親分が畑を起こしてる間に、中層のシマを取った
朝から畑に出ていた。
牧人は、潰された三列を前にしゃがんで、ナナと話していた。
「ここ、もう少し土がいるな」
「いる」
「水も」
「いる」
「肥料は」
「決まっている」
ナナはいつも通りだった。畑が潰された翌日でも、声量も機嫌もほぼ変わらない。変わったのは、目の据わり方だけだ。
苔角兎が畝の外でぴょこぴょこしている。一匹が入ろうとしたので、牧人は片手で止めた。
「だめだ。今日はここ踏むな」
「もふ」
「分かってない顔だな」
まめじいとイシコも畑の手伝いに来ていた。
そして、まめじいが牧人の後ろから言った。
「親父殿。石材を取りに行くそうですぞ」
「誰が」
「若頭と、ゴルム殿と、そのあたりが」
「そのあたりって雑だな」
振り向くと、クロがいた。ゴルムもいた。ザガとベロまでいる。
全員、妙に装備が整っていた。石材取りにしては、少し多い気がした。
「石材?」
「畑の縁石にいるだろ」
とザガ。
「崩れ根の向こうに、ちょうどいい石がある」
「へえ」
ゴルムが顎を鳴らした。
「ついでに、ちょっと筋通しもしてくる」
「筋?」
「石材の筋だ」
とザガが即答した。
「そうか」
牧人は納得した。畑の方が大事だったからだ。
「あ、イシコも連れてけ。石なら得意だろ」
「……ああ、そうだな。おい、イシコ」
ザガが振り返ると、イシコはすでに立っていた。何も言われていないのに、準備は出来ていた。
「保持」
「うん、石を保持してきてくれ」
と牧人。
イシコは静かに頷いた。たぶん、石の話ではなかった。
「じゃあ頼む。あんまり危ないとこ行くなよ」
「おう」
とザガ。
「行ってくる」
とベロ。
クロは短く鼻を鳴らした。
ゴルムだけが、少しだけ目を逸らした。
まめじいがにこやかに言う。
「親父殿は、畑だけ見ていてくださいまし」
「そうする」
そうして、牧人は畑に残った。
ミズハが水路の縁に腰を下ろしていた。濡れた髪が肩にかかる。今日は、いつもより静かだった。
「遅くなるかな」
と牧人。
「石は重いから」
とミズハ。
目を合わせなかった。
ナナは図面を広げたまま、何も言わなかった。いつもなら「作業に集中しろ」と言うのに、今日は言わなかった。
牧人はそれを、昨日の疲れだと思った。
十分後。
残りの連中は、崩れ根の向こうへ消えた。
石材取りではなかった。
カチコミだった。
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崩れ根のさらに奥。中層南根道。
そこは、ゴルムの旧保全路より一段深い。土の匂いが強く、天井が低い。掘り抜いた跡だらけで、ところどころ壁そのものが牙で削られていた。
ゴルムが低く言う。
「ここから先が、轟顎のドルグのシマだ」
「広いな」
とベロ。
「そりゃあ、中層のボスだからな」
とゴルム。
ザガが槍を握り直した。
「若頭、正面でいいか」
クロは一言だけだった。
「正面」
全員の目が変わった。ここに来るまでの顔と、ここからの顔は違っていた。石材取りの顔ではない。覚悟を決めた顔だった。
入口には見張りが四匹いた。どいつも鈍い目をしている。ガダルが転がり込んでから、夜通し騒いでいたのだろう。
その見張りの一匹が、ゴルムを見て笑った。
「なんだ。顎欠け」
「挨拶に来た」
「手土産は?」
「若頭だ」
クロが前に出た。
笑いは、そこで終わった。
見張りの一匹は何が起きたか分からないまま壁に叩きつけられた。二匹目は逃げようとして、イシコが半歩ずれて退路を塞いだ。壁と区別がつかない体が、通路そのものを消した。三匹目が叫ぶ前に、ベロの鍋蓋が口へ入った。四匹目だけがかろうじて奥へ走った。
「親分! 曲者です! 変なのが——」
最後まで言えなかった。ザガの槍の柄が首の後ろに入り、そのまま床へ押さえ込んだ。
「騒ぐな」
「……今の、だいぶ手慣れてるな」
とベロ。
「慣れたくはなかった」
とザガ。
奥は広間だった。
中層の大シマ。それらしく、広かった。
壁際に若い衆。掘った土の山。食い散らかした骨。奥には、まだ血の乾いていない穿土の跡。ガダルが転がり込んだ証拠だった。
そして、その真ん中にいた。
轟顎のドルグ。
でかい。ゴルムより二回りでかい。頭は低いが、肩が高い。下顎が異様に張り出していて、そこに石の輪みたいな瘤が幾つもついている。噛むというより、砕くための顎だった。
目だけが、妙に冷たかった。
ドルグは、広間へ入ってきた顔ぶれを見て、少しだけ笑った。
