青の賢者
かれの意識は深層海流にのって、さらに深い場所へと流されていきました。
深海には、地上では見られないような、不思議な生き物たちがたくさん住んでおりました。双頭の海老。さかなを襲うプランクトンの群れ。二足歩行するヒトデ。かれの意識はそれを面白く眺めながら、やはり白い道を進んでいきます。
ときおり、巨大な海魔や水龍の影を見ることもありました。ですが、まるで暗黙の了解でもあるように、かれらが近づいてくることはありません。
あるいは、かれの行く白い道そのものに、そういった加護のちからが備わっているのかもしれません。
しばらくゆくと、行く手の海底に大きな気配が横たわっていることに、かれは気づきました。
まるで王城ほどもある、巨大な影。
そして、道はそこで途切れているのでした。
「もし。」
と、彼はその影を前に、話しかけました。ここが道の果てであれば、彼の目的地もまた、ここであるはずでした。
「こちらに、賢者さまはいらっしゃるでしょうか。」
声をかけると、巨大な影は、身じろぎをしました。
尾びれで海底をかき、真ん丸の目をかれに向けて、不思議そうな声をあげます。
「おや、お客さんかのう。」
老いた声でした。
岩のように巨大なうろこに、隙間なく苔が生しています。
眼前を覆いつくすその影は、何億年も生きてきたかのような、巨大な魚でありました。それが、口を開き、言葉をしゃべりました。
かれは、予想外のことに、あっけにとられました。
「その……。大きな、おさかな様。失礼ですが、あなたが、青の賢者さまでしょうか。」
「ふむ。たしかに、わしはそう呼ばれることもある。あまり、好きではないんじゃがな。
賢者などという立派なものではないよ。青という名前の、ただの老いぼれた魚じゃ。」
賢者と呼ばれた魚は、なんの気負いもない様子で、そう答えました。
あくびをし、かれのほうを改めて見やり、意外そうに口にします。
「珍しい。不死鳥の仔ではないか。……ああ、おまえさん、ヴォルカンとガーネットのせがれかい。」
「えっ!」
かれは意外な言葉に、思わず叫びました。
「賢者さまは、ぼくのことを知っているのですか。」
「知っているとも。トワ、おまえさんがまだよちよち歩きの雛だったころ、一度会っただけじゃがな。
あのときの仔が、よくぞ立派に育ったものじゃ。」
賢者はうんうんと頷きます。賢者が行う動作のひとつひとつが、まるで聖術のように、濃い神気を放つことに、かれは気づきました。
神に限りなく近い気配を持つ、老魚。
賢者は、かれのことをトワと呼びました。その名前は不思議と、かれの耳になじみ深く響きました。
「なるほどのう。魔法の制約で、肉体をほとんど失ってしまったのか。
妖精女王に言われて、ここまではるばる来たのじゃな。道中、大変じゃったろう。」
「いいえ、賢者さま。水の精たちの案内のおかげで、ここまでは無事にたどり着くことができました。」
かれを見つめる賢者の目は、まるですべてを見透かしているようでした。何も説明しないうちから、賢者はかれがここへ訪れたわけを、すっかり理解しておりました。
トワのそばに近づくと、賢者はそのヒゲで、かれをやさしく撫でました。
かれは、賢者のまとう神気を心地よく感じながら、話に相槌をうちます。
「そうさのう。トワ。おまえさんの身体をとりもどすためには、まずはおまえさんの正体のことから、話さねばならんじゃろう」
賢者はそう前置いて、長い話をはじめました。
∞
「おまえさんは、自分が生まれたのがいつだったか、おぼえておるかのう。
わしにも、もう正確には思い出せん。じゃが、あの頃はまだ不死鳥たちが、活火山や熱源にたくさん棲んでおったのは、覚えておるよ。
ヴォルカンとガーネットのつがいも、そのひとつじゃった。
ガーネットは、まだ若い個体で、するどく長く伸びたくちばしが美しい女性じゃった。人気者でのう。たくさんの不死鳥から求婚されておった。
一方のヴォルカンはというと、こいつは年経た男で、しかも節操なしじゃった。若いころつがいの片割れを失ってから、新しくつがいを持とうとせず、いつもふらふらと女性たちの間を飛びまわっておった。
ふたりがどうしてつがいになったのかは、わしは聞いておらん。
ただ、ふたりに会った時は、たいていふたりとも、それはそれは幸せそうに、仲睦まじくしておったよ。」
賢者は昔をなつかしむように、遠くを見やります。
「つがいになってしばらくして、ガーネットが身ごもった。その群れの不死鳥たちはみな、新しい子の誕生を祝ったとも。
ところが、どうも卵を産んでからガーネットの様子がおかしい。
ヴォルカンがガーネットを押しやってたまごを確認すると、巣には異様に熱をもった、巨大なたまごがあったそうじゃ。」
どうしてそうなったのかはわからない。賢者は、そうこぼしました。
「そうとも、トワ。なぜかおまえさんは、ほかの不死鳥よりもうんと強いちからをもって生まれてきたのじゃ。
