162話 「奇縁」【前編】
「なにそれ、うっわー、マキシア様そんなことしたの? うっわー、なんかやらかすだろうなとは思ってたけどそんな大きなことだとは思わなかったよ」
まったく驚いているようには見えない無表情で、シルヴィアは小さく声をあげていた。
爛漫亭一階。大広間。
ニーナを浴場から二階の空き部屋へ移動させ、まだ爛漫亭に残っていた〈凱旋する愚者〉のギルド員に護衛兼看病を任せつつ、ジュリアス、シルヴィア、ユウエルは顔を合わせて話し込んでいた。
ジュリアスとユウエルから、マキシアが神格供給を切って今までの秩序を完全にぶち壊したことを聞くと、シルヴィアはまずぽかんと口を開けた。
しかし、すぐに「やっぱりなぁ」と加えて、シルヴィアが言葉を紡ぎ始める。
「まあ、マキシア様も不思議なところがあったからね」
「いまさらでなんだが、レイスターはなぜ神格を自らで切ったのだ。余はいまだその理由を知らん」
ふと、ユウエルが首を傾げてシルヴィアに訊ねていた。
「陛下、もう僕〈レイスター〉じゃないから、せめてシルヴィアって呼んでよ。結構こっちの名前気に入ってるんだ」
「そうか……まあ、よいか。分かった。ではシルヴィア、今ならその理由を教えてくれるか?」
「いいよ。といってもそんな大した理由じゃないけど」
シルヴィアが小さく一息をついて、また話し始めた。
銀にほんの少しの紫をまぜこんだような不思議な色味の髪を揺らし、その小さな口が音を紡ぐ。
「――僕、勝手に術式が【集約】されてくるの、嫌だったんだよね。『自分で』研究する必要、あんまりないでしょ? それに、ちまちまだけど、僕より先に新しい術式発見したりする子が現界にいて、ちょっと悔しくなったというか、なんというか。――とにかくさ、僕は僕で好きなように研究したかったんだよ」
「そ、それだけか?」
「それだけとは陛下でも失礼だね。僕は術式の研究に命を懸けてるからね。陛下が【分配】に存在を懸けているように、僕は術式の研究やらなにやらに命を懸けてるんだよ」
「そ、そうか……いや……うむ、まったく分からぬではないが……」
ユウエルはシルヴィアの返答に困惑した様子であった。
「そういうわけで、現界からの【集約】に邪魔されたりするの嫌だし、自分で研究する楽しみもないし、神界にいると現界の民が『力を貸せ』ってうるさいし。面倒になって自分から神族やめたんだ」
その独善的なまでの理由に、ジュリアスは開いた口がしばらく塞がらなかった。
だが、
「――神族も……人だもんね」
思わず口から出た言葉が、ジュリアスの納得を表していた。
「そうだよ。僕たちは特殊な種族だけど、でも人だ。『神』じゃない。言い得て『神みたいな人』ってところかな。――いやぁ、でも現界に降りてよかったよ。いろいろ面白いね、世界は」
ふとシルヴィアの無表情の中に、ほんの少しだけ興奮の色が宿った。
「なにも術式だけじゃないんだけどさ、未知がいろいろあって、本当に楽しいよ。錬金術師の家というのも、僕がまだ集約したことのない『錬金術』を研究したかったからで、おかげで飽きない毎日さ。どの物質を何に混ぜるとどういう反応が起きるか、とか。術だけど、式の力じゃないから僕に収束してこなかったモノの真理がいまさら見えてきて、楽しくてしかたない」
シルヴィアの頬が少し上気しはじめていた。
「僕は〈術神〉と呼ばれていたけど、〈術〉そのものを司る概念神族じゃなかったからね。正確には〈術式神〉だし。だから他の〈術〉を知らなかったわけで。とにかく、今の方が楽しいかな」
表情だけではその楽しさがあまり伝わってこなかったが、いつものシルヴィアの平坦な声色と比べれば、やはり少しも楽しげであった。
そのあとで彼女はユウエルに視線を戻し、一度だけ頭を下げた。
