同類
僕が山に入った日、雨はちょうど上がったばかりだった。
十月の終わりで、腐った落ち葉が泥に沈み、踏んでも音がしなかった。山のふもとではまだ二本立っていたスマホの電波も、古いトンネルを越えたあたりで、ただの黒い画面になった。僕はそれを上着のポケットに突っ込み、さらに奥へ進んだ。
探検に来たわけではなかった。
何かを探しに来たわけでもなかった。
誰も僕を知らない場所に行きたかっただけだ。
地図によれば、山の中には古い遊歩道があって、杉林を抜ければ廃れた展望台に出られるはずだった。けれど僕は道を間違えた。夕方、霧が木の根元から湧き上がってきたころ、村が見えた。
地図に載っている観光地ではなかった。
廃村にも見えなかった。
家は残っていた。木戸は閉じられ、窓に明かりはなかった。道端には水桶が並び、雨水を受けていた。その水面には波ひとつなかった。
村の入口で、軒下に座って木を削っている老人を見つけた。
老人は顔を上げた。
小刀の動きが止まった。
数秒、目が合った。
「どうやってここまで来た」
老人が言った。
「道に迷いました」
僕は答えた。
どこから来たのかとも、雨宿りしていけとも言わなかった。
「暗くなる前に出ていけ」
老人は言った。
僕は来た道を振り返った。杉林はもう霧に呑まれていた。
「今からじゃ無理です」
僕がそう言うと、老人は木片を置いて立ち上がった。ひどく痩せていて、服が体に掛かっているだけのように見えた。彼は村の奥を一度見てから、家に入り、戸を閉めた。
僕は村の中を歩き回った。宿も店もなく、電波もなかった。いくつかの家に明かりがついたが、僕が近づくと、その明かりは消えた。
最後に、家の裏手から中年の女が出てきた。手には石油ランプを持っていた。
「学生さん?」
彼女が訊いた。
僕はうなずいた。
女は僕のリュックを見て、それから僕の顔を見た。
「今夜は納屋にいなさい」
彼女は言った。
「外に出てはいけない」
納屋は村の端にあり、黒ずんで青く見える林に面していた。中には薪とぼろ布、空の米袋が積まれていた。女は湿った布団を一枚くれると、そのまま出ていこうとした。
「ここは、何という場所ですか」
僕は訊いた。
女は入口で足を止めた。
ランプの光が、彼女の顔の半分だけを照らしていた。唇がわずかに動いた。何か言おうとして、結局こう言った。
「怖がらなくていい。あれらは殺しに来るんじゃない。置き間違えられたものを、連れ戻しに来るだけだから」
戸が閉まった。
薪のそばに横になっていると、外で人が歩く音がした。
最初は一人。
次に、何人も。
足音は村の家々から出てきて、同じ方向へ進んでいった。誰も話さなかった。ときどき、風に押された木戸が小さく鳴った。
僕は起き上がった。
納屋の壁には古い紙がいくつか、釘で留められていた。黄ばんで、端が丸まり、文字が書かれている。戸の隙間から差す月明かりを頼りに読んだ。
字は乱れていた。かろうじて読めたのは一文だけだった。
「失われた者を夜に入れるな」
鐘の音がした。
村には寺も、鐘楼もなかった。その音は地面の下から聞こえるようで、一つ一つの間隔は遠いのに、納屋の埃を震わせた。
戸の隙間から外を覗いた。
村人たちは道に立っていた。
輪になっているわけでもない。踊っているわけでも、呪文を唱えているわけでもない。ただ立って、林の奥を見ていた。一人一人が灯りを持っている。その光は折れ曲がった一本の線になり、地面に横たわる背骨のようだった。
老人もそこにいた。
昼に僕を納屋へ案内した女もいた。
鐘が止むと、霧が少しだけ薄くなった。
林の中から、何かが出てきた。
最初、それは木だと思った。
高く、ゆっくりとしていて、枝のようなものが霧の中から伸びていた。けれど次の瞬間、その「枝」はありえない角度に折れ曲がった。形が定まっていなかった。見つめていると人のように見え、視線を外してまた見ると、濡れた黒い布の塊にも、逆さに吊られた鹿にも、いくつもの顔を揉み合わせたものにも見えた。
村人たちは逃げなかった。
最初の灯りが消えるまでは。
それは突然だった。
灯りを持っていた人はまだ立っていた。けれどその影が消えていた。次に、その人の体が、見えない糸で中心から抜き取られたように、衣服だけを地面に残して空になった。
二つ目の灯りも消えた。
それから三つ目。
それらは林からゆっくり出てきた。誰かのそばを通るたび、その人から何かが欠けていった。腕や足の一部ではない。まるで世界の中から、その人の分だけを消しゴムで擦り取っていくようだった。
僕は納屋の戸を押し開け、よろめきながら村の外へ走った。
