人が減ると、商人と厄介だけ早い
朝の灰環大迷宮は、ここ最近ずっと静かだった。
今日だけではない。
入口前の石場に立つ監察局の立札は、もう新しくない。角は湿気で少しめくれ、上から貼り直された紙の端が二重三重に浮いている。
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市属ダンジョン監察局。
灰環大迷宮。
規制監視対象。
一般探索の自粛。
未申告攻略の禁止。
届出のない運搬の制限。
確認札を持たぬ者の深部進入禁止。
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最初のうちは「そのうち解けるだろ」と言っていた探索者たちも、今ではほとんど来ない。
野次馬も減った。
半端な腕で深く潜ろうとする連中も減った。
茶屋の親父が「今日は静かだねえ」と言う日が、もう珍しくなくなっていた。
その代わり、来るやつは分かりやすい。
事情のあるやつ。
金の匂いを嗅いだやつ。
それから、ろくでもない好奇心を持ったやつだ。
「いやあ……いいねえ」
梶間豪志は、監察局の立札を見上げて、朝からしみじみと言った。
「何がだよ」
三船ローが即座に返す。
「この、"選ばれた者しか通れない"感じが、たまんねえな」
「張り切り過ぎるなよ」
豪志は黒い上着の襟を直した。
朝からずっと、妙に気合いが入っている。
「だって今日、また会えるかもしれないんだ」
「誰に」
「冥門組の親分に」
「余計なことするなよ!」
豪志はまったくへこたれなかった。
「いやでも、会いてえだろ、普通」
「普通は会いたくねえよ!」
「俺は会いてえよ。任侠に憧れる者として、こういうのは人生の節目なんで」
「節目にするな!」
その横で、国枝市蔵が荷の縄を締め直していた。
塩。
干し肉。
干した根菜。
油。
乾布。
それから、農具少々と、種芋の袋。
手つきが落ち着いている。
目も慌てない。
国枝は、取引先を見定めた商人の顔をしていた。
「では、参りましょうか」
国枝は穏やかに言った。
「今日は少し確認が長いかもしれませんが、最近はもう慣れたものです」
「最近ずっと、こんな感じなんですか」
豪志が聞く。
「ええ」
国枝は頷いた。
「灰環大迷宮は、ここしばらく監察局に絞られております。ですので、軽い気持ちの攻略者はほとんど入りません」
「へえ」
「もっとも、その分、通れる荷には値が立ちます」
「さすがだな」
ローが鼻を鳴らした。
「静かだと怖がるんじゃなくて、先に儲けを見る」
「商人ですから」
国枝は荷の縄を締めながら、少しだけ声を落とした。
「それに、灰環だけの話でもなくなりつつあります」
「どういうことだ」
とロー。
「隣のさらに隣街に、黒冠迷宮がございます」
豪志が目を丸くした。
「黒冠って、S級の?」
「ええ」
国枝は頷いた。
「灰環より上の迷宮です。表の攻略も厄介ですが、あそこは裏の流通が濃い。薬、地図、避難路、闇医者、裏の荷運び。そういうものが、表とは別に動いております」
ローの顔が少し嫌そうになった。
「S級の裏って、誰が仕切ってんの」
「それが」
国枝は短く答えた。
「人間が一人で、ほぼ握っています」
豪志が固まった。
「……人間が?」
「はい」
「S級ダンジョンの裏を?」
「はい」
ローも黙った。
灰環大迷宮の中に、魔物の本家を作ってしまった人間がいる。
それだけでも十分おかしい。
そのうえ、S級迷宮の裏側にも、似たようなことをしている人間がいる。
豪志が小さく言った。
「親分さんみたいな人が、他にもいるってことですか」
「似ているかどうかは分かりません」
国枝の声は穏やかだった。
だが、表情は笑っていなかった。
「黒冠の裏を仕切る者の名は、鴉宮千景」
「からすみや……」
ローが名前を繰り返す。
「そいつ、何者だ」
「敵に回すと、薬も地図も避難路も消える。翌日から黒冠の裏では歩けなくなる。そういう方です」
「答えが怖い」
「味方なら心強いですよ」
「敵なら?」
国枝はにこりと笑った。
「関わらない方がいいですね」
豪志はごくりと喉を鳴らした。
「S級の裏を仕切る人間……」
「お前、今ちょっと憧れただろ」
とロー。
「ちょっとだけ」
「やめとけ。絶対、親分さんとは別の怖さだ」
