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人が減ると、商人と厄介だけ早い


朝の灰環大迷宮は、ここ最近ずっと静かだった。


今日だけではない。

入口前の石場に立つ監察局の立札は、もう新しくない。角は湿気で少しめくれ、上から貼り直された紙の端が二重三重に浮いている。


*******************************


市属ダンジョン監察局。

灰環大迷宮。

規制監視対象。


一般探索の自粛。

未申告攻略の禁止。

届出のない運搬の制限。

確認札を持たぬ者の深部進入禁止。


*******************************


最初のうちは「そのうち解けるだろ」と言っていた探索者たちも、今ではほとんど来ない。

野次馬も減った。

半端な腕で深く潜ろうとする連中も減った。

茶屋の親父が「今日は静かだねえ」と言う日が、もう珍しくなくなっていた。


その代わり、来るやつは分かりやすい。


事情のあるやつ。

金の匂いを嗅いだやつ。

それから、ろくでもない好奇心を持ったやつだ。


「いやあ……いいねえ」


梶間豪志は、監察局の立札を見上げて、朝からしみじみと言った。


「何がだよ」


三船ローが即座に返す。


「この、"選ばれた者しか通れない"感じが、たまんねえな」


「張り切り過ぎるなよ」


豪志は黒い上着の襟を直した。

朝からずっと、妙に気合いが入っている。


「だって今日、また会えるかもしれないんだ」


「誰に」


「冥門組の親分に」


「余計なことするなよ!」


豪志はまったくへこたれなかった。


「いやでも、会いてえだろ、普通」


「普通は会いたくねえよ!」


「俺は会いてえよ。任侠に憧れる者として、こういうのは人生の節目なんで」


「節目にするな!」


その横で、国枝市蔵が荷の縄を締め直していた。


塩。

干し肉。

干した根菜。

油。

乾布。

それから、農具少々と、種芋の袋。


手つきが落ち着いている。

目も慌てない。

国枝は、取引先を見定めた商人の顔をしていた。


「では、参りましょうか」


国枝は穏やかに言った。


「今日は少し確認が長いかもしれませんが、最近はもう慣れたものです」


「最近ずっと、こんな感じなんですか」


豪志が聞く。


「ええ」


国枝は頷いた。


「灰環大迷宮は、ここしばらく監察局に絞られております。ですので、軽い気持ちの攻略者はほとんど入りません」


「へえ」


「もっとも、その分、通れる荷には値が立ちます」


「さすがだな」


ローが鼻を鳴らした。


「静かだと怖がるんじゃなくて、先に儲けを見る」


「商人ですから」


国枝は荷の縄を締めながら、少しだけ声を落とした。


「それに、灰環だけの話でもなくなりつつあります」


「どういうことだ」


とロー。


「隣のさらに隣街に、黒冠迷宮がございます」


豪志が目を丸くした。


「黒冠って、S級の?」


「ええ」


国枝は頷いた。


「灰環より上の迷宮です。表の攻略も厄介ですが、あそこは裏の流通が濃い。薬、地図、避難路、闇医者、裏の荷運び。そういうものが、表とは別に動いております」


ローの顔が少し嫌そうになった。


「S級の裏って、誰が仕切ってんの」


「それが」


国枝は短く答えた。


「人間が一人で、ほぼ握っています」


豪志が固まった。


「……人間が?」


「はい」


「S級ダンジョンの裏を?」


「はい」


ローも黙った。


灰環大迷宮の中に、魔物の本家を作ってしまった人間がいる。

それだけでも十分おかしい。


そのうえ、S級迷宮の裏側にも、似たようなことをしている人間がいる。


豪志が小さく言った。


「親分さんみたいな人が、他にもいるってことですか」


「似ているかどうかは分かりません」


国枝の声は穏やかだった。

だが、表情は笑っていなかった。


「黒冠の裏を仕切る者の名は、鴉宮千景」


「からすみや……」


ローが名前を繰り返す。


「そいつ、何者だ」


「敵に回すと、薬も地図も避難路も消える。翌日から黒冠の裏では歩けなくなる。そういう方です」


「答えが怖い」


「味方なら心強いですよ」


「敵なら?」


国枝はにこりと笑った。


「関わらない方がいいですね」


豪志はごくりと喉を鳴らした。


「S級の裏を仕切る人間……」


「お前、今ちょっと憧れただろ」


とロー。


「ちょっとだけ」


「やめとけ。絶対、親分さんとは別の怖さだ」


「とはいえ、今すぐ黒冠が灰環へ手を伸ばすわけではありません。それに今は赤牙が横から荷に噛んでいた頃よりは、だいぶ話がしやすくなりました。今は、誰に挨拶を通すべきかが前よりずっと分かりやすい」


