若き企業家⑫ 規格という名の包囲網 前編
1995年(平成7年)1月10日
寧音と結婚した私は、守るべきものが増えた以上、もはや1%の不確実性も許されないと悟った。
日亜化学工業。
徳島に根を張る、この強固な技術要塞をどう取り込むか。その最適解を何度も反芻した。
選ぶべきは、強引なM&Aでも、中村修二氏の引き抜きでも、ましてや力で叩き潰す焦土作戦でもないはずだ。
最終的には「落とさずして、逃げ場を消す」と結論付けた。
供給網、資金、そして将来性。これらを外側から音もなく包囲し、日亜化学自らに「交渉のテーブルに着きたい」と渇望させる。これこそが、私の描く支配の形だ。
「兄さん、日亜化学への対応ですが……直接交渉は考えていないんですか?」
小二郎が、不思議そうに尋ねた。
「小二郎、力攻めするにも、今回の場合はあまりに不純物が多いんだ」
小二郎と寧音を呼んで行った打ち合わせの席で、私は理由を説明した。
「徳島の地で育まれたオーナー企業の矜持、地元金融機関や行政との密接な絆、そして技術者たちの特異な文化。これらを無理やりこじ開ければ、猛反発という名の時間の浪費を招き、最悪の場合、技術流出という致命傷を負いかねない」
それでは私の嫌う敵対的TOBと大差ない。手段を誤ると結果も壊れる。
寧音が、静かに口を開いた。
「じゃあ、どうするの?放っておけば、彼らは独自の道を歩み始めるわよ」
「そう。だからこそ、彼らが歩む『道』そのものを、俺が作るんだ」
私は立ち上がり、ホワイトボードに三つの言葉を書いた。
「規格化」「国際標準」「時間切れ」
「二人ともビデオテープの世界における規格争いは覚えているだろう?VHS対ベータの戦いだ。どちらも日本主体の規格だが主導権争いは熾烈を極めた」
「よく覚えているわ。私の両親もどちらを選ぶか随分悩んでいたもの」
「そうだろうね。特に発売して間もない時期はそうだっただろう。では、規格が複数あって、互換性がない場合、一番迷惑するのは誰だい?」
寧音と小二郎はお互い顔を見合わせていたが、小二郎がぽつりと言った。
「それは…お客さん。つまりユーザーじゃないの?事実、僕はそれで困った人間の一人だ」
そうだったな。私よりも理系頭脳だった小二郎はベータを欲しがっていた。
「その通りだ。淘汰されたほうの規格品を買っていたユーザーは最悪の気持ちだろう。つまり、メーカーのエゴはユーザーの負担になるんだ。だからこのLEDの話も似たようなものだ。それに、世界共通の規格が確立されたらコストダウンにつながる。最終的にはユーザーの利益になる話だから、これは正しいんだよ」
二人とも納得できたらしく、大きく頷いた。
私は寧音に言った。
「これから世界を旅しよう。アムステルダム、ジュネーブ、ワシントン、パリ、そしてシリコンバレー。帰ってくる頃には、日亜化学という『技術要塞』は、世界市場から事実上孤立しているのじゃないかな」
小二郎が興味深そうに身を乗り出した。
「国際標準化……ですか。確かに、それなら正面衝突を避けられますね」
「ああ。これは破壊ではない。時代という名の真綿で首を絞める、静かなる包囲網だ」
寧音が、少し心配そうに私を見た。
「藤一郎、それって……かなり時間がかかるんじゃない?大丈夫なの?」
「手間はかかるね。だけど、すでに種は勝手に蒔かれているんだよ」
私は微笑んだ。
「欧州の環境規制への関心、米国の安全保障意識、そして世界企業の『標準化』への渇望。これらすべてが、今まさに熟している。あとは水をやるだけなんだ」
1995年1月20日
オランダ アムステルダム
私たち三人は、日本で発生した地震のニュースに心を痛めながらも、フィリップス本社において、私は再びヤン・ティマーと向き合っていた。
「ミスターキノシタ。あなたとは因縁があるらしいな。
前回はしてやられたが、今日はどんな用件かな?」
「今回はいい話だ。『次世代照明安全・品質基準』を提案したい」
彼は分厚い資料をめくりながら、それでも警戒感を崩そうとはしなかった。
じっくりと目を通した後で、彼の感想を漏らした。
「この内容は環境とか安全を謳っているが、結局は談合じゃないのか?
