壱之陸
今津港の目の前にあった蕎麦屋で、ずいぶん遅い昼食を済ませた旅寝駅夫と星路羅針の二人は、宿に向かう道中、何故か感慨に耽っていた。
別に、今津の街並みは普通の住宅街で、歴史的な建物がある訳ではないのだが、そんなことはまったく関係ない。こうして、ルーレット旅を始め、東京での日常から離れて滋賀まで来た。そして、クルーズをして、観光して、郷土料理を食べて、宿へと向かう。このシチュエーションが二人の気持ちを高ぶらせていた。
更に言えば、とうとうルーレット旅がこうして始まったのだ。行き当たりばったりの旅ではあるが、この先どこへ行くのかも、どうなるのかも分からない。そんな不安と期待が入り混じった感情が、二人の心を高ぶらせているのかも知れない。
言葉少なく住宅街を抜けた二人が宿に着くと、既に時刻は15時半を回っていた。
ルーレット旅の初日だからなのか、気合いを入れて歩き過ぎた感はあるが、漸く辿り着いた宿を見て、二人は安堵の溜息を吐いた。
「なかなか雰囲気が良いじゃないか。」
駅夫が宿の外観をスマホに収めながら言う。
「だな。こういう宿なら、食事も期待出来そうだな。」
羅針も一眼を構えてシャッターを切る。
「食事が自慢って言ってたもんな。」
「ああ、風呂は温泉じゃないけどな。」
「まあ、それはしゃぁないよ。次に期待だな。この先いくらでも機会はあるよ。」
「そうだな。ルーレット次第だけどな。」
「それもそうか。」
「さあ、チェックインして一休みしようぜ。夕飯まではゆっくり出来るだろ。」
「だな。」
二人は、年季の入った佇まいの建物に歴史を感じながらも、ゆっくりと入り口の引き戸を開ける。すると中には外観同様、和風旅館らしい雰囲気の良い玄関が広がっていた。
応対してくれた仲居さんに、ネットで予約した旨を伝えると、早速確認を取って、部屋へ通してくれた。6畳の和室で二人同部屋である。
もちろん、別々に部屋を取っても良いのだが、この旅に出てきた目的は旅を楽しむのはもちろんのことだが、互いに忙しく普段はなかなか会えないので、こんな時ぐらい枕を並べて、積もる話でもしようと言うことになったのだ。
「雰囲気の良い旅館だな。仲居さんも感じが良いし。」
歴史のある古い廊下を通って通された、畳敷きの部屋で荷物を下ろし、用意されていたお着き菓子と自分たちで淹れたお茶を、早速頂きながら駅夫が呟く。
「だな。部屋の雰囲気も良いし、久々に和室で胡座ってのが堪らないな。それに、この抹茶味の葛餅も美味いし。長期旅行じゃなければお土産に買って帰りたいぐらいだ。」
羅針も部屋を見渡し、地元の和菓子屋が提供してると思われるお着き菓子を口に運びながら応える。
「夕食まではまだ時間があるから、後でひとっ風呂浴びないか。」
「良いねぇ。一休みしたら行こうぜ。随分汗掻いたしな。」
羅針の提案に駅夫は二つ返事だ。
六月初めではあるが、既に陽気は初夏を通り越して真夏を迎えていた。だが、窓を開けると琵琶湖からなのか、心地よい風が部屋の中に吹き込んできて、汗が噴き出た肌を心地よく撫でていく。
部屋で一休みした後、浴室に向かった二人は、竹生島散策で掻いたたっぷりの汗を綺麗さっぱり洗い流した。温泉ではないとはいえ、べと付いた汗を流せたのは、心の底から気持ち良く感じたのだった。
浴室も、大浴場と言うには少しばかり小さいが、それでも五人程で利用出来る広さはあり、大きな窓には簾が掛けられ、その向こうには小さな中庭があり、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。リフォームしたばかりなのか、歴史ある館内とは異なり、設備も新しく、清潔感溢れた雰囲気で、さっぱりできた。
「明日は一体どこに行くことになるんだろうな。」
駅夫が湯に浸かりながら呟く。
「さあな。稚内とか、指宿とか、はたまた那覇とかだったりしてな。」
羅針が応える。
「沖縄なんか出たら、飛行機移動になるのか。いきなりコンセプトから外れるな。」
「まあ、良いんじゃねぇの。誰に縛りを受けてるわけじゃないんだし。俺たちが楽しめれば。」
「それもそうか。」
「でも、今日の竹生島は良かったな。」
羅針がしみじみと言う。