「とはいえ、今すぐ黒冠が灰環へ手を伸ばすわけではありません。それに今は赤牙が横から荷に噛んでいた頃よりは、だいぶ話がしやすくなりました。今は、誰に挨拶を通すべきかが前よりずっと分かりやすい」
と国枝。
「鉄顎か」
「ええ。表向きは、そう見ております」
豪志だけが少し青くなった。
「裏では、冥門組が仕切ってるんだ」
「なんだよ、怖いのかよ」
「はい。怖いです」
豪志は即答した。
ほんとうに即答だった。
「だって監察局が絞って、人も減って、普通の攻略者が来ねえのに、それでも商人が通って、組が回ってるって、完全に映画の"表に出ない本物"じゃないですか」
「お前の頭の中、全部映画だな」
「はい」
「はいじゃねえよ」
監察局の詰所で確認札を見せ、荷目録を出し、国枝が説明する。
何度か通った者の手際だった。
「登録商人、国枝市蔵でございます。本日の荷は食料、乾布、油、農具少々」
「同行二名」
「三船ロー殿は取引の仲立ち候補。こちらは……」
国枝が豪志を見る。
少しだけ考えてから、丁寧に言った。
「付き添いでございます」
「付き添い!?」
ローが振り向く。
「違うのか」
「違わないけど、もっと他に言い方あるだろ!」
豪志は胸を張った。
「冥門組の親分に会いに来ました!」
「言うなって!」
ローが額を押さえる。
監察官は豪志を一回だけ見て、それから国枝に戻った。
「内部撮影は不可。生活圏の位置公開不可。危険個体への接触は自己責任」
「承知しております」
「最近は人も少ない。余計な刺激を入れないように」
「もちろんでございます」
通された。
豪志は入口をくぐった瞬間、少しだけ声を落とした。
「……本当に入れた」
「うるさい。まだ半分だ」
ローが先に立つ。
「ここから先で余計なこと言うなよ」
「大丈夫だ」
「信用できねえな」
「信用しろよ。バカヤロー」
「やめろ!」
灰環大迷宮の空気は、外より湿っている。
壁の苔はじっとりしていて、遠くから水の落ちる音がする。
でも、以前より人の音は減っていた。
監察局の規制が効いている証拠だった。
その代わり、通る荷は慎重で、通る者は目的がはっきりしている。
国枝みたいな商人には、それがむしろ都合がよかった。
やがて、本家の門前が見えてきた。
板が増えている。
荷は左。
来客は右。
勝手に入るな。
ナナに言え。
並べ。
揉めるな。
触るな 噛まれる。
豪志が最後の板を見た。
「いい……」
「何がだよ」
「必要事項だけなのに、全部圧がある」
「帰りたい」
ローはつぶやいた。
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屋根からヒナが顔を出した。
「あ」
ローが嫌な顔をした。
「その"あ"やめろ」
「また来た。しかも今日は荷まで持ってる」
豪志は嬉しそうに胸を張った。
「覚えててくれたんですか」
「うるさいからね」
「褒め言葉だなあ」
「違うよ?」
ミズハも奥から覗いて、肩を揺らした。
「この人ほんと懲りないのね。今日も相変わらず騒がしい」
「だって、また冥門組の親分に、ご挨拶できるんですよ」
豪志は真顔で言う。
ローは額を押さえた。
「だから、大人しくしろって言ってるだろ」
「いやでも、人間界じゃ冥門組の親分っていやあ、有名人だぞ」
「それが怖いんだよ!」
「でもちょっと格好いいよな」
「お前の基準で格好よくすんな!」
そこへナナが出てきた。
「名前」
国枝が先に一礼する。
「国枝でございます」
「三船ローです」
豪志が姿勢を正した。
「梶間豪志です! おひかえなすって!」
ナナは豪志を見た。
「前も聞いた」
「覚えてくれてる!」
ヒナが屋根を叩いて笑った。
「やだ、やっぱり面白い」
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門前には、荷を持った小型種の列のほかに、見慣れない顔もいた。
赤牙の下で荷運びをしていた痩せたゴブリン。
片耳の欠けたコボルト。
縄傷の残る小型種。
それから、飯の匂いに鼻を動かしている、細い下働き崩れ。
みんな妙におとなしい。
武器を持っていない。
持っていても、入口の手前に置かせられていた。
ローが小声で言う。
「……赤牙の残りか」
「下っ端ですね」
