190話 「魔人の決意」
あの崩落の舞踏から一夜が過ぎた。
朝焼けが愚者の居所を照らし、そして空に浮く王族の塒をも照らす。
なにもかもを処理するには時間が少なすぎた。
コーデリアと名乗った少女の、『一週間後』という言葉が皆の脳裏に残っている。
それでいて、一刻も早く身体を休めなければという思いもあった。
諸々の指針は王族たちが決めるだろう。
あくまでここはテフラ王国で、その行く末を決めるのは彼らだ。
そのテフラを利用し、そしてこの居場所のために力を貸しているのが、いわばギルドという軍事力である自分たち。
だから、自分たちは王族の指針に答えるべく、常に準備をしなければならない。
でも、今ばかりは少しの休息が欲しかった。
今の内に考えておかなければならないことが――できたんだ。
◆◆◆
誰かが明確に言い出したわけではなかった。
しかし、まるで打ち合わせたかのように、その日はそれぞれのギルド員が言葉数少なめに外出していった。
ほとんどが一人で、考え込むような仕草を見せながらの外出である。
アリスはそれを許可した。
自分の部屋に許可をもらいに来るであろうギルド員たちを見越して、朝のうちに自室の扉の前に許可の旨を書いた植物紙を貼り付けておいたのだ。
ギルド員たちはそれを見て「凄まじい察しの良さだな……」と呆れ顔であったが、アリスがそれだけギルド員たちの様子に気を遣っていることを知って、内心にありがたさを感じていた。
そんな中、長い睡眠を貪ったあとでけろりと目を覚ましたサレも、他のギルド員と同じようにアリスの部屋へと向かっていた。
そして例にもれずアリスの扉に張り付けられた紙を見て、
「察し良すぎだろ……」
他のギルド員と同じような感想を得、笑いを浮かべた。
◆◆◆
サレは爛漫亭に出て、ナイアスの中央湖に向かった。
人の波に身を委ね、流れに沿うように歩いて行く。
喧騒はいつもどおりで、昨日アリエルで『あんなこと』があったなんて知らない体だ。
――いや。
少しだけ噂話に昨日の出来事が語られていることに、サレは気付いた。
ただ、ナイアスの住人は荒事に慣れた価値観で、それらを必要以上に恐れはしない。
平和な他の国の住人からしたら信じられないかもしれないが、ナイアスを拠点にしている住人のバイタリティは尋常ではない。
――いっそ尊敬したくなる。
特に商人たちにそのたくましさは顕著だった。
彼らはアリエルの崩落に恐怖を抱くどころか、
『おい、アリエルの地盤が抜けたらしいぞ。家も結構抜けたらしい。今のうちに建材仕入れて高値で売りつけよう』
『アリエルは白石建造だったよな。上の連中は景観に凝るから似たようなのを探さねえと』
『上の連中は金もってるから、やっぱこの機会は逃せねえな』
などと話しあっているのだ。
――本当にこいつらたくましすぎだろ。
呆れた声が心の中に零れた。
サレは中央湖にまでようやく歩きついて、ふと周りを見渡した。
透き通る水面に釣り針を降ろしている暇そうな爬虫系異族が複数いて、あくびを空に飛ばしている。
ナイアスの住人が談笑しながら中央湖の隅に掛かっている橋を歩いていて、子供の姿も見て取れた。
サレはそれらに穏やかな視線を向けながら、さらに歩く。
サレがようやく足を止めた時、その眼の前には時計塔があった。
中央湖の近くに建っていた時計塔だ。
天辺の時計盤の近くまで階段で登れるようになっていて、サレはおもむろに階段を昇り始めた。
◆◆◆
「はあー……」
時計盤の位置にまで昇ったサレは、大きく息を吐きながら細い手すりに手をおいた。
申し訳程度に設置されている手すりで、ともすればバキリと音を立てて折れてしまいそうだ。なかなかデンジャラスな手すりである。
高度は二十メートルはあるだろうか。
螺旋階段を昇った先はなかなかの高さだった。
「……」
サレはその場で何度か背伸びをして、身体の凝りを取っていく。
頭の中では様々な疑問が湧いてきていた。
「アテム王国の王女――ね」
やはり真っ先に浮かんでくるのは例の黒髪の少女についてだ。
爛漫亭を出てくるときに、自分がアリエルから飛び降りたあとの出来事をメイトに聞いた。
そこで聞いた彼女の名は〈コーデリア・シード・アテム〉。
アテムの姓を冠する女。
それが嘘でなければ、確かにあの少女はアテム王国の王女なのだろう。
「――どうなってんだか」
アリスが彼女の存在を知らないことも、子細を聞いた時に知らされている。
だから正答は分からない。
「でも――」
たぶんあの少女がアテムに関わっているのは間違いないだろう。
――黒い髪、赤い眼。
アリスによく似た容姿。
少しくすんだ黒の髪は、特にアリスによく似ている。
――でも、あの眼はアリスと違って、魔人族の色味と相違ない。
サレが引っかかっていたのはそこだった。
アリスの髪と目の色味は自分のそれと違って少し薄い。
それが〈準魔人族〉であるアテム王族の特徴だと言っていた。
――そもそも、アテム王族の〈殲す眼〉は生まれつきのものなのか?
