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第七話 絶望へと変わる



黒冠が咆哮した。


それは獣の叫びであり、同時に世界そのものを拒絶する、切実なまでの抗いだった。


漆黒の壁が幾重にも展開される。

空間そのものが歪み、つむぎの魔法を削り取ろうと狂ったように軋みを上げる。


――それでも。


銀色の光は、止まらなかった。


あらゆる属性が、黒冠を叩きのめす。

極彩色の炎が呑み込み、凍てつく絶対零度が四肢を縫い止め、天を割る雷が外殻を撃ち抜く。

逃げ道を奪う風の刃。闇を焼き払う無慈悲な光。


黒冠が抗うたび、新たな魔法陣が空間を埋め尽くした。


一つを防げば、十が襲う。

十を防げば、百が迫る。

百を防げば――千の天災が、その上から容赦なく降り注ぐ。


圧倒的。

あまりにも理不尽な、一方的な蹂躙。


数分前までつむぎを地面に這いつくばらせていた死の象徴が、今や指先一つ分すら彼女に届かない。


黒冠が死に物狂いで腕を振るう。

だが、その動きは銀の光に触れた瞬間、運動エネルギーごと停止した。


黒冠が全魔力を解き放ち、自爆覚悟の衝撃波を放つ。

だが、その力はつむぎの周囲に浮かぶ魔法陣に呑み込まれ、何事もなかったかのように別の属性へと変換されて消え失せた。


どこにも逃げ場などない。

この空間の「ルール」そのものが、すでに彼女の手の中にあった。


「……あはっ」


つむぎは、心底楽しそうに微笑んだ。


「すごいですね、これ。こんなことまでできちゃうんだ」


自分の振るう力だというのに、まるで他人の手品でも鑑賞しているような呑気さだった。

目の前で起きている奇跡と崩壊を、興味深そうに観察している。


「これなら……今月の報酬、かなり期待できそうですね」


ふふっ、と可憐に呟きながら、つむぎは右手を軽く払った。


その指先の動きに追従し、空を埋め尽くす無数の魔法陣が一斉に黒冠へと照準を合わせる。


「それじゃあ、終わりにしましょうか」


世界から色が消える。


炎も、氷も、雷も、風も。

光も闇も、概念すらも――すべてが一つの光球へと収束していく。


つむぎの指先の上に現れたのは、手のひらに収まるほどの、小さく淡い銀色の光。


けれど、それが何を意味しているのか。

黒冠は、本能で理解してしまった。


怪異が、最期の力を振り絞る。

漆黒の外殻が狂った脈動を打ち、赤黒い怨嗟の魔力が噴き上がった。

封鎖区域を覆う巨大な結界が、内側からの圧力に悲鳴を上げる。


だが、つむぎの眉一つ動かない。


「大丈夫ですよ」


誰に向けた言葉なのか。

きっと、彼女自身すら分かっていない。


「あなたが何を頑張ったって――私、絶対に負けませんから」


パチン、と。

指先がかすかに跳ねた。


銀色の光が放たれる。


音はなかった。

衝撃波も、爆発すらも存在しない。


ただ、淡い光が静かに黒冠を包み込んだ。


次の瞬間、災厄の漆黒が、乾燥した砂のように崩落していく。

赤黒い眼光は儚く揺らぎ、怪異の巨大な巨体が、端から銀色の粒子へと還元されていく。


抗うことすら許されない。

黒冠は最期まで、彼女の影を踏むことすら叶わなかった。


――そして、光が収束したとき。

そこには、最初から何も存在しなかったかのような静寂だけが残されていた。


◇


『…………』


管制室は、呼吸の音すら凍りつくような沈黙に支配されていた。


誰も、言葉を出せない。


災厄級怪異。

国家規模の戦力を投入し、複数の上位魔法少女が命を捨てて挑むべき絶望。


それを、たった一人の少女が。

道端のゴミでも拾って捨てるような気軽さで、世界から消し去った。


『……た、対象の魔力反応、完全に消失』


オペレーターの震える声が、静寂を破る。


『災厄級怪異【黒冠】……討伐を確認。消滅しました……!』


玲奈は、モニターに映る無の光景を見つめたまま、金縛りに遭ったように動けずにいた。


ほんの数分前まで、彼女はつむぎの死を覚悟していた。

惨死する少女の姿を思い描き、絶望に胸を締め付けられていたのだ。


それなのに。


「……何なのよ、あなた……」


掠れた声が、玲奈の唇から零れ落ちる。


強い、なんて言葉では到底足りない。

魔法少女という概念の枠組みに押し込めていい存在ではない。


あれほどの超常の概念を書き換える力。

それを、何の代償もなく行使できるはずがないのだ。


そして玲奈の脳裏に、ぞっとするような寒気とともに思い浮かぶ。

つむぎが契約した、あの異質な魔法名。


【私の希望、君の絶望】。


――あの少女は、いったい何を対価として差し出した?

