4
数日後、清照はひとりで荒野に遠乗りにでかけた。
馬からおりて地面にすわり、なにをするでもなくただ天地を見つめる。
しばらくすると、絶塞のある方向の地平線に、馬にのった人の姿があらわれた。
日よけの布が大きくなびいている。清照は逃げも隠れもせず、やはり天地を見つめながら、ただ待っていた。
やがて、その人物はまっすぐに清照のところまできて、日よけの布をはねのけた。
榛色の髪が、さらりと風になびく。
「李冰陽」
「こんなところでなにをしている」
怪我しているとは思えない軽快な動作で、馬をおりた。
「そっちこそ、寝ていなくていいのか。傷はどうした」
「怪我なんか、馬にのっていたほうがはやくなおる」
無茶なことを言った。
「ヘリオスフィア王子に、あまり心配をかけるな。……以前、月季公主がお前に戦いを挑んだことがあっただろう」
「ん?」
「あのときお前が公主に応じたのは、あれを機に、ふたりが入れかわっていたことを明らかにするつもりだったんじゃないのか。ついでに自分が責任をすべて背負って死ねば、まわりに迷惑がかからないですむとでも思っていたんじゃあるまいな」
李冰陽はひるんだように視線を泳がせた。図星だったようだ。
「ヘリオスフィア王子もうすうす気づいたんだろう。だからお前をとめるために、私の挑発にのったんだ」
「ヘリオスが?」
「実際、お前も月季公主も自分たちが戦うどころではなくなったろう? いい主じゃないか。性格はちょっと悪いが」
「ほっといてやれ。というか、まさかお前も、俺たちをとめるためにあんなことをやったのか?」
「私は月季公主のお味方をしたまで。お前も主に忠実な家臣なら、命令どおりはやく怪我をなおすことだ」
李冰陽は神妙な顔でじっと黙りこんでいたが、しばらくすると顔をあげた。
「……まあ、それはいい。それより、怪我をおしてここまできたのは、お前にどうしてもたしかめたいことがあったからだ」
そう言って、李冰陽は清照にむきなおった。だが、すぐには口を開かず、清照を食い入るように見つめる。清照は黙って、李冰陽の言葉を待った。
ようやく、李冰陽は口を開いた。
「杜清照。お前、俺とヘリオスが入れかわっていることに、かなりはやくから気づいていたんじゃないのか」
清照は肩をすくめた。
「言っただろう。お前は風を操る術を何度も披露していたが、黒髪の李冰陽殿は一度もしなかったし、言動もお前のほうがよほど神官らしかったと」
「違う。もっと以前から——それこそ、俺をはじめて見たときから、お前は俺の正体を疑っていたんじゃないのか。俺の髪や目の色のことを、あてこすったりしただろう」
「べつに他意はない」
だが李冰陽は清照の言葉を信じないのか、苛立たしげに歩きまわった。
「思えばお前は最初からあやしかった。たとえば、天香国の農民出身の兵は、馬にのれる奴が少ないだろう。あれはお前たちが、俺たちほど馬に親しんでいないからだと聞いた。だがお前は陋巷出身という話なのに、馬術や武術も俺たちと遜色ない」
「それは私が天才だから——」
「最後まで聞け! お前がトルクエタム語を完全に理解しているのもおかしいんだ。オールトの城内やこの宮殿についてくわしいのも妙だ。天文台にあがる階段や、ごく一部の者しか知らない、岩山の迷路のような道順を知っていたことも——なにより、あんな都合よく明けの明星の星玉が返ってきたのだっておかしい」
李冰陽はそこでさっとふりかえり、清照を見据えた。
そして、思いつめたように言った。
「その、鏢を仕込んでいる手甲をはずせ」
清照は逆らわなかった。だまって袖をまくりあげ、武器を仕込んだ手甲をはずす。
つねに手甲に覆われていたはずの前腕は、顔や首と同じ、やや浅黒い肌だった。
その肌に、白く七つの星がきざみこまれている。
「……トルクエタムの王族の証である、七つ星の刺青——」
李冰陽は清照を見つめながら、思わずというように息を飲む。
