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孤得集 ――届かなかった人たち

同類

作者: FU
掲載日:2026/05/10

僕が山に入った日、雨はちょうど上がったばかりだった。


十月の終わりで、腐った落ち葉が泥に沈み、踏んでも音がしなかった。山のふもとではまだ二本立っていたスマホの電波も、古いトンネルを越えたあたりで、ただの黒い画面になった。僕はそれを上着のポケットに突っ込み、さらに奥へ進んだ。


探検に来たわけではなかった。


何かを探しに来たわけでもなかった。


誰も僕を知らない場所に行きたかっただけだ。


地図によれば、山の中には古い遊歩道があって、杉林を抜ければ廃れた展望台に出られるはずだった。けれど僕は道を間違えた。夕方、霧が木の根元から湧き上がってきたころ、村が見えた。


地図に載っている観光地ではなかった。


廃村にも見えなかった。


家は残っていた。木戸は閉じられ、窓に明かりはなかった。道端には水桶が並び、雨水を受けていた。その水面には波ひとつなかった。


村の入口で、軒下に座って木を削っている老人を見つけた。


老人は顔を上げた。


小刀の動きが止まった。


数秒、目が合った。


「どうやってここまで来た」


老人が言った。


「道に迷いました」


僕は答えた。


どこから来たのかとも、雨宿りしていけとも言わなかった。


「暗くなる前に出ていけ」


老人は言った。


僕は来た道を振り返った。杉林はもう霧に呑まれていた。


「今からじゃ無理です」


僕がそう言うと、老人は木片を置いて立ち上がった。ひどく痩せていて、服が体に掛かっているだけのように見えた。彼は村の奥を一度見てから、家に入り、戸を閉めた。


僕は村の中を歩き回った。宿も店もなく、電波もなかった。いくつかの家に明かりがついたが、僕が近づくと、その明かりは消えた。


最後に、家の裏手から中年の女が出てきた。手には石油ランプを持っていた。


「学生さん?」


彼女が訊いた。


僕はうなずいた。


女は僕のリュックを見て、それから僕の顔を見た。


「今夜は納屋にいなさい」


彼女は言った。


「外に出てはいけない」


納屋は村の端にあり、黒ずんで青く見える林に面していた。中には薪とぼろ布、空の米袋が積まれていた。女は湿った布団を一枚くれると、そのまま出ていこうとした。


「ここは、何という場所ですか」


僕は訊いた。


女は入口で足を止めた。


ランプの光が、彼女の顔の半分だけを照らしていた。唇がわずかに動いた。何か言おうとして、結局こう言った。


「怖がらなくていい。あれらは殺しに来るんじゃない。置き間違えられたものを、連れ戻しに来るだけだから」


戸が閉まった。


薪のそばに横になっていると、外で人が歩く音がした。


最初は一人。


次に、何人も。


足音は村の家々から出てきて、同じ方向へ進んでいった。誰も話さなかった。ときどき、風に押された木戸が小さく鳴った。


僕は起き上がった。


納屋の壁には古い紙がいくつか、釘で留められていた。黄ばんで、端が丸まり、文字が書かれている。戸の隙間から差す月明かりを頼りに読んだ。


字は乱れていた。かろうじて読めたのは一文だけだった。


「失われた者を夜に入れるな」


鐘の音がした。


村には寺も、鐘楼もなかった。その音は地面の下から聞こえるようで、一つ一つの間隔は遠いのに、納屋の埃を震わせた。


戸の隙間から外を覗いた。


村人たちは道に立っていた。


輪になっているわけでもない。踊っているわけでも、呪文を唱えているわけでもない。ただ立って、林の奥を見ていた。一人一人が灯りを持っている。その光は折れ曲がった一本の線になり、地面に横たわる背骨のようだった。


老人もそこにいた。


昼に僕を納屋へ案内した女もいた。


鐘が止むと、霧が少しだけ薄くなった。


林の中から、何かが出てきた。


最初、それは木だと思った。


高く、ゆっくりとしていて、枝のようなものが霧の中から伸びていた。けれど次の瞬間、その「枝」はありえない角度に折れ曲がった。形が定まっていなかった。見つめていると人のように見え、視線を外してまた見ると、濡れた黒い布の塊にも、逆さに吊られた鹿にも、いくつもの顔を揉み合わせたものにも見えた。


村人たちは逃げなかった。


最初の灯りが消えるまでは。


それは突然だった。


灯りを持っていた人はまだ立っていた。けれどその影が消えていた。次に、その人の体が、見えない糸で中心から抜き取られたように、衣服だけを地面に残して空になった。


二つ目の灯りも消えた。


それから三つ目。


それらは林からゆっくり出てきた。誰かのそばを通るたび、その人から何かが欠けていった。腕や足の一部ではない。まるで世界の中から、その人の分だけを消しゴムで擦り取っていくようだった。


