若き企業家⑬ 規格という名の包囲網 中編
1995年3月 カリフォルニア州・シリコンバレー クパチーノ近郊。
私たちが今いる建物は、表向きは投資家の私設オフィスだが、実態はテック業界の要人たちが集う、半ば裏の会議室のような場所だった。私はそこでスティーブ・ジョブスと向かい合っていた。
私の記憶によれば、彼はNeXTのCEOとして再起の機会を静かに、だが狂気的な集中力でうかがっている時期だったはずだ。にもかかわらず記憶と違い、彼の会社の業績は芳しくない。
「しばらくだったな。キノシタ…」
ジョナスは椅子に深く腰掛け、獲物を定めるような鋭い視線を向けた。
「君のLEDは面白い。だが、なぜ俺に見せる?物理学の学会にでも持って行けばいいだろう」
「理由はシンプルだ、スティーブ」
私は静かに答えた。この場ではNeXTの業績の話をするべきではないだろう。
「君は美しい製品を作る。そして、その美しさの半分はディスプレイで決まるからだよ」
私は鞄から、小型の試作モジュールを取り出した。
研究室レベルの、剥き出しのプロトタイプだ。
「これを見てくれ」
スイッチを入れた瞬間、簡易的な液晶パネルが点灯した。従来の冷陰極管(CCFL)とは明らかに違う、深みのある色彩。黒はどこまでも沈み、赤と緑は鮮烈に輝き、そして青は異様なほど澄んでいた。
ジョナスが身を乗り出し、言葉を失う。
「……何だ、この発色は……」
「LEDを用いた次世代バックライトだよ。理論上、色域は40%向上、消費電力は6割カットできる。そして何より……」
私は基板の側面を指差した。
「構造を工夫すれば、ディスプレイの厚みを半分以下にできる」
「半分……だと?」
ジョナスの瞳に、独特の熱が宿った。彼はプロダクトの「薄さ」に対して異常なまでの執着を持つ男だ。
「ノートパソコンの形そのものを変えられる。バッテリー寿命も、1.5倍は現実的だ」
ジョナスは黙ったまま、プロトタイプを手に取った。指先で何度も角度を変え、光の質を、まるで宝石の鑑定士のように確かめている。
「……ゴミのような液晶ばかり見てきたが、これは『光』そのものが生きているな」
彼は視線を上げ、私を射抜いた。
「それで、目的は何だ?投資か?それともライセンス料か?まさかこれで座禅をしろとかは言うまい?」
「この技術を、君の『哲学』に合わせて磨き上げたい」
私が目配せすると、寧音が一冊の資料をジョナスに差し出した。
「色温度、輝度分布、応答特性など、すべてスティーブ・ジョナスが美しいと感じる基準に合わせてカスタマイズするよ。ただし、条件がある」
ジョナスが資料をめくる。その手が止まった。
「……これは、仕様書じゃないな」
「デザインガイドラインだ。この基準に従わなければ、世界中のサプライヤーは、君の製品に部品を納品できなくなる」
しばしの沈黙。ジョナスの口元が、わずかに歪んだ。それは彼が最高級の知略に触れたときに見せる笑みだった。
「なるほど。君は技術を売るんじゃない。君の基準を法律にまで高めようとしているわけだ。
……キノシタ、君は、かなり性格が悪い」
そして、私たちを見渡しながら彼は短く、愉しそうに笑った。
「だが、嫌いじゃない。気に入った」
彼は立ち上がり、窓の外のシリコンバレーの街並みを睨みつけた。
「今はまだ、NeXTという小さな器の中にいる。残念だが、業績は芳しくない。だが……」
彼は振り返り、はっきりと言った。
「画期的な製品ができたら、真っ先にこの案を採用する。私たちの色を世界に叩きつけるためにだ」
私は小さく頷いた。
「その日を、楽しみにしている」
「新しい時代の『光』だな。よしやってやろうじゃないか」
ジョナスの横顔を見ながら、私は確信していた。
この男なら必ず成し遂げるだろう。そして製品が完成した瞬間、この「光」を使って、世界の基準をもう一度ひっくり返すはずだ。
だが、成田で彼を見送った時の危うさは回避できたのだろうかと、少し心配になった。
ちょうどその頃、日本ではあの教団による凶悪犯罪が、白日の下に晒されようとしていた。今後は次第にヨガや禅の修行体験を悪用した手口が明らかになっていくだろう。
その後、私たちはヒューレットパッカード、デル、そしてIBMを順番に回って同様の契約を結んだ。
世界中のコンピューター企業が、我々の「標準」に従って製品を設計し始める。そして、その標準に合わない製品は、たとえ技術的に優れていても市場から排除されるという道が完成しつつあった。
1995年5月 東京、ワイドギャップテクノロジーズ本社
欧州、米国との交渉を終えた私たちは、東京に戻り、石田たち幹部と打ち合わせを行った。
「お帰りなさい、社長。すべて成功したみたいですね」
石田が、興奮した様子で出迎えた。
「ああ。完璧だ」
私は鞄から書類の束を取り出した。
「これが、IECで採択される『次世代照明安全・品質基準』の草案。これが米国国防総省の新しい調達基準だ」
石田が書類を見て、目を丸くした。
「すごい……これ、全部、社長たちが?」
「ああ。そして、最も重要なのはこれだ」
私は最後の書類を取り出した。
「アップル、HP、デル、IBMとの『デザインガイドライン共同策定契約』。これにより、世界中のコンピューター製品の設計基準を、我々が事実上コントロールできる」
