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4.魔法による初めての絶望

 誰の靴なのだろう、とランは不思議に思いました。まだ時間は十時にもなっていません。お父さんはまだ仕事をしている時間ですし、大体この靴はお父さんのものにしては少し小さすぎます。身体が大きなお父さんは靴もとても大きくて、こんな小さな靴が入るはずはありません。

 ランは静かに靴を脱ぎました。よく分かりませんでしたが、なんだか音を立ててはいけないような気がしたのでした。

 家の中は静まり返っていました。鍵は開いていましたし、お母さんはこの家の中にいるはずでした。ランは相変わらず息をひそめたまま、家の中を移動します。

 不意に、何か音が聞こえました。

 それは奥の部屋から聞こえました。

 どうやら、人の話し声のようでした。

 一人は男の人のようでした。もう一人はどうやら女の人のようです。ランは耳を澄ませて音に集中しました。

 どうも女の人の声はお母さんのもののようでした。その声はとても楽しそうです。

 と言うことはもう一つの男の人の声はお父さんのものでしょうか。しかしこちらは、お父さんのものかどうかよく分かりませんでした。

 でもこの家でお母さんが話している男の人なのですから、それはお父さんに決まっています。理由は分かりませんが、どうやら仕事が休みになったのかもしれないとランは思いました。

 そう思うと、ランはとても嬉しくなりました。平日の十時。普段は家族がみんなはなればなれになってしまう時間にみんなが揃うことなんてなかなかありません。罪の意識からひどく落ち込んでしまっていたランは、少しだけ元気を取り戻しました。

 ランはその部屋に向かいました。途中から自然と早足になります。最後にはほとんど飛び付くようにしてドアノブをつかみ、部屋の中に入りました。

 そこはお父さんとお母さんの寝室でした。今日は良い天気なのにカーテンは閉められていて、部屋の中は暗いままでした。

 お母さんはベッドに寝ていました。お父さんもお母さんの後ろで寝ています。二人ともなぜか服を着ておらず、裸でした。お母さんはランの方を見ると、驚愕したように目を見開きました。

 自分が見ているものが信じられないと言った感じでした。

 ランは自分が血の付いた服を着ているからお母さんが驚いているのだと思いました。彼女は慌てて自分の服についている血の説明をしようとしましたが、お母さんの甲高い悲鳴にさえぎられてしまいました。

 お母さんの悲鳴を聞いて、後ろにいたお父さんが体を起こしました。

 しかしそれは知らない男の人で、お父さんではありませんでした。

「ラン! なんでここにいるの? 学校はどうしたの!」

 お母さんは叫ぶように言いました。どうやらランの服についている血には気が付いていないようでした。

「ちゃんと答えなさい!」

 怖い顔をしてお母さんはランをにらみましたが、ランはそんなことを気にしてはいませんでした。

 ランの視線は、お母さんの後ろにいる知らない男の人に注がれています。まったく見たこともない男の人でした。そんな男の人が部屋にいることに、ランは大きな違和感を覚えました。

 異物。

 ランにとってその男の人は、まさに異物でした。ランはこの家で優しいお母さんとお父さんと一緒に幸せに生活していたのです。そこにこの男の人の存在などありませんでした。

「ねえ、お母さん。その男の人は誰?」

 なおも何事かをわめき続けている(もはや何を言っているのか分かりませんでした)お母さんに向かって、ランは聞きました。

 男の人が、びくりと反応しました。その様子は怯えた小動物を思わせました。

「おい、もしかしてお前のガキか? 帰ってきたんか?」

 彼は焦ったようにお母さんに聞きました。しかしお母さんの方は、ひとしきりわめくと今度は泣き出してしまいました。

「ごめんなさいごめんなさい」

 手で顔を覆ってひたすら念仏のように「ごめんなさい」を言い続けるお母さんを見ながら、ランは少しずつですが状況を理解しつつありました。

「お母さんはお父さんに内緒で、この男の人を家に入れていたの?」

 ランは聞きましたがお母さんは泣くばかりでもう何も言ってはくれませんでした。お母さんのやっていることがどういうことを引き起こすか、どういった問題があるのかを、ランはよく知りませんでした。

