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落ちぶれたと思っていた、白い牙が来た


堂前烈牙の前に、灰色の外套を着た男が現れたのは、月のない夜だった。


路地裏の闇カジノ。


油煙と安酒の臭いがこもる地下の隅で、堂前は残り少ない硬貨を賭け札へ変えていた。


卓の上にあるのは、空になりかけた杯と銀貨が三枚。


かつて大手攻略ギルド《白閃牙》を率いていた男の手元としては、あまりにも軽かった。


札が開かれる。


負けだった。


銀貨が二枚、胴元の棒で向こう側へ寄せられる。


堂前はしばらく、その硬貨を目で追っていた。


「もう一度だ」


「金は?」


残ったのは一枚だけだった。


堂前がそれへ手を伸ばしかけた時、隣の椅子が引かれた。


灰色の外套を着た男が座る。


顔の上半分は、深くかぶった頭巾に隠れていた。


堂前は男を睨んだ。


「そこは空いてない」


「今、空いた」


男は卓の上へ、小さな革袋を置いた。


重い音がする。


袋の口がわずかに開き、中から金貨の縁が見えた。


堂前の指が止まる。


「何の用だ」


「返り咲く気はないか」


堂前は鼻で笑った。


「見て分からないのか」

「白閃牙は潰れた」


「知っている」


「人もいない」

「装備もない」

「金もない」


堂前は卓の上の金貨を見る。


「だから、こうして酒を飲みながら、残った金まで使ってる」


「すべて、こちらで用意する」


男は淡々と言った。


堂前の目が細くなる。


「すべて?」


「人員」

「武器」

「対魔物用の装備」

「本家周辺の見取り図」

「残留戦力の観測記録」


堂前は杯を置いた。


安酒が少しこぼれ、卓へ染みを作る。


「そこまで揃えているなら、自分たちでやればいい」


「表へ出られない事情がある」


「都市防衛局か」


男は答えなかった。


だが、否定もしなかった。


堂前は背もたれへ体を預ける。


「水越に切られた連中だな」


男の指が、わずかに動いた。


堂前はその反応を見逃さなかった。


「俺を使って、本家を襲わせる」

「失敗したら、白閃牙の残党が勝手にやったことにする」

「成功したら、自分たちが出てきて成果だけ持っていく」


男は静かに言った。


「落ちぶれても、頭は鈍っていないようだ」


「馬鹿にするな」

「俺は大手ギルドを率いていた」


「なら、話は早い」


男は金貨の袋を、堂前の前へ押した。


「黒冠も、灰環内部も、今は騒ぎ続きだ」

「本家は、あちこちへ手を広げすぎている」


堂前は何も言わない。


「黒冠との道」

「灰環内部に作られた仮受付」

「灰環核からの反応」

「外から見ても、異常な事態が続いている」


「それで?」


「この騒ぎが続けば、どこかで必ず隙ができる」


堂前は杯を持ち上げる。


「いつだ」


「分からない」


男は、あっさりと答えた。


堂前の眉間にしわが寄る。


「曖昧な話だな」


「本家の誰かが外へ動くかもしれない」

「内部の対応へ人員を回すかもしれない」

「黒冠側で、さらに問題が起きるかもしれない」


男は金貨の袋を軽く叩いた。


「今なら、何かが起きても灰環の混乱に紛れる」

「本家が騒ぎに手を取られた時」

「守りが薄くなった時」

「そのどさくさへ入り込めばいい」


堂前は黙っていた。


それは作戦というより、待ち伏せに近い。


日取りもない。


成功の保証もない。


だが、人も装備も金も相手が出す。


堂前が失うものは、もうほとんど残っていなかった。


男の視線が、堂前の胸元へ落ちる。


汚れた服の内側に、黒ずんだ白閃牙の印が下がっていた。


隊舎も看板も売った。


それでも、その印だけは手放せなかった。


「守谷牧人も、誰かに認められてから冥門組を作ったわけではない」


堂前の顔が歪む。


「俺と、あいつを一緒にするな」


「勝手に親父と呼ばれ」

「勝手に本家を名乗り」

「今では監察局も、都市防衛局も、その存在を無視できない」


「黙れ」


「違うのは一つだけだ」


男の声が、少し低くなる。


「守谷牧人は、自分の場所を守った」

「お前は失った」


堂前の手が、白閃牙の印を強く握った。


「なら、取り戻せばいい」


男は静かに言った。


「本家を落とせ」

「その場所へ、白閃牙の旗を立てろ」