国枝が淡々と答えた。
「食わせてもらっていただけの者、運ばされていただけの者、噛みつく前に終わった者。そういうのが流れてきております」
「追い返さないんだな」
「親父が嫌がるからね」
ヒナが屋根の上で足をぶらぶらさせながら言う。
「昨日も来てたよ。二匹は寝床だけ借りて、朝には荷運び手伝ってた」
「門前で腹ぺこのまま倒れられると、後で機嫌悪いのよ」
ミズハが笑う。
「うちの親父」
列の奥から、痩せたゴブリンが前へ出た。
「……あの」
「用件」
ナナの声は短い。
「飯、もらえるって……聞いて」
「腹減ってる?」
「へい」
「働ける?」
「少し」
「怪我は」
「ないです」
ナナは後ろを見た。
「親父」
牧人は畑側から戻って来ていた。
手に土がついている。
籠には芋と根菜が入っていた。
「どうした」
「元赤牙の下。腹減ってるって」
牧人はそれだけで頷いた。
「じゃあ先に食わせよう」
ゴブリンが目を見開く。
「……いいんですか」
「腹減ってるんだろ」
「へい」
「じゃあ飯だ」
それだけだった。
「でも、赤牙の下で——」
「今は違うんだろ」
牧人は籠をナナに渡した。
「芋、先に煮てくれ。昨日の汁あるなら入れていい」
ヒナが笑う。
「親父の"とりあえず飯だ"」
「相手が誰でも、まずごはん食べさすのよね」
ミズハも乗る。
牧人はゴブリンを見た。
「食ったら、嫌なら出てっていい。残るなら、できる範囲で手伝ってくれ」
「……追い出さねえんですか」
「寝床がいるなら言え」
ゴブリンは一回、深く頭を下げた。
腹の減ったやつの礼だった。
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豪志は勝手に仁義の場だと思って胸を熱くしている。
国枝も見ていたが、静かに牧人に話しかけた。
「親分さん」
「はい」
「本日は、前より少し多めに持って参りました」
「助かる」
「元赤牙の下で動いていた者も流れてきております。しばらくは食いぶちが要るでしょうから」
「そうだな」
牧人は普通に答えた。
「多いなら、畑も少し増やすか」
「そう仰ると思っておりました」
国枝が少しだけ笑う。
ローがすぐに口を挟んだ。
「そこ、"人が増えるから畑増やすか"で返すの、やっぱすげえな」
「飯いるだろ」
「そうですけど!」
荷の確認が始まると、国枝の声はさらに整った。
「まめじい殿、本日は塩を前回より一割増しで。干し肉は二袋。乾布は傷物が増える前提で少々多めに。油は半樽。農具少々。あと、種芋でございます」
「結構」
まめじいが帳面に書く。
「親父殿」
「多い方がいい」
「では全部受けますか」
「受けよう」
帳面が動く。
荷が動く。
本家は、静かなのに回っている。
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豪志は牧人に近づこうとしたが、クロと目が合って落ち着きなくきょろきょろしていた。
門前の奥。
三つ首。
朝なのに、そこだけ夜みたいに圧がある。
豪志は、すっと前へ出た。
ローが止めるより早かった。
「若頭さん!」
「やめろ!」
ローが頭を抱える。
「終わった……」
クロの中央が見る。
右が少しだけ唸る。
左は眠そうだった。
豪志はそこで、なぜかさらに姿勢を正した。
「本日はお日柄もよく!」
「よくない」
「お目通りいただき光栄です!」
「やめろって!」
豪志は下がらない。
「この間、カチコミあったんですよね」
「何で知ってんだよ」
「噂です! いやあ、見たかったなあ!」
「見たかったなあじゃねえよ!」
ヒナが屋根を叩いて笑っている。
「やだ、うるさい!」
「あと俺、いっぺん言ってみたいんですよ」
豪志は本気だった。
「"仁義通したいんです"って」
「どこで言うんだよ」
とロー。
「分からん!自分不器用なんで」
「いいかげんにしろ!」
クロの中央が、豪志を見たまま短く言った。
「……変だな」
「変だな、いただきました!」
豪志が感動している。
「もらうな」
ローが即座に返す。
「評価じゃねえんだよ」
ヒナはもう笑いすぎて座り込んでいた。
ミズハも肩を揺らしている。
「この人ほんと、前向きね」
「でも嘘はつかないな」
ベロが奥から覗いて言う。
