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ここを本家とする


朝、白閃牙は静かに負けを片付けていた。


北の転送広間には、濡れた地図と、壊れた前線道具だけが残っていた。

八代は腕を押さえ、七海は報告書を握り、レンは壁の方を見ている。


そこへ堂前烈牙が来た。


「どういうことだ」


堂前の声は低かった。


八代が、先に口を開いた。


「七海の作戦です」


七海が顔を上げる。


「八代」


「前線を置く場所も、北裏の壁を使う案も、こいつが出しました」


八代はレンを見て続けた。


「レンが勝手に壁を読んだせいで、向こうに気づかれた。俺は正面を押さえていただけです」


レンが小さく鼻を鳴らした。


「違う。読めと言われた」


「黙れ」


と八代。


七海は八代を見た。

昨日まで味方だった男の顔ではなかった。

負けを自分から剥がすために、誰かへ押しつける顔だった。


堂前は濡れた地図を見た。

壊れた前線道具を見る。

それから、七海とレンを見た。


「七海。レン」


「はい」


「お前たちは本日付で白閃牙から除名する」


七海の表情が止まった。


レンも、壁から視線を外した。


「追放、ということですか」


「そうだ」


堂前は淡々と言った。


「作戦失敗。前線壊滅。北裏の危険構造への不用意な接触。白閃牙の記録には、そう残す」


レンの目が細くなる。


「不用意じゃない。命令で読んだ」


「黙れ」


短かった。


それでレンにも分かった。

事実を残す気はない。

失敗の形を整える気だけがある。


七海が静かに言った。


「私たちを切って、八代を残すんですね」


堂前は答えない。


八代が少しだけ息を吐いた。

助かった顔だった。


七海は、その顔を見てから言った。


「八代。あなたはまた同じことをします」


八代の眉が動く。


「何だと」


「勝てない相手に突っ込む。負けた理由を認めない。誰かに責任を渡す。次も、そうする」


八代が一歩出る。


堂前が止めた。


「やめろ」


広間が静かになった。


レンは支給品の小道具を机に置いた。

七海も白閃牙の紋章を外す。


出ていく前に、レンが一度だけ振り返った。


「北裏の壁」


堂前が見る。


「あれは、開けるものじゃない。閉めておくもの」


それだけ言って、レンは出ていった。

七海も続いた。


堂前は濡れた地図を見下ろした。


「この件はいったん打ち切る」


八代が低く聞く。


「守谷牧人は」


「当面、手を引く。監察と街の動きが先だ」


堂前は八代を見た。


「お前も処分待ちだ。勘違いするな」


八代は黙った。


七海とレンは、その日のうちに白閃牙を追放された。

記録上は、作戦失敗の責任者として。

前線壊滅の原因として。

北裏の壁に不用意に触れた者として。


本当の失敗がどこにあったのかは、誰も書かなかった。


---


その頃、本家では、朝から広場が妙に騒がしかった。


飯の列はいつも通りだ。問題はもう一つの方だった。


門前に、小型種が並んでいた。


一匹ずつ、何かを咥えて来る。苔魚。根菜。乾き肉。骨。変な石。甲殻片。古い金具。何に使うか分からない牙。


全部、広場の隅に積まれていく。


「……何だこれ」


とベロ。


「貢ぎ物ですな」


とまめじい。


「貢ぎ物?」


「昨日、白閃牙を追い返したでしょう。あれを見ていた連中が、挨拶に来ておるのです」


「挨拶で苔魚持ってくるのか」


「魔物の礼は物で来ますぞ。言葉より確実ですからな」


牧人は積まれた山を見た。


「……何に使うか分からない牙もあるぞ」


「気持ちですな」


「気持ちか」


「気持ちです」


昨日は白閃牙が来た。前線を壊した。壁も閉めた。それだけだ。


牧人の認識では、だいたいそのくらいだった。


だが、魔物側の認識は違った。


旧保全路の若い衆が来る。南根道の若い衆も来る。浅層の小型種まで、妙にそわそわしながら広場の端に集まっている。


ニコが板を一枚抱えて走ってきた。


「親分! 板、足りない!」


「何が」


「礼の記録! まめじいが全部書けって言うから、板が足りない!」


「何枚使った」


「七枚!」


「多いな」


「多いんだよ!」


ニコは息を切らしていたが、目は輝いていた。忙しい時のニコは、だいたい嬉しそうだ。


その時、門前で重い足音が二つ重なった。