と国枝。


「鉄顎か」


「ええ。表向きは、そう見ております」


豪志だけが少し青くなった。


「裏では、冥門組が仕切ってるんだ」


「なんだよ、怖いのかよ」


「はい。怖いです」


豪志は即答した。

ほんとうに即答だった。


「だって監察局が絞って、人も減って、普通の攻略者が来ねえのに、それでも商人が通って、組が回ってるって、完全に映画の"表に出ない本物"じゃないですか」


「お前の頭の中、全部映画だな」


「はい」


「はいじゃねえよ」


監察局の詰所で確認札を見せ、荷目録を出し、国枝が説明する。

何度か通った者の手際だった。


「登録商人、国枝市蔵でございます。本日の荷は食料、乾布、油、農具少々」


「同行二名」


「三船ロー殿は取引の仲立ち候補。こちらは……」


国枝が豪志を見る。

少しだけ考えてから、丁寧に言った。


「付き添いでございます」


「付き添い!?」


ローが振り向く。


「違うのか」


「違わないけど、もっと他に言い方あるだろ!」


豪志は胸を張った。


「冥門組の親分に会いに来ました!」


「言うなって!」


ローが額を押さえる。


監察官は豪志を一回だけ見て、それから国枝に戻った。


「内部撮影は不可。生活圏の位置公開不可。危険個体への接触は自己責任」


「承知しております」


「最近は人も少ない。余計な刺激を入れないように」


「もちろんでございます」


通された。


豪志は入口をくぐった瞬間、少しだけ声を落とした。


「……本当に入れた」


「うるさい。まだ半分だ」


ローが先に立つ。


「ここから先で余計なこと言うなよ」


「大丈夫だ」


「信用できねえな」


「信用しろよ。バカヤロー」


「やめろ!」


灰環大迷宮の空気は、外より湿っている。

壁の苔はじっとりしていて、遠くから水の落ちる音がする。

でも、以前より人の音は減っていた。

監察局の規制が効いている証拠だった。


その代わり、通る荷は慎重で、通る者は目的がはっきりしている。

国枝みたいな商人には、それがむしろ都合がよかった。


やがて、本家の門前が見えてきた。


板が増えている。


荷は左。

来客は右。

勝手に入るな。

ナナに言え。

並べ。

揉めるな。

触るな 噛まれる。


豪志が最後の板を見た。


「いい……」


「何がだよ」


「必要事項だけなのに、全部圧がある」


「帰りたい」


ローはつぶやいた。


---


屋根からヒナが顔を出した。


「あ」


ローが嫌な顔をした。


「その"あ"やめろ」


「また来た。しかも今日は荷まで持ってる」


豪志は嬉しそうに胸を張った。


「覚えててくれたんですか」


「うるさいからね」


「褒め言葉だなあ」


「違うよ?」


ミズハも奥から覗いて、肩を揺らした。


「この人ほんと懲りないのね。今日も相変わらず騒がしい」


「だって、また冥門組の親分に、ご挨拶できるんですよ」


豪志は真顔で言う。

ローは額を押さえた。


「だから、大人しくしろって言ってるだろ」


「いやでも、人間界じゃ冥門組の親分っていやあ、有名人だぞ」


「それが怖いんだよ!」


「でもちょっと格好いいよな」


「お前の基準で格好よくすんな!」


そこへナナが出てきた。


「名前」


国枝が先に一礼する。


「国枝でございます」


「三船ローです」


豪志が姿勢を正した。


「梶間豪志です! おひかえなすって!」


ナナは豪志を見た。


「前も聞いた」


「覚えてくれてる!」


ヒナが屋根を叩いて笑った。


「やだ、やっぱり面白い」


---


門前には、荷を持った小型種の列のほかに、見慣れない顔もいた。


赤牙の下で荷運びをしていた痩せたゴブリン。

片耳の欠けたコボルト。

縄傷の残る小型種。

それから、飯の匂いに鼻を動かしている、細い下働き崩れ。


みんな妙におとなしい。

武器を持っていない。

持っていても、入口の手前に置かせられていた。


ローが小声で言う。


「……赤牙の残りか」


「下っ端ですね」


国枝が淡々と答えた。


「食わせてもらっていただけの者、運ばされていただけの者、噛みつく前に終わった者。そういうのが流れてきております」


「追い返さないんだな」