「先の太守のアリダード様の、末の姫——俺たちに武術を教えてくれようとした——たしか、アナレンマ姫と……」
清照は目を閉じる。そうすると、呼ばれた名が耳に強く残るような気がした。
「その名を呼ばれるのは、久しぶりだ」
立ちあがり、李冰陽と目線をあわせた。
「だが今の私は杜清照。月季公主の侍女だ。答える者のいない名など、二度と呼ぶな」
李冰陽は声もなく、清照を見つめている。
その長い榛色の髪が、乾いた風になびくのを、清照は目をほそめて目で追った。
「……ずっと昔——といっても十年もたっていないのか。都アンティキティラからやってきた従兄弟殿とその乳兄弟のことは、ずっと忘れずにいた。乳兄弟殿の髪と瞳の色が、天香国風の名前とあまりにそぐわなかったからかな。剣や馬の相手をしてもらおうとふたりを追いかけて、兄上には邪魔だとたしなめられたが、ふたりとも、ちゃんと私の相手をしてくれただろう。嬉しかった」
清照はゆれる榛色の髪の先から、青灰色の瞳へと、視線を移した。
「だから、お前がヘリオスフィアと名のったとき、すぐにおかしいと思った」
「それで、最初からわかっていたんだな!」
清照は笑った。
「離宮を抜けだすための秘密の抜け穴は、子供のころも使っていた。姉上方にはよく叱られたよ。離宮が無事で、あの抜け穴も残っていたおかげで、いろいろ楽だった」
「なぜ黙っていたんだ! 俺やヘリオスのことだけじゃない、自分がアナレンマ姫であることまで……なぜだ!? ここはお前、いやあなたの、故郷じゃないか!」
冰陽は叫ぶと、両手で頭を抱えた。
「いったいどうやって生きのびたんだ? アリダード様や、アケルナル様をはじめとした御子たちは、すべて殺されたはずなのに」
そこで言葉をきり、清照にふりかえる。
「——そういえば、あの戦の裏切り者は本当にいたのか? 誰が裏切ったのか、あなたは知っているのか」
「ああ」
清照は、遠い地平線へ目をやった。
「裏切り者は、先の太守アリダード。私の母だ」
「どうしたの? なぜ私がこんな衣装を着なければならないの?」
侍女たちは皆、緊張で顔をこわばらせていて、質問しても答えてもらえそうになかった。それはわかっていたが、アナレンマは聞かずにはいられなかった。
八年前のあの日、天香国の軍との戦は、今にも火ぶたが切って落とされようとしていた。天候国軍は城壁から見えるところにまで迫り、オールトの兵も迎え撃つ準備をして、城壁に詰めていた。動ける民は、すでに城市から逃げだしていた。
「さ、アナレンマ様。兄上様のところへ」
女官につれられて離宮をでて、兄たちのいる建物に行った。兄たちは、長兄のアケルナルはじめ、皆、戦装束だった。
「兄上方! なにをなさっているのです。天香国の軍が迫っているのではないのですか? 迎え撃つための、準備をしているんでしょう」
長兄のアケルナルはふりかえると、緑灰色の瞳でアナレンマを見つめた。その思いつめた瞳を見て、アナレンマははっと思いつく。
「もしや私に、間者として天香国の軍に忍びこめということでしょうか。私の衣装は、そのための変装ですか?」
兄や姉たちは皆、瞳か髪のどちらか、あるいは両方の色が明るかった。天香国の人間と同じように瞳も髪も黒いのは、アナレンマだけだ。天香国は交易相手でもあるから、言葉もトルクエタム語同様に話せる。アナレンマなら、天香国の人間として通用するだろう。
「私におまかせください、兄上! きっと母上や兄上方のために——」
「勇ましいな、アナレンマ」
アケルナルはそれまで沈鬱な表情をしていたが、思わずというように優しく笑った。
「そうではない。だが、お前の勇気を見込んで、頼みたいことがあるのだ」
そういう兄の顔は、それまで見たこともないほど深刻で、アナレンマは思わず唾を飲みこんだ。
「よく聞くのだ。母上は、オールトの軍を東ではなく、北にむけるとおっしゃている」
「北? どういうことです、兄上。まさか逃げるのですか?」