「……旧保全路の欠け顎が、仲間を連れてきたか」
「来た」
「ガダルをやったのは、お前か」
ゴルムは答えず、顎を鳴らした。欠けた顎が嫌な音を立てた。でも、逸らさなかった。
ドルグはその音を聞いて、笑みを消した。
「ケジメか」
「ケジメだ」
ザガが一歩前に出る。
「親分は畑だ。だから俺らが来た」
「畑?」
ドルグが眉を動かした。
「……何を言ってる」
「親分の畑を荒らした。その落とし前だ」
とゴルム。
広間が静まる。
一瞬だけ、意味が通らなかったからだ。
中層の大シマで、顔役同士がにらみ合っている。なのに理由が"畑"。
だが、笑わなかったのはドルグが馬鹿ではないからだ。
笑ったら死ぬ、と分かる相手が前にいた。黒い体が、ただ立っていた。
ドルグは低く言った。
「ガダルは、うちに転がり込んだ」
「だろうな」
とゴルム。
「半分死んでた」
「だろうな」
「お前らがやった」
「やった」
「なら、返す」
「返してみろ」
そこで、空気が切れた。
ドルグの目が変わった。自分のシマに踏み込まれている。舐められたら、中層のボスは終わりだ。引くわけにはいかなかった。
ドルグ側が先に動いた。若い衆が左右から回り込む。数は多い。五十は下らなかった。
だが、イシコが入口を塞ぎ、ベロが左を止め、ザガが右へ潜る。数を出せる広間なのに、広間として使わせなかった。
ドルグが突っ込んだ。
速かった。巨体のくせに、速い。
ゴルムが正面から迎えた。顎と顎がぶつかる。鈍い音。前の抗争なら、ここでゴルムが下がっていた。
だが今日は下がらない。
「うおおおお!」
顎で噛むのではなく、肩で押す。旧保全路で流れを守ってきた体当たりだった。
ゴルムは分かっていた。自分ではドルグに勝てない。でも、一歩だけ持たせればいい。一呼吸だけ止めればいい。その一呼吸の後ろに、化け物がいるからだ。
ドルグが押し返す。
その横から、クロが入った。
静かに、当然のように。
右が喉元。中央が首の付け根。左が前脚の関節。
三つが、別々に入る。
ドルグが初めて姿勢を崩した。
広間の若い衆が止まる。この格は見たことがない。見たことがないから、足も止まる。
「止まるな!」
とドルグが怒鳴る。
「止まるわ!」
とザガ。
「見れば分かるだろ!」
一匹がベロに飛びかかる。鍋蓋が入る。鼻が曲がる。二匹目はイシコの壁に当たる。壁だと思ったら腕だった。そのまま持ち上げられて、静かに隅へ置かれた。
「雑に強えな……」
とゴルム。
「保持」
とイシコ。
ドルグは、そこでようやく理解した。
これは喧嘩ではない。
制圧だ。
自分のシマに、自分より格上を先頭に、落とし前を取りに来ている。
そしてその理由が、畑。何なんだ。
クロがもう一度入る。今度は顎だった。
轟顎のドルグの自慢の下顎へ、黒い前足が落ちる。
重い音。
ドルグの顎が横へずれた。
「——がっ」
悲鳴だった。その一音で、広間の若い衆の心が折れた。
ドルグが膝をつく。 自分の広間で、自分の若い衆の前で、膝をついた。中層のボスが、膝をついた。
ザガが広間の若い衆に向かって叫んだ。
「聞け! ここから先、このシマはうちの親分の預かりだ! 文句があるやつは前に出ろ!」
誰も出なかった。
ゴルムが前へ出る。欠けた顎を鳴らす。今日はもう恥の音ではなかった。
「聞け、ドルグ」
「……」
「親分は、こういうのを好かねえ」
「……親分?」
「畑やってる」
「は?」
「だから、死体は増やせねえ」
ドルグは、自分の負け方に納得がいかなかった。
敗因が、油断でもなく、数でもなく、畑。
しかも相手の親分は来ていない。畑をやっている。
その間に、シマを取られた。
ドルグが低く言う。
「……ふざけてる」
「ふざけてねえよ」
とゴルム。
「親分は本気で畑だ」
「そこが一番ふざけてるんだよ!」
でも、膝はついたままだった。
クロが一歩だけ近づいた。それで終わった。
ドルグは顎を下ろした。
「……降りる」
「声が小せえ」
とザガ。
「降りる!」
「よし」
「中層南根道、崩れ根裏、下水抜けまで、今日からそっちだ!」
「親分の、な」
とゴルム。
「お前のじゃねえ」
「分かってる!」
その瞬間、広間の若い衆がざわついた。
ゴルムの若い衆から聞いていたのだろう。噂は、中層まで降りていた。
「じゃあ風呂……」
「おい」
「飯……」
「おい!」
ドルグが怒鳴るより先に、ベロが呟いた。
「終わったな」
「終わったな」
とザガ。
「風呂入りてぇ」
