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もう一人の私 昭和に転生した元財務官僚、失われた30年を防ぐ  作者: 織田雪村
第六章

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日本復活⑧ iPOD誕生秘話

2000年(平成12年)3月17日


まだ3月だが、これで今年何度目になるだろうか。スティーブが、また日本にやってきた。

西吉野村への移住準備も着々と進んでいて、私が紹介した空き家を気に入って改装中だ。ここに夫婦で住むことに決めたらしい。


今回の目的は新居の確認と、もうひとつ。Appleの新製品案があるから評価してほしいとのことだった。前世の記憶にあるスティーブからは想像もできない態度だが、これも長い付き合いがなせる業だろう。Appleが豊臣グループの傘下にあるとはいえ、私以外の人間にこうはならない。


「ところで、画期的な新製品って何だ?」


私が水を向けると、スティーブは、まるで宝飾品でも扱うような手つきで、ポケットから「それ」を取り出した。鏡面仕上げのステンレスが、部屋の明かりを反射して眩しく光る。


「SONYのWalkmanを、過去の遺物として追いやることが可能な音楽プレイヤーだ!」


自信に満ちたその言葉と共に差し出されたのは、のちに世界を変えることになる初代iPodのプロトタイプだった。私はそれを手に取り、ずっしりとした重みと、吸い付くような質感を確かめる。

ああ、これか。これがiPodの初代モデルに繋がるのか。


「……なるほど。音楽プレイヤーか。誰でも手軽にどこでも音楽を聴くニーズは確実にあるからな」


「名前はまだ決めていないが、驚いたな。一発で本質を見抜くとは」


スティーブは少し意外そうに眉を上げたが、すぐに相好を崩した。彼は私の隣に腰掛け、筐体の上部を指さした。


「見てくれ。ここには3.5mmのステレオミニジャックを配置した。既存のあらゆるヘッドホンがそのまま使える。だが、ただのジャックじゃない。出力インピーダンスを極限まで抑え、トヨトミのデバイスのお陰で、ポータブル機としては異例のS/N比を実現した。ホワイトノイズを徹底的に排除したんだ」


S/N比とは「ノイズのない世界」を表現する厳密な単語だ。シグナルとノイズの比率で、この数値が高ければ静寂が保証される。逆に低ければ、「シャー」とか「サー」とかの不自然なノイズによって音楽への集中度が削がれてしまう。


私はジャックの周囲を指でなぞりながら敢えて問いかけた。


「性能は十分だろう。だが、なぜ1.8インチのハードディスクなんだ? フラッシュメモリの方が振動には強いはずだが」


「容量だよ!」


スティーブはここぞとばかりに叫んだ。


「5GBだ。1000曲がポケットに入る。 フラッシュメモリではせいぜい数十曲。そんなものはアルバム一枚持ち歩くのと変わらない。我々は、ユーザーの全ライブラリをポケットに突っ込むんだ」


「1000曲か……。そうなると、このインターフェースが肝になるな」


「その通りだ」


彼は満足げに頷き、中央のスクロールホイールを回してみせた。


「このメカニカルホイールを見ろ。1000曲の中から一瞬で目当ての曲に辿り着ける。加速度的にリストを飛ばせるんだ。これは物理的な感触が必要だった」


私はさらに核心に触れる。


「パソコンからの転送速度はどうする? USB 1.1では、1000曲を同期するのに半日かかるぞ」


スティーブは不敵な笑みを浮かべた。


「そのためにFireWire(IEEE 1394)を採用した。USBの数十倍、400Mbpsのスピードだ。CD1枚分のデータを1分程度で転送する。充電もこのケーブル1本で完結するんだ」


詳しい性能は知らなかったが、そういうことだったのか。

これなら世界で受け入れられるだろう。


「……3.5mmイヤフォンジャックで汎用性を保ちつつ、中身はFireWireと超小型HDDで怪物級の性能を詰め込んだというわけか。確かに、これはソニーもうかうかしていられないな」


当然、知ってはいたが、私が感心したように芝居を込めて呟くと、スティーブは少年のように目を輝かせて言った。


「いいか、トイチロウ。クロックのジッターも抑えた。デジタルなのに空間が濁る現象を排除したんだ。このデバイスなら、一切の劣化なくデジタルで音楽を持ち運べる。これは単なる機械じゃない。音楽への愛を形にしたものなんだ」


