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もう一人の私 昭和に転生した元財務官僚、失われた30年を防ぐ。   作者: 織田雪村
第四章

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若き企業家⑭ 規格という名の包囲網 後編

1995年(平成7年)7月


東京、ワイドギャップテクノロジーズ本社


「兄さん、日亜化学から連絡がありました」


小二郎が緊張した面持ちで報告した。


「『今後の業界動向について、意見交換をしたい』とのことです」


私は静かに微笑んだ。


「予想通りだ。彼らは、ついに現実を理解したらしい」


寧音が、お茶を淹れながら言った。


「藤一郎、本当にうまくいったのね」


「ああ。完璧に」私は窓の外を見た。


「彼らは今、三つの選択肢の中で苦悶している。独立を貫いて緩やかに死ぬか、他社との提携を模索して規格の壁に阻まれるか、あるいは……」


「我々と手を組むか、ですね」


小二郎が続けた。


「そうだ。そして、合理的な経営者なら、答えは一つしかない」


私は振り返った。


「準備を始めよう。日亜化学との交渉に向けて、最高の条件を用意する」


小二郎が資料を広げた。


「兄さん、提示する条件ですが……」


「本社とマザー工場は徳島に維持する。彼らの誇りである『装置自前主義』も尊重する。技術者の待遇は、現在の3倍を保証する」


寧音が驚いた顔をした。


「それ、かなり好条件じゃない?」


「ああ。しかし、その代償として、特許と経営権は100%こちらが取得する」


私は資料に目を通した。


「寧音、これは慈善事業じゃない。日亜化学の技術者たちは、世界最高峰の人材だ。彼らを我々の陣営に引き入れることで、次世代の光源開発が10年は加速する」


「仲村修二さんという人も?」


「特にね。彼は天才だ。そして、天才には天才にふさわしい舞台が必要だ」


私は微笑んだ。


「独立した小さな会社で限られた予算の中で戦うよりも、世界最大の光企業で潤沢な資金と最新設備を使って研究するほうが、彼にとっても社会にとっても幸せなはずだ」


小二郎が、感心したように言った。


「兄さんは、本当に……すべてを計算しているんですね」


「当然だ。これは、感情ではなく戦略だ」



1995年8月 

徳島、日亜化学工業本社


徳島の日亜化学本社。

私と小二郎は、稲葉社長と仲村修二と向かい合っていた。

会議室には、重苦しい空気が流れていた。


「木下さん」


稲葉社長が、口を開いた。


「単刀直入に伺います。あなたが仕掛けた、この国際標準化の動き……我々を、どうするつもりですか?」


「どうする、とは?」


私は穏やかな口調に留意しつつ続けた。


「社長、私は何も『仕掛けて』いません。ただ、時代の流れに沿って、合理的な提案をしただけです」


仲村が、椅子を蹴って立ち上がった。


「ふざけるな!合理的な提案だと!?」


仲村の怒りが、会議室の空気を震わせた。


「欧州の環境基準、米国の安全保障、企業の設計ガイドライン……すべてが『偶然』俺たちを締め出す内容になっているのが、ただの『時代の流れ』だと!?」


私は、静かに彼を見つめた。


「仲村さん、座ってください」


「座れるか!俺は何年も、寝る間も惜しんで青色LEDを――」


「あなたの青色LEDは、素晴らしい」


私は彼の言葉を遮った。


「あなたの功績は、人類の歴史に刻まれるでしょう。しかし、仲村さん……技術の優秀さと、市場の支配は別物です」


仲村が、歯ぎしりをした。


「……それが、お前の言いたいことか」


「いいえ。私が言いたいのは……」


私は立ち上がり、窓の外の徳島の街を見た。


「あなたの技術は、この小さな町に閉じ込められるには、あまりに偉大すぎるということです」


「……何?」


「仲村さん、あなたは今、年間予算5億円の研究室で、世界と戦っている。しかし、もし年間予算50億円、いや100億円の研究室があったら?世界最高の設備と、優秀な部下が20人いたら?」