ゴルム。そしてドルグだった。


この二匹が、朝から並んで来るだけで、だいぶ普通じゃない。


ザガが眉をひそめる。


「何だその並び」


「珍しいだろ」


とゴルム。


「珍しい」


とドルグ。


二匹とも、今日は真面目な顔だった。


茶を出す前に、ドルグが言った。


「親分」


「何だ」


「昨日で決まった」


「何が」


「ここが本家だってことだ」


ザガが横から口を挟む。


「前から本家だろ」


「前からだった」


とゴルム。


「でも昨日までは、お前んとこの中だけの話だ」


「これからは違う」


とドルグ。


「白閃牙が噛んで、弾かれた」


「うん」


「前線まで壊された」


「うん」


「それでまだ立ってる」


「立ってるな」


「だから、ここはもう"身内が勝手にそう呼んでる場所"じゃねえ」


ゴルムが顎を鳴らす。


「外にも通る本家だ」


その言葉で、広場の空気が少しだけ揃った。


小型種のざわめきが止まる。ヒナが翼を止める。ミズハも、水桶を持つ手を一瞬だけ止めた。クロだけが、欠伸をしたあとで片目だけ開けた。


まめじいが帳面を閉じる。


「親父殿」


「何だ」


「名を決める時ですな」


「何の」


「ここです」


「もう呼んでるだろ」


「正式に、です。板に彫る名です」


牧人は嫌そうな顔をした。


「正式とかやると板増えるぞ」


「増えますな」


とまめじい。


「嫌だな」


「ですが、必要です」


ナナが腕を組んだまま言う。


「名前が定まると、区画管理が楽になる」


「管理って言い方するなよ」


「現実よ」


「嫌な現実だな」


ヒナが笑う。


「親父、決めて」


「何を」


「家の名前」


牧人は周りを見た。


ゴルム。ドルグ。ザガ。ベロ。ニコ。ナナ。ミズハ。ヒナ。イシコ。まめじい。ぷる。クロ。その奥の小型種たち。


みんな、妙に静かだった。


待っている。


それが分かるから、余計に言いづらかった。


牧人は頭を掻いた。それから、姿勢を正して言った。


「じゃあ、ここを本家とする」


広場が一瞬止まった。


「……それ、もとから呼んでたやつだろ」


とザガ。


「結局それかい」


とベロ。


「ひねりなし!?」


とヒナ。


「親分、こういうとこだけ異様に軽い」


とザガ。


「変える理由がないだろ」


と牧人。


「それはそうだけどよ」


「みんながそう呼んでて、外にも通ってるなら、それでいい」


ドルグが低く笑った。


「……らしいな」


「らしいですな」


とまめじい。


ニコが板を構える。


「彫る! 彫っていい!?」


「彫れ」


と牧人。


「何て彫る!?」


「本家」


「短い!」


「短くていい」


「もうちょっと何か!」


「本家。以上」


「以上って彫るの!?」


「彫るな」


ニコは嬉しそうに板を抱えて走っていった。


牧人はそれを見てから、続けた。


「帰ってきたい奴は、帰ってこい」


「追い出された奴も」


「怪我した奴も」


「寝る場所が要る奴も」


「飯食いたい奴も」


「うちの中で喧嘩するな。それだけ守れ」


静かだった。


その静けさの中で、最初に反応したのは魔物じゃなかった。


地下だった。


ごご、と低い音がした。


全員が止まる。


次に、食堂の奥の壁で、青白い線が一度だけ走った。短くない。前よりもはっきりしている。


食堂の壁際に据えてある古い受付端末。普段は薄暗いまま動かないそれが、灯りを点けた。保護帰還点の刻印が、淡く返る。誰も触っていない監視石まで、ぼう、と青くなった。


ヒナが梁から落ちかけた。


「えっ」


ベロが目を剥く。


「今の何だ」


「返事ですかな」


とまめじい。


「家に?」


とヒナ。


「家にですな」


端末の表面に、文字が浮かんだ。


『拠点名義:仮登録→更新』

『名称:本家』

『更新完了』


「勝手だな」


と牧人。


端末は何も答えない。完了した文字だけが、青く残っていた。


「完了するな!」


とザガ。


「もう遅いですな」


とまめじい。


ニコが走って戻ってきた。


「親分! 端末が光った! 板に書く!?」


「書け」


「何て!」


「端末が勝手に登録した」


「それ板に彫っていいの!?」


「彫れ。記録だ」


「了解!」


ニコはまた走っていった。今日だけで三往復目だった。


その時、クロが立ち上がった。