 でも、とても不快でした。

 この家で生活できるのはお父さんとお母さんと、そしてランの三人です。見ず知らずの他人がそこに入り込む余地はありませんでした。

 この男の人が歩いた後を、ランは何も知らずに歩いていたのかもしれないのです。

 この男の人が使った食器やトイレを、ランは何も知らずに使っていたのかもしれないのです。

 ランはとても気持ちが悪いと思いました。

 ランはその場に突っ伏して嘔吐しました。

 形を失ってしまった朝ごはんが床に広がりました。お母さんがいつも作ってくれる朝ごはんです。でも今ではこの朝ごはんでさえ、ランは気持ちが悪いと思いました。

 こんなものが自分の身体の中に入っているだなんて、ランにはとても耐えられませんでした。

 ドアの前で嘔吐を続けるランの横を、男がそうっと通り過ぎていきました。彼は浮気の現場を見つかったことと、その娘が急に嘔吐を始めたことにひどく動揺していました。

 彼は逃げてしまいたくてしょうがありませんでした。

 しかし彼は、無事に逃げることができませんでした。

 彼は自分の背後に何か尋常でない気配を感じました。

 慌てて振り返った男が見たのはしかし、ただの小さな少女でした。

 彼は気配の正体を突き止めようとして、慌ただしく周囲を見回しました。

 でもこの部屋にいる人間だとランのお母さんを除くと、少女しかいませんでした。男の視線は自然とその小さな少女に集中します。

「あなたは、誰なの?」

 ランは呟きました。とても力の弱い、ただの小さな少女の言葉でしかないのですが、彼女の言葉を聞いた男は自分の体がこわばり動かなくなるのを感じました。

 強い恐怖でした。

 しかしなぜ自分が恐怖を感じているのか、男にはやっぱり分からないのでした。

「あなたは何なの!」

 答えることができずに黙り込んでいる男に少女が叫びました。

 ランの感情は爆発しました。脳内が沸騰しているようでした。

 自分を抑えることができなくなってしまった彼女を止めることは、もう誰にもできませんでした。

 柚子城ランはその時、初めて明確に殺意を持って魔法を使いました。

 野良猫や松原の時は相手に危害を与えるつもりはありませんでした。

 しかし今度は違います。ランは彼の足が無くなる様子を強くイメージしました。魔法はすぐに発現しました。男の両足が雑巾のようにねじれ始めました。彼は苦しそうにうめき声を上げ、廊下に倒れ込んでしまいます。さらに強くイメージすると、足がねじ切れました。足は宙を飛んで、玄関に落ちました。足だけ先に玄関に行ってしまったなと思ったランは、おかしくなってちょっとだけ笑いました。

 男には事態が理解できていませんでしたが、本能的に命の危険を感じていました。彼は這いずりながら必死で玄関に進んでいきました。

 ただでさえ出血を始めたのに、これ以上男に動かれてしまうとランの家が汚れてしまいます。自分でやったこととはいえ、やはり家が汚れるのは嫌でした。

 動く前に殺さないといけないなとランは思いました。

 ランはまたイメージしました。今度は彼の頭が無くなってしまうイメージです。

 やはりあっという間に効果が出て、男の首はゆっくりと回転を始めました。

 その瞬間、男は獣のような雄叫びを上げながら暴れ始めました。

 自分の命が今まさに消えようとしているのが分かったようでした。

 しかしランの魔法はとても強力なので、少々暴れたぐらいでは助かりません。

 男の喉が奇妙に鳴りました。どうやら首の骨が折れてしまったようでした。

 首の骨が折れてしまうと人間は助からないということをランは聞いたことがありました。ランは魔法が解けるイメージを頭の中に描きました。

 男は背中を上にして倒れていましたが、顔は天井を向いていました。首が百八十度回転してしまったのです。その、天井に向けている顔を、ランは覗き込みました。

 その男が間違いなく死んでいることを確認していると、ランは突然後ろから抱きしめられました。それは彼女のお母さんでした。

 お母さんはランを抱きしめながら静かに涙を流していました。しかしその視線が廊下に倒れて死んでいる男を見つけると、途端にランから体を離して部屋に逃げ込みました。

「お母さん?」

 声をかけると小さく悲鳴を上げてお母さんは部屋のドアを閉めてしまいました。

 ランはドアを開けようとしましたが、どうやら内側から押えているらしく、彼女の力ではびくともしませんでした。

「お母さん? 開けてよ」

 ランはドア越しに声をかけました。

「開けるわけがないでしょ! 近寄らないで!」

 お母さんが怒鳴りました。ランは自分が足元から崩れていくような感覚を覚えました。お母さんはこんな酷いこと言わないし、そもそもランに向かって怒鳴ったりしません。

 こいつは偽物だ、とランは思いました。

 きっとこいつはお母さんに良く似た別人で、勝手にこの家に入ってきたに違いない。だからお父さんじゃない人が家にいたんだ。そうランは考えました。

 だったらこの女も、廊下で死んでいる男と同じで、この家にはいらない存在です。ランは部屋の中にこもっている女に魔法を使いました。扉の向こうから女のうめき声と、何かが大量に折れる音がしました。それは全身の骨がひとつ残らず砕ける音でした。

 部屋の向こうから気配が無くなったのでランはほっとしました。

 きっと本当のお母さんはこの家のどこかに監禁されているに違いないと思ったランは家じゅうを探しました。しかしどこを探してもお母さんは見つかりませんでした。

 ランは女を殺した部屋の前に戻ってきました。嫌な予感がランの思考を占領していました。彼女は部屋のドアを開けました。女は扉に寄りかかっているらしく非常に重く感じました。

 部屋の中に入ったランは女を確認しました。間違いありませんでした。この女はランのお母さんです。自分は自分のお母さんを殺してしまったのだと、ランは気づきました。

 ランは視界が極端に狭くなるのを感じました。動悸が激しく乱れ始めます。

 彼女は気を失いました。


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