「違う。……母上は、アンティキティラを攻め落として、ご自分がトルクエタムの女王になるおつもりなのだ」
「女王? 都を攻めるって、でも」
アナレンマは混乱した。
「で、でも、トルクエタムの王位は、母上が伯父上と協議をして、伯父上に譲られたのではなかったのですか? そして母上は、オールトの太守と神殿の神官長を兼ねると」
「そうだ。だが母上は、その約束を反故にするおつもりなのだ」
兄は痛みをこらえるようにかたく目をつむり、円卓に手をついた。
「だが、そんなことは許されるはずがない。王は母上の実兄、大臣たちも我らの一族。なにより都を守るのは同胞ではないか。なぜ賢明な母上が、そのような愚かな——!」
そのとき、兄の手元に、妙なものがあることに気づいた。
「兄上、それは?」
見れば、あわてて彫ったと見られる粗雑な木像だった。
「……ああ。これは天香国の神像だ。教わって、彫った」
「天香国の? そのようなものをどうするのですか」
兄は黙って、神像を縦にわった。なかはくりぬかれており、そのなかに薔薇色がかった黄金色の星玉が埋めこまれている。アナレンマは驚愕した。
「それはオールトの守護星である、明けの明星の玉ではありませんか! それがなければ、母上は力をふるえません。天香国の兵は、すぐ近くまで来ているのに」
「だが母上は、黒風(砂嵐)を起こして奴らを片づけたあと、そのままアンティキティラに攻めこむとおっしゃるんだ。今すぐ、母上の手からこれを遠ざけないとならない」
「けれど、そんなことをすれば、オールトは負けてしまいます!」
「オールトが勝っても、内戦になっては意味がないのだ!」
優しい兄に怒鳴られたことなどはじめてで、アナレンマは言葉を失った。
「——アケルナル様」
そこへ、若い女官があらわれた。天香国出身の女官で、器量がよく機転も利くというので、兄のお気に入りだった女官だ。彼女もアナレンマと同じような、天香国の衣装を身につけていた。
その女官に気づくと、兄は笑みをうかべた。
「用意はできたか。どうだ、アナレンマは天香国の民と言っても通じるか?」
女官はアナレンマを見て、兄にうなずいた。
「はい。お髪も瞳も黒いですし、顔だちも違和感ありません。大丈夫です」
うけあってくれたが、しかし兄は女官の言葉に、苦渋に満ちた表情で唇を噛んだ。
「そうか……」
女官はそんな兄にそっと歩みより、手を取った。
「アケルナル様、ご安心ください。私が命にかえてもアナレンマ様をお守りします」
「……すまない……」
声をしぼりだすように言うと、なにかをふりきるようにアナレンマのほうをむいた。そして膝をつき、目線をあわせてくれたが、あまりにも切迫したまなざしに、アナレンマは息詰まる心地に襲われ、むしろ逃げたくなってしまった。
「今からお前は名を捨てるんだ。決して己の名を口にしてはならない。いいな」
「兄上。なぜ、そんな」
「お前が生きのびるため。そしてこれを守るためだ」
神像をおしつけてきた。
「トルクエタムを内戦から守るため、星玉をどこか安全な場所に隠してほしいのだ。できうるならば、いつか平和が取りもどされたら神殿の天文台にもどしてほしいが、無理は言わぬ。ただ、この星玉を壊してしまえば、オールトは二度と復活できないことは肝に銘じておけ」
アナレンマは緊張のあまり、ごくんと唾を飲みこんだ。兄はその肩に、あたたかな手をおいた。
「アナレンマ。お前はまっすぐで、強い。だがそんなお前にとっても、この状況で生きのびるのはつらいはずだ。しかし生きていれば、いつかかならず、心から笑える日が来る。だからその日を待って、生きのびてくれ」
「わ、わかりました、兄上。かならず!」
アナレンマは神像を抱きしめた。
「かならず、守ってみせます。そして兄上や母上を助けに戻って参りますから、だからどうか、それまでご無事で……!」
清照は目を閉じる。あの頃の自分は、なんと無知で愚かで、しかし真剣だったことか。
