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クロを知っている声


その朝、扉の立て付け直しと油差しは、いったん片付いていた。


だから牧人は、朝から畑にいた。


「親父が自分で抜いてる」


とヒナ。


「最近は若い衆に任せてたのに」


とベロ。


「今日は量が多い。手が足りない」


と牧人。


「嬉しそうに言うなよ」


本家の裏手。若い衆が二列に並んで、根菜を抜いている。ぷるは水桶の横で泥をぺたぺた吸っている。イトは支柱から支柱へ糸を渡して、抜いた根菜を一本ずつ吊っていた。どう見ても蜘蛛の仕事ではないが、妙に便利だった。


牧人はしゃがんで根元の土を崩す。


「葉を持つな。根元だ」


「はい!」


と若い衆。


「引っこ抜くな。まっすぐ上げろ」


「はい!」


「折るな」


「はい!」


返事の直後に一本折れた。


「あっ」


「ほらな」


若い衆がしゅんとする。


牧人は折れた先を拾って籠へ入れた。


「まあ食えるからいい」


「親父、今日はりきってるね」


とヒナ。


「畑だからな」


「楽しいね」


ミズハが籠を置く。


「こっちいっぱいだわ」


「持ってく」


「若い衆に持たせなさいよ」


「折ったやつに持たせる」


「罰だな」


とベロ。


クロは畑の端に寝そべっていた。右の頭だけ起きている。中央は半分閉じている。左は完全に寝たふりだった。


イシコは畑と本家の境目に立っていた。見張りなのか、ただそこにいただけなのか、本人にしか分からない。


牧人が次の株へ手をかけた、その時だった。


声がした。


低くて、短い。言葉だったのかどうかも、すぐには分からない。風に混じって、乾いた音だけが畑の上を滑った。


全員が一拍遅れて止まる。


一番早く動いたのはクロだった。


右の頭が上がる。中央も上がる。左だけが、寝たふりをやめるのに一拍遅れた。


「……今の何?」


とヒナ。


「分からん。だが若頭だけ動いた」


とザガ。


牧人は顔を上げた。


畑の端。古い水路の石垣の上に、細い影が立っていた。


黒い布。細い体。顔はよく見えない。なのに、そこにいるだけで畑の空気がよそよそしくなる。


ヒナの翼が止まる。


「嫌な感じのやつ」


「ほんとだな」


とベロ。


イシコが無言で一歩前へ出る。畑と本家の間へ、石の背中が線みたいに入る。


梁ではなく支柱にいたイトが、するすると位置を変えた。糸が一本、畑の入口に低く張られる。見えにくい。だが、通ろうとすれば引っかかる高さだった。


「イト、何してるの」


とヒナ。


「あー」


「分かんないけど、何か構えてるんだね」


影はクロだけを見ていた。


何かを見ている、ではない。確かめている目だった。


牧人は立ち上がる。


土のついた手で、そのまま。


「クロ、知ってるのか。あれ」


クロは答えない。だが三つの首が全部、同じ方向を向いている。それだけで十分だった。


影が口を開いた。


「……クロ、か」


間があった。


「今は、そう呼ばれているのか」


全員がもう一回止まった。


ヒナが小さく言う。


「やだ、今の若頭に言ったよね」


「何が」


「あれ、若頭のこと知ってる」


「そうか」


「そうだってば!」


影はまたクロを見る。


「門を離れたのか」


クロの喉が低く鳴る。首根元の毛が、わずかに逆立った。


いつもの威嚇より低い。怒っているというより、押し込めている音だった。


「親父。あれ、若頭の知り合いみたいだぞ」


とベロ。


「知り合いなら、挨拶した方がいいだろ」


「何でだよ!」


もう遅い。


牧人は籠から一本、いちばん太い根菜を取った。白くて、まっすぐで、土つきだった。


「何してる」


とザガ。


「持っていく」


「何を!?」


「おすそ分け」


ヒナが両翼で顔を覆った。


「親父、この空気で!?」


「来たなら何か出すだろ」


「分けわからんやつに出すな!」


とザガ。


影は初めて牧人を見た。それから牧人の手の根菜を見る。もう一回、牧人を見る。


困っていた。たぶん。


「……何をしている」


「収穫」


と牧人。


「見れば分かる」


とザガがぼそっと言った。


牧人は根菜を少し持ち上げる。


「来たなら一本持っていくか?」


全員が止まる。


クロまで止まる。


ヒナが小さく叫ぶ。


「親父、今それ!?」


「今だろ。採れたてだぞ」


「アハハ、採れたてだもんね」


影は少しだけ間を置いた。


「……要らぬ」


「そうか」


牧人は素直に引っ込めた。


「葉物の方がよかったか」


「そうじゃない!」


とザガ。


その間も、クロは影を見ていた。


右。中央。左。


三つとも、今までと違う緊張の仕方だった。


影が言う。


「土を触る主の下にいるのか」


クロの中央が低く返した。


「主じゃねえ」


「……」


「親父だ」


「若頭」


とベロ。


「なんだその言い方は」


「うるせえ」


牧人はそこで割って入った。


「主っていうほどじゃない」


「そこは今、訂正しなくていいよ!」


とヒナ。


「でも違うだろ」


「違うけど、今じゃない!」


影はわずかに首を傾けた。


「変わったな」


「何が」


と牧人。


「お前へ向けた言葉ではない」


「ひどい!やなやつ!」


「ほんと、やなやつね」


とミズハ。