「親父が嫌がるからね」


ヒナが屋根の上で足をぶらぶらさせながら言う。


「昨日も来てたよ。二匹は寝床だけ借りて、朝には荷運び手伝ってた」


「門前で腹ぺこのまま倒れられると、後で機嫌悪いのよ」


ミズハが笑う。


「うちの親父」


列の奥から、痩せたゴブリンが前へ出た。


「……あの」


「用件」


ナナの声は短い。


「飯、もらえるって……聞いて」


「腹減ってる?」


「へい」


「働ける?」


「少し」


「怪我は」


「ないです」


ナナは後ろを見た。


「親父」


牧人は畑側から戻って来ていた。

手に土がついている。

籠には芋と根菜が入っていた。


「どうした」


「元赤牙の下。腹減ってるって」


牧人はそれだけで頷いた。


「じゃあ先に食わせよう」


ゴブリンが目を見開く。


「……いいんですか」


「腹減ってるんだろ」


「へい」


「じゃあ飯だ」


それだけだった。


「でも、赤牙の下で——」


「今は違うんだろ」


牧人は籠をナナに渡した。


「芋、先に煮てくれ。昨日の汁あるなら入れていい」


ヒナが笑う。


「親父の"とりあえず飯だ"」


「相手が誰でも、まずごはん食べさすのよね」


ミズハも乗る。


牧人はゴブリンを見た。


「食ったら、嫌なら出てっていい。残るなら、できる範囲で手伝ってくれ」


「……追い出さねえんですか」


「寝床がいるなら言え」


ゴブリンは一回、深く頭を下げた。

腹の減ったやつの礼だった。


---


豪志は勝手に仁義の場だと思って胸を熱くしている。

国枝も見ていたが、静かに牧人に話しかけた。


「親分さん」


「はい」


「本日は、前より少し多めに持って参りました」


「助かる」


「元赤牙の下で動いていた者も流れてきております。しばらくは食いぶちが要るでしょうから」


「そうだな」


牧人は普通に答えた。


「多いなら、畑も少し増やすか」


「そう仰ると思っておりました」


国枝が少しだけ笑う。


ローがすぐに口を挟んだ。


「そこ、"人が増えるから畑増やすか"で返すの、やっぱすげえな」


「飯いるだろ」


「そうですけど!」


荷の確認が始まると、国枝の声はさらに整った。


「まめじい殿、本日は塩を前回より一割増しで。干し肉は二袋。乾布は傷物が増える前提で少々多めに。油は半樽。農具少々。あと、種芋でございます」


「結構」


まめじいが帳面に書く。


「親父殿」


「多い方がいい」


「では全部受けますか」


「受けよう」


帳面が動く。

荷が動く。

本家は、静かなのに回っている。


---


豪志は牧人に近づこうとしたが、クロと目が合って落ち着きなくきょろきょろしていた。


門前の奥。

三つ首。

朝なのに、そこだけ夜みたいに圧がある。


豪志は、すっと前へ出た。

ローが止めるより早かった。


「若頭さん!」


「やめろ!」


ローが頭を抱える。


「終わった……」


クロの中央が見る。

右が少しだけ唸る。

左は眠そうだった。


豪志はそこで、なぜかさらに姿勢を正した。


「本日はお日柄もよく!」


「よくない」


「お目通りいただき光栄です!」


「やめろって!」


豪志は下がらない。


「この間、カチコミあったんですよね」


「何で知ってんだよ」


「噂です! いやあ、見たかったなあ!」


「見たかったなあじゃねえよ!」


ヒナが屋根を叩いて笑っている。


「やだ、うるさい!」


「あと俺、いっぺん言ってみたいんですよ」


豪志は本気だった。


「"仁義通したいんです"って」


「どこで言うんだよ」


とロー。


「分からん!自分不器用なんで」


「いいかげんにしろ!」


クロの中央が、豪志を見たまま短く言った。


「……変だな」


「変だな、いただきました!」


豪志が感動している。


「もらうな」


ローが即座に返す。


「評価じゃねえんだよ」


ヒナはもう笑いすぎて座り込んでいた。

ミズハも肩を揺らしている。


「この人ほんと、前向きね」


「でも嘘はつかないな」


ベロが奥から覗いて言う。


「冥門組の親分に会いたいって、本当にそれだけで来てる」


「それだけで来るなよ!」


ローのつっこみだけが忙しい。


---