「誰の許可もいらない」

「奪った後で、本物だと名乗ればいい」


堂前の脳裏に、かつての隊舎が浮かんだ。


大勢の隊員。


白い牙の看板。


自分の号令で動く部隊。


堂前ギルド長。


そう呼ぶ声。


今は何もない。


空の杯。


薄暗い卓。


残り一枚の銀貨。


誰も堂前を見ない。


誰も堂前の命令を待っていない。


「人員は」


堂前が聞いた。


男の口元が、頭巾の奥でわずかに動いた。


「四十前後」


「寄せ集めか」


「正規装備を持つ探索者」

「元防衛局系の補助員」

「外部協力者」

「本家に恨みを持つ者もいる」


堂前は金貨の袋を引き寄せた。


「装備は」


「すでに揃えてある。ある程度の対策もな」


堂前の目に、少しだけ昔の光が戻る。


男は堂前に資料を渡した。対策等が細かく書かれている。


「なるほど、使えそうだな」


男が聞く。


「引き受けるか」


堂前は金貨の袋を懐へ入れた。


白閃牙の印を、服の外へ出す。


「隙ができたら知らせろ」


「待てるか」


堂前は空の杯を見た。


「今さら、待つことだけは慣れてる」


---


堂前があの男から連絡を受けた朝。


灰環外縁の使われなくなった倉庫には、四十人近い武装集団が集められていた。


堂前が用意した者ではない。


武器も。


鎧も。


荷車も。


本家対策用の道具も。


すべて、強硬派が準備していたものだった。


床には、大きな黒い吸水布が積まれている。


太い石縛り杭。


拘束網。


煙筒。


粘体種へ投げる無毒の囮袋。


堂前は、それらを一つずつ確認していた。


「杭は後列から運べ」

「煙は寝床側へ直接入れるな」

「逃げ道だけを絞れ」


元防衛局系の補助員が、わずかに眉を上げた。


堂前は睨む。


「何だ」


「いえ」


「俺は、ただ突っ込ませる気はない」

「本家は狭い」

「正面に集まりすぎれば、まとめて止められる」

「三方向に分ける」


堂前の指示で、人員が組み替えられていく。


落ちぶれても、複数部隊を動かした経験は消えていなかった。


白閃牙の印を付けた堂前を見て、旧隊員らしい男が呟く。


「本当に、白閃牙を戻す気なのか」


堂前は振り返らない。


「戻すんじゃない」

「作り直す」


「この人数で?」


「最初から大手だったわけじゃない」


堂前は白閃牙の印へ触れる。


「場所を取る」

「旗を立てる」

「勝った後で人を集める」


強硬派の男は、倉庫の端でその様子を見ていた。


堂前の指揮は使える。


だが、仲間として見る気はない。


成功すれば、本家を制圧した後に主導権を奪う。


失敗すれば、堂前が白閃牙再建のため勝手に起こした襲撃として処理する。


そのために、都市防衛局の正式装備は一つも使っていない。


印も。


命令書も。


承認記録も。


何も残らないようにしていた。


そこへ、見張り役の男が駆け込んできた。


「動きがありました」


堂前が顔を上げる。


「何があった」


「守谷牧人が、灰環核の奥へ入りました」

「災厄級や、主力メンバーも同行」

「最終保全門の先へ進んだようです」


倉庫の空気が変わった。


堂前は、一瞬だけ黙ったが、すぐに笑った。


灰環や本家は大きく揺れている。チャンスはあると思っていたが、それが今、現実となった。


強硬派の男が、低く笑う。


「こんなに早く隙ができるとはな」


堂前の胸が高鳴る。


「本当に、災厄級はいないんだな」


「確認済みです」


堂前は石縛り杭を見る。


「対策は万全だ」


強硬派の男は、堂前の胸元にある白閃牙の印へ視線を向けた。


「運が巡ってきたじゃないか」

「名誉挽回の機会だ」

「今日、本家を落とせば、お前はまたギルド長だ」


堂前は白閃牙の印を握る。


闇カジノ。


空の杯。


誰にも知られず消えていく日々。


そこから抜け出す扉が、急に開いたように見えた。


「運が……」


堂前は呟いた。


そして、堂前は剣を抜く。


「全員、出るぞ」


武装集団が一斉に立ち上がった。


堂前は声を張る。


「白閃牙、出発!」


ほとんどは白閃牙の者ではない。


その名を初めて聞いた者すらいる。


それでも堂前は、自分の部隊が戻ったような顔をしていた。


---


灰環最深部。


開いた最終保全門の先には、細い石橋が伸びていた。


