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もう一人の私 昭和に転生した元財務官僚、失われた30年を防ぐ。   作者: 織田雪村
第四章

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若き企業家⑯ Apple買収 中編

1996年(平成8年)1月


アバンダント・アリージャンスの役員会議は終了し、会議室に残ったのは寧音と小二郎だけだった。私はここで初めて本音を漏らした。


「スティーブの事業が上手くいっていないのは、俺のせいかもしれない」


そうだ。前世ではこんな状態ではなかったのだ。彼の会社はもっと順調だったはずで、現在の状況を作ってしまったのは私に違いない。

二人とも驚いた表情で私を見たが、私は構わず続けた。


「ちょうど10年前の話だ。俺がスティーブを福井県の永平寺に連れて行ったのは知っているよな?」


二人とも頷いた。一週間かけて二人で寺にこもって修行したのだ。覚えていて当然だろう。

私も当然、深く印象に残っている。


特に禅師とスティーブのやり取りについて気になった部分があった。


あれは一週間の修行の最後の夜だった。

皆澤禅師に座学を指導していただいたのだが、その際に不立文字(ふりゅうもんじ)という、禅の核心を一言で表した言葉を伝授されたのだ。


その核心は、言葉を理解したつもりになるな。概念で悟った気になってはいけないということであり、言葉は地図であって、目的地そのものではないと諭された。

私はこの言葉を「決して分かった気になるな」との警告として受け取り、それを正確に翻訳したつもりだったが、彼の受け取り方は違っていた。


だが今になって気づいたが、私が選んだ英語は 『Don't think you understand』 だった。

禅師が本来意図したのは「理解という行為そのものへの疑い」だ。しかし私の訳では「お前の理解は不十分だ」という、向上の余地を示す言葉に聞こえる。スティーブのような人間には、それは「もっと深く理解せよ」という命令として響く。

禅師が伝えたかったのは「理解の不完全さ」ではなく「理解への執着そのものを手放せ」だった。私はその核心を訳し損ねた。


「構造が見えた瞬間、それはゴールなのか?」という哲学的問いに対して、彼はゴールに到達したと確信して去ったのだ。


一方で、禅師はそれを指して「心の(おり)」であると諌めた。


この段階で私は心配したのだ。

彼は、禅師が最も戒めた「言葉を理解して分かった気になる」という段階を飛び越え、「体験そのものを自分のエゴに取り込む」という、さらに深い迷路に入り込もうとしているのではないかと。

そして禅の修行においてもっとも忌み嫌われる段階、魔境にはまり込んだのではないかと恐れた。

どうやらその心配は現実のものになってしまったらしい。


この10年で彼の経営は迷走を続けた。


「NeXTの不振、そしてピクサーの苦境……。彼は今、自分が生み出した完璧という名の檻に閉じ込められている。あの時、私がもっと踏み込んで彼の慢心を叩いていれば、状況は違っていたはずだ」


私は腕を組み、絞り出すように言葉を継いだ。


「禅師が説いた不立文字は、エゴを削ぎ落とすための刃だ。だがスティーブは、その刃で自分のカリスマ性を研ぎ澄ませてしまった。彼にとっての『直感』は、もはや宇宙の真理を聞く耳ではなく、独善を正当化するための盾になっている」


会議室に沈黙が流れる。寧音が静かに口を開いた。


「……でも、それはスティーブさんの資質そのものでしょう?藤一郎が永平寺に連れて行かなかったとしても、彼は別の何かを自分に取り込んで、同じように突き進んでいたはずよ」


「いや、違うんだ、寧音。彼のような天才にとって、俺の翻訳が決め手になってしまった。

修行の最後、彼が『掴んだ』と言った時、彼の目はかつてないほど澄んでいたが、同時に底知れない傲慢さが宿っていた。俺はそれに気づきながら、彼の熱量に気圧されて口を閉ざしてしまったんだ」


小二郎が腕を組み、重苦しく息を吐いた。


「魔境、ですか。確かに今の彼は、自分のビジョンという幻影に魂を食われているように見えますね。

Appleを追われ、新天地でも理想を追い求めすぎて現実を置き去りにしている」


「そう。彼は今、自分が創った宇宙の神になろうとしている。だが、経営という現実は、言葉や概念で塗り固められるほど甘くはない」


私は窓の外、冬の冷たい空気に包まれた景色を眺めた。

1996年。スティーブという男が歴史の表舞台から消え去るのか、それともこの絶望の底から這い上がってくるのか、まだ誰にも分からなかった。


「俺が翻訳を間違えたせいで、彼を救うどころか、彼に最強の武器を与えてしまった。その武器が、今、彼自身を切り刻んでいるんだ」


私の悔悟は、窓を叩く冷たい雨の音にかき消されていった。

同時に私は、禅師の言葉を通訳する際に、もっと私の言葉に変換して伝えるべきではなかったかと、新たな後悔の念に苛まれていた。


「彼は『掴んだ』と思った瞬間から、確認をやめた。市場の声も、失敗のシグナルも、すべてノイズとして切り捨ててしまったんじゃないかと思う」


寧音が静かに口を開いた。


「でも、それは彼が間違っていた、という話なんでしょう?」


私は首を横に振った。


「違う。彼は半分だけ正しかった。問題は、彼が掴んだと感じた光が強すぎたことで、それを後押ししたのは俺なんだ。あの誤訳がなければ、彼はあそこまで行かなかった。分岐点は、間違いなくあの夜の俺の言葉だ」