右、中央、左。三つの頭が、少しだけ高く上がる。吠えたわけじゃない。でも、喉の奥で低い音がひとつ鳴った。


それを合図みたいに、小型種たちがざわっと動いた。


頭を下げる。耳を伏せる。その場へ腹をつける。やり方は違う。でも全部、意味だけは同じだった。


帰属だった。


ゴルムが低く言う。


「……決まったな」


ドルグが腕を組んでつぶやいた。


「決まったのか?まあいいか」


ヒナが、少しだけ真面目な顔で呟く。


「ほんとに、本家になっちゃった」


牧人だけが納得していなかった。


「前からそう呼んでただろ」


「親分」


とベロ。


「今日のは、呼び方が決まったんじゃない。中身が決まった」


「何が」


「……分かんねえけど、違うんだよ」


「分からん」


「分かんねえのかよ」


---


昼過ぎには、外の空気まで変わっていた。


外輪の補給所。旧通路の出入口。浅層寄りの休憩区画。


三船ローは、外輪の安宿で切り抜き石を見ながら呻いていた。


「なんで視聴数増えるんだよ……」


昨日の夜、誰かが上げた短い映像。暗い前線。割れる灯り。羽。水。そして、撤退していく白閃牙の影。


三船が以前撮った本家の映像まで、つられて再生数が跳ねていた。


掲示板は燃えていた。


《白閃牙、返り討ちワロタ》

《A級の中に本当に家できてるじゃん》

《なんで魔物が貢物を持って並んでるんだよ》

《もう勢力だろこれ》

《名前ないの?》

《冥門組でいいだろ》

《冥門組?》

《死にかけた魔物があそこへ帰ってくる。門の前には三つ首が立ってる。敵から見たら黄泉の門みたいなもんだろ》

《しかも門番が災厄級だぞ。冥い門の組で、冥門組》

《語呂いいな》

《採用》

《勝手に採用するな》

《もう補給所でその呼び方してるやついたぞ》


三船は額を押さえた。


掲示板の雑なノリで生まれた呼び名だった。


死にかけた魔物が帰っていく門で、敵には黄泉の入口みたいに見える。


しかも門前には、あの黒い三つ首がいる。


それで誰かが、冥い門の組――冥門組、と書いた。


本家の連中はまだ知らないだろう。


だが、人間側ではもう、その名前で通り始めていた。


「俺、これ全部記録してんだよな……」


その隣で、国枝市蔵が静かに茶を飲んでいた。


「そうでしょうね」


「軽く言うなよ」


「軽くないですよ。高いんです」


「またそれか」


「またそれです」


国枝は笑わないまま言った。


「白閃牙が一度噛んで、二度噛んで、それでも落とせなかった」


「うん」


「しかも今日は名前がついた」


「うん」


「勢力は、名前がついた瞬間に一段上がるんです」


「嫌な言い方だな」


「商人ですので」


三船は切り抜き石を見た。石の向こうの本家は、今日もよく分からないままだった。


でも、昨日までと違うことだけは分かる。


もう、消えない。


---


夕方。


市属ダンジョン監察局。久慈野澄玲の机の上には、三つの記録が並んでいた。


白閃牙の撤収報告。灰環大迷宮外輪で拡散中の映像群。そして、今日新しく上がってきた異常反応記録。


灰環大迷宮、旧保全路接続域。短時間の設備再起動。監視石反応。帰還点系統応答。理由不明。


付箋に一行書く。


『本家成立。単独勢力化を確認。観察優先対象へ変更。』


それだけ書いて、立ち上がった。


---


夜。


本家はようやく静かになっていた。


飯の列も終わった。礼の列も散った。小型種は寝ている。ゴルムは本当に茶だけ飲んで帰った。ドルグは、帰る前に妙に深く頭を下げていった。


ニコが最後の板を壁に掛けていた。今日だけで十二枚。本家の壁は、だいぶ賑やかになっていた。


牧人は玄関の扉を押してみた。


き、と鳴る。でも前より静かだった。


「よし」


「何がよしなんだ」


とザガ。


「扉」


「親分、今日そこじゃないだろ」


「大事だろ」


「大事だけどよ」


ヒナが肩に寄ってくる。


「親父」


「何だ」


「うちは本家だね。みんな家族だね」


「そうだな」


その言葉で、牧人はふと、ずいぶん昔のことを思い出した。


雨上がりの路地。

段ボール箱。

中で震えていた、泥だらけの子犬。


それを抱えて帰ろうとした牧人の横で、ひとりの少女が笑っていた。


「マキはさ、ほんと拾うの好きだよね」


「捨てられてるやつを見るとダメなんだ。捨てるやつはひどい」


「その言い方、この世界に怒ってるみたい」