「冥門組の親分に会いたいって、本当にそれだけで来てる」
「それだけで来るなよ!」
ローのつっこみだけが忙しい。
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そのあと、食堂の端で、まめじいがローを呼んだ。
「配信者殿」
「はい」
「先日の話、進めとうございます」
ローは眉を寄せる。
「人間側の窓口の話ですか」
「はい。ただし、今回はもう一段、はっきりさせます」
まめじいは帳面を閉じた。
「灰環大迷宮は、ここしばらく監察局に絞られております。ですので、"誰でも来い"では意味がない」
「まあ、そうです」
「ですので狙うのは、通れる者だけです。登録商人。認可回収屋。届出の通る運び手」
「そこは分かります」
ローが頷く。
「でも、それだけだと俺の取り分が弱くないですか」
まめじいは続ける。
「ですので、本家側からも札を切ります」
「札?」
「はい。わしが許した範囲の話だけ、配信者殿に先に流す」
「……独占で?」
ローの目が少し変わる。
「独占です」
「どこまで」
「門前。荷。規制下でも回る暮らし。人間側から見える範囲の本家。内部の深い話は出しませんが、"冥門組は本当に動いている"という絵は、配信者殿に先にやる」
ローは黙ったまま聞いている。
「配信が伸びる。窓口になる。荷の仲介手数料も取れる」
「つまり」
ローがゆっくり言う。
「俺は、本家の内情を無断で盗み見るんじゃなくて、許可された範囲を一番早く出せるわけか」
「はい」
「しかも冥門組って名前も使っていい?」
「構いませんな」
「いいのかよ」
「人間界が勝手にそう呼ぶなら、止める意味は薄い。むしろ配信者殿の口から流した方が、こちらで温度を調整しやすい」
ヒナがすぐに笑う。
「やだ、まめじい悪い」
「悪いというより上手いのよ」
ミズハも乗る。
ローは腕を組んだ。
「……それ、かなりいい条件だな」
「でしょうな」
「怖いのは変わらないけど」
「それで十分ですぞ」
豪志が拳を握ったまま、目を潤ませていた。
ローが横目で見る。
「何で泣きそうなんだよ」
「いや、本物の組が本物の交渉してるの、初めて見て……」
「お前に付き合ってると疲れるよ」
豪志は少しだけ考えた。
それから妙に神妙な顔で言った。
「じゃあ、配信ではこうします」
「嫌な予感しかしねえな」
「"冥門組、思ってた以上に飯の話しかしない"」
ヒナが吹いた。
ミズハが笑う。
まめじいが一回だけ目を細めた。
ローは嫌そうな顔のまま言った。
「……それ、ちょっとだけ強いな」
「でしょう?」
そこで牧人が、横で芋を見ながら言った。
「飯の話は大事だろ」
全員が一回止まった。
豪志が感動していた。
「親分さん、自分で言った……」
「事実だからな」
「強え……」
「何でお前、毎回そこだけ感動すんだよ」
ローが頭を抱える。
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その時だった。
門前の空気が、少しだけ変わった。
北深層の乾いた冷たさだった。
クロの中央が顔を上げる。
右が低く鳴る。
左も起きる。
ヒナの笑いが、そこで一回だけ止まる。
ナナが短く言った。
「来た」
来たのは大軍ではない。
白い骨で組まれた細い鳥。
足に黒い紐。
嘴の代わりに、封蝋のついた小さな筒。
門前へ落ちるように降りた。
暴れない。
ただ、置かれたみたいに止まった。
豪志が小声で言う。
「……出た。なにあれ」
「黙ってろ」
ローが即座に返す。
国枝の顔から、商人の笑みが少し消える。
「北深層旧支配、骸骨公領でございましょうね」
「やだ。感じ悪い」
ヒナが低い声を出す。
まめじいは筒を見る。
すぐには触らない。
牧人は洗った芋を籠に戻した。
「手紙のやつか」
「ええ。嫌な感じの」
「……北が、まだ納得してねえ」
クロの中央が、骨鳥から目を離さずに言った。
食堂の鍋はまだ湯気を出している。
元赤牙の下働きは、入口の端で芋の匂いに鼻を動かしている。
国枝の荷は下ろされている途中だ。
ローの配信話も、今まさに動き始めたところだった。
なのに門前には、もう次の冷たさが立っていた。
赤牙は片付いた。
だが、それは少し静かになっただけで、楽になったわけではなかった。




