第五話 勇者驚愕! おかあさん水流 その2
「ところで何でここに来たの?」
彼女はボクを抱きしめたまま尋ねてきた。
そうだ浸ってる場合じゃない。
「掃除が終わらないから、様子を見に来たんだよ。もうとっくにお昼過ぎてるんだぜ」
「ちょっと待ってね……あらまあ! 本当だわ。ごめんねユーちゃん。おかあさんお掃除に夢中になって全然気がつかなかったわ」
どこで知ったのかは分からないが、彼女は今が昼だと認識したようだ。
どうやって分かったのか聞いてみると「それは簡単よ。太陽の位置を感じればいいのよ」 だそうだ。
「お腹すいたでしょう。急いでお昼ゴハンの準備するわね」
慌てて走り去ろうとする彼女の割烹着の裾を掴んで引き止める。
「ちょっと待って」
「どうしたの?」
「ここの掃除してたんだろ?」
「ええ、ごめんね。お昼までには終わらす予定だったの。すぐ作るから」
なるほど、よく見ると輝く白い床の一部が見えている。
彼女が掃除したからだろう。
「……いいよ」
「いいよって?」
「お昼は後でいいから、掃除終わらせようぜ。その……ボクも手伝うから」
「…………」
目を潤ませて、無言でこっちジッと見つめるなよ。恥ずかしくなってくるだろ!
「ユ、ユーちゃん……」
こんな汚い空間でも輝きを失わない彼女の金色の瞳から涙が一筋流れる。
「な、何で泣くんだよ!」
「だって、手伝うなんて言ってくれて嬉しくて」
「だからって泣かなくていいだろうが」
「そう、そうよね。今はお掃除終わらせないとね。じゃあユーちゃんお手伝い頼んでもいいのかしら?」
ボクは改めて聞かれると顔、特に頬のあたりが熱くなってくるのを感じながら頷く。
「手伝う。何すればいいんだ?」
「あと、お掃除しなきゃいけないのはここだけなの」
「この風呂場だけ、ねぇ」
ざっと見渡しても上下左右全体にヘドロがこびりついている。
綺麗なのはごく一部だけだ。
「一人だと大変だけど、二人でやればきっとすぐ終わるわ」
どこからその根拠が出てくるのか。
「そうだね。それで何使って掃除してるんだ」
「はい。これ使って」
青いポリバケツに入っているのは、手を保護するゴム手袋に洗剤にスポンジ?
「汚れているところに洗剤をつけて、スポンジでゴシゴシするのよ」
お手本を見せるように彼女は手近なヘドロに洗剤を吹き付けて、スポンジで擦る。
見る見るうちにヘドロの汚れは落ち、元の白い壁が現れた。
「へ〜、すごい効き目じゃん」
「でしょ。地球で見つけたのよ」
まあ、だろうとは思ったけど、もう驚かないよ。
「おかあさんは天井を綺麗にするから、ユーちゃんは壁からお願いできる」
「いいけど、天井届くのか?」
上を見るとヘドロで埋まっていてわかりづらいが、高さは三メートルはありそうだ。
彼女の身長はボクの百六十五センチより少し高い。多分百七十くらいだろうか。どう見ても届かなそうだけど。
脚立でもあるのかと思ったが、そんなものは見当たらない。
そもそも床はヘドロの山脈に覆われ、安定して置ける足場は皆無だった。
「そこは大丈夫よ」
言い終えた途端に彼女の身体が宙にフワリと、ええ! 宙に浮かんでる⁈
「ユーちゃんは壁のお掃除お願いね」
重力を操っているのか、クルリと上下反転して天井に足を付けると、何事もなかったかのように掃除し始める。
「……ボクも掃除するか」
天井は任せて、ボクも壁の掃除に取り掛かることにした。
「あっ、ユーちゃん」
後ろ、正確には頭上後方から声が降って来たので振り返る。
彼女の姿が上下逆転していて、ちょっと酔うんですけど。
「何」
「強い洗剤だから、お掃除する前にちゃんとゴム手袋してね。もし、肌についたり目に入ったら直ぐにおかあさん呼んでね」
「はーい」
言われた通りゴム手袋をしてから、壁にへばりつくヘドロに洗剤を吹き付ける。
白い泡が黒いヘドロを溶かしていくのは、CMを見ているようで新鮮な光景だ。
「ずっと見ててもしょうがないな」
洗剤をつけたところをスポンジで擦る。
おお! 抵抗なく簡単に黒い汚れが剥がれ落ちていく。
この表現があっているのかわからないけど、ちょっとだけ楽しんでいる自分がいた。
ヘドロを落とし、元の白い壁が見えてくる面積が大きくなっていくと、なんだか心の汚れまで取れていくような気がしてくるから不思議だ。
ん? 何だこれ大きさは二メートルぐらいの塊がある。
ヘドロに塗れて正体不明だが、洗えば何かわかるか。
洗剤をつけてスポンジで洗っていくと、曲線のような手触りを感じ、次第に隠れていた輪郭があらわになる。
「あっ、これって」
それは石像、しかも右肩に水瓶を担いだ美しい裸婦像だった。
し、失礼しました。
石像とはいえ、女性の全身を触っていた事に気付き、心の中でつい謝ってしまった。
「ユーちゃんどうかした?」
「な、何でもない」
何故かボクは見られるとマズイ気がして、慌ててその場を離れた。
「これで終わりかな」
気づくと四方の壁から汚れが消え去り、まるで「ありがとう」とお礼を言うように光り輝いている。
「ユーちゃんの方も終わったみたいね」
どうやら天井の方も終わったみたいだ。見上げると輝く天井に照らされながら彼女がフワリと降りてくる。
「ああ、後は……」
二人で下を見る。天井と壁は綺麗になったが、そこから落ちた汚れが床に溜まっていて厚い層を作っていた。
「ふふ、おかあさんに任せて」
彼女は右手の手袋を外すと、床に向けてその細くしなやかな指を伸ばす。
何するんだ?