そしてそのちからは、今にもはち切れそうじゃった。
表面張力というものを知っておるかな。コップの容量よりも少しばかり多めに水を入れると、水が盛り上がってみえる、あれに近い。
流れ落ちそうになりそうになるおまえさんの生命力を、ぎりぎりのところで、おまえさんの生命力そのものが繋ぎ止めておったのじゃ。」
しかし、と賢者は言います。力の制御を知らない卵にとって、すぎた力は害でしかない、と。
放っておけば、雛の生命力そのものが雛を殺してしまうことは、誰の目でも明らかでありました。
「おまえさんの両親や、仲間たちは、有り余るちからがおまえさん自身を食い殺すのを、どうにかして抑えようとしたのじゃろう。
おまえさんの姿を見れば、何をしたのかは見当がつくよ。
まず北の果てに、おまえさんの高すぎる熱を封じた。
それから、漏れ出す生命力を逆に利用して、魔法をつむぎ、おまえさんが自分自身の炎に焼き尽くされることを防いだのじゃ。冷気の魔法をな。」
そうして生まれたのが、彼。
全身が氷でできた奇妙な鳥。
不死鳥のトワでありました。
∞
「あとは、もうわしが語る必要はなかろう。
北の果てに、一人生き続ける不死鳥のその後。その膨大な力がゆえに、長い長い時を生きることになった『冬の王』の生涯については、おまえさんはすでに、思い出しておるのじゃろうからな。」
まるで賢者が語る言葉ひとつひとつが魔法であったように、かれのからだは賢者が語るたび、もとの感覚を取り戻していきました。
長く伸びたくちばし。
全身を覆う羽毛。
鋭いかぎづめ。
風を切り裂く尾羽。
雄々しい一対の翼。
そうして賢者の話が終わるころには、かれはすっかりもとの……氷でできた、美しい鳥のすがたに、形を変えておりました。
「ああ。」
と、不死鳥は夢から醒めたような口調で、はっきりと頷きました。
「なにもかも思い出したとも。賢者どの。大変世話になってしまったな。」
賢者は、口から大きな輪っかのあぶくを出して、氷の不死鳥にこたえます。
「なあに。この老いぼれが、せめてもの力で、できるかぎりのことをしたまでじゃよ。
それで、冬の王よ。すっかり元の姿を取り戻したおまえには、もう、自分のからだのことも分かっておるじゃろう。」
「うむ。賢者どの。これほど身体が軽かったのは、はじめてかもしれぬ。」
不死鳥は、翼をばさりと持ち上げます。
その羽根の先端に、小さな炎がともっておりました。かつて、雛だったころ制御できずに封印されてしまった、不死鳥自身のちからでありました。
「すっかり分かったよ。わたし自身の本性が、すべて教えてくれた。ありがとう、賢者殿。」
そして、赤く燃える目を、海底からはるか地上へと向けます。
巨大な両翼を、大きく広げます。ボウ、ボウと、その無数の凍った羽根が、赤い炎へ変わっていきます。
かれの、不死鳥としての、本当のすがたでありました。
「もう、行くのかね。」
「ああ。すまない、いまは、目覚めてしまった本性に抗えそうにないのだ。……わたしには、やり残したことがある。」
「あのお嬢ちゃんのことかい。おまえさんから不死性を渡されたあと、無事に帝都で暮らしているようじゃが。」
「だがおそらく、つらい目にあっているのだろう?」
うずうずと、彼は身体を揺らします。翼だけではなく、不死鳥の胴全体までが、赤い輝きを放ちました。
海底に、鮮やかな火の魔法陣が描かれてゆきます。
炎の渦があたりを包みました。
「帰り道は、分かるかい。」
「賢者殿が、さきほど語りながら教えてくれたではないか。つながりを、辿っていけばいいのだろう。
なにからなにまで、感謝する。——この礼は、また後日、必ず。」
言い残すと、不死鳥は炎の翼で、力強く羽搏きました。
矢のように、真っ赤な鳥が、海底を飛び出していきます。
「まるで巣立ちじゃのう。」
青の賢者はあまりのかれの慌てっぷりに、そう言って笑いました。
∞
ある晴れた日の昼下がり。
帝都のはずれで、年老いた女が畑を世話しておりました。
手慣れたようすで、トマトやナスなどを収穫していきます。そして、一本の大根の葉の前で、足をとめました。
大根の葉を鷲掴みにし、ぐい、と思い切りよく引き抜きます。
その下にぶらさがっていたのは、大根ではなく、一人の成人男性の腕でありました。
「おや、不思議なこともあるもんだね。大根を抜いたはずが、愚息をひっこぬいちまった。」
と、わざとらしく、老婆はいいました。
「ひどいなあ。雲の上や、地面の下や、木の根っこの中や、いろんなつながりを辿って、がんばって急いできたんだよ。」
ぱっちりと目を開けて、土から現れた男は言いました。
「やあ。いま帰ったよ、私の永遠の恋人。」
まだ埋まっていた下半身をずっぽりと地中から抜いて、大きく成長したクオンは、老女に笑顔を向けます。
「ようやく帰ったのかい、ばか息子。」
と、かつてライアと名乗っていた魔女は、ため息のまじる声で、しかめつらしく答えました。