「ごめんね、陛下。陛下が言った世界調整のためには僕はまだ神族であるべきだったんだろうけど、でも僕は『人』だから、人でありたかったから、やっぱり自分の根本の欲求には勝てなかったよ。もし許さないというのなら、悲しいけど陛下の罰を受けなきゃね。元神族として」
「――」
ユウエルはすぐには答えなかった。
だが、一拍をおいて、
「『よい』。余は余とて、まだ己の変わらぬ矜持を抱くゆえ、こうしてマキシアの暴走を『神族』として止めようとしているが、まったくお前の気持ちが分からぬでもない。『世界』が変わってしまったからな。昔ならまだしも、もはやお前に従来通りの神族としての責務を言い渡すことはできん」
ユウエルは少し肩を落として続ける。
「新たな秩序が生まれるまでは、余は余で動くが、その新たな秩序に従来通りの神族がいるかもまだ予測がつかぬ。まずはマキシアを止めようと思うが――そのあとのことは余にも分からん」
「陛下も結構『人』っぽいね。もっと怖い印象だったけど。――少し老けた? なんか老成したおじいちゃんみたいだね」
「老けっ――」
「ああ、ごめんごめん。この街に住みはじめてから言葉を選ばなくなっちゃって」
シルヴィアの一言でユウエルがさらに肩を落とすが、それを彼女は急いで慰めた。
「まあ、マキシア様のやり方には個人的に賛同しかねるところだから、『シルヴィア』としてなら協力してもいいよ。聞いたところ、下手したらマキシア様の傲慢な【集約】で僕の研究結果も無理やり取り上げられちゃいそうだし。僕は神格のシステムにあまり賛成じゃないから、それを一度壊してリセットしようっていうのなら、手を貸そうかな」
シルヴィアが机においてあった魔女帽子を被りなおし、ジュリアスとユウエルに言った。
「そうか。ならばレイス――シルヴィアとして、その力を借りるとしよう」
「喜んで、陛下」
シルヴィアは小さな体で流麗なお辞儀を見せた。
「まだ余を陛下と呼んでくれるのだな」
「まあ、一番長くお世話になったしね。今は一人の『テフラ人』として、ジュリアス殿下にも殿下ってつけるけど。ユウエル陛下は陛下で、僕にとってはまだ王様みたいなものだから」
シルヴィアの言葉を聞いて、ユウエルが少し嬉しそうに頬をほころばせたのにジュリアスだけが気付いていた。
「だから――」
続けた少女の言葉。
「研究資金に困ったらお金ちょうだいね、『おじいちゃん』」
直後、ユウエルの顔が悲愴に染まったのにも、ジュリアスだけが気付いていた。
◆◆◆
元〈術神〉とジュリアスたちが爛漫亭で会話を終え、それぞれに動きはじめようとしていた頃、サレはナイアスの街中を走っていた。
黒い髪を風に揺らし、人垣を縫うように移動しながら、その首を振る。
視線を左右に何度も移し、いきあたりばったりな犯人捜索を続けていた。
すると――
「――ロキ?」
ふと、ずいぶんと前の方の建物の屋根の上に、人影を一つ見つける。
趣味の悪い派手な服、水平回転する身体。
間違いない、〈戯神ロキ〉だ。
なぜそこにいるのかは定かではないが、なんだかロキがその場にいるだけでただ事ではないような気がして、サレは跳躍を重ねながらその屋根の上へ向かった。
数十秒後。
サレがロキのもとに到着する。
「これみよがしにどうした、ロキ」
「いえね、あなたがただならぬ顔で走り回っているのが見えたので、少しちょっかいでも、と思いまして」
「こんな時にそれはやめろ」
サレはサレで、現状の内心は臨戦に傾いている。
普段ならともかくとして、今は戯言の言い合いをしている気分でもない。
言葉が堅くなるのは仕方のないところだ。
「そういうお前らは何をしてたんだ?」
「ワタシたちは神界の情勢把握に注力しているところです。中立神族の説得やら、末端神族の受け入れやら、消息不明の神族の捜索だとか、その辺の戦略的策謀に身をやつしていたわけで。――これでも結構忙しくしてるんですよ?」
そう聞くと、まるで想像がつかない〈神界〉という場所での出来事なだけに、サレとしても「そ、そうか」とうなずかざるを得ない。
