188話 「荒んだ幕引きと」
理が紡がれる。
この世の事象を表す『式』が描き出される。
それは誰にも理解できない式だった。
命の根源に関わる術式は、事象式も変数式も、すべてが膨大で怪奇的で、まるでそれ自体が蠢く生き物のように、ずるりずるりと辺りに広がっていった。
膨大な幾何学模様と文字が広がっていくその場で、動ける者などいなかった。
自分の一挙手一投足がこの術式の発動を阻害してしまうかもしれないと、とっさに思ってしまう。
それほどの細かさが見て取れた。
辺りに一気に広がっていった術式陣は、数秒して今度は収束し始める。
収束位置はアルミラージの腹部だ。
それまで刺さりっぱなしであった神格槍をシルヴィアが慎重な手つきで抜き、傍らに放り投げた。
そうして今度は逆の手をその傷口にあて、
「――編み直す」
シルヴィアが自分に言い聞かせるように合図の声をあげた。
術式陣の収束の速度があがって、アルミラージの傷口に吸い込まれていく。
誰もが黙って見ていた。
その術式陣が霧散してしまわないように、祈るように見ていた。
頼むから死神よ、その男を死者と見なさないでくれ。誰もがそう思っていた。
そして――
アルミラージの腹部にすべての術式が吸い込まれ、そして傷口が綺麗に消えた。
シルヴィアが手を離し、「ふう」と一息をつく。
そして皆が答えを待っていたのを察して、いつもの無表情を宿しながら――
「よかったね。まだアルミラージは死神に肩を叩かれてはいなかったらしいよ」
そう言った。
シルヴィアの言葉は、その場にいた者たちの耳に、どんな大きな祝福の鐘よりも美しい音色に聞こえていた。
「あとサフィリス、君もまだ大丈夫だ。君の命力が豊富だったことを君自身に感謝するといい」
最後の言葉はアルミラージにとって、何よりもありがたい言葉であった。
◆◆◆
アリスたちが湖都ナイアスに戻ってきてからは、一斉にテフラ勢力が動き出していた。
まっさきに〈エルサ第三王女〉と〈黄金樹林〉に事の次第が伝達され、そこから一気に情報が他の王族とギルドにもたらされた。加えて、〈黄金樹林〉が情報伝達に動き始めてからは、それらの情報の反射がアリスたちへもたらされる速度も上がっていった。
刻一刻と変わっていく状況が、少しのタイムラグを呈するのみで、すぐに伝わっていく。
〈セシリア第一王女〉はすでにアリエルでの開戦時に一歩遅れて状況に気付いていて、ジュリアスたちに合流しようというところだった。その手前で例の揺れに襲われ、引き連れていた〈戦景旅団〉のギルド員に無理やりに避難させられたらしい。
そういうわけで、セシリアに関してはほどなくしてアリスたちのもとへたどり着いていた。
避難したカイム第二王子はそのまま王城へ戻り、すぐさま国外情報の収集に動き始めたらしい。
エルサ本人とエスター第六王子はそれの手伝いに奔走し、その他の王族もそれに従う形でアリエルに残っている。
そんな情報が早急に伝わってきていた。
◆◆◆
「他のギルド勢力は――」
黄金樹林の長〈マーキス〉が、シルヴィアの術式のあとに中央湖に現れ、一気に情報の統合を行っていた。
受け答えをするのはアリスとセシリアだ。
ジュリアスは転移陣を使わずにサフィリスが乗っていたグリフォンを駆って、ディオーネと一緒にサレたちの援護に向かった。
そうなると、その場において一番王族側の意見を代弁できそうなのはセシリアだった。
他のギルド員はアリスの裏にいつもどおり控える形で、またセシリアの裏にはレヴィが控えている。
「〈獅子の威風〉のウルズ王レオーネはギルド員を残して一旦ウルズ本国に向かいました。南へ発火鳥を飛ばしていったそうです」
「まあ、アテム王国が今回本格的に姿を見せたわけですから、一国の王としては当然の行動ですね」
「何かあればナイアスに残したギルド員に言い渡しておいてくれ、との伝言を受けましたよ」
「なるほど、分かりました」
マーキスに対するアリスのうなずきのあと、今度はセシリアの声があがる。
「〈地牙〉はどうした。奴らも一応間接的に王権闘争参加ギルドということになるから、伝えたのだろう?」