以前に君は私たちを指弾したが、今では仲間気取りか?」
「この提案に、私の野心が含まれていないとは言わない。だが、基準の統一は顧客の利益に繋がるはずだ。しかし、君たちのフェーバス・カルテルに顧客の利益は含まれていたのかい?」
そう正面から突きつけると彼の目線が揺れた。
1995年1月22日 ジュネーブ、スイス
雪に覆われたレマン湖を望むホテルのスイートルーム。私は、IEC(国際電気標準会議)の重鎮であるドイツ人技術者、ヘルムート・シュミット博士と向かい合っていた。
「ミスター・キノシタ、君が提案されている『次世代照明安全・品質基準』だが……これは、かなり先進的な内容だね」
博士は分厚い資料をめくりながら、感心したように頷いた。
「そうだ。しかし、これは時代の要請と言えるだろう。博士、欧州は今、環境大国として世界をリードしようとしている。水銀を使った蛍光灯を追放し、カーボンニュートラルを実現する。その大義のためには、新しい光源に対する明確な基準が不可欠だ」
私は資料の一部を指差した。蛍光灯に水銀が使われているのは事実で、これはLEDを普及させる絶好のネタになる。その事実に私の狙いを乗せてしまうのだ。
「LED照明は、これから世界中に普及する。しかし、製造プロセスが不透明なままでは、環境負荷の実態が分からない。欧州が主導して、『グリーン・プロセス認証』を標準化すべきだ」
博士が眉をひそめた。
「しかし、これは既存の製造業者、特に独自の製造手法を持つ企業にとっては、かなりハードルが高い基準になるのでは?」
「その通りだ」
私は窓の外のアルプスを見た。
「しかし、博士。環境基準とは、本来そういうものではないのかな?優れた技術を持つ企業が報われ、旧来の手法に固執する企業が淘汰される。それが市場の健全な進化だったはずだ」
私は身を乗り出した。
「そして、これは欧州にとってチャンスでもある。フィリップスをはじめとする欧州企業は、すでに我々のライセンスを受けており、プロセスの透明性も確保されている。この基準を採用すれば、欧州企業が世界市場で圧倒的に有利になるだろう」
博士は長い沈黙の後、ゆっくりと頷いた。
「……なるほど。技術力と環境意識の両立。これは、確かに欧州が主導すべきテーマだね」
「そうだ。そして、日本企業の中にも、この基準に賛同する企業は多数存在する。ワイドギャップ連合の加盟企業はすべて、この基準を支持している」
私は資料を閉じた。
「これは、一企業の利益のためではなく、地球環境のための基準なんだ」
博士が微笑んだ。
「ミスター・キノシタ、君は若いのに、実に老練な戦略家だ。分かった。IECの次回会合で、この草案を提出しよう」
握手を交わした後、私はホテルの窓から雪景色を眺めた。
これで第一の罠が完成した。日亜化学の製造過程は、この環境基準に適合しているかを証明せよという逆立証の義務を負うことになる。
そして、その証明には膨大な時間と費用がかかる。その間に、市場は我々の標準で動き始める。
「環境のため、か」
私は小さく呟いた。
「大義名分とは、便利なものだ」
そう自嘲の言葉を漏らした。
1995年2月 ワシントンD.C.、アメリカ合衆国
ホワイトハウスに程近いオフィスビル。
私たちは、米国エネルギー省の高官、ロバート・ジョンソンと、国防総省の調達担当、マイケル・トンプソン大佐と会談を行っていた。
「ミスター・キノシタ、あなたの提案は興味深い。しかし、LEDを『半導体戦略物資』として定義するというのは、前例がないね」
ジョンソンが慎重に言葉を選んだ。
「前例がないからこそ、今、定義すべきだろう」
私は小二郎の作った資料を二人の前に広げた。
「LED照明は、今後10年で世界の照明市場の70%を占めるだろう。それは単なる電球ではなく、軍事施設、航空母艦、戦闘機のコックピット、そして通信インフラのすべてに関わる戦略物資になるんだ」
トンプソン大佐が身を乗り出した。
「具体的には?」
「例えば、湾岸戦争での夜間作戦だが、照明の信頼性が、作戦の成否を分けたはずだ。今後、LED照明が主流になれば、その供給網を握る者が、実質的に世界の軍事作戦の『スイッチ』を握ることになる」
大佐の表情が険しくなった。
「……続けてくれ」
「現在、日本の一部企業が、製造工程を完全にブラックボックス化している。彼らは優れた技術を持っているが、有事の際、米国政府の要求に応えられるのかな?」
私は二人を見た。
「我々ワイドギャップ連合は、米国企業に対して完全なセカンドソースを提供する準備がある。製造工程を透明化し、米国国防総省の基準に従った供給体制を構築しよう。そして、有事の際には、優先的に米軍への供給を保証する」
ジョンソンとトンプソンが視線を交わした。
「ミスター・キノシタ、それは……かなり踏み込んだ提案だね」
「ああ。しかし、これは米国の安全保障のためでもある」
私は身を乗り出した。
「一方、ブラックボックス化された製造工程を持つ企業は、良いものを作れば客が来るという職人気質で動いている。彼らに、米国政府への優先供給を約束させることができると考えるか?」
トンプソン大佐が腕を組んだ。
「……難しいだろうね」
「だからこそ、今、基準を作るべきなんだ。米国国防総省の調達基準に、製造プロセスの透明性と有事の際の優先供給保証を盛り込む。これにより、米国の安全保障が守られる」
ジョンソンが深く息を吐いた。
「……オーケーわかった。この提案を、正式に検討させてもらおう」
私は立ち上がり、握手を求めた。
「ありがとう。これは、自由世界を守るための一歩になるだろう」
二人は力強く握手を返した。
オフィスを出た後、私たちはポトマック川沿いを歩いた。
「自由世界を守る、か」
私は川面を見つめ、隣を歩く寧音に言った。
「大義名分は、いくらでも作れる。重要なのは、それが誰にとって都合が良いかだ」
彼女は何も言わなかった。
第二の罠が完成した。米国政府が「木下がコントロールする透明な国際供給網」を支持する。
これで、日亜化学は米国市場から事実上締め出されることになる。
「さて、次は西海岸へ行ってみよう。使う側を押さえる必要があるし、久しぶりにスティーブの様子も見てみたい」
私はそう言ったが、彼の会社の業績が前世とは違って、低迷を続けていることが気がかりだった。直接話を聞いてみる必要がありそうだと思った。