橋の下を、無数の灰色の光が流れている。


折れた帰還札。


削られた名前。


役目だけを残された記録。


すべてが、暗闇の遥か先へ集まっていた。


その中心に、グレイヴがいる。


まだ遠い。


六本の脚と、背にある幾重もの輪だけが、灰色の光の中に浮かんで見えた。


牧人たちは、石橋の中ほどまで進んでいた。


先頭はクロ。


少し後ろに牧人とザガ。


ヒナは橋の上を飛び、イトは石橋の端へ糸を張る。


イシコは本家石を両腕で抱えていた。


橋には、ところどころ欠けた箇所がある。


右側の石が、音もなく灰へ変わった。


イトの糸が強く震える。


「右、落ちる」


ヒナが振り返った。


「親父、左!」

「そっちならまだ固い!」


全員が左へ寄る。


直後、右端が大きく崩れ、灰色の流れへ飲み込まれた。


牧人は、遥か先のグレイヴを見る。


「来いって言ったくせに、道を壊すのか」


ザガが槍の石突きで足元を確かめた。


「来られたくないんだろ」


クロの右が牙を鳴らす。


「面倒だ」

「全部飛び越えればいい」


「無茶言うな」


牧人は即答した。


ヒナが空中で少し笑った。


だが、その笑いはすぐに消えた。


石橋の前方に、灰色の影が立ち上がり始めたからだ。


一体。


二体。


十体。


人に似た影。


獣に似た影。


羽の欠けた鳥。


脚の足りない蜘蛛。


どれも輪郭が薄く、顔がない。


役目だけを残され、最深部へ沈められた者たちだった。


ザガが槍を構える。


「倒すか」


牧人は影たちを見る。


影は武器を持っている。


だが、腕は震えていた。


前へ出たくて立っているようには見えない。


「イト」

「止められるか」


イトが両手を上げる。


「止める」

「落とさない」


糸が石橋の上へ広がった。


灰色の影たちの足首と腕へ絡み、動きを止める。


ザガは槍の穂先ではなく、柄で武器を弾いた。


クロの中央が、一体を倒さないよう前脚で押さえる。


左が、影の背中から伸びる灰色の線を見つけた。


「奥から引かれている」


線はすべて、グレイヴへ続いていた。


牧人の顔が冷える。


「捨てた後まで使うのか」


遠くで、グレイヴの巨大な口が開く。


選別妨害を確認。

帰還不能個体、再利用。

外部保全者、排除継続。


クロの右が唸った。


「親父」

「急ぐぞ」


牧人は頷く。


「こいつらじゃなく、あっちを止める」


その後ろでは、止めた影のさらに奥から、新しい影が立ち上がっていた。


十。


二十。


石橋を埋めるように増えていく。


ヒナが上空から先を見る。


「このままだと、橋が埋まる!」


イトの糸も、すでに何十本と伸びている。


「多い」

「全部、止めるの、難しい」


イシコが本家石を抱えたまま言った。


「石、置く?」


牧人は周囲を見る。


石橋は細い。


ここへ本家石を置けば、帰還点にはなる。


だが、影たちの通り道まで塞ぐかもしれない。


「もう少し広いところまで行く」


グレイヴが、奥で六本の脚を動かした。


石橋全体が揺れる。


灰色の川から、無数の腕が伸びてきた。


橋の縁へ指をかけ、牧人たちを引きずり落とそうとする。


クロの右が腕へ噛みつく。


「しつこい!」


中央が牧人の前へ出る。


左は、橋の下を見た。


「親父」

「この川そのものが、グレイヴへつながっている」


牧人は灰色の流れを見下ろした。


「なら、最後にはこれも止める」


「全部か」


「全部だ」


ザガが笑った。


「簡単に言うな」


「簡単じゃないのか?」


ヒナが上から叫ぶ。


「話してる場合じゃない!」

「前からまた来る!」


灰色の影たちが、石橋いっぱいに並んでいた。


牧人はお玉を握り直す。


「行くぞ」

「帰りたいかどうかも聞かず、もう一度沈めさせるな」


牧人たちは、石橋の先へ進んだ。


本家が外から狙われていることを、まだ誰も知らなかった。


---


本家門前では、まめじいが台帳を開いていた。


最終保全門、開放。


親父殿以下、最深部管理区画へ進入。


ドワン殿およびグラード殿、最終門を維持。


本家門前、留守番継続。


ニコの板には、短く書かれている。


親父、奥

受付、開いてる


豪志は、その板を両手で支えていた。


何度も保全路の奥を見ている。


「まめじいさん」

