の命が失われてしまう。使命感、と言えば語弊が生まれるが、放ったらかすことがともかく厭であったので、夕个は駅の裏手へ走った。
『あなたは犬養の力を顕せなかったのだから。せめて、強い犬を持ちなさい』
母からの唯一のプレゼント、アーシェすら置いて走る。結局、親は自分のことを理解できないのだと思う。私が、一族特有の能力を使いこなせないことに何も感じていないと思っているようだ。
「――そんなこと、ありえるか!」
私は叫び、唇を噛みしめる。あるべきものがないだとか。自分が欠陥品になったような、人格そのものを否定されたような錯覚に陥る。そもそも、舌足らずな自分では犬へ正確な命令など伝えようもないだろう。アーシェもさぞ迷惑をしている筈だ。
何より――あの男の子と同じ力がないことに、私自身が失望をしている。
「はっ、は……」
こぼれたのは、酸素を喘ぐ声か嗤いか。普段寡黙で通しているのに、叫びすぎた。
ともかく、次も死人は出さないようにと私は走った。私に能力が顕れていないのは、チャンネルが開いていないだけだ、と最近になって教えてくれた人がいたが。それに従ってチャンネルとやらを調節してみたが、顕れた能力とやらはてんで使えない。
他人の感覚――味覚をリンクする能力など、一体どこで力を発揮させるのか。
「待ちなさい!」
それでも、与えられたからには意味がある筈に違いない。昨夜とは異なる通り道、その路地裏に牙を構える男を視界に収めた。
「――おや?」
今、正に牙を引き抜いたばかりの男がこちらを振り向く。フードを目深にかぶっており、その顔も年齢もイマイチ判別がつかない。
「どうして、わかったんだろうか?」
男は首だけをこちらへと向けて、口の端を大きく持ち上げてみせていた。口元しか見えないが、この上なく愉快そうな表情をしているのがわかる。男は、その手を一度止めた。その隙に、中学生くらいの男の子は、一目散に駅の方へと駆け出していった。
その様を見送りながら、私は確信をした――こいつだ、と。
「んー、今まで食事はできていたが、後片づけができていなかったんだ。何故だか、途中で邪魔が入っていてね。それってさ」
キミかい? と男は乾く舌を口外へこぼしながら私を問い詰める。ああ、もう間違いない、こいつだ。数日前から、私の味覚へ泣き言をこぼすバカは。
男は視野が狭いのか、今や私しか見ていない。とりあえずは少年が逃げられたようでよかった――いや、それも最良ではないか。昔から私は聞き分けがよすぎるので、この辺りがよくない。この場所に私独りで辿り着いて、それからどうすればいい?
「あ、ああああーーー!!!」
突然の大声に、私は片耳を塞いで顔をしかめてしまう。何を叫んでいるのか、この男は。
「わかった! 救急車を呼んでくれたのは、キミだったんだ!」
「――だとしたら?」
内心動揺しっぱなしであったが、努めて冷静に振舞う。相手の出方を見ねば、この先も何もない。
「やー、うれしい。ただただ、うれしい!」
目元は見えないものの、男が上機嫌になっていくのがわかる。今更ながら、ヤバい奴を捕まえたもんだと夕个は嘆息してみせる。男の反応はまるで子どもだ。論理的に考えようにも、手繰りようもない。こいつは全て思うがままに動いているのだから。
「やっと、ボクに気づく人がいたかー」
男は仰々しく手を広げては言葉をつなげる。いやいや、寂しかったんだよ、と言ってはあちらこちらへと視線を投げかけてみせていた。その視界は私を見てはいない。
「あなた、誰?」
興味はないが尋ねておく。この問いが間をつなげられればいい。その間に中途半端に働く私の頭が最善策を思いつくかもしれない。
「え、ボクに言ってるの? ボ、ボクは、えっとそのなんだ――」
男が不意に黙り出す。腰を折って、地団駄を踏んでいる。
「ああ舌噛んだ! もぅ格好がつかない。ボクは名乗る程の者でもない! とか言いたかったのに!」
男はギャーギャーと言いながら地面を蹴ってみせる。実に幼稚な態度だ。味覚のリンクさえなければ、私はこいつに危険を感じ取れなかっただろう。だが、そこで何かに気づいたように、男は平静を装ってみせる。
――ボクの名前は、タクミです。と男は答えた。
「ああ、嬉しひは」
ケヒっと、息の抜けた嗤いを浮かべて男は何事かを呟いている。もごもごと口が動いているが、途中の幾つかは音声になりきっていなかった。
「いけなひ――」
男はぴしゃりと、自ら頬を叩いて筋肉を引き締めた。そして続ける。
「人と話すことが久しくなかったから、口の筋肉が、ついていってくれてないや! 嗚呼、ボクは、ボクは――話したくて話してくて堪らなかった!」
あっはー、と弛緩した口元を見せて男が一歩、また一歩と夕个へと歩みよる。手には曲線を描きながらも人間の肉を貫くには上等すぎる程の牙が煌めいている。
「わ、私は……」
言葉にならない。
分家ながらも、自分は本家に劣らない。いや、それ以上の働きをしたい。溢れかえる想いで夕个の眼が滲む。
誰にわかろうか?彼女こそ、敬遠するべき犬養の力を求めていたことを……
「残念。でもいただきま――ふっ!?」
男が口を開いて夕个へ迫った。迫ったのだが、その体は幾分か横へと平行に移動をさせられていた。
「アーシェ!?」
驚くほかない。力の足りない私の危機に、まさか彼が現れて来るとは――