「姐さんまで、乗っかるなよ」


とザガ。


まめじいがようやく口を開いた。


「若頭殿を知っている時点で、かなり深いところの方ですな」


影は否定しない。


代わりに、クロへだけ言った。


「届いている」


クロの三つの首が同時にわずかに引いた。知っている言葉だった。意味が分かっている反応だった。


「何が」


とベロ。


「どこに」


とヒナ。


影は答えない。


その沈黙だけが、本当に嫌だった。


ザガが槍の柄に手をかける。


「親分、あれ以上は答える気なさそうだぞ」


「そうか」


牧人は少し考えた。


「じゃあ、うちのことも一応言っとくか」


「何を!?」


とベロ。


「うちは今、畑が忙しい」


「言うな!」


「大事だろ」


「大事だけど!」


牧人は影に向かって普通に言った。


「来るなら、次はもう少し早い時間にしろ。昼まで収穫なんだ」


畑が、きれいに止まった。


ベロが顔を覆う。ザガが空を見る。ヒナは肩を震わせた。


影は沈黙した。


それから、ほんの少しだけ言った。


「……変だな」


「何が?」


と牧人。


影が一歩下がる。


「次は、もっと近いものが来る」


「近いって何?」


とヒナ。


「やだ、その言い方! また来る気じゃん!」


返事はない。


影はもう薄くなり始めている。


クロが一歩だけ前へ出た。土が鳴る。


「待て」


影は止まらない。


「待たぬ」


それから、ほんの少しだけ振り返った。


「今は、それで構わぬ」


クロへ向けた声だった。確認ではなく、通告だった。


それだけ残して、消えた。


本当に消えた。水路の石垣の向こうへ落ちたわけでも、歩いて去ったわけでもない。そこだけ空気が薄くなって終わった。


---


しばらく、誰も動かなかった。


ぷるだけが、空気を読まずに根菜の葉をぺたりと舐めた。


「おい」


とベロ。


「お前はマイペースだな」


それで少しだけ場が戻る。


ヒナが最初に口を開いた。


「……親父」


「何だ」


「さっきの、だいぶやばいやつだったよ」


「そうか?」


「そうだよ!」


「野菜きらいなのかな」


「そこじゃない!」


とベロ。


ザガが頭を掻く。


「親分、ああいう時は手土産すすめなくていいんだよ」


「来たんだから何か出すだろ」


「相手を選んでくれよ!」


「新鮮だったぞ」


「そういう問題じゃねえ!」


ヒナが吹いた。


イシコはまだ畑の端を見ていた。動かない。だが肩の力だけ、ほんの少し抜ける。


イトは入口の糸を一本切った。ぴん、と小さく鳴る。緊張が解けた時の音みたいだった。


牧人は、そこでやっとクロを見た。


「クロ」


右。中央。左。


三つの頭が、少しずつ違う速さでこっちを向く。


「知り合いか」


「違う」


すぐに返った。短すぎた。


「前から知ってるやつではあるんだな」


「……」


クロは少し黙った。


右の頭が地面を見る。左の頭は遠くを見る。中央だけが牧人を見る。


それから、低く言った。


「……今は、いい」


牧人は一拍置いて頷いた。


「そうか」


それ以上は聞かなかった。


まめじいが帳面を閉じる。


「親父殿」


「何だ」


「今の深い方、迷宮の奥から本家を見に来たようですな。」


「奥って、どのくらい奥だ」


「深層より先、ですな。我々も行ったことのない場所です」


「遠いな」


「遠いですが、向こうから来ましたぞ」


「嫌だなあ」


「しかも若頭と、だいぶ深い知り合いのようですな」


「また来たら、何をあげたら喜ぶかな」


「そういう話ではないのですが……」


「反応が全部ずれてる!」


とベロ。


牧人は畑を見た。


途中だった。まだ半分も抜けていない。若い衆が、さっきから根菜を持ったまま固まっている。


「で」


と牧人。


「続きをやるか」


全員が止まる。


「は?」


とベロ。


「収穫」


「今その話に戻るの!?」


「戻るだろ。昼までに作業を終わらせたい」


ザガが空を見た。


「親分、ほんとにぶれねえな」


「畑だからな」


ヒナが笑う。


クロがそこで、ふん、と鼻を鳴らした。


右の頭だけが、ほんの少しだけ緩んだ。


「親父」


「何だ」


「一本くれ」


「根菜か」


「葉つきの」


ヒナが吹いた。


「若頭! 採れたて食べるの!?」


「土の匂い、ついてる方がいい」


「よし!」


牧人は籠から一本選んで、クロへ放った。クロの中央がくわえる。左が葉を噛む。右だけが遠くを見たままだった。


イトは、いつの間にか一番太い根菜に糸を巻いていた。たぶん運ぶつもりだ。たぶんさっきの影のことより、今はこっちの方が大事だった。


迷宮の奥は、もう本家を見ている。クロには、今の名とは別の響きがある。そしてたぶん、次はもっと近いものが来る。


なのに牧人は、土のついた手で次の株を掴んでいた。


「だから、葉を持つなって」


若い衆が慌てて手を引く。


「はい!」


「まっすぐ抜け」


「はい!」


ヒナが翼をばたつかせる。


「親父、お昼は採れたて野菜だね」


「まずは収穫だ」


「はーい」


支柱の上で、かさ、と小さな音がした。


イトだ。たぶん笑っている。たぶん、さっきの影のことはもう少し覚えている。


でも今は、土の匂いの方が強かった。


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