3.未確定項目―無味乾燥
痛む身体を引きずり、ベッドを目指す。満足いく昼食をいただいたことで、気分はよかったのだが今日は神経がよく障る。気づけば夜と言ってよい時間になっていた。
季節柄、まだ空は明るいことだろう。かなえは這いつくばったまま、視線を窓に向けてこぼす。
「これからが、正念場だな――」
昼と夜の間。人と獣の間にある者が動き出すにはお誂え向きの時間帯だ。そろそろイヌカイに援護が必要かと、携帯電話を求めてのそのそと這い動く。ゆったりと携帯を握りしめると、ディスプレイが光っていた。
「はい――ああ、オオジジ殿か」
電話の相手は海里の祖父、影次だった。何の用があるのか思い浮かばず、怪訝な態度で挨拶を返してしまった。
『かなえ君、送ったデータは確認してくれたかな?』
「まだだ。ちょっと待ってくれ、今から確認をするよ」
もう寝ていたいと思っていたところであるが、ベッドを支えにパソコン机へと向き直した。
『そうか。いつもの情報提供だから急がなくても構わん。時に、あのボンクラはどうなっている?』
電話の相手はかなえの様子など知らず、いつものように淡々と言葉を紡いでいた。そんなだから孫に恨まれるんだ、とはかなえの胸中にだけ留めておいた。
「それこそいつも通りだ。今朝方レッスンこそしたものの、オオジジ殿の期待通りになるかは、私にも皆目見当がつかん」
かなえの返答に、ふむとだけ返事をしてくる影次。納得しているやらいなやら。
曖昧な返事は聞き流して、かなえはパソコンの操作を始める。特に真新しいメールはない。続けて、影次からの情報を確認するため、キーをいくつか叩いてみる。読み込み中の文字を眺めながら、一つ提供できる情報を思い出していた。
「名前はつけていたぞ」
『ほう、それは一体どういう意味で?』
「そのままの意味だ。図らずもオオジジ殿の望む結果に近づくんじゃないか」
多少恣意的ではあったが、海里は名付けを終えた。残り二つ程の手順を踏めば、あいつも立派なイヌカイの跡取りか――そのことには興味なぞなかったが、義理で答える。
『私の思惑なんて外れてくれる方がいい。より強い獣を選べればそれだけで僥倖だ』
妖と戦い続けることだけに人生を費やした男は、枯れた声でぼやく。それは特にかなえにあてたものでもない。恐らくは独り言なのだろう。かなえも、そのことには特に興味を示さなかった。
ただ、永らく一つのことにのみ注力していれば、今更後には引けないものだろうとだけ理解をしていた。
「オオジジ殿も、なかなか苦労するな」
読み込みの終わったデータに目を通しながら、かなえも独り言をつぶやく。ここ最近、町では人間の起こす事件に紛れて、妖の仕業としか思えない現象がよく起こっている。他人の視界に干渉する妖など、よい例だろう。サキがいれば十分に処理できるだろうが、収束までにはどれ程の時間がかかるか――かなえの思考を裂くようなデータが目に飛び込んだ。
『引退した筈なのだがな』
影次のぼやきが続いていたが、かなえの耳には入っていない。今はそれよりも厄介な事柄に、かなえの意識のリソースはとられてしまっている。
「おいオオジジ殿……これは、どういうことだ?」
『どういう、とは?』
かなえの眼前には、犬養家が把握する妖の一覧が表示されている。その中に、実に不穏当な一文が見て取れる。
「才刄に次男坊がいるなんて、私は聴いていないぞ?」
『私もつい最近知ったことだ。才刄は随分と血の薄い一族で、ずっとこの町を離れていた次男が返ってきたそうだ――』
「また連絡する」
相手の言葉を待たずして、かなえは電話を切った。続いて電話帳から海里の番号を呼び出す。
「耄碌ジジイめ!」
血液が沸騰するような感覚に痛みを忘れる。かなえは長い黒髪を掻き毟り、毒づいた。
「今、何時かわかります?」