ボクの目の前で、まるで大道芸のように、彼女の指先から水が噴射される。
芸と違うのはコンクリートに穴を開けそうなほどの勢いだ。
床に溜まっていたヘドロが、猟犬に追い詰められた獲物の如く次々と追い立てられていく。
「それ、どうやってるんだよ」
「これ? おかあさんだから出来るのよ。名付けておかあさん水流というのはどうかしら?」
全然答えになってないし、何だかヒーローが使いそうな名前だな!
「あっ、ユーちゃんそこ洗剤かけてくれる?」
「はいはいっと」
もういいや。さっさと掃除を終わらせよう。
彼女が指摘したのは、高圧放水にも抵抗するヘドロだ。
そこに洗剤を吹きかけていく。
おか……何とか水流とボクの洗剤コンビネーションで床のヘドロは排水溝に消えていき、代わりに白いタイルで作られた床が顔を覗かせる。
ここで一つ問題発生。
浴場の排水溝が、苦しそうに黒い泡を吹いて唸っている。
見ると、ヘドロが排水溝の入り口から外にはみ出し流れていかない。
どう見ても詰まってるな。
「何かあったかしら……あらまあ! 詰まっちゃったのね」
「そうみたい。どうするんだこれ」
手で掻き出す? いや、いくら手袋しててもこの真っ黒な泥を触りたくはない。
それは彼女も同じはず。と思ったらどうやらそうではないらしい。
「任せて」
そう言って右手を排水溝に伸ばす。
「いや触らないほうがいいって!」
彼女はヘドロに触れるか触れないかのところで手を止めた。
掌を排水溝にしがみつくヘドロに向けたぞ。
「往生際が悪いですよ」
そんな優しい口調で語りかけても、返事はないと思うんだが。
説得でヘドロを流すわけではないらしい。
彼女の掌から強い光が発せられる。
「ちょっと離れててユーちゃん。強い光だから目が痛くなっちゃうかも」
「ああ」
言われた通りに数歩後ずさり、彼女の行動を見ていると、
強い光によって、ヘドロの水分が一瞬にして蒸発していく。
黒いヘドロは煙を上げながら、完全に乾燥して表面はヒビ割れ、次の瞬間には細かく細かく砕けてまるで砂のようになった。
名前を付けるとしたら、おかあさんフラッシュ?
「これで流れるわね」
彼女は再び手から水流を出して、今度こそ完全にヘドロを洗い流した。
こうして大浴場はヘドロから解放されたのだった。
めでたしめでたし。
「ふい〜〜」
ボクが何をしているかって? 今は湯船に浸かっているのだ。
昨日の雪を溶かした露天風呂じゃないぞ。
そう、さっき掃除を終えたばかりの大浴場の浴槽だ。
十人は入るであろうそこを今は独り占め。泳ぐ事だって出来るぜ……子供じゃないから泳がないけど。
しかし、ここが数時間前まで悪臭とヘドロに制圧されていたとは考えられないな。
湯気で覆われ、水滴が付いているとはいえ、白いタイルの床も壁も天井も磨かれたように真っ白。
裸婦像が持つ水瓶からは乳白色のお湯が尽きる事なく流れている。
それにしてもこのお湯は、ちょっと粘ついていて、気づくと肌も弾力が満ち満ちてくる。
って、男のボクが喜ぶところじゃないかな。
「ぬはぁーー」
それにしても、いい気分。大掃除で酷使した筋肉がお湯によってほぐされていく。
まるで優しくマッサージされているかのよう。
因みに一番風呂である。
最初は「ユーちゃん一緒に入りましょう」と予想通りに提案してきたので、丁重にお断りしました。
裸の女性と入ったらリラックスなんて出来るはずない。
何気なく腕のブレスレットを見る。
神器ガントブレイドは元に戻った。
これで冥王が復活したとしても……ってそんな心配する必要ないか。
だって冥王はボクがこの手で倒したんだから。
「…………」
いかんいかん。気持ちよすぎて、頭がぼうっとしてきた。
のぼせる前に上がるか。また長湯してたら彼女に注意されるかもしれないしな。
床を滑らないように、気をつけて歩きながら、ふと考える。
ボクが一人で入るって言ったら、ちょっと目潤ませてたな。
泣いてなきゃいいけどな……っと。
ガラッと浴場の引き戸を開けると、
「ふふふ。ユーちゃん。待ってたわよ」
「???」
「身体拭いてあげるわね」
なんだそのいたずら思いついた子供のような顔は!
「えっと、いやいや……」
「逃げないの、えいっ!」
ボフンという音と共に、フカフカのバスタオルに全身を包まれてしまう勇者。
そうなったらもう逃げることは不可能だ。
着替え終えた時には、熱でもあるのかと錯覚するほど体温が上がり、それは夕飯の時間になる頃まで続くのだった。