「親分さんたち、ちゃんと戻りますよね」


「戻っていただかねば困りますな」


「ですよね」


その時、本家門前へ続く外縁通路から、一人の男が駆け込んできた。


息を切らし、何度も後ろを振り返っている。


ナナがすぐに短剣へ手をかけた。


「誰」


男は両手を上げた。


「待ってくれ!」

「俺だ、真木レンだ!」


まめじいが顔を上げる。


以前、行き場を失っていた時に、本家で何度か飯を受け取った男だった。


長く居着くことはなく、その後は本家を離れている。


レンは膝へ手をつき、荒い息のまま言った。


「堂前が来る」

「武装した連中を大勢連れて、こっちへ向かってる」


豪志が目を見開いた。


「堂前って、《白閃牙》の?」


「ああ」

「路地裏で妙な連中と一緒にいるのを見た」

「本家を襲うって話も聞こえた」


まめじいが短く聞く。


「それは確かですかな」


レンはゆっくりと頷いた。


それから、門前の鍋を見た。


「前に、飯を食わせてもらったから、早く知らせなきゃと思って」


ベロが鍋を混ぜながら言う。


「飯の恩か」


まめじいは静かに頭を下げた。


「知らせていただき、感謝いたします」


レンは外縁通路を振り返った。


「急いだ方がいい」

「もう、そんなに遠くない」


その直後、ミズハの水桶が大きく波打った。


ミズハが外を見た。


「来るわ」

「かなり多い」


遠い足音。


金属。


荷車。


一つではない。


ナナが立ち上がる。


「門、閉める?」


まめじいは首を横に振った。


受付には、まだ名なしの影たちが並んでいる。


外側から戻ってくる者もいる。


今、門を閉じれば、その者たちを外へ残すことになる。


「受付は閉めませぬ」


ナナは一度だけ頷いた。


「じゃあ、入口で止める」


ベロが鍋の蓋を閉じる。


「飯、守る」


ネムは名なしの影たちへ声をかけた。


「右奥」

「ゆっくり」

「走らない」


ニコが板を出す。


戦わない人、右奥


豪志が板を掲げた。


「皆さん、こちらです!」

「押さずに、順番に移動してください!」


声は少し震えていた。


だが、よく通った。


まめじいが豪志を見る。


「豪志殿」


「はい!」


「そのまま続けてくださいませ」


豪志の背筋が伸びる。


「任せてください!」


ミズハが水を門前へ薄く広げた。


足音が近づいている。


ゴルムへ応援を頼む使いは、すでに出してある。


だが、間に合うかは分からない。


まめじいは懐から、古びた緑色の札を取り出した。


表面には、ゴブリンの古い文字が刻まれている。


豪志が気づいた。


「まめじいさん」

「それ、何ですか?」


まめじいは札を見つめる。


ずいぶん長い間、使っていなかったものだった。


「昔の連絡札にございます」


「誰へ連絡するんです?」


「近くの旧坑道を巡っておられる方々へ」

「来てくださるかは分かりませぬが」


まめじいは札の端を折った。


緑色の小さな火が灯る。


火は細い煙になり、床の亀裂へ潜り込んだ。


旧坑道の奥へ向かって、緑の光が走っていく。


その直後。


本家へ続く外縁通路に、堂前たちが現れた。


盾を構えた前列。


その後ろには、大きな黒い布を運ぶ者たち。


拘束網。


煙筒。


荷車に積まれた、太い杭。


四十人近い武装集団が、足音を揃えて本家へ向かってくる。


先頭を歩いていた男が、門前の明かりの中へ入った。


堂前烈牙。


かつて《白閃牙》を率いていた男だった。


豪志が息を呑む。


「白閃牙……」


ナナは短剣を抜いた。


ミズハの水が、門前の石床を薄く濡らしていく。


本家の若い衆も荷運びの手を止め、板や短い棒を握って受付前へ集まった。


強い者たちではない。


それでも、誰一人として寝床の奥へ逃げようとはしなかった。


まめじいは台帳を閉じず、堂前の後ろに並ぶ装備と人数を静かに数えた。


「随分と、大勢のお客様ですな」


堂前は答えなかった。


ただ、本家の門前を見回す。


牧人はいない。


クロもいない。


戦える主力の姿もない。


その事実を確かめると、堂前の口元がゆっくりと持ち上がった。


本家の留守を狙って、白い牙が戻ってきた。


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