アリスからそのあたりの話を詳しく聞いていない。
今代の王女であるアリスが国を裏切った時点で、それを訊くことに大きな意味はないように思えていたからだ。
テフラに居住地を設ける際にそれは必要なかったし、あえてアリスにそれを思い起こさせるのも少し気が引けていた。
あの時、〈魔人計画〉の話をした時のアリスの言葉を思い起こせば、少しも予想はつく。
〈魔人計画〉を進めるにあたって、アテム王家はその血族の身体を造り変えていった。魔人計画の中途で本物の魔人と対峙しなければならなかったからだ。少しでも強くなろうと、魔人に独力で近づこうとした。まさしく狂気の思考。
そうして彼らは〈殲す眼〉の移植によって肉体を造り変えていった。
世代を重ねながら〈殲す眼〉に耐えうる身体を造っていった。
――さすがに後天的に埋め込んだ〈殲す眼〉は遺伝しないだろう。
肉体が〈殲す眼〉に順応的になっていくのならまだ分かる。
〈殲す眼〉を埋め込んだ際に生まれた傷に順応的になっていったと思えば、まだ分かるのだ。
そういう風に考えると、そうして何度も移植するほどの数の〈殲す眼〉をアテム王国が持っていたのではないか、という予想が浮かんでくる。
――初代様の身体を保管しているくらいだからな……
自分が知らないずっとずっと昔の戦で、もしかしたら多くの〈殲す眼〉を奪っていたのかもしれない。
「なら、アリスの眼も後天的に植え付けたものか」
これは実際に帰ってからアリスに訊けば分かることだ。
ひとまずそういうことにしておこう。
そういう予想の上に考えると、アリスの眼の赤みが薄い理由は〈殲す眼〉との順応が完全ではないからだろうか、と思えてくる。
これは完全なあてずっぽうだ。
『魔人族以外に〈殲す眼〉を移植したら』なんて狂気じみた実験をやったことなんて、当然ない。
仮に、仮にそうであったとしたら。
あの〈コーデリア〉という少女が本物の魔人族に近い瞳の赤みを持っているのは、完全に順応しているからではないだろうか。
「……」
また厄介なものが世に出てきたものだ。
「まったく……」
サレはため息を吐いた。
◆◆◆
「――そういえば、俺はあの時〈リリアン〉と言ったな」
少し間をおいて、ふとサレの脳裏に先日の情景が浮かぶ。
西の国門であの少女に初めて会った時。自分が何かに反応して、リリアンの名を呼んだあの時の情景が。
「信じたくはないけど……」
そう言いつつ、サレは無意識的にある事実を認めてしまっていた。
アテム王族の眼が魔人族から奪った眼であるならば――
◆◆◆
あれはリリアンの眼なのではないだろうか。
◆◆◆
信じたくはない。
信じたくはないが――
自分の腕の中で死んでいった彼女に双眼が無かったことを、否応なしに思い出してしまう。
もしあの少女の眼がリリアンのものであったならば、自分がリリアンの名を呼んだことにも納得できてしまうのだ。
「――どうかしてる」
それを知って淡々としていられる自分も、それでいてそんなことをしてしまえるアテムも。
「――泣けないよ、リリアン。俺はもう、過去を思い出しても泣けないよ」
サレは手すりに手をついて、顔を俯けた。
涙は溢れなかった。
「俺はもう、あの時から前に進んでしまったから――」
涙が溢れないのは、きっと自分が前へ進んだから。
そして『今』を何よりも大切にしているから。
悲しい。思い出せば悲しい。
でも――悲しいけど、過去よりも今に重みがある。
天秤は『今』に傾いていた。
だから涙は溢れなかった。
泣きわめくより、毅然と決意を固めることを――魂が優先したのだ。
「リリアンは――きっと褒めてくれるんだろうね」
アルフレッドもそうするだろう。
あの二人は笑って、
『それでいいんだよ』
そう言うだろう。
自分が進んだことを、あの二人は喜ぶだろう。
でも少し、過去を思って涙が溢れなくなったのは――寂しい。
――忘れない。
絶対に忘れない。
「だから――許してね」
リリアンとアルフレッドは俺が前に進んだことに怒ったりはしない。
それも分かる。
だけど言っておきたかった。
忘れないから、俺が『二人のいた思い出』から進み出ることを許して欲しいと。
『皆がいた思い出』から出て行くことを許して欲しいと。
「俺は進み続けるよ。今の家族を守るために――」
たとえ目の前に立ちはだかるのが、かつての家族の眼であったとしても。
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