そのあと、食堂の端で、まめじいがローを呼んだ。


「配信者殿」


「はい」


「先日の話、進めとうございます」


ローは眉を寄せる。


「人間側の窓口の話ですか」


「はい。ただし、今回はもう一段、はっきりさせます」


まめじいは帳面を閉じた。


「灰環大迷宮は、ここしばらく監察局に絞られております。ですので、"誰でも来い"では意味がない」


「まあ、そうです」


「ですので狙うのは、通れる者だけです。登録商人。認可回収屋。届出の通る運び手」


「そこは分かります」


ローが頷く。


「でも、それだけだと俺の取り分が弱くないですか」


まめじいは続ける。


「ですので、本家側からも札を切ります」


「札?」


「はい。わしが許した範囲の話だけ、配信者殿に先に流す」


「……独占で?」


ローの目が少し変わる。


「独占です」


「どこまで」


「門前。荷。規制下でも回る暮らし。人間側から見える範囲の本家。内部の深い話は出しませんが、"冥門組は本当に動いている"という絵は、配信者殿に先にやる」


ローは黙ったまま聞いている。


「配信が伸びる。窓口になる。荷の仲介手数料も取れる」


「つまり」


ローがゆっくり言う。


「俺は、本家の内情を無断で盗み見るんじゃなくて、許可された範囲を一番早く出せるわけか」


「はい」


「しかも冥門組って名前も使っていい?」


「構いませんな」


「いいのかよ」


「人間界が勝手にそう呼ぶなら、止める意味は薄い。むしろ配信者殿の口から流した方が、こちらで温度を調整しやすい」


ヒナがすぐに笑う。


「やだ、まめじい悪い」


「悪いというより上手いのよ」


ミズハも乗る。


ローは腕を組んだ。


「……それ、かなりいい条件だな」


「でしょうな」


「怖いのは変わらないけど」


「それで十分ですぞ」


豪志が拳を握ったまま、目を潤ませていた。


ローが横目で見る。


「何で泣きそうなんだよ」


「いや、本物の組が本物の交渉してるの、初めて見て……」


「お前に付き合ってると疲れるよ」


豪志は少しだけ考えた。

それから妙に神妙な顔で言った。


「じゃあ、配信ではこうします」


「嫌な予感しかしねえな」


「"冥門組、思ってた以上に飯の話しかしない"」


ヒナが吹いた。

ミズハが笑う。

まめじいが一回だけ目を細めた。


ローは嫌そうな顔のまま言った。


「……それ、ちょっとだけ強いな」


「でしょう?」


そこで牧人が、横で芋を見ながら言った。


「飯の話は大事だろ」


全員が一回止まった。


豪志が感動していた。


「親分さん、自分で言った……」


「事実だからな」


「強え……」


「何でお前、毎回そこだけ感動すんだよ」


ローが頭を抱える。


---


その時だった。


門前の空気が、少しだけ変わった。


北深層の乾いた冷たさだった。


クロの中央が顔を上げる。

右が低く鳴る。

左も起きる。

ヒナの笑いが、そこで一回だけ止まる。


ナナが短く言った。


「来た」


来たのは大軍ではない。


白い骨で組まれた細い鳥。

足に黒い紐。

嘴の代わりに、封蝋のついた小さな筒。


門前へ落ちるように降りた。

暴れない。

ただ、置かれたみたいに止まった。


豪志が小声で言う。


「……出た。なにあれ」


「黙ってろ」


ローが即座に返す。


国枝の顔から、商人の笑みが少し消える。


「北深層旧支配、骸骨公領でございましょうね」


「やだ。感じ悪い」


ヒナが低い声を出す。


まめじいは筒を見る。

すぐには触らない。


牧人は洗った芋を籠に戻した。


「手紙のやつか」


「ええ。嫌な感じの」


「……北が、まだ納得してねえ」


クロの中央が、骨鳥から目を離さずに言った。


食堂の鍋はまだ湯気を出している。

元赤牙の下働きは、入口の端で芋の匂いに鼻を動かしている。

国枝の荷は下ろされている途中だ。

ローの配信話も、今まさに動き始めたところだった。


なのに門前には、もう次の冷たさが立っていた。


赤牙は片付いた。


だが、それは少し静かになっただけで、楽になったわけではなかった。


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