一人の男が僕の横を駆け抜けた。肩がぶつかったが、謝りも振り返りもしなかった。十歩も行かないうちに、男は突然止まった。
目の前に、あれが立っていた。
それは身をかがめた。
男は叫ぼうと口を開けた。だが声は出なかった。
男の顔が、見知らぬものに変わっていった。
一枚一枚、僕の知らない顔へと入れ替わる。老人、子ども、女、死人。最後には、目も鼻も口もない白い皮膚になった。
男は倒れた。
それが顔を上げた。
僕を見た。
僕はその場に立ちすくんだ。足が動かなかった。雨上がりの泥水が靴に染みこみ、針のように冷たかった。
それは近づいてきた。
とても近くまで来た。体から漂う匂いまでわかった。腐臭ではなかった。深い水、錆、冬の石の匂いだった。形の定まらない頭を低く下げ、僕の顔の前で長いあいだ止まった。
僕は目を閉じた。
何も起こらなかった。
再び目を開けると、それは僕を迂回して、村の中心へ向かっていた。
見えていなかったわけではない。
見えていた。
ただ、僕を数に入れなかったのだ。
僕は空き家に逃げ込んだ。
部屋には机があり、その上には茶碗が置かれていた。中の飯はまだ食べ終わっていなかった。
戸につっかえ棒をして、床に座り込んだ。
外の音は少しずつ減っていった。
木の折れる音。
灯りの笠が割れる音。
誰かが爪で戸を引っかく音。それは長く続き、急に止んだ。
やがて、軒先から雨水が落ちる音だけになった。
その後、家の外で足音がした。村人の足音ではなかった。
軽い音だった。濡れた布が床を引きずるような音。
戸の隙間の下に、影が止まった。
僕は息を止めた。
戸は破られなかった。
影はしばらく立っていたが、やがて去っていった。
その夜は、とても長かった。
夜が明けると、村には誰もいなかった。
死んでいたのではない。
いなかった。
道には服と、灯りと、靴と、割れた眼鏡が残っていた。家々はそのままで、茶碗もそのままで、戸口の水桶もそのままだった。水面には灰白色の空が映り、ガラスの膜のように平らだった。
僕は村の入口へ向かった。
それらはそこにいた。
林の縁、霧の中に、背の高さの違う影がいくつも立っていた。顔はなかったが、すべてが僕の方を向いていた。
僕は一歩後ずさった。
それらも止まった。
林の奥に、裂け目が開いた。
門ではなかった。門には少なくとも壁がある。
その裂け目は、この場所に属していなかった。空気そのものに開き、縁は焼け焦げた紙のようだったが、火はなかった。中に光も闇もなかった。ずっと遠くで、巨大な何かがゆっくりと上下していた。海のようで、水ではなかった。
声が聞こえた。
外からではなかった。
骨の内側で響いた。
とても小さく、古い声だった。
子どものころ、眠る前に隣の部屋で誰かが低く話しているのを聞くような。内容はわからないのに、それが危険ではないとわかる声だった。
僕は一歩前へ出た。
そして止まった。
誰に向けて言っているのか、自分でもわからなかった。
「帰らないと」
霧の中で、影たちは静かに待っていた。
急かしもしなかった。怒りもしなかった。
僕は来た道へ向かって走った。
村の道を抜け、古い家々を過ぎ、杉林へ飛び込んだ。木の影が何層にも重なって押し寄せてくる。振り返ることはできなかった。夕方になって、ようやくスマホが震え、画面が点いて、電波が戻った。
僕は山ふもとのバス停に立ち、手がひどく震えていた。
最終のバスが来た。
ドアが開いた。乗客はいなかった。
僕は最後部の席に座り、自分の靴を見下ろした。泥だらけだった。その泥の中に、細い黒い葉のようなものが混ざっていた。つまんで取ってみると、それは葉ではなかった。
とても薄い皮のようだった。
バスが発車した。
窓ガラスに僕の顔が映った。
僕の隣に、人が座っていた。
僕は勢いよく振り向いた。
確かに、そこには一人座っていた。
若く、青白く、体に合っていない濃い色の上着を着ていた。髪は濡れて額に張りついている。顔立ちははっきりしていた。けれど、はっきりしすぎていた。多くの人の顔を見本にして組み合わせたようだった。目は黒く、光を映していなかった。
それはまっすぐ座り、両手を膝の上に置いていた。
前を見ていた。
一言も発しなかった。
運転手がバックミラー越しにちらりと見た。
「友だち?」
僕は口を開けた。
それがゆっくりと顔をこちらへ向けた。
表情はなかった。
「……はい」
僕は言った。
運転手はもう何も聞かなかった。
バスは山道を抜けていった。
窓の外で木々が後ろへ流れる。空は少しずつ暗くなった。
それは僕を見なかった。ただそこに座っていた。
学校に戻ったのは、翌日の午後だった。