音楽への愛か。なるほど、確かにそうだと思う。

ただし、私が前世で感じた唯一の不満をこの段階で彼にぶつけてみた。


「確かに基本的な音質は良いだろう。だが、それは接続するヘッドホンや、イヤホンによって左右されるのとは違うのか?」


スティーブは初めてここで表情が曇った。


「それはそうなんだが……だが、一応、付属のイヤホンを製品に付けようと考えてはいる」


そうだろうな。それが常識的な対応だ。だが。


「それだと、サードパーティともいうべき、既存のイヤフォンやヘッドフォン専業メーカーが全て利益を奪っていって、せっかくAppleが作った付属品はゴミ箱に捨てられてしまうんじゃないのか?そこに愛はあるのか?」


「……君は嫌なことを言うな。ではApple独自規格の端子にして、既存メーカーを排除しようというのか?」


普及してしまえばそれでも通用するだろうが、今はダメだ。「弱者の戦略」を取るべきで、それは既存の規格を採用して間口を拡げることにあるだろう。


「いや、そうじゃない。だけど、Appleとしての音質基準を明確にして、それをユーザーに訴求するのが正しいやり方じゃないのか?」


音なんてものは評価が難しいと私は考えている。

ある人間にとって「いい音」が、他の人間にとってそうである保証はない。

確かに低コストで作るものは「良し悪し」が判別しやすいが、価格が上がるにつれてその判定は微妙なものとなる傾向がある。


そもそもの話、前世においてAppleはオーディオメーカーではなかった。初期においては、例えばイコライザー設定の扱いも下手だったと記憶している。


イコライザーとは、周波数を帯域ごとに増減させて好みの状態にする作業だが、初期段階においては「0」を基準に、低域から高域にかけて、全て上げる方向でチューニングしており、その結果、音が歪むという弊害を生んだ。

プロの世界では常識の「上げた分、どこかを下げる」設定とするべきだったのだが、そんな初歩すらできていなかった。しかも付属品のイヤホンは市場の評価は芳しくなく、「もっと音の良い社外品を購入するのが常識」という文化を生んだ。


それはそれで商業的な意味はあっただろうが、肝心のAppleにメリットがない。

もう一つ、もっと気になるのが音楽への愛、というスティーブの言葉。


その言葉を聞いた瞬間、私の脳裏に鮮やかに蘇ったのは、この時代に来て初めて迎えた、高校2年の夏休みの午後の思い出だった。

1981年の夏。世田谷の寧音の家。赤く薄い横長のラジカセから、松田聖子の「白いパラソル」が流れてきた。そして初めて聴いた、寧音の歌声。


♪なぁ~ぎさにぃ~白いぱぁ~らそるぅ~♪


松田聖子のように伸びやかで弾ける輝きはなかった。だが、しっとりと柔らかいその歌声は、一瞬で私を虜にした。


不思議なことに、私の自宅にも寧音の声に似たアイドル歌手のレコードがあった。井上望という名前のアイドルだったが、なぜか私には心地よく聴こえた。派手さはない。だが、中音域にわずかな湿度を含んだその声は、感情を押し付けてこないのに、不思議と記憶の奥に残り続ける響きを持っていた。それはこのアイドルのファンだっただろう「生前の」藤一郎の意識が、身体のどこかに残っていたせいかもしれない。


ともかく、寧音の歌を初めて聴いたときの、「なぜか懐かしい」という感覚。それを完璧に再現できる音響機器を私はずっと求めていたのだ。


「……スティーブ、一つ提案がある」


私は寧音に無理を言って、録音スタジオで「白いパラソル」を収録し、彼女の声が最も馴染むイヤフォンを開発することにした。

彼女は最初、かなり恥ずかしがっていたが、私の真意を知って協力してくれた。肝心の歌声は、高校生の時とは少し違っていたかもしれないが、それでも十分に柔らかいもので、36歳という年齢を重ねた艶やかさは高校時代以上かもしれないと感じた。


スティーブは私の提案に、最初は当惑したような、あるいは「美学を汚された」と言わんばかりの表情を見せた。しかし、私がスタジオで録音したばかりの、寧音の歌う「白いパラソル」のデモ音源を聴かせた瞬間、彼の瞳の色が変わった。


「……なんだ、この声は」


スタジオのスピーカーから流れる寧音の歌声。それは、松田聖子のような弾けるような輝きではない。霧雨に濡れた紫陽花のようにしっとりと、そして聴き手の記憶の奥底にある「一番温かい場所」を刺激する、不思議な引力を持った声だった。


「スティーブ、今のAppleに必要なのは、スペック上のS/N比だけじゃない。この『声の体温』を完璧に再現できる出口……つまりイヤフォンだ。これだけ豊かな倍音を含んだ中低域を、スカスカの安物で鳴らしてみろ。それは俺の妻に対する、そして音楽に対する冒涜だと思わないか?」