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その頃、培養区画。
牧人は、潰れた三列を起こし直していた。
「この土、ちょっと重いな」
「重い」
とナナ。
「石混ざってるし」
「石抜く」
「うさぎ、そこ入るなって」
「もふ」
ミズハは水を細く流しながら、ときどき崩れ根の方を見ていた。牧人は気づかなかった。
ナナは図面に目を落としたまま、一度だけ小さく息を吐いた。牧人はそれも気づかなかった。
「遅いな」
「石は重いから」
とミズハ。
「石ならそんなもんか」
「そんなもんよ」
そこへ、地面の向こうから、ずるずると何か重いものを引く音がした。
牧人が顔を上げる。
帰ってきた。
クロ。ゴルム。ザガ。ベロ。イシコ。
全員、泥だらけだった。傷もある。石材取りにしては、だいぶ汚い。
そしてその後ろに、でかいのがいた。
牧人は鍬を止めた。
「……誰だ、あれ」
「後で説明する」
とザガ。
でかいのが、ゆっくり前に出た。
ドルグだった。
顎のずれた大ボスが、若い衆を後ろに従えたまま、牧人の前で止まった。
そして、頭を下げた。
「……轟顎のドルグだ。中層南根道を預かっていた」
「いた」。過去形だった。
「今日より、親分の下につく。挨拶に参った」
牧人は固まった。
「……え?」
「挨拶だ」
とゴルム。
「親分、向こうのボスだった方だ。ちゃんと挨拶してる」
とザガ。
「いや、ちょっと待て。どちら様?」
「だから、ドルグ——」
「いやそれは聞いた。何で頭下げてんの?」
「そういう話になった」
とベロ。
「石材は?」
「……それも取ってきた」
とザガ。
「嘘だな」
「嘘じゃねえ。ついでだ」
「ついで……」
牧人はドルグを見た。大きい。傷だらけ。顎がずれている。
「怪我してるじゃん」
「そこかよ!」
と全員。
「いや、顎ずれてるだろ。痛くないのか」
「……痛くねえ」
「嘘つくな」
「……痛い」
「だろ。見せろ」
「は?」
「顎。見せろ」
「……はい」
ドルグが、自分でも驚くくらい素直に顎を下げた。
中層の大ボスが、畑をやっている人間に顎を診られている。世界は壊れていた。
まめじいが、奥から出てきた。帳面を開いている。カチコミには行っていない。だが、結果はもう分かっている顔だった。
『灰環大迷宮A級、中層南根道、崩れ根裏、下水抜けまで、本家側流れへ編入。轟顎ドルグ、口頭確認済み。本家勢力圏、中層まで拡大。』
「早いな!」
とゴルム。
「記録は残さぬと言ったのでは」
ゴルムが顔をしかめた。
「計画は残しません。結果は残します。帳面とはそういうものですぞ」
にこやかだ。怖い。
牧人はドルグを見た。それからザガを見た。
「シマって何だ。境目のことか?」
「……まあ、そういうもんだ」
とザガ。
「よく分かんねえけど、とにかく畑手伝え」
「は?」
「そこ三列、潰れたんだ」
「……」
「でかいし、土運べるだろ」
「…………」
「返事は」
「……はい」
ドルグは二度目の「はい」を言った。今日だけで二回だった。中層のボスが「はい」を二回言う日が来るとは思わなかった。
これが、轟顎のドルグの初仕事になった。
中層の大ボスが、黙って土袋を運ぶ。若い衆が、それを見て黙って続く。
ゴルムは横で、少しだけ満足そうに顎を鳴らしていた。
「どうだ」
とザガ。
「どうって何が」
「やっと話が通じたろ」
「最初から畑なら通じるんだよ」
とゴルム。
「そこなんだよな……」
とベロ。
そこへ、苔角兎が一匹、ぴょこんと来た。洗いたてで、ふわふわだ。ドルグの前脚の泥を嗅いでいる。
ドルグが、じっとそれを見た。
「……なんでこんなのがいる」
「うちのだ」
「うさぎを抱えて、ボスやってるのか」
「ボスじゃないんだけどな」
「何なんだよ」
ニコが板を差し替えた。
中層編入→
土袋運搬中→
「おい!」
とドルグ。
「こいつ何だ!」
「ニコ」
とザガ。
「そうじゃなくて、何で俺の仕事が板になってるんだ!」
「なるんだよ、ここは」
培養区画に、笑いが戻った。
昨日、畑は踏み荒らされた。今日、畑を踏み荒らした原因の、さらに上の連中が土を運んでいる。
本家の流れは、また一段広くなった。
でも牧人にとって大事なのは、そこではなかった。
潰れた三列を、今日中に起こし直す。それだけだった。
「よし。もう一列いくぞ」
「おう」
とザガ。
「はい」
とドルグ。
「保持」
とイシコ。
「もふ」
牧人はそれを聞いて、少し笑った。
何でこうなったのかは、よく分からなかった。
でも、悪くなかった。