僕は納屋の戸を押し開け、よろめきながら村の外へ走った。


一人の男が僕の横を駆け抜けた。肩がぶつかったが、謝りも振り返りもしなかった。十歩も行かないうちに、男は突然止まった。


目の前に、あれが立っていた。


それは身をかがめた。


男は叫ぼうと口を開けた。だが声は出なかった。


男の顔が、見知らぬものに変わっていった。


一枚一枚、僕の知らない顔へと入れ替わる。老人、子ども、女、死人。最後には、目も鼻も口もない白い皮膚になった。


男は倒れた。


それが顔を上げた。


僕を見た。


僕はその場に立ちすくんだ。足が動かなかった。雨上がりの泥水が靴に染みこみ、針のように冷たかった。


それは近づいてきた。


とても近くまで来た。体から漂う匂いまでわかった。腐臭ではなかった。深い水、錆、冬の石の匂いだった。形の定まらない頭を低く下げ、僕の顔の前で長いあいだ止まった。


僕は目を閉じた。


何も起こらなかった。


再び目を開けると、それは僕を迂回して、村の中心へ向かっていた。


見えていなかったわけではない。


見えていた。


ただ、僕を数に入れなかったのだ。


僕は空き家に逃げ込んだ。


部屋には机があり、その上には茶碗が置かれていた。中の飯はまだ食べ終わっていなかった。


戸につっかえ棒をして、床に座り込んだ。


外の音は少しずつ減っていった。


木の折れる音。


灯りの笠が割れる音。


誰かが爪で戸を引っかく音。それは長く続き、急に止んだ。


やがて、軒先から雨水が落ちる音だけになった。


その後、家の外で足音がした。村人の足音ではなかった。


軽い音だった。濡れた布が床を引きずるような音。


戸の隙間の下に、影が止まった。


僕は息を止めた。


戸は破られなかった。


影はしばらく立っていたが、やがて去っていった。


その夜は、とても長かった。


夜が明けると、村には誰もいなかった。


死んでいたのではない。


いなかった。


道には服と、灯りと、靴と、割れた眼鏡が残っていた。家々はそのままで、茶碗もそのままで、戸口の水桶もそのままだった。水面には灰白色の空が映り、ガラスの膜のように平らだった。


僕は村の入口へ向かった。


それらはそこにいた。


林の縁、霧の中に、背の高さの違う影がいくつも立っていた。顔はなかったが、すべてが僕の方を向いていた。


僕は一歩後ずさった。


それらも止まった。


林の奥に、裂け目が開いた。


門ではなかった。門には少なくとも壁がある。


その裂け目は、この場所に属していなかった。空気そのものに開き、縁は焼け焦げた紙のようだったが、火はなかった。中に光も闇もなかった。ずっと遠くで、巨大な何かがゆっくりと上下していた。海のようで、水ではなかった。


声が聞こえた。


外からではなかった。


骨の内側で響いた。


とても小さく、古い声だった。


子どものころ、眠る前に隣の部屋で誰かが低く話しているのを聞くような。内容はわからないのに、それが危険ではないとわかる声だった。


僕は一歩前へ出た。


そして止まった。


誰に向けて言っているのか、自分でもわからなかった。


「帰らないと」


霧の中で、影たちは静かに待っていた。


急かしもしなかった。怒りもしなかった。


僕は来た道へ向かって走った。


村の道を抜け、古い家々を過ぎ、杉林へ飛び込んだ。木の影が何層にも重なって押し寄せてくる。振り返ることはできなかった。夕方になって、ようやくスマホが震え、画面が点いて、電波が戻った。


僕は山ふもとのバス停に立ち、手がひどく震えていた。


最終のバスが来た。


ドアが開いた。乗客はいなかった。


僕は最後部の席に座り、自分の靴を見下ろした。泥だらけだった。その泥の中に、細い黒い葉のようなものが混ざっていた。つまんで取ってみると、それは葉ではなかった。


とても薄い皮のようだった。


バスが発車した。


窓ガラスに僕の顔が映った。


僕の隣に、人が座っていた。


僕は勢いよく振り向いた。


確かに、そこには一人座っていた。


若く、青白く、体に合っていない濃い色の上着を着ていた。髪は濡れて額に張りついている。顔立ちははっきりしていた。けれど、はっきりしすぎていた。多くの人の顔を見本にして組み合わせたようだった。目は黒く、光を映していなかった。


それはまっすぐ座り、両手を膝の上に置いていた。


前を見ていた。


一言も発しなかった。


運転手がバックミラー越しにちらりと見た。


「友だち?」


僕は口を開けた。


それがゆっくりと顔をこちらへ向けた。


表情はなかった。


「……はい」


僕は言った。


運転手はもう何も聞かなかった。


バスは山道を抜けていった。


窓の外で木々が後ろへ流れる。空は少しずつ暗くなった。


それは僕を見なかった。ただそこに座っていた。


学校に戻ったのは、翌日の午後だった。


僕は病欠の連絡を入れ、山で転んだと言った。


その夜、眠れなかった。


ベッドに横になっていると、それが窓辺に立っているのが見えた。


窓の外にはキャンパスの街灯があった。傘を差した学生たちが何人か通り過ぎ、笑い声が途切れ途切れに聞こえた。それは手をガラスに当てていた。指は長く、関節の位置が少しおかしかった。