僕は病欠の連絡を入れ、山で転んだと言った。
その夜、眠れなかった。
ベッドに横になっていると、それが窓辺に立っているのが見えた。
窓の外にはキャンパスの街灯があった。傘を差した学生たちが何人か通り過ぎ、笑い声が途切れ途切れに聞こえた。それは手をガラスに当てていた。指は長く、関節の位置が少しおかしかった。
「何がしたいんだ」
僕は言った。
それは振り向きもしなかった。答えもしなかった。
僕は起き上がった。
「ついてくるな」
それがゆっくり振り向いた。
急に腹が立った。
「お前たちは間違えてる」
僕は言った。
「僕はそっち側のものじゃない」
それは僕を見ていた。
「僕は人間だ」
それでも、まだ僕を見ていた。
部屋は静かだった。
静かすぎて、自分がその言葉を言い終えたあと、喉の奥に残った小さな息の音まで聞こえた。
僕は布団を引き上げ、背を向けた。
朝になっても、それはそこに立っていた。
それから数日、それはずっと僕についてきた。
教室へ行くときも、学食へ行くときも、コンビニへ行くときも、駅へ行くときも。
不思議なことに、ほとんど誰もそれに気づかなかった。
ある日、グループワークがあった。
図書館の二階で、四人が机を囲んでいた。
僕の隣の席は空いていた。
それがそこに座っていた。
メンバーの一人が資料をこちらへ滑らせる。紙はそれの手元をすり抜け、僕の前で止まった。
「顔色悪いよ」
一人の女子が言った。
「寝不足で」
僕は答えた。
「最近、無理しないでね」
彼女は自然に言った。
自然すぎて、僕は一瞬、本当に心配してくれているのだと思いかけた。だが彼女はすぐにスマホを見下ろし、少し笑って、誰かへの返信を打ち始めた。
僕はその笑顔を見た。それもその笑顔を見ていた。
それは彼女のまねをするように、ごくゆっくりと口角を上げた。
夜、僕はキャンパスを長いあいだ歩いた。
また雨が降っていた。街灯が雨筋を細い線のように照らしている。グラウンドには誰もいなかった。校舎の窓が一つ一つ明るく、閉じることを拒む目のようだった。
それは僕の後ろを歩いていた。
いつも三歩の距離を保っていた。
僕が止まると、それも止まる。
僕が歩くと、それも歩く。
振り返って見た。
「僕を戻したいのか」
反応はなかった。
「あの場所へ?」
雨がそれの顔に落ち、顎を伝って滴った。
それは手を上げ、僕を指した。
次に自分を指した。
最後に遠くを指した。
「あっちに何がある」
それは手を下ろした。
長いあいだ待った。
何も起きなかった。
その夜、僕はあの裂け目の夢を見た。
裂け目の向こうには大きな海があった。
色はなく、果てもなかった。海の中で多くのものが動いていた。眠っている島のようでもあり、目を閉じた胎児のようでもあった。それらは互いに触れ合っていた。声も言葉もなかったが、互いがそこにいることを知っていた。
僕は岸に立っていた。誰も僕を呼ばなかった。けれど、そこに僕の場所があることだけはわかった。
卒業説明会の日、講堂は人でいっぱいだった。
僕は最後列に座った。
それは僕の隣に座っていた。
僕は自分の手を見下ろした。
手の甲に細い黒い線があった。
いつからあったのかわからない。
手首から指の関節へ伸びていて、木の根にも、亀裂にも見えた。
爪でこすった。
消えなかった。
隣で、それも僕の手を見下ろしていた。
それから、自分の手を膝の上に置いた。
その手の甲にも、同じ線があった。
説明会が終わり、人の流れが外へ向かった。
講堂は少しずつ空になった。
照明が一つずつ消えた。
最後に残ったのは、非常口の緑の光だけだった。
それが立ち上がった。
講堂の後ろの壁に、裂け目が現れた。
裂け目はゆっくりと広がっていった。
風は吹いてこなかった。
音もなかった。
けれど山の匂いがした。雨上がりの泥。深い水。錆。冬の石。
僕はそこに立ったまま、長いあいだ動かなかった。
自分の名前を思い出した。
それは出席簿にあり、学生証にあり、メールアドレスにあり、いくつかのシステムが自動生成した書類の中にあった。
僕は最前列へ行き、机に置き忘れられたペンを拾って、自分の名前を書いた。
書き終えて、その名前を見た。
ひどく見知らぬものに見えた。
それはなお、裂け目のそばで待っていた。
僕は歩いていった。
一歩。
また一歩。
向こう側には空も地面もなかった。
遠くに巨大な黒い海が、ゆっくりと起伏していた。星と呼べない無数のものがそこに浮かび、開いた目のようにも、消えた灯りのようにも見えた。
僕は縁に立った。
海から、巨大な影たちが身を起こした。
僕は前へ進んだ。




