第五話 勇者驚愕! おかあさん水流 その1
「ん、んんん?」
あれ? いつの間にか寝てた!
気づくといつのまにか自分の部屋だった。
覚えている記憶は、確かリビングでご飯を食べて……それで彼女の話を聞く予定だったのに……。
そうか、ちょっとだけと思って目を閉じたら、そのまま睡魔に負けちゃったのか。
ベッドから降りて鎧戸を開けると、日差しが部屋を照らし出す。
どうやら朝のようだ。
一体何時間寝てたんだろう。
待てよ夕飯前に見た時計は六時を指してた。
今の時間は……六時。
けれど太陽は空に昇っている。ということは十二時間も寝ていたということか。
我ながらよく寝たなー。
「う〜〜〜〜ん」
身体を伸ばす。
いつもなら三日間寝ても、眠気が取れず、すごい怠かったのに、今は頭の中はすごいスッキリしている。
ん? すんすん。微かだが、甘いミルクのような匂いを感じる。
空気をなめたら甘味を感じそうなほどの……。
しかしそれも一瞬だった。
気のせいだったかもしれないな。
ボクが起きたタイミングを計ったかのように、ドアがノックされた。
「ユーちゃん、起きてますか? 入りますよ」
部屋に入ってきたのは、昨日突然やってきてボクの母と名乗る頭に二本の金の角を生やした太陽のような黄金の瞳の女性。
……リィべだった。
「んー、もう起きてたのね。おかあさんが起こしたかったのに」
細い顎に指を当てながら、ちょっと拗ねた表情を見せてくる。
ピンク色のワンピースの裾を綺麗に翻し、パンプスをタッタッと鳴らしながら、こっちに歩いてきた。
「おはようユーちゃん」
「…………」
「むっ、ユーちゃん」
割烹着を着た腰に手を当てながら、唇が触れそうなほど顔を寄せてきた。
彼女から漂う甘いミルクのような優しい香りがボクの鼻をくすぐる。
「聞いてるの?」
「聞いてるよ。で、何だよ」
綺麗に伸びたまつげに縁取られた金色の瞳には、顔を赤くしているボクが映っていた。
「おはよう」
そのまま何も言わず、何かを待っているかのようにボクをじっと見つめてくる。
「おはよう」
もう一度繰り返してくる……ああ、そういうことか。
「お、おはよう」
「はい。よく言えました。よし、よし」
挨拶を返しただけでで頭を撫でられてしまった。
恥ずかしいからやめろよ。と心の中で思っても、口に出そうとは思わなかった。
それ以上に暖かいさざ波がボクの胸の内を満たしていたからだろうか。
「お顔、洗ってらっしゃい」
そう言われて、ボクは下層にある洗面台へ。鏡を見ると、緑の髪にエメラルドの瞳の少年と目が合った。
ボクだ。改めて自分の顔見るのは一体いつぶりだろう。
昨日、彼女に切ってもらった髪の毛に指を伸ばす。
ちゃんと切り揃えられていて、とても素人が切ったとは思えない。
後、顔に当たるチクチクが無くなった。地味にあれが不快だったんだよな。と今頃になって気づく自分がいた。
「ユーちゃん。朝ごはんできてるからね」
「分かったー」
ボクは蛇口をひねって手早く顔を洗う。
冷たい水がボクの眠気を完全に吹き飛ばしていく。
眠気の霧が晴れ、活動を始めた脳がある事に気づく。
そう言えば、ボクどうやって部屋に戻ったんだろう。
確かリビングで寝てしまったはず。
待てよ! 部屋で微かに感じた香りと、彼女の匂いは同じだった?
だとしたら、彼女に……。
ボクは彼女に抱き抱えられている姿を想像してしまい、思わず目を覆う。
うわぁ……!
その恥ずかしさと熱くなった顔を冷ますために、冷水をぶつけるような勢いで顔を洗った。
空気に当たっただけで、ヒンヤリする顔を清潔なタオルで拭き終わると、ボクの鼻が香ばしい匂いを捉える。
これはパンの焼ける匂い?
くううううっ。
……まるで正解とでも言いたげにお腹が鳴るのだった。
「ごちそうさまでした」
「はい。残さず食べれましたね、えらいえらい」
「ボクは子供じゃないからこれくらい食べきれるよ」
「ふふふ」
彼女は笑って食器を片付けていく。
「ブロッコリーを食べる時のユーちゃんのお顔を見れば何が好きで嫌いなのか直ぐ分かるわ」
そう言い残して、キッチンへ。
ブロッコリー苦手な事バレた……どうやら顔に出ていたみたい。
ボクはキッチンにいる彼女に声をかける。
「ところでさ」
「うん?」
「昨日できなかった話しを聞かせてくれるのか?」
そう、本当なら彼女の正体を話してもらうはずだったが、それは出来なかった。
原因はボクが寝ちゃったからだが。
「ええ。お話しするわ。けどその前に……」
「その前に?」
「どうしても先に済ませなきゃいけない事があるの」
「何だよ?」
彼女は洗い物を止めて、こちらに振り向きちょこんと首を傾ける。
そんな仕草が可愛く見えるのはボクだけなのか?