悟りに似た直観は、使い方を誤れば麻薬になる。

一度でも世界の設計図が見えたと感じてしまえば、人は現実の摩擦を軽視する。


禅師が言った「生きたまま悟ったと思うな」という言葉は、宗教的戒めではなく、人間の認知のバグに対する警告だったのだ。


私は窓の外に目をやった。

東京の空は、どこか鈍く、情報過多の時代の始まりを告げているようだった。


「だがな……」


私は言葉を選びながら続けた。


「もし、あのとき彼が結果として毒を掴んだのだとしても、それをこれから無害化できる環境があれば話は別だ」


寧音が、はっとした表情でこちらを見る。


「……そのためにAppleを?」


「そうだ」


私は静かに頷いた。


「Appleは今、彼と正反対の病にかかっている。理念が失われ、方向性がなく、誰のための製品か分からなくなっている」


迷走する組織、それに対して確信に酔った天才。

この二つは、本来なら最悪の組み合わせだ。だが、条件が揃えば互いの欠点を打ち消し合う。


「Appleという現実が、スティーブの確信を削る砥石になる。そしてスティーブという狂気が、Appleに再び魂を吹き込む」


小二郎が、ゆっくりと息を吐いた。


「……つまり兄さんは」


「ああ。そうだ」


私ははっきりと言った。


「彼を救うためにAppleを買うんじゃない。Appleを救うために、彼を檻から解き放つんだ」


そして、心の奥で付け加えた。


10年前、止められなかった続きを今度こそ終わらせるために。

この投資は事業ではない。贖罪であり、賭けであり、そして世界への再挑戦だ。


私はもう一度、決意を固めた。

スティーブを、悟った男としてではなく、もう一度、迷える人間として現実に引き戻す。

それができるのは今の世界で私だけだと信じて。


「小二郎、寧音。アメリカに行くぞ」


「今、アメリカへ?」


寧音が驚きに目を見開いた。

1996年1月の冷え込みは厳しく、窓ガラスは白く曇っている。


「ああ。手遅れになる前にな。今のAppleには、ギル・アルメアがCEOとして乗り込んでいるが、彼の手法では止血はできても再生は無理だ。そしてNeXTは、スティーブのこだわりという名の高価な墓標になりかけている」


私は立ち上がり、コートを手に取った。


「俺が永平寺で彼に与えてしまった『魔境』という名の劇薬。それを中和できるのは、彼がかつて愛し、そして彼を放逐したあの場所しかない。Appleという巨大な鏡を突きつけ、彼を自らのエゴから引きずり出すんだ」


小二郎がひきつった笑顔を私に向けた。


「贖罪にしては、ずいぶんと高くつきそうな賭けですね。Appleの株価は底を這っている。今あそこに首を突っ込むのは、沈みゆくタイタニック号に乗り込むようなものですよ」


「だからこそ意味があるんだよ。皆が逃げ出す時に我々だけが彼の『狂気』に投資する。それがスティーブという男を現実に繋ぎ止める唯一の鎖になるんだ」


私は二人の顔を交互に見た。


「寧音、現地の法務と会計の精査を急いでくれ。小二郎、サンフランシスコでの極秘会談のセッティングだ。相手はギル・アルメアじゃない。スティーブ本人だ」


「……分かったわ。彼は怒鳴り散らしてくるかもね。『お前のせいで俺の哲学が汚された』って」


寧音が困ったように笑いながらも、その瞳には強い光が宿っていた。


「それでいい。沈黙されるより、ずっとマシだ」


私は会議室のドアノブに手をかけた。


10年前、永平寺の深い静寂の中で、私は彼の変化を黙認してしまった。その結果、彼は完璧という幻想の中で迷走し、Appleは魂を失った。史実という名の「正解」は、すでに私の介入によって歪んでいる。だが、その歪みを正せるのも、この1996年に生きる私しかいない。


「行こう。世界を書き換えるのは、いつだって確信犯と、少しの後悔を抱えた人間だ」


私たちは夜の帳が下り始めた東京の街へと踏み出した。

1996年、冬。のちに「世紀のカムバック」と呼ばれる物語の、これが真のプロローグになると、この時の私はまだ自分に言い聞かせることしかできなかった。


サンフランシスコへ向かう機内で、小二郎が静かに言った。


「兄さん。状況が落ち着いたら、もう一度スティーブさんを永平寺に連れて行くべきですね。その時は僕もご一緒しますよ」


「そうだな。そうしてくれ。俺が誤訳したと思ったら遠慮なく訂正してくれ」


そうだ。最も簡単な方法はスティーブの体験を上書きしてしまうことだ。なぜ思いつかなかったんだ。

今度は間違わないようにしなくてはいけないと強く思った。


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