石田が感嘆のため息をついた。
「社長……これは、もはや一企業の戦略ではありませんね。世界の産業構造そのものを作り替えている」
「その通りだ」
私は窓の外を見た。
「彼らは今、必死に顕微鏡を覗き、ワイドギャップを上回る精度を追求しているだろう。だが、彼らが覗いているその顕微鏡の『台座』ごと、俺が買い取ったことにまだ気づいていない」
寧音が、少し心配そうに言った。
「でも、日亜化学の人たちは……これに気づいたら、どう思うかしら」
「気づいた時には、もう遅い」
私は振り返った。
「彼らの選択肢は三つしかない。第一に、独立を貫き、緩やかに市場から消える。第二に、我々以外の企業と提携を模索するが、規格が合わず結局失敗する。第三に……」
「我々と手を組む、ですね」
石田が続けた。
「そうだ。そして、合理的な経営者なら、第三の選択肢しかないと気づくはずだ」
私は微笑んだ。
「これが、『落とさずして、逃げ場を消す』という戦略だ」
1995年6月 徳島県、日亜化学工業本社
仲村修二は、実験室で青色LEDの次世代プロトタイプを観察していた。石田に遅れること3年。彼も青色LEDの開発に成功していた。現在の彼はワイドギャップの特許をかいくぐることに全力を傾けていた。
「効率が18%向上している。これなら、ワイドギャップのチップを上回れる」
彼は満足そうに呟いた。
その時、ドアが激しくノックされた。
「仲村さん!社長が緊急役員会議を招集しました!すぐに来てください!」
「……何があった?」
「分かりません。ただ、社長の顔色が……」
仲村は嫌な予感を覚えながら、会議室へ向かった。
会議室にて
社長の稲葉鉄一と、財務担当の役員、営業担当の役員が、重苦しい表情で座っていた。
テーブルの上には、主力銀行から届いた「参考資料」と、海外の業界誌が山積みになっていた。
「仲村さん、座ってください」
稲葉社長の声は、疲れ果てていた。
「これを見てください」
仲村は資料を手に取った。
最初のページには、「IEC次世代照明安全・品質基準(草案)」とあった。
ページをめくるごとに、仲村の顔色が変わっていった。
「……これは」
「すべて、我々を狙い撃ちにしています」
営業担当の役員が、苦々しく言った。
「『製造プロセスの透明性』、『環境基準への適合』、『国際標準規格への準拠』……どれも、我々の自社製造装置では、すぐには証明できない項目ばかりです」
仲村が次の資料を見た。
「アメリカ国防総省の新しい調達基準……『有事の際の優先供給保証』?これは事実上、米国に工場を持たない企業を排除する条項じゃないか」
「その通りです」
財務担当の役員が、震える声で続けた。
「そして、最も深刻なのはこれです」
彼が差し出したのは、アップル、HP、デル、IBMなどの主要企業が発表した「次世代製品デザインガイドライン」だった。
「これらすべてが、『ワイドギャップテクノロジーズ推奨仕様』に準拠しています。つまり……」
「つまり、我々のチップは、物理的に世界の製品に入らないということか」
仲村が、資料を叩きつけた。
稲葉社長が頷いた。
「はい。たとえ我々が技術的に優れたチップを作っても、サイズや接続規格が合わなければ、採用されません」
会議室に重い沈黙が落ちた。
仲村が、低い声で尋ねた。
「……これを仕組んだのは?」
「間違いなく、ワイドギャップテクノロジーズの木下藤一郎です」
営業担当の役員が答えた。
「彼は過去半年間、欧州、米国、そして主要企業を回り、『環境』『安全保障』『顧客サービス』という大義名分のもとに、この包囲網を構築したに違いありません」
「くそっ!」
仲村が拳をテーブルに叩きつけた。
「技術で勝っているのに、なぜこんな……!」
「仲村さん」
稲葉社長が、彼を制した。
「冷静になってください。我々には、まだ選択肢があります」
「……選択肢?」
「第一に、この国際基準に適合するよう、製造プロセスを全面的に見直す。ただし、これには3年以上かかり、設備投資だけで100億円を超えるでしょう」
財務担当の役員が付け加えた。
「しかし、主力銀行は『慎重に検討したい』と言っています。つまり、追加融資は期待できません」
稲葉社長が続けた。
「第二に、海外の企業と提携し、彼らの規格に合わせた製品を作る。しかし……」
「しかし、主要企業はすべて、ワイドギャップと契約している」
営業担当の役員が苦々しく言った。
「我々に残された市場は、中小企業向けの特殊用途だけです。年間売上は、現在の10分の1以下になるでしょう」
仲村が、窓の外の徳島の街を見た。
「……第三の選択肢は?」
稲葉社長が、深く息を吐いた。
「ワイドギャップテクノロジーズと、交渉することです」
「……それは、降伏するということか」
「いいえ」
稲葉社長が首を振った。
「共存です。彼らは、我々の技術を評価しています。だからこそ、潰すのではなく、取り込もうとしている」
仲村が、苦しそうに呟いた。
「……俺は、何のために戦ってきたんだ」
青色LEDを完成させた時の喜び。世界を驚かせた時の誇り。
それらすべてが、今、無意味に思えた。
「技術で勝っても、ルールで負ける……これが、現実なのか」
仲村は悔しそうに呻いた。




