第1話 ユーレイ
2LDKのとあるマンションの一室。
家主のいないリビングの中で、壁の一部が突如大きく波打つ。
まるで湖に石を落とした時の波紋の様であったそれは徐々に頻度を増していき、終いには黒く変色した挙句、沸騰したお湯のようにボコボコと変形する。
そして液状になった壁は触手のように一部を長く伸ばし、テレビに触れ――あっという間に呑み込んだ。
液体に呑み込まれたテレビは壁の中まで引きずり込まれ、姿を消し……その瞬間、壁の液状化も突然フッと収まった。
まるで何事もなかったかのように、その場には沈黙が訪れる。
それを破ったのは、玄関扉が開く音だ。
「うんうん、義一が教えてくれた通りだね。……お邪魔しまーす」
「律儀に挨拶してる場合か」
靴を脱ぐことなく、一切の躊躇を見せずに家の中を突き進むのは学ランを来た小柄で華奢な少年と、スーツ姿の青年。
青年の装いは特段おかしな点もないが、少年の方は聊か風変りな格好をしていた。
目元には細く長い帯が巻き付けられており、彼の瞳は完全に隠されている。
おまけに彼は竹刀袋を肩に掛けていた。
一方の青年は背が高く、体も目に見えて筋肉質という訳ではないが、きちんと引き締まっており、それなりに鍛えている人物である事が伺える。
青年は視界が覆われている少年の手を取ってリビングへと先導する。
「ほら、ついたぞ」
「ありがとう」
リビングへ辿り着いた青年が少年へ一言声を掛ける。
少年は頷きを返すと竹刀袋から刀を取り出し、それをゆっくりと抜いた。
銀色に反射する美しい刃。
周囲の景色を映すそれが作り物の類ではない事は明白であった。
現代の日本に於いて携帯を禁じられている、斬る為の武器。
「……視えた」
それをゆったりとした美しい所作で構えた少年は数秒ほどその場に制止した後、テレビ台の方を見やって呟く。
彼は足音を最低限に留め、テレビが存在しないテレビ台に近づくと――後方の壁へ素早く刀を突き立てた。
老若男女、様々な声が重なり合ったような、奇妙で悍ましい悲鳴がリビングの静寂を裂く。
刀を突きたてられた壁からは黒い淀みが溢れ出し、それはテレビを呑み込んだ時と同様に少年へと襲い掛かるのだった。
***
警視庁のとあるフロアを安達義一は速足で歩く。
「だーかーらー、こちとら一番使いっ走られてる身なんすよ!? これ以上仕事増やされちゃ溜まったもんじゃ……」
安達はスマートフォンを持っていない方の手で赤茶の髪を掻き上げる。
通話先は同じ課の先輩。彼は今仕事を押し付けられそうになっていた。
「若さは関係ねー……。こんなん交番勤務の時より歩き回ってますって。ただでさえ体力仕事だってのに」
壁際に備えられた自動販売機に辿り着いた安達は、通話をしながらポケットをまさぐる。
そして交通系のICカードを取り出して缶コーヒーのボタンに手を伸ばした時。
反対側から同じ様に手を伸ばす人物がいた。
「あ」
安達は慌てて手を引っ込め、手振りで相手に先を譲る。
そこではたと、安達と相手の視線が重なる。
「あ……安達!?」
「斉藤?」
居合わせたのは安達の警察学校時代の同期、斉藤だ。
歳は安達より二つ上だが、関係性としてはただの友人とそう変わらない。
気さくで、付き合いやすい人物だった。
「うわマジか、ちょっと久しぶりじゃん?」
斉藤は嬉しそうに安達へ話し掛ける。
安達は苦く笑いつつ、『少し待て』と手振りをしてから耳に当てていたスマートフォンへ話し掛ける。
「すんません。ちょっと後で掛け直します」
それからすぐに通話を切ると、斉藤がバツの悪そうな顔になる。
「あ、悪い! 電話中に!」
「いや。大した用件じゃなかったし、大丈夫」
斉藤は話しながら自動販売機のボタンに触れる。
彼はスマートフォンでさっさと決済を終わらせ、缶コーヒーを取り出すと安達に場所を譲った。
「安達も交番勤務終わってこっち来てるってのは聞いてたけどさ。何か全然会わねぇなぁって思ってたんだよなー」
「警視庁の広さ舐めんなって」
安達は缶コーヒーを一つとココアを一つ購入する。
「ココアって。随分可愛いの選ぶな。好きだっけ?」
「いや、これは仕事仲間の」
「あーなるほどな」
安達と斉藤は自動販売機横の椅子に並んで腰を下ろす。
「安達は仕事どーなん。刑事部だろ、このドエリートめ」
「そんなんじゃねーって。俺の場合はたまたまだ」
「謙遜も過ぎると嫌味だぞー」
「マジだって。っていうか、そっちこそ忙しそうだけど? 隈出来てるじゃん」
「あ、バレた? ちっとね」
斉藤の目の下には深い隈が出来ていた。
警察はどうしたって、不規則やイレギュラーなスケジュールに悩まされる仕事だ。
彼は今、仕事に追われている時期なのだろう……と安達は踏んでいた。
「最近、寝付けなくてさぁ」
「忙しくて?」
「いや。今は落ち着いてる方だけど、布団入っても色々考えちゃってさ」
「ふーん」
仕事関係で頭を悩ませる事も、そのせいでなかなか寝付けない事も、安達にもよくある経験だった。
故に彼は軽く聞き流していたのだが。
「安達さぁ」
「ん?」
「……ユーレイとかって、信じる?」
突拍子の無さ過ぎる問いかけだった。
斉藤自身もその自覚があるのか、へらへらと笑っている。
しかし……安達はその言葉に目を見開き、斉藤を真っ直ぐと見た。
「何か見たのか?」
「いや、見たっていうか…………え、何。お前そういうの信じる系だっけ」
「あー、まあ。最近ちょっとな」
「うわ、ぽくねー」
「うるせー。で? そういう話してくる斉藤の方こそ、何か話したそうに見えるけどな」
「いやー、はははは」
斉藤ははじめ、直前までと同じような明るい調子で笑っていた。
しかし安達がその空気に乗らず、ただ真剣な面持ちで彼を見つめていると、やがて彼の笑いはどんどん乾いたものへと変化し、最後には顔を引き攣らせて項垂れてしまう。
「いや、こんなの言ったって、笑われるかもしんないけどさ」
俯き、目元を前髪で隠したまま斉藤は重々しく話を切り出した。
「うちにさ、何かいそうなんだよ」