アナレンマは女官とともに、宮殿を抜けだした。母やその側近、近衛兵たちの目を欺いて逃げだすのは、慣れていた。
どこか安全な場所に星玉を隠したら、すぐに宮殿に帰ろうと思っていた。けれど宮殿を出てすぐにオールトの城壁が破られ、アナレンマと女官は天香国の兵に見つかり、とらえられてしまった。
天香国の言葉を話し、衣装を着ていたためか、アナレンマと女官は、天香国の隊長の前に引き立てられた。隊長はふたりを無遠慮にねめまわし、尋ねた。
「お前たちは天香国の民か?」
「わ……私たちは商人だった親に連れられて、天香国から来たのです」
女官が答えた。
「ふん。つまり、裏切り者か」
商用でトルクエタムに来ただけで、裏切り者扱いをするなど、無茶な話だ。しかしアナレンマは隊長の平板な口調がこわくて、言いかえすことができなかった。
兵や武器が怖いわけではなかった。兄たちの武術の指導は厳しく、容赦なかったものだ。
けれど、立場が違うというだけで敵視するような、こんなにも短絡的な悪意をぶつけられたことはなかった。
「裏切り者は、殺さねばならんな」
そのとき、女官がアナレンマの手をふりほどき、飛びこむようにして地面に平伏した。
「お願いです、命ばかりは助けてください! 妹は絶塞で生まれ、まだ故郷を見たことがありません。天香国に帰って、祖廟に神像をお供えもしないままこの地で死んでしまっては、妹の魂が異国の荒野で迷ってしまいます! 私や両親の魂は故郷に戻れても、この子と離れてしまいます。後生です、どうか妹を天香国の人間として、故郷で死なせてやってください!」
血を吐くような必死の叫びだった。思いかえしても、あれは演技とは思えない。おそらくは、天香国の生まれである彼女自身の言葉でもあったのではないか。
天香国の隊長や兵たちも、女官の言葉に郷愁をかきたてられたのか、剣呑な雰囲気が薄れた。彼らもまた、なんとかして故郷に帰りたい、こんな異境の地で魂を迷わせたくないと、毎日のように祈っていたのだ。
隊長が近寄ってきて、アナレンマの帯にはさんでいた神像を手に抜きとった。目をすがめて神像を見、女官とアナレンマを見くらべる。アナレンマは動けず、硬直していた。
動けないアナレンマのかわりに、女官がさらに男たちにうったえる。
「妹に故郷を見せてやらないうちは死にきれません。なんでもします。私たちを天香国へつれかえってください!」
隊長は女官の、ほそいがやわらかそうな背をじっと見つめていた。
「……ま、いいだろう。だが言葉どおり、なんでもしてもらうぞ」
天香国の隊長は、約束を守った。アナレンマたちをともかくも殺さずに、天香国に連れていってくれたのだ。
だが同時に、アナレンマたちはオールトから遠く離れてしまうことになった。
楽な道のりではなかった。今なお思いだしては息がつまり、冷や汗がでる。なかにはアナレンマたちに同情をよせる兵もいたが、それでも悲惨な日々だったのは、つまり戦がそれ以上のましなものには決してなりえないからだ。
天香国に到着して、軍隊にいなくても食糧や水が調達できるようになると、ふたりはすぐに軍隊を抜けだした。だが女官は、無理がたたったのか、間もなく死んでしまった。あんなに美しい女だったのに、死ぬときは見る影もなかった。
アナレンマは女官を、彼女の故郷である天香国に埋めてやった。そうするしかなかったのだが、それでもずっと、あれでよかったのかと迷い、後悔している。彼女にとって天香国は祖霊の眠る土地だったが、しかし彼女は死ぬ直前、兄アケルナルの名を呼んだのだ。
女官は、アリダードやアケルナル、そしてアナレンマの犠牲になったのだ。彼女だけではない。オールトの大勢の民もまきぞえになった。幾多の民の死体を、オールトをでるときに見ていた。母のアリダード、長兄アケルナルをはじめとする王族は斬首され、さらされた。そのなかには、アナレンマの身代わりとして死んだ少女の首級もあった。
