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5.魔法による初めての逃亡

 ランは目を覚ましました。

 どのくらい寝ていたのだろうと、ランは思いました。

 気分はずいぶんと良くなっていました。まるで今までとても悪い夢を見ていたようでした。ランは起き上がろうとして、自分が床の上に寝ていることに気付きました。またランの周辺が濡れていました。彼女は失禁していました。

 おねしょをしてしまったと、ランは焦りました。このままではお母さんに怒られてしまいます。

 お母さん?

 ランの頭の中に、なにかが引っかかりました。

 だんだんと眠ってしまう前のことが思い出されてきます。

 ランは自分の身体が震え始めるのを感じました。彼女は首をひねって辺りを見回しました。ランのすぐ後ろに探していたものが転がっていました。

 身体の震えはさらに大きくなっていきます。もう手や足がまともに機能しなくなっているほどに体が震え続けました。その機能を失いつつある手で、ランは自分のお母さんに触れました。

 お母さんはもう動くことはありませんでした。

 身体もすっかり冷たくなっています。

 悪い夢は必ず覚めるとは限りません。

 ランは自分の顔をひねりました。とても痛かったのですがそんなこと気になりませんでした。全力でひねりあげます。頬から血が流れ始めました。どうやら爪が皮膚を傷付けてしまったようでした。

 ランは手を放しました。

 疑惑は確信に変わりました。

 これは悪夢でもなんでもない、本当の現実なのです。

 ランは叫びました。

 肺の中の酸素をすべて吐き出し、喉をふるわせて叫び続けました。

 いつの間にか手の震えはおさまっていました。

 彼女は叫びながらお母さんの体をゆすり続けました。身体中の骨が折れてしまっているので、お母さんはクラゲのように床に広がっていました。

 どのくらい叫んでいたのでしょう。

 ランは自分の喉がかすれて声が出なくなった時に、ようやく我に返りました。

 そしてランが最初に感じたのは、恐怖でした。

 彼女は人を殺してしまったのです。

 松原と素性の知れない男、そして自分のお母さん。

 計三人の人間を、ランは殺してしまっているのです。

 ランに罪の意識はありませんでした。

 しかし自分の行為が罪になることは知っていました。人を殺してしまった人間は、警察に逮捕されてしまうのです。そして牢屋の中に入れられてしまうのです。

 このままでは捕まってしまいます。

 逃げなければいけないと、ランは思いました。

 ランは玄関に走りました。靴を履くと外に飛び出しました。

 逃げよう。

 しかしどこに?

 柚子城ランは混乱しました。人を殺した上に逃げ出すなんて、今まで経験したことはありません。学校でも教えてくれませんでした。

 とにかく、人の少ないところに逃げよう。そう彼女は考えました。ランの家の近所には小さな山がありました。以前、学校の遠足で訪れたことがあったので、どのような場所なのかもある程度把握しています。ランはそこに逃げることにしました。

 ランは歩き出しました。本当は走りたかったのですが、疲労していたのと走っていると怪しまれるのではないかと言う心配があり、走るのはためらわれました。

 今日は平日で、時間は午前十一時ぐらいでした。大人たちの多くは会社などに行って働いている時間ですし、ランの友人たちは間違いなく学校にいるはずです。人通りの少ない道を選んで通れば、見つかる心配はないはずでした。

 学校。

 ランは今朝学校であったことを思い出しました。

 私のせいで手が爆発してしまった松原君。

 顔の色が真っ白になってしまった松原君。

 血の海の中で横たわり、動かない松原君。

 頭の中は彼のことでいっぱいになりました。ランは彼のことがあまり好きではありませんでした。松原は意地悪な性格をしていましたし、人の嫌がることをしたのです。

 でもやっぱり、あそこまですることはなかったなとランは思いました。ランは別に松原を殺そうと思っていたわけではありませんでした。ただノートを返してもらいたくて、ノートが彼の手から離れるように魔法を使っただけでした。

 それなのに、あんなことになってしまったのです。

 もしかしたら自分は彼のことを殺してしまいたかったのかもしれないな、とランは考えました。

 彼を殺してしまいたかった。

 だから、無意識のうちにそのような魔法を使ってしまったのかもしれない。

 そう考えました。

 だとしたら、私は意識的に彼のことを殺したことになります。

 しかもお母さんと一緒にいたあの男については言い訳ができません。

 ランは明確な意思を持って彼のことを殺したのですから。

 それに、お母さん。

「ああ」

 ランはうめきました。

 思い出すだけで涙が流れ始めて止まらなくなります。ランは声を押し殺しながら泣き始めました。

 それでも彼女が足を止めることはありませんでした。ランは逃げながらある場所を思い出していました。それは自分の家の近くにある小さな山でした。彼女は以前学校の遠足でそこに訪れたことがありました。あの山の道はきれいに舗装されていましたし、子供でも無理なく登っていけるはずです。

