第19話 ターニングポイント
震えた息遣いを安達は感じた。
慧は重ねられた手に顔を向け、暫し動きを止める。
それからやがて、重ねられた手にへ更に、自分の空いていた方の手を伸ばしたのだった。
「よろしく、おねがいします。……義一さん」
彼は恐る恐るといった様子で安達の手に自ら触れながら、彼が下手くそに笑う。
相手を不快にさせないようにという行き過ぎた配慮なのか、心の距離を推し量るように畏まった言葉遣いをする慧の恐怖を安達は感じ取る。
「……さんはいらない。敬語も」
「……よし、かず?」
「ん」
出来るだけ自分に対し身構える事無く、気楽に接して欲しい。
そう思う一方で安達は、昔のように兄として慕ってくれていいなどとは口が裂けても言えなかった。
同時に、精神的に弱っており安達に依存するしかない立場の慧に謝罪を述べる事も、安達自身が許せなかった。
「よろしくな、慧」
慧の頭を撫でる安達の顔は、その優しい手つきに反してあまりに険しいものだった。
(……これでいい。許されようなんて思うべきじゃない。俺に出来るのは、ただ行動で示す事だけ。……何があってもこいつを守り続けるという事だけ)
安達の瞳は、自身への激しい憎悪と憤りで燃えていた。
彼は一つの大きな決意を、自分に言い聞かせるように胸の内で呟く。
(たとえ――俺自身を犠牲にする事になったとしても)
***
慧が姿を消し、一人取り残された安達は足元に転がる刀を呆然と見下ろす。
(何が、守り続けるだ)
慧の前では秘めていた、胸の奥で燃え続ける怒りが湧き立っていく。
身を焦がすような憤りに安達は奥歯を強く噛み締めた。
(助けを求める事すら出来ないあいつの気持ちに気付かないどころか、脅威から助けてやる事すら出来なかった)
「何も、変わってねぇじゃねぇか……っ」
一度目に交わした約束と、心の底から安堵したような慧の泣き笑い。
病室で交わした二度目の約束と、不安気にはにかんだ慧の顔。
そして怪異に襲われる直前、慧が浮かべた諦めたような笑顔。
それらを思い出せば思い出す程、安達は己の無力さを痛感して気が触れそうになる。
「……ざけんなよ」
安達は落ちていた刀を拾い上げる。
(誓ったんだ。必ず助けるって)
安達はスーツから眼鏡を取り出し、装着する。
先程使用した反動からか、装着直後から大きな眩暈を覚えるが、安達がそれを気に留める事はなかった。
ズボンのポケットからはマナーモードにしていたスマートフォンが早乙女からの着信を知らせて振動していたが、それにも気付いていない。
彼の意識は、怪異に襲われた慧を救い出す事だけに向けられていた。
安達は眼鏡の奥で眼光を光らせ、遠方で蠢く巨大な影を見つけるや否や、アスファルトを強く蹴り上げて距離を詰めるのだった。
怪異の大きさは既に一般的な大きさの家屋一軒分程に渡っており、人目に触れるようになれば多くの関心と興味を引くであろう規模の存在であることは明らかだ。
煙に対し強い恐怖を抱いた慧を取り込んだ事もあり、力をつけた怪異がいつ一般人の目に留まるかも定かではない。
また、人目がある中で刀や拳銃という武器は扱えない。
路地裏から市街地の真ん中へ、怪異が逃げ切る前に仕留める必要があった。
(核が複数ある)
眼鏡で一時的に怪異を認識できるようになった安達は慧を呑み込んだ怪異の中に核が複数存在するのを確認した。
(偽物か、全てが本物かはわからねー。なら、全部潰せばいいだけだ)
既に眼鏡を使った直後であった安達の体の負担は大きく、彼の視界は焦点が合わず白んでいる。
しかし安達は自分に起きている異変に一切目もくれず、建物の間を飛行する怪異を追いかけた。
人気のない路地で乾いた発砲音が鳴り響く。
それは怪異の体の、比較的端に存在する核の一つを潰した。
(怪異の捕食の目的はあくまで感情の搾取だ。特に大きな養分になると判断した餌をすぐに殺したりはしないはず。慧は生きている可能性が高い。だが)
怪異が甲高い悲鳴を上げる。
スーツの下に隠していた拳銃を取り出した安達は更に二発の銃弾を怪異へ浴びせる。
それぞれ怪異の体の端を削り、うち一つは核も損傷させた。
だが残された核の殆どは怪異の体の中心部分に集中している。
(闇雲に弾を撃ち込めば慧に当たりかねない)
安達は怪異の身体の輪郭を徐々に削るように銃弾を放つ。
幸い、痛みから悲鳴を上げる怪異の飛行の高度は徐々に落ち、動きも鈍りつつあった。
そして、安達が何発目かの銃弾を怪異へ命中させた時、黒く悍ましい塊は急降下し、激しくアスファルトへ身体を打ち付けた。
充分に距離を詰められる戦況に持ち込んだ安達だが、残された時間はそう多くはない。
眼鏡の使用制限である十秒をとっくに超えた安達の頭は常に締め付けるような痛みを伴っており、本来感じる事が出来ないはずの情報量を享受した脳が大きな負担を伴う事でいくつかの毛細血管が損傷され、それは彼の目や鼻からの出血という症状を伴った。
おまけに度重なる発砲。
その音は離れた場所まで響いてあるはずであり、不思議に思った一般人が現場に駆けつけるのも時間の問題であった。
安達は拳銃を懐に収めると、持っていた刀を抜く。
そして、怒りに駆られた咆哮をぶつける怪異へ、安達は迷わず直進するのだった。




