115話 「空都邂逅」【前編】
爛漫亭で愚者たちが目をギラつかせ始めた頃、テフラ王国第三王子〈レヴィ・シストア・テフラ〉は、空都アリエルの自宅に久々に帰り着いていた。
テフラ王城から一キロ程度しか離れていない、それなりの大きさの家。
建物自体はそこまで大きくないが、庭に関しては建物の数倍はあるだろう。
――ふう、ナイアスで農業ってのも活気あって悪くないけど、やっぱりアリエルの自宅のが落ち着くなぁ。
好きな花、好きな樹、好きな鳥、好きな魚。自分の好む趣向を、存分に満たして作られた庭。
さらに自然系神族の力を借りて特殊な環境を補完した庭でもある。
深緑から淡い青まで、清涼感のある色に包まれた道に、ときたま顔を出すあざやかな赤や黄色の花。その花たちが醸し出す香りもまた、心身を心地良さに誘う。
そんな庭を通り抜けて、家の玄関口へと向かった。
扉を開け、中に入る。
見慣れた調度品を一瞥しつつ、リビングのソファを見つけて、そこに座り込んだ。
自宅のソファにどっと座りこんだら疲れがしみだしてきた。
庭の方から響いてくる小川のせせらぎをきいていると、疲れが抜けてかわりに眠気がやってくる。
――ああ……寝たい。
でも、
「はい、レヴィ様、これで十秒ほど休みましたね。ではナイアスに戻りましょう」
内容はともかくとして、耳に入ってくるのは心地のいい音色の声だった。
美しい鳥の鳴き声のような、完璧にこちらを癒してくるような音色をもった、魅惑の声。
だが、今ばかりはそれに苦言を呈さずにはいられない。
「ティ、ティーナ……ちょっとくらい休ませてよ…………僕カイム兄さんやジュリアスみたいに超人じゃないからそんな働けないよお……」
ちょっとしたきっかけで契約関係を結ぶことになった〈傍に仕える者〉のギルド長――〈ティーナ・エウゼン〉が、ソファの後ろで白黒のメイド服に身を包み、妖艶な笑みを浮かべてレヴィに催促していた。
◆◆◆
「なりません、レヴィ様。侍女長としてレヴィ様を『ダメな奴』にさせるわけにまいりません」
「えー」
「時には主のために心を鬼にして――主がもっともよき主と尊敬されるため――道を示さなければならないこともございます。今がその時なのです。――大丈夫です、これまでの観察から推測しますに、レヴィ様はあと三時間目一杯動いても死にません」
――ちょっとまって? それって逆に言えばあと三時間目一杯で僕死にかけるってことだよね?
「それ絶対基準おかしいとおもうなあ……!」
「最高に公正な基準ですよ。大丈夫です、死ななければだいたいなんとかなります」
「えー……メイドっていったらさ、もっとこう、僕の意見を尊重してくれたりさ、それでいて疲れたところを温かく迎え入れて癒してくれたりさ…………それでたまに『ああ、いけません主さま、そのようなはしたない……!』みたいなちょっとエロい展開があったり――」
「ないです」
間髪入れない否定。
――あ、悪魔めえ……!