「ええ、〈魔術教団〉と違って彼らは実際に闘争に加わりましたからね。伝えたところ、今少し時間が欲しいとのことで。まあ、少しも好意的な反応であったと私は思いますよ」
「そうか、ならばそこはおいておこう。私の方もメシュティエたち〈戦景旅団〉に関しては協力へのうなずきをもらっている」
「分かりました」
最後にアリスがそれを受け、一旦話は落ち着いた。
というのも、誰もが次の一句を放つことに消極的だったのだ。
『さて、ならばどうするか』。
ここからの言葉は後々に強い影響を及ぼす。
逃げた『あの少女』への追走も含め、これからの動きは大胆さと慎重さのどちらもが必要になってくる。
その時その場にいた者たちの内心は攻撃的な方向に振れていた。
ここまでの闘争を経て、まだ攻撃心が猛っていた。
しかし、
――冷静になりなさい、アリス・アート。
中でもアリスがその強靭な意志によって自らに制止をかけていた。
口を開けてしまえば「行こう」と言ってしまいそうだった。
さっきの少女のことが誰よりも気になっているのはアリスだった。
そんなアリスたちのもとに、今後の動きに関しての決断を後押しする情報がやってくる。
その情報は白いグリフォンに乗った〈ジュリアス〉によってもたらされた。
神域の王子が戻ってきたのだ。
◆◆◆
空からグリフォンを駆って降りてきたジュリアス。
その後ろには黒竜もいた。
少し疲弊した竜顔のギリウスだ。
ギリウスは竜神形態のままナイアスの広場に身をすべり込ませるように天空から舞い降りてくる。
そうして降りてきたギリウスに〈凱旋する愚者〉のギルド員たちが駆けよって行き、そしてそのギリウスが大事そうに抱える手の中に人影が倒れているのを見つけた。
「サレッ!!」
気を失っているサレだった。
アリスの後ろの方からシオニーの悲鳴があがり、まっさきに駆けだす。
さらにその後ろをクシナが即時の動きで続き、ややあってトウカとマリアが駆けていった。
最後には迷ったように何度かその場を行き来しながらも、プルミエールが彼女たちを追って行った。
その様子を音で察知したアリスは、
「サレさんが『そんな状態』ならば、ここは猪突するわけにはまいりませんね」
「僕もアリスの言に賛成だ」
サレに駆けていく女たちの横を、逆の方向にジュリアスが歩んできた。
颯爽とグリフォンを駆った男は、少しの疲れを顔に浮かばせつつも、しっかりとした言葉を返す。
王族側の代表として、ジュリアスは理性ある言葉を放っていた。
「――削られすぎた。最後のあの一手にやられた。あれはあらかじめこういう時のためにアテムが用意しておいた手だろう」
「そうなると、それ以上の伏兵を張られている可能性もありますか」
「疑ったらキリがないけど、今これだけ削られた状況で国外に出るのは愚策だ。すでにカイム兄さんたちが動いているようだし、国外情報の収集はあちらに任せよう。――それに、一応こちらにもアテム側の情報を得られるチャンスがまだある」
そうしてジュリアスは辺りを見回して、その視線をある一点で止めた。
ジュリアスの視線が向いていたのは一人の『銀騎士』だ。
ジュリアスは『あの少女』――自称アテム王国王女〈コーデリア〉の言葉を忘れてはいなかった。
この銀騎士があの少女を手引きした可能性があることを、忘れてはいなかった。
「銀騎士の長、〈ガイナス公爵〉に話を聞こう。なぜこういう状況になったのか、事細かに――嘘偽りなく」
ジュリアスの目は強烈な意志の光に彩られていた。
問答を許さない決定的な言葉を、その攻撃色をさえ湛えた目が後押しする。
普段穏やかなジュリアスをして、それは明確な怒りの表れだった。
「狂気に囚われていたとしても、それ以上の正気で狂気を掻き消して見せよう。『痛み』は正気の根源だ。痛みは人を微睡みから覚醒させる。もし記憶がないだなんて言ってみろ。――思い出すまでその身体を末端から砕いていってやる」
結局、抑えきれなくなった激情がジュリアスの口から漏れだしていた。