目を開くと、ナナが心配げな表情でこちらを覗きこんでいた。目を覚ます時間帯にしては、辺りが暗い。先程まで自分は夕个を連れ帰るため、公園にいた筈だ。それがどうして日も暮れたベンチで寝ていたのか。
「――今何時だ!?」
身を跳ね起こして、海里は叫ぶ。顔を近づけていたナナが跳ね飛ばされ、わわっと声を上げていたが、それどころではない。
「もうすぐ六時です」
夕方の、とナナは付け加える。その言葉を聴いて、海里は自分の失態に今更ながら気づいた。思わずアルシエンティーの姿を視線で探した。ついで、焦って口元を拭えば、手の甲に鈍色の筋が現れた。
「海里さんのことは信じてます。けど、こだわりすぎです」
覚醒とともに、細胞が喚くのを自覚する。厭な汗が脇を伝う感覚に、一人苛立ってもみせた。
「動かない方がいいです」
意識はハッキリしているものの、身体が鈍っていることを海里は自覚した。都合二発受けた体当たりが原因か。口周りに凝固した血液が張り付いている。
「アルシエンティーは?」
言うが早いか、ナナの指が示す先へ視線を落とす。ぐっすりという言葉が相応しいくらい、穏やかに大型犬が眠っていた。
「海里さん!」
「……何だよ」
ナナの大声に海里は苛立った。否、これは彼女の所為でないことは十分にわかっている。わかっているが、落ち着きようもない――自分が気を失っている間に、夕个が凶行を重ねているかもしれないのだ。
「私の、衣新奈の依頼の時といい、無茶しすぎです」
「……」
ナナの言わんとせんことは、海里にも理解ができていた。自分が採算を度外視した行動を取りやすいなんてことは、当の本人がよくわかっている。せめても黙ってみせようとしたが、堪えられなかった。
「俺のこと、信じてくれるんじゃなかったのか?」
「信じることと、身を案じることは別物です!」
「……」
間髪入れない返事に、海里は黙り込んだ。こう言えば従うしかないだろうと、高を括っていたことを恥じる。自己嫌悪に俯く海里に、ナナは言葉を続けた。
「夕个さんが人を襲うなんてことはないと思います」
だから、一度帰りましょう、とナナは言う。
「どうして、そう思う?」
その言葉に、海里は頭が急速に冷えていく感覚を覚えた。単なる気休めの言葉でないことを祈り、ナナの言葉を待った。
「かなえさんが私の夢を他人のものだと言った根拠って、何だか覚えています?」
「それは覚えているよ。あまりに客観的すぎた、って話だろ?」
早く夕个を追いかけたい海里は、ややぞんざいに答えていた。ナナが悪いわけではないが、ハッキリとは表せない居心地の悪さに、焦燥が募る。
「ええ、私もそれで納得をしないといけないと思っていました。確かに夢に出てきた声は、夕个さんと同じだったと思います」
ですが、と続ける少女。
「今になって思えば、私の視た夢は――文字の羅列でした」
しっかりとした声で断言される。
「お、おい、何を言ってるんだよ?」
焦る気持ちすら忘れ、海里は純粋な疑問をぶつけていた。その言葉に、一度瞼を閉じて、ナナは語る。
「まるで、夕个さんが“他人の記憶”を読み込んでいたじゃないか、と思うんです」
「何だっ、て?」
ナナの言葉に脳髄を貫かれた思いがした。『昨夜食事の摂れない人物が、その牙で少年の胸を貫いた』この記述は、夕个が受け取った別人の記憶であるとすれば……
「ますます、夕个を放っておけないじゃないか」
海里は脱力と動き出すための力、その両方のベクトルを感じていた。
「海里さん――」
ナナが何事か語ろうとしたその時、緊張感漂う夜の公園にいやに愉快な電子音が鳴り響いた。かなえからの着信だ。
「イヌカイ、不味いことがわかった」
その言葉を聴いて、海里は厭な予感が的中してしまったことを嘆きながら、かなえの次の言葉を待った。