「ぼ、僕の夢が土台から崩れていく音がした……!」
レヴィが涙目で見ても、ティーナのクールビューティーはまるで崩れない。
それを目指す者が見本にするべき『怜悧そうな冷たい美貌の麗人』がいた。
――たしかサレの話だと〈凱旋する愚者〉の中にもクールビューティーを目指す者がいるとかいないとか。――シオニーちゃんっていったっけ。
『黙ってれば容姿はそれ』『褒めるとすぐにもじもじするけど』『なんちゃってクールビューティー』その話をしていた時の、他のギルド員たちの声が蘇ってくる。
――ま、まあいいか。
ともあれ、ティーナに関しては、『冷たい美貌の麗人』といってもまだ若干の入り込む余地のようなものがあるだけ、人間味も見え隠れしていたと付け加えるべきだろう。完全無欠さと冷然さ呈する雰囲気を放ってはいるが、これでもそれなりに優しい時もある。
そんなティーナが、片腕に抱えていた一本の丸められた植物紙を開き、おもむろに読み始めた。
「まだまだ穀物類の生産量がジュリアス殿下のご要望に届いていません。特にテフラ原産の新品種、テフラ豆の生産量が一番低いです。まるでレヴィ様の体力のように伸び悩んでいます。――ぷっ」
――あれ、おかしいな。今主を馬鹿にして笑う声が聞こえた気が……
前言の『優しい時もある』は撤回すべきかもしれない。
「どうするんですか。新品種の貿易需要増による国庫増資の件、このままでは軌道に乗りませんよ。せっかく湖都ナイアスには商談に飢えた金の亡者たちがたくさんいるのですから、今のうちに軌道に乗せましょう。周辺地域がまだなんとか平和といえる状態の今がチャンスです」
ティーナは淡々と続ける。
「もし周辺に戦の匂いが立ち込めてしまえば、金の亡者たちは穀物よりも鉄鉱を商談材料にし始めるでしょう。戦争にのめり込んで周りが見えなくなった馬鹿は、えてして武器の魅力にばかり取りつかれ、兵の腹を膨らませることを忘れがちですからね。愚かな将ほど目の前の欲にばかり囚われ、戦の根本をささえる兵糧を軽視するものです」
「やたらに真に迫る感じだけど、もしかしてティーナはそういう経験あるの……?」
「な、ないですよ? 受け売りですよ? ええ、受け売りですってば」
――ある。これは絶対ある。
わざとらしく震えた声を聞いて、レヴィはそう思った。
「とにかく! ジュリアス殿下のもろもろのお考えは正しいと思われます。兵糧にするもよし、取引材料にして他の資材を買う金銭に替えるもよし、新品種の開発なんて素晴らしい発想ではありませんか!」
「いやあ、可愛い弟の願いだし、もちろんすぐにかなえてやりたいんだけどさぁ……ジュリアスも結構鬼だよね…………要求期間短すぎない? 普通もっと研究を重ねて性能の良い新品種つくるよね? この仕事を請け負ってからジュリアスが改めて送ってきた要望書見た?」
「ええ、見ましたよ」
「既存品種の膨大量の生産に加えて、味、その他性能にすぐれた新品種三つの開発要求だよ? ――それも二か月で!! もう僕が失敗すること考えてないよね……」
失敗を重ねて、それらの試行錯誤の上に良いものが生まれる。――ならわかる。
だが、
「ジュリアスは当たり前のようにすまし顔で『兄さんならできますよね!』って言ってくるんだ。くう、あの曇りのない笑顔がかえって恐ろしい!」
「はあ、さいでございますか。それで、そろそろ愚痴はよろしいですか、レヴィ様?」
「あ、悪魔めえ……!」
レヴィがソファに頭から突っ込んで、近場にあったクッションを頭からかぶった。
その様子を見ていたティーナは、やれやれと首を横に振って、仕方なさそうにレヴィに言う。
「はあ。では仕方ありません。もしもっと頑張るのなら、今回だけ特別に『ああ、いけません主さま、そのようなはしたない……!』というシーンを体験させてあげましょう」
「ホント!?」
「ええ、本当です。私メイドですので、主に嘘はつきませんよ」
「じゃあ頑張るよ!!」
そういってレヴィはスキップしながら玄関のほうへ走って行った。
「バカですねえ。男性はだいたいあんなものなのでしょうか」
ティーナはレヴィの後姿を見ながらそんなことを口にし、さらに、