累々とつみあげられた死体に背をむけて、しかし自分だけは生きのびなければならないと悟ったとき覚えたあの底知れぬ恐怖は、生涯忘れられまい。
故郷を遠くはなれていても、背後にはいつも死体があるような気がした。自分は絶対に笑えない、そんな日は来ないと思っていた。
(でも、笑えるようになってしまったな)
清照は決して手の届かない、青い空を見あげる。
「あのアリダード様が……そんな——」
李冰陽は呆然とつぶやいていた。
「たしかに、あの方を女王に望む声は多かったと聞くし、アリダード様自身、強い意欲をお持ちだったとは聞いたが……」
「私はアナレンマと名のりでるつもりはない」
清照は李冰陽にむきなおり、宣言した。
「多くの民を傷つけておきながら、今さらどの面を下げて王家の一員と名のれるものか。だいいち、名のりでるとなれば、母の企てていた陰謀も明らかにしなければならない。それは必要なことかもしれないが、少なくとも天香国と和睦が築かれようとしている今は、避けるべきだ。お前も王家内部に争いを起こしたくないだろう」
「だがあなたは、それでいいのか」
ためらうように、清照を見やる。
「オールトの姫として、守護星の玉を持ちかえったのはあなただぞ!」
「あれは月季公主のおかげだ」
清照は首を横にふった。
「私は、月季公主がトルクエタムに輿入れすると決まったときも、お供せずにおこうかと思っていたくらいなんだ。玉を持ち帰らねばと思いながらも、絶塞に……オールトにむきあう勇気が持てなかった。それでも、こんな機会はもう二度とないと思って、星玉を婚礼道具にまぎれこませ、持ってきた」
「ずっと、隠し持っていたのか?」
「いや。星玉は、月季公主に仕えるようになってすぐ、神像から取りだして、公主の宝物箱にまぎれこませていたんだ。皇家の財産は管理がしっかりしているから、盗むことはむずかしいが、まぎれこませることは存外に簡単だった」
「だからといって、大胆なことをしたものだ!」
李冰陽は呆れたように言う。清照は小さく笑った。
「月季公主とともに、天文台に来たことがあったな。あのとき、明けの明星の星玉を返しに持ってきたのか」
清照はうなずいた。
「月季公主がついてくるとは思わなかったが、結果としてヘリオスフィア王子やお前の注意をそらせてもらえて、とても助かった」
あのとき手をはなすと、星玉はまるで生き物のように、みずからの軌道に戻っていった。
達成感も感慨も、なにもなかった。けれど、虚しくもなかった。
自分でも意外なほど静かな気持ちでいられたのは、あの圧倒的なほどの星空の下だからだったのかもしれない。
ふと気がつくと、李冰陽が顔をあげて、清照を見つめていた。
「なんだ?」
「いや。よくかえってきてくれたと思って」
「そうだな。今は星玉を持ちかえってよかったと思う。あの力のおかげで、布拉赫の賊も追いはらうことができたし——」
「違う。あなたが帰ってきたことが、喜ばしいのだ」
清照は声もなく、目をみはった。
李冰陽は手をのばし、清照の手を取る。
そしてその指先に、そっと口付けた。
「よく、ご無事で戻られた——」
声にされなかった名前は、唇の動きだけで、指先に伝えられた。
「……ありがとう」
そのとき強い風が吹いて、李冰陽の日よけの布を飛ばした。
「お」
「どうした、風使い!」
清照は声をあげて笑うと、李冰陽の指をほどき、布を追って走りだした。
「それくらい、自分で拾いに行くぞ」
「私がやるさ。怪我人はすわっていろ」
羽のように軽い布をやっとつかまえてふりかえると、李冰陽は清照に笑いかけていた。
「清照!」
名を呼んで、手をふる。
清照もこたえて、布を翼のように大きく広げ、風をはらませた。荒野をわたる風を、両手いっぱいに感じた。
(——帰ってきた)
高く青い天をあおぐ。
眩しい青空に、星は見えない。
それでも、今も星々が自分たちを見おろしていることを、清照はたしかに感じた。