 ランはそこに逃げ込むことに決めました。登りきったところには小さな公園があります。普段は人が訪れることもなく、さびしいところでした。あそこならば見つかる可能性も少ないはずです。

 逃げ切るためには、誰にも姿を見られるわけにはいけません。このまま自分の足で山を登るのは危険な行為に思われました。もし誰かに見つかってしまったらなんと言いわけしたらいいのか、ランには見当もつきませんでした。

 ふと、ランは今朝のことを思い出しました。それは親友の蓮見結衣の宿題ノートを瞬間移動させたことについてです。

 もしかしたら瞬間移動の魔法を自分にかけることはできないだろうか、と思いました。もしできるのならば、これはとても便利です。

 ランはさっそく試してみることにしました。

 瞬間移動に必要なのは、強いイメージです。

 強いイメージを持つためには、目を閉じなければいけません。外からの情報を遮断するのです。

 自分が山頂にある公園に立っている姿を、克明に思い描きます。彼女の中にある公園の記憶は弱くなっていたので、きちんとイメージすることが難しかったのですが、頑張ってイメージを続けました。

 身体に妙な感覚がありました。

 足が地面から離れました。まるで水の中に漂っているような感じがします。不思議な感覚だなと思った途端、身体がぐっと前に動きました。

 まるで誰かに背中を押されたようでした。

 相変わらず目は閉じたままだったので何が起きているのかランには分かりませんでした。彼女は自分のまわりで何が起きているのか知りたいと思いました。

 しかし目を開けることはできませんでした。

 目を開けてしまうと魔法が途中で解けてしまう気がしたのです。ランは目を強くつぶったまま、ひたすらこの奇妙な感覚が終わるのを待ち続けていました。

 魔法の終わりは唐突にやってきました。水の中を漂っている感覚が無くなり、足が地面を捕らえました。しかしあまりに突然のことだったので、ランは転んでしまいました。

 柚子城ランは起き上がるとゆっくり目を開けました。

 彼女は自分の魔法が成功したことを悟りました。

 そこは自分がイメージした公園でした。自分の魔法の力が予想以上に強いことにランは驚きました。もしかしたら、魔法が強く待っているのかもしれないと彼女は考えました。

 ランは公園を見渡します。見たところ、人の姿は確認できませんでした。緊張が解けるのを感じます。

 いくら人のいない公園と言っても、いつ人が来てしまうかわかりません。いつまでもここでぐずぐずしているわけにはいけませんでした。ランはとりあえず公園の奥へと歩いて行きました。公園の奥には、さらに山が広がっています。公園は頂上にあるので、奥に進むということは山を下ることを意味するのですが、こちら側は道などの整備がされていませんので見つかりにくいはずでした。

 ランは公園を横切りました。いろいろな遊具がありました。それらを見ていると、遠足のことが思い出されます。あの時は楽しかったな、とランは思いました。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 考えても無駄と言うことは分かっていましたが、考えずにはいられませんでした。

 小さな公園なので、すぐに奥に着きました。目の前は木や草でいっぱいです。本当にこんなところに隠れることができるのかな、とランは不安になりました。

 しばらくの間、ランはその場に佇んでいました。やがて小さく息を吐くと、思い切って、茂みの中へと入っていきました。

 山の中を歩くのは、やはりとても大変でした。昼間だというのに周囲はとても薄暗く、自分の住んでいる街にこんな場所があるのかと、ランは驚きました。

 木々はうっそうと茂り、太陽光を遮っていました。どうもほとんど手を加えてないようでした。

 ランはとにかく前進を続けました。

 逃げなくてはいけない。

 ただそれだけを念じながら、森の中を突っ切っていきました。

 しばらく行くと、開けた場所に出ました。木がそこだけ生えていませんでした。まるでドームのようだなとランは思いました。見ると小さな池がありました。池の水は澄んでいて、とてもきれいでした。

 ランは喉の渇きを覚えました。ふらふらと池に近づくと、水を手のひらにすくい、飲んでみました。とても冷たくて、おいしく感じられました。

 その時、後ろでガサリと音がしました。生き物が立てたような、明確な意思を感じさせる音でした。ランは急いで後ろを振り返りました。

 一人の人間が立っていました。


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