「いやぁ、ワタシ現界神界問わず結構いろんな場所行きましたけど、それでもまだ全然世界を把握しきれませんよ。疲れる疲れる。神族が多すぎますよこれ」
「いやだいやだ」と手で顔を扇ぐロキに、サレは訊き返した。
「それで、どんなもんなんだ?」
「まだなんとも。接触が図れない神族は、たぶんマキシア側に流れたのでしょうね。半々とは言いませんが、結構いつの間にやら向こうに流れていった神族も多そうです」
「そうか……」
「創造神管轄下にあった自然系や創造系神族も、まだどっちつかずな感じで。結構面倒ですよね。というかここまで来たらもう『新世界』なんですから、世界の一人として、あとは自分で判断すればいいんですよ。ある意味創造神系は創造神の意向に依存して楽をしているとも言えますからね。そりゃあ、従っていれば楽ですから」
ロキの話が愚痴へ変化し、そのあとでさらに別方向へと転々としていく。
「ユウエル陛下も一昔前ならもっとガチガチに『余は分配のために――』とか言いそうだったんですけど、思ったよりも柔軟に対応している気がします」
「でも【分配】神族の矜持は捨てていないだろ?」
「そりゃあ、あの方は世界のためにそれを矜持に掲げたわけですからね。存在意義を懸けている点で、退くに退けないところもあるのでしょう。ただ、あの方本人はおいておいても、その管轄下の神族に自由を許し始めているという点で、昔とは違う気がします」
「へえ」
「もちろんあなたが仰るとおり、陛下自身は対価をごまかしたりはしないでしょうけど。ともあれ、マキシアが一つの完成されていたシステムを壊したことで、その『呪縛』からユウエル陛下自身も少し解き放たれ始めているのかもしれません。もろもろ含めて、いろんなものが変わり始めているのですよ」
サレはロキの説明を聞いて、「なるほどな」と声を返した。
「ワタシは『個人的には』あのシステムに賛成ではありませんから、ひとまずマキシアをどうにかしたら、そのあとでもうちょっと緩い統制を考えたいものですね」
「――規模の大きな話だ」
「本当に。世界は広いですからね」
そのあたりでサレはロキから視線を外し、屋根の上から人々の頭を見下ろした。
多様な色が街路にひしめいている。
「そういうあなたはなにやら急いでいるようですが、何かありましたか?」
「ニーナ第四王女が何者かに害された」
「ほう――」
ロキならばそういう事情を訳もなく把握してそうなものだったが、見てみると「私も初耳です」という顔だ。
やはり本人の言のとおり、ロキたちはロキたちでなかなかに忙しない日々を送っていたらしい。
「それでその犯人をな。まあ、見当すらないから、ほぼ『悪あがき』だけど」
サレは黒髪を掻き上げたあとで、やや苛立たしげに頭を掻いた。
「これだけ人が多いと個人を探すのは一苦労ですからね」
「たぶんアテムの手のものだとは思うんだが――」
それもあくまで予想だ。信じたい予想。
ロキはサレの言葉を聞いた後、「ふうむ」と鼻で息を吐いて、しばらくしてから閃いたように手のひらに拳を落としていた。
美麗な顔に軽い笑みを載せて、淡い藤色の髪を揺らしながら言う。
「まったく見当がつかないのなら、いっそ動き回るよりはナイアスの西国門あたりで待っていればいかがです? ニーナを害するのが目的であったならば、それを達した今、その刺客はアテムに帰るために西への国門を通るかもしれませんし。それが本当にアテムの手の者ならば、ですが」
「――そうだな」
サレはロキの言葉にうなずいた。
――周辺は他のギルド員に任せるか。
自分は西国門へ向かって、このよく見える目で人々を観察することに徹した方がいいか。
そう胸中に浮かべる。
「よし、じゃあ俺は行く。――ああ、ジュリアスならたぶん爛漫亭だぞ」
「そうですか。まあワタシもまだまだ忙しいので、少し顔を出したらまたお出かけしますよ」
サレとロキは適当に別れを告げて、お互いに動き出した。