少女はそう言って、牧人の腕の中の子犬を指でつついた。

子犬は小さく鳴いた。


「でも、拾ったら最後まで見るんだよ」


「分かってる」


「分かってない顔してる」


「してない」


少女は楽しそうに笑った。

よく笑うやつだった。

人の家に勝手に上がって、勝手に茶を飲んで、勝手に飯を食うやつだった。


牧人は、その子をたしか、チカと呼んでいた。


本当の名前は、少しだけ思い出せない。

けれど、笑い方だけは覚えている。


そこまで思い出したところで、牧人は少しだけ目を細めた。


ずいぶん会っていない。

今どこで何をしているのかも、知らない。


「親父?」


ヒナが顔を覗き込む。


「どうしたの?」


「いや」


牧人は首を振った。


「昔、似たようなことを言われたなと思って」


「誰に?」


「幼馴染」


「幼馴染!」


ヒナの翼がぴんと立った。


「親父に幼馴染いるの!?」


「いた」


「いたって言い方、気になる!」


牧人は少し困った顔で笑った。


「まあ、昔の話だ」


「そうね」


とミズハが水桶を持ったまま口元を緩める。ヒナが翼を揺らす。ベロが笑う。


その時、門前で、かすかな音がした。


クロが先に目を開ける。ヒナが翼を上げる。イシコも顔を向ける。


ザガが槍を持つ。ベロが鍋の蓋を取る。ナナは何も言わずに食堂側の灯りを落とした。


門の外。誰かいる。


でも、気配が変だった。


人間でもない。普通の魔物でもない。殺気も薄い。なのに、軽くない。


「誰だ」


とザガ。


返事はすぐ来た。


「観測使です」


全員が止まる。


門の外に立っていたのは、小さな白いものだった。


鳥に見える。でも羽ばたいていない。石に見える。でも立ち方が生き物だった。


白い記録鳥みたいな形をしている。目の代わりに、細い青線が入っている。


ヒナが顔をしかめた。


「……何それ」


「知らん」


とベロ。


「嫌な感じだけ分かる」


白い鳥は、門の前でそれ以上近づかなかった。


「本家」


とそいつは言った。


「接続点反応を確認」


「観測対象へ移行」


「上位記録へ送ります」


牧人が首を傾げる。


「何の鳥だ、お前」


「鳥ではありません」


「じゃあ何だ」


「観測使です」


「さっき聞いた」


イシコだけが低く言う。


「……もっと古い」


ミズハが水桶を持つ手に力を入れる。


ヒナの翼も、少し逆立っていた。


白い鳥は最後に一枚の薄い板を落とした。


石でも紙でもない。触ると、冷たいのに柔らかい。表面に、見たことのない細い紋様が走っている。


「次回」


と白い鳥は言った。


「上位観測使が接触します」


そう言って、来た時と同じくらい静かに消えた。


飛んだのか。溶けたのか。誰にも分からない消え方だった。


しばらく、誰も動かなかった。


まめじいが帳面を開いたまま、動かなかった。


「親父殿」


「何だ」


「今のは、私の知識にはないものです」


「じいさんの知識にない?」


とザガ。


「うむ」


「……それ、だいぶまずくないか」


「まずいですな」


広場が静かになった。


ニコが板を見た。


「……これも彫る?」


「彫れ」


と牧人。


「何て」


「知らない鳥が来た。板を置いていった」


「そんなもん彫ってどうする!」


とザガ。


「事実だろ」


「事実だけど!」


ニコは彫った。たぶん本家で一番変な板になった。


牧人は白い板を見て、それから扉を見た。


「……また面倒増えたな」


ナナは無言で白い板を布へ包んだ。まめじいは、ようやく帳面に向き合う。


書いたのは、たった二行だった。


『本日、本家成立。』

『同夜、上位観測使接触。』


その下の余白は、まだ広かった。


牧人は扉を見た。本家を見た。門の外を見た。


それから、かなり普通に言った。


「とりあえず、明日も飯だな」


「そうなるよな」


とザガ。


「そうね」


とミズハ。


「そうだね」


とヒナ。


「そうですな」


とまめじい。


笑いが、少しだけ戻った。


本家は立った。白閃牙は退いた。でも、面倒は終わっていない。


むしろ、ここからがもっと大きい。


それでも、帰ってこられる場所は、もうある。


本家の夜は、そこで静かになった。



第一章 完


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