6.魔法による初めての出会い
見つかった、と柚子城ランは思いました。
立っていたのは老婆でした。小柄で、とても汚い身なりをしていました。老婆はこちらを睨みつけるように見ていました。ランは、まるで自分の中を見透かされているような気分になりました。
なぜこんなところにお婆さんがいるのか、ランには分かりませんでした。しかしはっきりしていることは、とにかく見つかってしまっては彼女のプラスにはならないということでした。身の安全を考えると、あのお婆さんが誰かは分かりませんが始末してしまわなければならないでしょう。
ランは両手を前に突き出しました。お婆さんにかけるのは、ものを断裁する魔法です。
これでお婆さんは薪のように断裁されてしまうはずです。
しかし彼女が魔法をイメージする前に、不可思議なことが起こりました。
身体が動かなくなってしまったのです。前に突き出したままの姿勢で、ランは硬直してしまいました。力を入れましたが指の一本も動かすことができません。
老婆はゆっくりとランのところに歩いてきました。視線は相変わらずこちらを見たままでした。ランは強い恐怖を感じました。
ランの目の前まで来た老婆は、彼女の顔を覗き込んで笑いました。その笑顔からはランに対する敵視のような感情を読み取ることができませんでした。
「あんた、魔法が使えるね」
老婆はしゃがれた声で言いました。ランは驚きました。
なぜこの老婆は魔法を知っているのか。
そしてなぜこの老婆は自分が魔法を使えることが分かったのか。
分からないことだらけでした。
ランは老婆を問い質したいと思いましたが、声を出すこともできなくなっていました。
「しゃべれないだろう。これはそういう魔法だからね」
老婆は静かにランの死角に回り込みました。ランはそちらを見ようとしましたが、どうしても体を動かすことができませんでした。
「今の私は、あんたを簡単に殺すことができるよ。どうだい? 怖いだろう。他人に生殺与奪の権利を握られるというのは」
老婆は指を伸ばすと、ランの背中をつっとなぞりました。その瞬間、彼女の全身を強烈な寒気が襲い、動かないはずの身体が震えだすのを感じました。
「どうするね? お前には今二つの選択肢がある。一つ目は私に対する敵対感情の一切を捨てて、話をする。もう一つは、このまま私に殺されるか」
声が終わると、首が以前よりも強く締め付けられました。ランの喉から、自分の意識とは無関係に音が漏れました。
老婆の声は続きます。
「お前の右手人差し指だけを動かせるようにしてやろう。選びなさい。生きたければその指を動かせ。死にたければそのまま動くな。決定権を握っているのは、お前だよ」
ランは自分の指が動くようになったのを確認すると、すぐに指を力いっぱい振りました。もとよりランはお婆さんに敵対感情を持っているわけではありませんでした。彼女はただ周りの人間から逃げるために森に逃げ込んだのです。人を殺してしまったのですから、警察は間違いなくランの行方を捜しているはずです。
見つかってしまったから殺そうとしたのです。決して見ず知らずのこのお婆さんに敵意があるわけではありません。だから降参することに迷いはありませんでした。
身体はすぐに楽になりました。全身から力が抜けてランは思わず倒れ込んでしまいました。呼吸も楽になりました。地面に両手をついて荒い息を繰り返していると「さあ、立てるかい?」と声をかけました。
今までとは違って、とても優しい声でした。ランは思わず顔を上げて老婆の顔を覗き込みます。老婆は今までのことなどなかったかのように、にっこりと笑っていました。
ランは老婆の住んでいるところに招待されました。そこは木で作られた小さな小屋でしたが、きれいなところで快適そうでした。
「ここには誰もいないの?」
この森に人が住んでいるとは思わなかったランは老婆に聞きました。
「森にいるのは私とあんただけだよ。ここには誰も入ってはこないし、入れない」
「入れない?」
「魔法をかけてあるのさ。人間を寄せ付けない結界だ。普通の人間はここに入ってくることは出来ない」
老婆はランを小屋に招き入れるとジュースを出してくれました。ランはテーブルについてそれを飲み始めます。老婆はランの向かい側に座りました。
「いろいろ聞いてみたいんだが、良いかね?」
ランは少しためらいましたが、頷きました。こうなってしまった以上拒否権などないことを彼女は知っていました。もしここで拒否すればこの老婆は間違いなく自分を殺すのでしょう。
今でこそ優しそうにほほ笑んでいますが、この老婆が自分を殺すことに躊躇しないであろうことは簡単に予想が付きました。