「レヴィ様を裸に剥いて、それを指の隙間から見ながら『ああ、いけません主さま、そのようなはしたない……!』といえばシチュエーション的にはオッケーですよね。嘘ついてませんよね。――狂乱して何を思ったか一人で勝手に服を脱ぎはなった主をたしなめるメイド、なシチュエーションでいきましょう。これで私がエロいことする必要はありませんね。いやあ、レヴィ様が言葉足らずで助かりました」
「こうすると私の主がただの変態になってしまいますが、この際仕方ありませんね。背に腹はかえられません」そうティーナはひとり付け加え、満面の笑みを浮かべて羊皮紙を再び丸めると、それを脇に抱えてレヴィを追った。
◆◆◆
レヴィが体中に活気を満ち溢れさせながら自宅を出て、テフラ王城敷地脇を通り、西側の転移陣へとスキップで移動していた時、レヴィはふと視界の端に見覚えのある人影をみつけて、その歩を止めた。
後ろから早歩きでついてきていたティーナがレヴィの停止に気付き、首を傾げてたずねる。
「どうなされました? レヴィ様」
「〈エスター〉がいる」
レヴィの声音は明るかった。
レヴィはジュリアスに甘かったが、それはなにもジュリアスだけに限ったことではなかった。
そのどこか抜けたような妙な明るさと甘さは、他の弟であるエスターにも等しく向けられるものであり、
――というか、考えなしなのでしょうね。『良くも悪くも』。
無邪気というべきかもしれない
ティーナは内心でこっそりと訂正しつつ、粛然と襟をただしてから、エスターに近づくレヴィの背を追った。
――私はレヴィ様を誘導するべきでしょうか。
レヴィがエスターの前にまで歩むまでのわずかな時間の間で、ティーナの思考はめまぐるしく動く。
――形式的にはジュリアス殿下に闘争にて敗北し、協力を提供する代わりに自由を許されている。……レヴィ様と私たちの立場はこんなところでしょうか。
感覚的、感情的には、『兄弟の絆』を糧に、お互いにリスクをかえりみない親愛の情によって結ばれていると思っている。
謙虚と、相手の幸運をお互いに願うような、そんな関係性だ。
――親愛を理論的に捉えようとするのは愚かな行為でしょうか。
ともあれ、そういう諸々を考えると、今この場でレヴィとエスターが対話の果てに協力するようなことになるのは、止めるべきかもしれない。
いってしまえば、レヴィは『ジュリアス側』の王族である。
それがここでエスターとも手を組むとなると、情勢がややこしくなる。――めちゃくちゃだ。
そこはそれとして、しっかりと線引きをしておくべきだろう。
まだ『王権闘争』が終わっていないことを考えると、そう考えるのが妥当だ。
下手を打てばレヴィの立場が危うくなる。
――ジュリアス殿下はレヴィ様の性格も当然考慮しておいででしょうから、そうなってもレヴィ様を貶めるようなことはしないでしょうけど……
しかし失敬を承知で言えば、あの男は『猛炎』のような男だ。
自らが猛るために、『近場の木々を燃やし尽くす可能性』もないとは言い切れない。
レヴィが悪性の燃料になれば、それこそ捨てるか、腐る前に燃やしてしまうこともまったく考えられないでもない。
ティーナは、ジュリアスの内で眠りながらも、ときおり目覚めては表に顔を出すその獅子のような表情を危惧していた。
決して靡かない強烈な意志と、苛烈で何者をも寄せつけない孤高性。
――……考えすぎですね。
それはジュリアスという人間の器の、ごく一部に過ぎない。
穏和で、冷静で、知慮もあり、それでいて少しレヴィに似ているテフラ王家の末弟。第七王子ジュリアス・ジャスティア・テフラ。
「やあ、エスター!」
「ん。ああ、兄上……」
レヴィがエスターに片手をあげながら声をかけたのを見て、ティーナは一旦思考を切った。
――それでも、一応はレヴィ様の身に降りかかる危険が少なくなるよう、メイドとして善処することにしましょう。主の身に降りかかる火の粉は私たちで掃わねば。
そうして、ティーナはレヴィの二歩ほど後ろに佇み、頭を少し垂れてエスターに敬意を表しながら、そのままの姿勢で二人のやり取りを観察し始めた。