私は振り返った。


「あなたは、何を成し遂げられますか?」


仲村が、言葉を失った。


稲葉社長が、苦しそうに口を開いた。


「木下さん……それは、つまり」


「はい」


私は、用意していた契約書の束をテーブルに置いた。


「日亜化学工業を、ワイドギャップテクノロジーズの完全子会社とする。その条件を、ここに用意しました」


小二郎が、契約書を開いた。


「第一条。日亜化学工業の本社および主要製造拠点は、徳島に維持する」


「第二条。現在の技術者は全員雇用を保証し、給与水準は現行の3倍とする」


「第三条。仲村修二氏を、ワイドギャップテクノロジーズ先端材料研究所の所長に任命し、年間予算100億円の研究室を新設する」


「第四条。日亜化学が保有する青色LED関連特許は、すべてワイドギャップテクノロジーズに移管する」


「第五条。経営権は100%、ワイドギャップテクノロジーズが保有する」


稲葉社長が、震える手で契約書を手に取った。


「……これは」


「破格の条件です」


私は断言した。


「社長、率直に言いましょう。今の日亜化学には、三つの選択肢しかありません」


私は指を一本立てた。


「第一に、独立を貫く。その場合、3年以内に国際基準に適合できなければ、市場は失われます。そして、阿波銀行は追加融資をしない」


二本目の指を立てた。


「第二に、他社との提携。しかし、主要企業はすべて我々と契約済みです。残された市場は、中小企業向けの特殊用途のみ。売上は現在の10分の1です」


三本目の指を立てた。


「第三に、我々と組む。技術者の待遇は大幅に改善され、研究予算は20倍になります。そして、世界市場への扉が開かれます」


私は手を下ろした。


「社長、どれを選びますか?」


会議室に、長い沈黙が落ちた。


仲村が、苦しそうに呟いた。


「……年間予算、100億円?」


「はい。そして、世界中から優秀な研究者を集めます。あなたが望むなら、スタンフォード大学やMITとの共同研究も可能です」


仲村の目が、揺れた。


「俺は……俺は、ただ研究がしたかった。世界を変える技術を、作りたかった」


「それができます」


私は断言した。


「ただし、『日亜化学の仲村修二』としてではなく、『ワイドギャップテクノロジーズの仲村修二』として、この日本において、です」


稲葉社長が、深く息を吐いた。


「……木下さん、一つだけ教えてください」


「何でしょう?」


「あなたは、最初から……この結末を見ていたのですか?」


私は、少しだけ微笑んだ。


「社長、ビジネスとは、相手に選択肢を与えながら、結論は一つしかないように設計することです」


稲葉社長が、静かに笑った。


「……参りました。あなたには、敵いませんね」


彼は、契約書にサインをした。


仲村は、最後まで複雑な表情をしていたが、やがて、諦めたように、あるいは未来を見据えるように、ペンを手に取った。


「……俺は、負けたわけじゃない」


彼は呟いた。


「ただ、戦う舞台を変えるだけだ」


「その通りです」


私は握手を求めた。


「仲村さん、あなたはこれから、世界最高の舞台で戦うことになります」


握手を交わした瞬間、私には未来が見えた。日亜化学の技術、仲村修二の天才性、そして私の戦略。

これらが一つになった時、世界の照明産業は完全に塗り替えられる。



1995年9月 東京 ワイドギャップテクノロジーズ本社


日亜化学工業の買収が発表された日。業界は衝撃に包まれた。


『ワイドギャップ、日亜化学を完全子会社化』


『青色LED市場、事実上の統一へ』


全国紙が一面で報じ、夕方以降のニュースはこの話題でもちきりだった。

私は、寧音と小二郎とともに、本社の最上階から東京の夜景を見ていた。


「藤一郎、おめでとう」


寧音が、優しく微笑んだ。


「ありがとう。でも、これはまだ始まりに過ぎない」


小二郎が、シャンパンを注いだ。大人しい男だが、今夜は珍しく上機嫌で、グラスを差し出す手に力が入っている。