「お家のお掃除よ」
「はあ」
家の掃除、何処の?
「今日中に何とか終わらせないといけないの。だから、そうね〜、お昼までには終わらせるから待っててくれる?」
気合入ってるなー。
何だかとても張り切っているようだし、邪魔しちゃ悪いか。
「分かった。終わるのお昼過ぎだな」
「ええ。終わったら知らせるから。お部屋で待ってて」
これから行う掃除の計画を立てているのか、彼女はそれ以上何も言わず、リビングには食器を洗う音だけが流れる。
手持ち無沙汰のボクは自分の部屋に戻る事に決めた。
一応声はかけたが、集中しているのか反応はない。
ま、いっか。
特に気にすることなく、リビングを後にした。
「もう正午だな」
朝食から戻り、呼ばれるまで漫画を読んで待っていたが、一向に呼ばれることはなく、ふと時計を見ると短針はとっくに十二時の山を超えていた。
「何だよお昼までに終わるんじゃなかったのか」
読み終えた漫画を放り出し、ベッドに横になる。
本のページを捲ることをやめた途端、部屋中を静寂が支配した。
と思ったら、部屋の外から微かに音が聞こえる。
何かを擦るような音、ああ、彼女が掃除してるのか。
この塔全部を一人で掃除なんて大変だろうな……。
ん、一人で掃除してるのか!
ボクは飛び起きて部屋を後にした。
そうだよ。よくよく考えたら、ここはマンションの一室じゃないんだ。ボクが地球にいた時の三階建てのマンションより遥かにデカいんだぞ。
そこを全部一人でなんて無理に決まってるじゃないか!
階段を駆け下りると、中層から物音が。
この階にいるのか?
音を頼りに歩いていくと、ある場所から音が聞こえてくる。
それはこの階にある大浴場だ。
確か、そこは一度も使わずにずっと放置していたから、ヘドロみたいな汚れが隙間なくこびりついていたはず。
浴場に併設された脱衣所に入ると、やっぱりそこにいた。
一度開けただけですぐに閉めてそのままだった筈の、浴場の扉が開いている。
ボクは思わず鼻を抑えた。
酷い臭いだ。
目はしみるように熱くなってきて涙と鼻水が止まらない。
こんなところにいたら確実に病気になっちゃうぞ!
「おい」
声をかけるも返事はない。
「おい、聞こえないのかよ!」
何度呼びかけても聞こえてくるのは何かを擦るような音だけ。
「ええい、くそっ!」
ボクは鼻と口をしっかり手で塞ぎながら、浴場の中へ突き進む。
「おい大丈夫……ん?」
黒いヘドロの中に、真っ白な何かが動いている。あれは割烹着?
どうやら、床に膝と左手をついて、右手を忙しなく左右に動かしているみたい。
無意識だろうが、右手が動くと、こっちに向けられた彼女の肉付きの良いお尻が左右に揺り動いていた。
じぃー。
はっ、しまった。ついつい動きを追ってしまったじゃないか!
「あらまぁユーちゃんじゃない」
彼女はボクに気づいたようで、作業を中断してこっちに振り向いた。
「先に言っておくけど見てないからな!」
「? 何の事?」
どうやら気づかれてないみたい。良かったー。
「ところで何やってるんだ?」
取り敢えずボロを出す前に話題を変えないと。
「ええ。お風呂場をお掃除してたのよ」
「このヘドロの塊を一人で……」
周りを見渡すと、床だけでなく壁や天井も黒い粘着質が覆っている。
よく見ると、微かにガスみたいなものが出てないか?
「うっ、ゲホゲホッ! ゴホッゲホゲホ!」
しまった。喋ったせいで嫌な色のガスを思いっきり吸い込んじゃったみたいだ。
涙が止まらない。垂れた鼻水が口に入り込み、咳するたびにそれを吐き出していく。
「大変!」
小走りで近づいてきたけど何をするつもりなんだ?
彼女はボクの周りの悪臭を吹き飛ばすように息を吹いていく
「ふうーー。ユーちゃんにまとわりつかないで。ふうー」
彼女が息を吐くたびに、意思を持っていたかのように纏わりついていた嫌な臭いが消え、目の痛みと鼻の不快感がどこかに飛んでいった。
「ユーちゃん大丈夫?」
彼女は取り出したハンカチでボクの鼻や目を優しく拭いてくれた。
「ああ。ケホッ、一体何したんだ?」
「ヘドロから出るガスを吹き飛ばしたのよ」
息を吐いて、ガスを吹き飛ばすってまた無茶苦茶な。
「どう、苦しいところとか気持ち悪くはない?」
「何ともない」
「そう良かった」
彼女に抱きしめられる。悪臭で麻痺していたはずのボクの鼻が甘い匂いを嗅ぎつけた。
不潔なスライムに囲まれているのに、ああ、さっきまでの気持ち悪さが嘘のように引いていく。