「何がしたいんだ」


僕は言った。


それは振り向きもしなかった。答えもしなかった。


僕は起き上がった。


「ついてくるな」


それがゆっくり振り向いた。


急に腹が立った。


「お前たちは間違えてる」


僕は言った。


「僕はそっち側のものじゃない」


それは僕を見ていた。


「僕は人間だ」


それでも、まだ僕を見ていた。


部屋は静かだった。


静かすぎて、自分がその言葉を言い終えたあと、喉の奥に残った小さな息の音まで聞こえた。


僕は布団を引き上げ、背を向けた。


朝になっても、それはそこに立っていた。


それから数日、それはずっと僕についてきた。


教室へ行くときも、学食へ行くときも、コンビニへ行くときも、駅へ行くときも。


不思議なことに、ほとんど誰もそれに気づかなかった。


ある日、グループワークがあった。


図書館の二階で、四人が机を囲んでいた。


僕の隣の席は空いていた。


それがそこに座っていた。


メンバーの一人が資料をこちらへ滑らせる。紙はそれの手元をすり抜け、僕の前で止まった。


「顔色悪いよ」


一人の女子が言った。


「寝不足で」


僕は答えた。


「最近、無理しないでね」


彼女は自然に言った。


自然すぎて、僕は一瞬、本当に心配してくれているのだと思いかけた。だが彼女はすぐにスマホを見下ろし、少し笑って、誰かへの返信を打ち始めた。


僕はその笑顔を見た。それもその笑顔を見ていた。


それは彼女のまねをするように、ごくゆっくりと口角を上げた。


夜、僕はキャンパスを長いあいだ歩いた。


また雨が降っていた。街灯が雨筋を細い線のように照らしている。グラウンドには誰もいなかった。校舎の窓が一つ一つ明るく、閉じることを拒む目のようだった。


それは僕の後ろを歩いていた。


いつも三歩の距離を保っていた。


僕が止まると、それも止まる。


僕が歩くと、それも歩く。


振り返って見た。


「僕を戻したいのか」


反応はなかった。


「あの場所へ?」


雨がそれの顔に落ち、顎を伝って滴った。


それは手を上げ、僕を指した。


次に自分を指した。


最後に遠くを指した。


「あっちに何がある」


それは手を下ろした。


長いあいだ待った。


何も起きなかった。


その夜、僕はあの裂け目の夢を見た。


裂け目の向こうには大きな海があった。


色はなく、果てもなかった。海の中で多くのものが動いていた。眠っている島のようでもあり、目を閉じた胎児のようでもあった。それらは互いに触れ合っていた。声も言葉もなかったが、互いがそこにいることを知っていた。


僕は岸に立っていた。誰も僕を呼ばなかった。けれど、そこに僕の場所があることだけはわかった。


卒業説明会の日、講堂は人でいっぱいだった。


僕は最後列に座った。


それは僕の隣に座っていた。


僕は自分の手を見下ろした。


手の甲に細い黒い線があった。


いつからあったのかわからない。


手首から指の関節へ伸びていて、木の根にも、亀裂にも見えた。


爪でこすった。


消えなかった。


隣で、それも僕の手を見下ろしていた。


それから、自分の手を膝の上に置いた。


その手の甲にも、同じ線があった。


説明会が終わり、人の流れが外へ向かった。


講堂は少しずつ空になった。


照明が一つずつ消えた。


最後に残ったのは、非常口の緑の光だけだった。


それが立ち上がった。


講堂の後ろの壁に、裂け目が現れた。


裂け目はゆっくりと広がっていった。


風は吹いてこなかった。


音もなかった。


けれど山の匂いがした。雨上がりの泥。深い水。錆。冬の石。


僕はそこに立ったまま、長いあいだ動かなかった。


自分の名前を思い出した。


それは出席簿にあり、学生証にあり、メールアドレスにあり、いくつかのシステムが自動生成した書類の中にあった。


僕は最前列へ行き、机に置き忘れられたペンを拾って、自分の名前を書いた。


書き終えて、その名前を見た。


ひどく見知らぬものに見えた。


それはなお、裂け目のそばで待っていた。


僕は歩いていった。


一歩。


また一歩。


向こう側には空も地面もなかった。


遠くに巨大な黒い海が、ゆっくりと起伏していた。星と呼べない無数のものがそこに浮かび、開いた目のようにも、消えた灯りのようにも見えた。


僕は縁に立った。


海から、巨大な影たちが身を起こした。


僕は前へ進んだ。


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