「兄さん、乾杯しましょう」


三人でグラスを掲げた。


「新しい時代に」


グラスが触れ合う音が、静かに響いた。しばらく誰も喋らなかった。夜景を眺めながら、それぞれが何かを考えている。

やがて小二郎が、ぽつりと言った。


「……兄さんの隣にいると、自分が何者なのか分からなくなることがあります」


「どういう意味だ」


「僕は法務を任されています。でも、兄さんが描く絵の大きさに、数字が追いつかない。毎月、桁が変わっていく」


彼はグラスを見つめたまま続けた。


「怖いとは思わない。ただ……自分がどこまで走れるか、まだ分からないんです」


私は弟を見た。


「お前は走れる。俺には分かる」


小二郎は短く笑った。照れているのか、困っているのか、判然としない表情だった。


「……そう言われると、断れないですね」


寧音が、少し心配そうに言った。


「でも、藤一郎……あまり無理しないでね」


「大丈夫だ」


私は彼女の手を握った。

窓の外で、東京の夜景が煌めいていた。



翌日、私は仲村修二氏と打ち合わせを行った。私が今後の事業計画を提示すると、彼は計画書をしばらく黙って見つめた。


「……これが、俺の研究室として計画されていると?」


最新鋭の分析装置、クリーンルーム、そして世界中から集める予定の研究者たち。


「はい。年間予算100億円。そして、あなたには完全な研究の自由を与えます」


仲村が、複雑な表情をした。


「……木下、お前は敵だと思っていた」


「今でも、そう思っていますか?」


「……分からない」


彼は計画書から目を上げた。


「ただ、一つだけ分かることがある」


「何ですか?」


「俺は、これで世界を変える研究ができる」


彼は、初めて笑った。


「それだけで、十分だ」


私は握手を求めた。


「仲村さん、一緒に世界を変えましょう」


「……ああ」


彼は力強く握手を返した。


「ただし、木下。俺は、お前の『駒』じゃない」


「もちろんです」


私は微笑んだ。


「あなたは、私の『剣』です」


仲村が、鋭い目で私を見た。


「……お前は、本当に恐ろしい男だ」


「お互い様ですよ、仲村さん」


握手を交わした後、彼は踵を返して扉へ向かった。その背中を見送りながら、私は胸の奥で何かが引っかかるのを感じた。

剣、と言った。駒ではなく。

だが剣もまた、握る者がいなければ意味をなさない。彼はそれを承知で頷いたのか。それとも、まだ気づいていないのか。

答えは出なかった。出さないまま、私は次の予定へと歩き出した。


規格という名の包囲網。それは、血を流さない戦争。技術ではなく、ルールで勝つ。力ではなく、包囲網で制する。相手に選択肢を与えながら、結論は一つしかないように設計する。これが私の戦い方だ。


私の前世において、この人は窒化物半導体を用いた光触媒デバイスを作り上げたが、これの登場は早まるだろう。

窒化ガリウムに光を当てることで電流を発生させ、水を電気分解して水素と酸素に分離する技術だ。光を使って新たなエネルギーを作るという技術だから、実用化されたならば資源小国日本の光となるだろう。

問題は、この研究所をどこに作るかだ。


日亜化学を手に入れた今。私の手には、世界の光が握られている。

そして次はApple。次に半導体。そして。

世界はまだ気づいていない。30歳の男が、どれほど巨大な野望を抱いているかを。

だが、いずれ分かるだろう。


木下藤一郎という名が、世界を変えた男として、歴史に刻まれることを。


現在の保有・提携先企業


『株式会社ピクセルジョイトロン』

『株式会社アバンダント・アリージャンス』

『株式会社ワイドギャップテクノロジーズ』

『ミノルタカメラ株式会社』

『浜松ホトニクス株式会社』

『株式会社オハラ』

『日亜化学工業株式会社』


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