スティーブは無言で、何度もスクロールホイールを戻しては同じフレーズを繰り返し聴いていた。

彼は完璧主義者だ。一度「最高」の基準を見せつけられれば、それ以下の妥協に耐えられる男ではない。


「分かった。認めよう。今の試作イヤホンでは、この……2kHzから4kHzにかけての繊細な響きが死んでいる。艶も足りない……作り直しだ」


彼は急造のメモ帳に、恐ろしいスピードで図解と数値を書き込み始めた。


「いいか、スティーブ。ハウジングの形状を一から見直してくれ。ただのプラスチックの塊じゃない、音響工学に基づいたチャンバーを内部に作るんだ。振動板には、これまでより薄く、かつ剛性の高い素材を採用し、木下寧音という女性の、吐息の震えまで再現してくれ」


そう私は付け加えた。


「そして、イコライジングの思想も変えてくれ。無理に低音を持ち上げるな。引き算だ。不必要なピークを削り、この中音域の『柔らかさ』が最も際立つバランスをデフォルトにするんだ」


スティーブは顔を上げ、不敵に笑った。


「君の個人的な動機から始まった話だが、これはAppleにとって大きな転換点になるかもしれない。我々はただの『MP3プレイヤー』を作るんじゃない。『世界で最も美しい歌声を、誰の耳にも届けるデバイス』を作るんだ」


最初に取り組んだのは形状だった。彼が持ち込んできたのは「インナーイヤータイプ」つまり、耳の穴にイヤホンを乗せるタイプだったが、2020年代には主流になっていたカナル型(耳栓型)に改めさせた。

このタイプのほうが低音の再現性が容易だからだ。

「周囲の音が聞こえなくなるのでは?」と彼は心配したが、音質面で説得した。


念のため、私とスティーブは世界中の主なメーカーの製品を取り寄せて徹底的に聴き比べをした。

気に入った製品も多かったが、コスト面で断念せざるを得なかった。

期待はしていなかったが、手頃な価格帯の製品は、やはり満足できなかった。


「磁気回路はパーメンジュールを採用しよう」、「ダイナミック型ではなくバランスドアーマチュア型はどうだ?」スティーブの理想に対するこだわりはエスカレートを続け、放っておいたらコスト度外視の物ができそうだったので慌てて止めさせた。いくら何でもこれはやり過ぎだからだ。


「いや。磁気回路はネオジウムでいこう。効率がいいし、小型化できる。問題は振動板だ。質量を落としながら剛性を上げる方法を考えるべきだ」


そんなこんなで試行錯誤を続けて数ヶ月後。ケーブルの線材・素材にまでこだわって、ようやく完成したiPodのパッケージには、それまでのPC周辺機器のような無骨な黒いイヤホンではなく、まるで真珠のように滑らかな曲線を描く、純白のカナル型イヤフォンが同梱されることになった。


それは、のちに世界中の街角で見かけることになる「白いケーブル」の象徴。 だが、その開発の裏側に、一人の日本人女性の「しっとりとした歌声」を完璧に再現したいという、私の執念があったことは、スティーブと私だけの秘密だった。


「……なぁ、スティーブ。このイヤフォンに名前を付けるなら?」


私が尋ねると、彼は少しだけ誇らしげに答えた。


「まだ内緒だが……この『白』は、あの歌に出てくるパラソルの白だと思ってくれていい」


そうだ。もはやおまけの白じゃない。唯一無二の白だ。

そしてそれは圧縮音源のスペックの良し悪しという次元を超えた、普遍的なアナログ部分の強化であり、長くAppleの基準となる。


結果、史実ではゴミ箱に捨てられた付属品は、「iPodの良さを引き出す、計算され尽くしたデザインと音質」という評価となり、素材を吟味してさらに音質を高めた製品の追加投入の影響もあり、サードパーティの音響メーカー品の存在を意味のないものへと変えていくことになる。


本文中で「イヤホン」と「イヤフォン」という、末尾の異なる表記をあえて混在させています。


私にとって「イヤホン」という言葉には、簡素な付属品や、テレビ用としての片耳タイプのような「音が出ればそれでよし」とする投げやりな響きを感じます。対して「イヤフォン」という言葉には、自分自身で選び取った特別な音の体験、その解像度の高さが含まれているように感じるのです(個人の感想ですし、もしかしたら逆かもしれません)


ともかく、一般的な表記の統一性よりも、本作で描きたかった「音への没入感」という手触りを優先した、私なりのこだわりとして受け取っていただければ幸いです。


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― 新着の感想 ―
ソニーが出していた。ダイヤモンド振動板のヤツを長い間利用していました。 MP3は設定を詰めるのと曲間のトータルバランスをとるのが大変だった。少なくともアルバム内のバランスがとれていないと駄目。 ファイ…
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