「よしよし、いい子だ。ではまず、お前は魔法が使えるのかい?」
「……はい」
ランは大人しく返事をしました。嘘を吐こうなんて微塵も考えられませんでした。
「それはいつからだい?」
「今日です。今日の朝からなんです」
「……今日からか。ちなみに今日はいつになるのかね。私はこの通りこの森の中にこもって暮らしているもんだから、日付の感覚と言うものが無くなってしまっていてね」
「二〇一〇年六月三日です」
「二〇一〇年か……。私がここに住むようになったのはね、記憶が正しければ一九六六年のことだ」
ランは驚きました。一九六六年と言えば、今から四十四年前のことになります。まだ小学四年生の彼女にとってみれば、考えられないぐらいの長さでした。ランが今まで生きた人生の、およそ四倍の長さをこの老婆はこの森で生きてきたのです。
「もう分かっているだろうが、私は魔女だ」
老婆の言葉に、ランは驚きませんでした。魔法についての質問。そしてさっきの不思議な力。
この老婆が魔女であることに少しの疑問もありませんでした。
「どうしてこんなところに住んでいるの?」
ランは逆に質問しました。なぜこんなところに魔女が隠れ住んでいるのか、まったく分からなかったのです。質問された老婆はランに憐れむような視線を向けました。
「それはね、多分お前と同じだ」
「同じ……」
老婆はランに出したジュースにちらりと見ました。するとそのコップは音もなくテーブル上を動きました。とてもなめらかな動きでした。コップはテーブルを一周すると、また何事もなかったようにランの前で止まりました。ランはこの老婆の力に驚きました。彼女の魔法はとても自然で、熟練していました。
「すごい……」
思わず呟いたランを見て、老婆は笑いました。
「すごいなんて言ってもらえるのも、随分と久しぶりな気がするね。お前みたいな無邪気さを、当時私の周りにいた奴らも持っていたら良かったのに」
老婆は目の前の少女の目を覗き込みます。ランは自分の見てきたことや体験したことを、すべてこの老婆に知られているような気がしました。
そしてそれは、気のせいではありませんでした。老婆は魔法を使って、ランの記憶を覗いたのでした。
「ほう、お前も結構無茶してるね。そんなことをしてしまったのだから、もう元の生活には戻れないだろう」
「そんな」
そんなことはない。
ランはそう言おうと思いました。
しかし、言えませんでした。魔法を手に入れてからの出来事が頭の中で駆け巡ります。
猫を殺しました。
クラスメイトを殺しました。
そしてお母さん。
お母さんを殺してしまいました。
誰を。お母さんを。殺した殺した殺した殺した。脳内で声が響き渡ります。
ランは耳をふさぎました。しかし声がやむことはありません。目をつぶり、耳をふさぎ、ランは絶叫しました。すべてを掻き消すための絶叫でしたが、罪悪感は彼女の周りにまとわりついて離れることはありませんでした。
どのくらいそうしていたのか分かりませんでした。身体をゆすられたので彼女は目を開けました。老婆が心配そうな顔をしてランを見下ろしていました。
「大丈夫かい? すまんね。嫌なことを聞いてしまった」
身体に力が入りませんでした。老婆に手を引っ張ってもらってなんとか立ち上がると、ランは自分が大量の汗をかいていることに気づきました。
「いいんだ、忘れな。人間には忘れた方が良いものも多い。覚えているだけ、つらい思いをするだけさ」
老婆が言いました。
「私もお前とおんなじで、逃げてきたのさ。社会は私を迫害した。私はこの世界を、絶対に許しはしない」
老婆は、ランに笑いかけました。
「お前は運が良い。私はこの世界を滅ぼすつもりだったんだよ」
「滅ぼす……」
そんなことが可能なのか。ランは不思議に思いました。
確かに魔法は強い力を使えます。しかしランの使っている魔法は、そんなに強いものではありません。
「その目、信じていないね」
からかうように、老婆は言いました。
「確かに簡単じゃないさ。でも決して不可能じゃない。この世界と言うものは、案外もろいものさ。弱いところをついてやれば、すぐに終わっちまう」
ランにはよく分かりませんでした。
「お前も、協力しないか? どうせもう、帰れはしないのだろう?」
帰れない。
改めて思うと、とても悲しい気持ちになりました。
しかし、それは事実なのです。
人を殺した人間は、人間の社会では生きていてはいけないのです。ランは死ななくちゃいけない人間なのです。
でも、死にたくはありませんでした。
「協力します。世界を滅ぼします」
ランは老婆の目をしっかりと見て、宣言しました。
世界が、終わるのです。