何を削り、何を失うことで、あの理不尽を手に入れたというのだ。


「……白門さん!」


耐えきれず、玲奈は狂ったように通信回線を開いた。


「聞こえる!? 白門さん、応答して!」


『はいはーい? 聞こえてますよー』


スピーカーから返ってきたのは、拍子抜けするほど軽やかな声だった。

いつもの、少し呑気で無防備な少女の声。


『えっと、黒冠でしたっけ? 無事に倒せました。あ、それより特級討伐の特別報酬って、いつ頃振り込まれますか?』


「……あなたね」


玲奈は強く額を押さえた。頭痛が視界を眩ませる。


「今、自分がどれだけの異常を成し遂げたのか分かっているの!?」


『え……? 頼まれた怪異を、普通に倒しただけですけど……』


心底不思議そうな、何の嘘もない声。


玲奈は息を呑み、絶句した。


この少女には、畏れという感情がないのか。

己の振るう神のごとき力への恐怖も、世界を救った実感すらも。


……いや。

彼女はすでに、「人間として大切な何か」を喪失しているのではないか。


「……とにかく、直ちに帰還しなさい。本部で直接、話を聞かせてもらうわ」


『分かりました。報酬の件も、前向きによろしくお願いしますね!』


「……ええ。善処するわ」


『やったぁ。つなぎにおいしいケーキでも買って帰ろうかな』


プチッ、と通信が切れる。


玲奈は受話器を握りしめたまま、眩暈に耐えていた。


世界が救われたというのに、恐怖で全身の毛羽が立つ。

あの少女の頭の中にあったのは、どこまでも――妹のことだけだったのだから。


◇


誰もいなくなった封鎖区域。


つむぎは、かつて黒冠が存在していた空間を見つめて首を傾げていた。


「うーん……」


ほんの少しだけ、罪悪感めいたものが過る。


「ちょっとだけ、やりすぎちゃったかな?」


地面にはクレーターのような大穴が開き、周囲のビル群は余波だけで半壊していた。

もう少し加減して戦うべきだったかもしれない。


けれど、過ぎたことを悩むのは時間の無駄だ。


「まあ、いっか。帰ろ」


つなぎが家で待っている。

そう思った瞬間、つむぎの足取りは羽のように軽くなった。


帰ったら、まず手洗いうがいをさせて。

夕食は何にしよう。

今日は奮発して、つなぎが大好きなハンバーグと、あの店のイチゴショートを買っていこう。


軽やかな足取りで歩き出すつむぎ。


その背後――

黒冠が消滅した爆心地の真ん中に、指先ほどの黒い欠片が『一つだけ』遺されていることにも気づかずに。


◇


静まり返った廃墟。


残された砕けた黒い欠片が、かすかに、ピクリと脈打った。


それは怪異の肉片などではない。

まるで、この世界の崩壊と少女の力を完璧に観察・記録するために遺された――『不気味な瞳』。


カチリ、と亀裂が入る。


そして、瓦礫の隙間から、誰の耳にも届かない声が零れ落ちた。


『……あぁ』


それは、世界の底から響くような、擦り切れた怨嗟の声。


『そうか……お前も、すでに捧げ尽くしていたか……』


パリン、と黒い欠片が粉々に砕け散る。


『ならば……いずれ訪れるだろう』


最後の言葉は、風に溶けて誰にも届かない。

けれど、残された呪いだけは、確実に空間に刻みつけられた。


『――お前の抱くその【希望】も、絶対に【絶望】へと変わる』


静寂が戻る。

何事もなかったかのように、夜の冷たい風が街を吹き抜けていく。


その頃、つむぎはすでに、大好きな妹の待つ家へと足を急がせていた。


今日も、つなぎは「おかえり」と笑ってくれる。

今日も、つなぎは温かく自分を抱きしめてくれる。


そのためなら。


自分の感情が壊れてもいい。

世界がどれだけ狂ったって構わない。


――その一筋の純粋すぎる願いが、いつか自分自身の存在すら完全に破滅させるのだとも知らずに。





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