「ああ、流石神の島って言うだけあって、神秘的で、魅力的で、見所は沢山あったよな。」
駅夫も同調する。
「だな。山登りがちょっと大変だったけどな。」
羅針がそう言って大きく溜息を吐く。
「そりゃ、お前が運動不足だからだよ。」
駅夫がからかうように言う。
「お前だって息上がってたじゃねぇか。」
「あれは、息を整えてたんだよ。」
「そんな感じには見えなかったけどな。」
「寄る年波には勝てねぇんだよ。」
羅針の執拗な追究に駅夫は抗うことを諦めた
その言葉に満足したのか、羅針がケタケタと笑い出す。駅夫もそれに釣られて笑った。
そんなことをぐだぐだ話ながら、風呂を楽しんだ。
すっかり長風呂になってしまい、夕食の時間が迫っていた。
食事の時間になり、宴会場に向かうと、席が既に用意されていた。
ビールを1瓶ずつ追加で注文し、早速自慢の料理に舌鼓を打つ。
まずは、ビールで乾杯し、前菜の滋賀で採れた野菜とビワマスの刺身を使った季節のサラダと、一口サイズの鮒寿司をいただく。
「このビワマス、脂が多いけど甘くて美味いな。」
羅針は、食べたビワマスの刺身が、口の中でとろけ、ほのかな甘みを感じて、思わず目を閉じて呟いた。
「たしかに甘みがあって美味いな。この鮒寿司は独特な匂いがあって、俺はちょっと苦手かも。まずいとは思わないけど。」
駅夫が、鮒寿司を口に放り込んで、顔を顰めつつ正直に言う。
「仲居さんが、地元の物よりだいぶマイルドにしてるっていうから、食べやすくなってるんだろうけど、俺はこう言うの好きだな。」
羅針は、鮒寿司を美味そうに頬張った。
次に運ばれてきた主菜は、近江牛のすき焼きと、ビワマスの塩焼きだった。副菜には京野菜の天ぷらと蓮根と牛蒡の金平が付いてきた。
「これが近江牛か。昼の肉まんとは大違いだよ。上品で、サシがたっぷり入ってるのにしつこくないし。これは美味い。」
駅夫が破顔して、旨味を噛みしめるように言った。
「確かに、肉まんはあれで充分美味かったけど、やはりこのすき焼き肉にはかなわないよな。でも、この丁字麩ってのが凄くないか。存在感あるって言うか。もちもち感が甘辛のタレとぴったりでクセになりそうだよ。」
羅針がすき焼きに入った、地元の名産らしい見慣れない四角い麩を、ハフハフしながら食べる。
「ビワマスの塩焼きも最高だぞ。塩加減も焼き具合ももちろん良いんだけど、このほろほろ解ける、甘みのある身は最高だよ。」
駅夫が、ビワマスの身が口の中で解けていく食感に、恍惚の表情を浮かべる。
「たしかに。食感は鮭みたいだけど、味が全然違うから堪らないな。この塩加減がビールにぴったりだしな。」
羅針も口の中で堪能したビワマスの身を呑み込み、ビールを一口煽る。
副菜である京野菜の上品な天ぷらは、野菜の甘みが引き立つ塩で頂き、蓮根と牛蒡の金平の甘辛い味は、箸休めには丁度良い味わいだった。サクサクした衣に、シャキシャキの野菜がその甘みを伴って口の中に広がる。箸休めにしては贅沢な一品である。
次に、食事として出てきたのが、赤こんにゃくの炊き込みご飯とお味噌汁である。
「おい、このお味噌汁に入ってるの丁字麩じゃねぇか。さすが料理長、分かってるねぇ。」
駅夫が嬉しそうに、味噌汁に入った丁字麩を箸で摘まみ上げる。
「どんだけ上から目線なんだよ。まあ、流石であることは異論ないけど。」
羅針も同意しつつ嬉しそうに丁字麩を口に運ぶ。
二人はこのもちもちとした感触の丁字麩に魅了されてしまったが、他の具材である占地と大根を併せて味わう、その味わいの素晴らしさを噛みしめるようにいただいた。
赤こんにゃくの炊き込みご飯は、出汁の利いたご飯に、赤こんにゃくだけでなく、占地、人参が入った、シンプルだが、優しくて深い味わいの炊き込みご飯だ。
「この炊き込みご飯も、最高だよ。さすが出汁文化の関西だよな。食材の旨味がきちんと出て、調味料でごまかしてないのが良いんだよ。」
羅針がそう言う。
「言えてる。いかにいつも食べてる料理が醤油で汚染されてるかってことだな。」
駅夫が偉そうに言う。
「汚染って、お前醤油大好きなくせに。」
「へへへ。お前には嘘つけないな。」
「いや俺だけじゃなくて、誰にもつくなよ。」
二人は、声を上げて笑った。
最後にデザートとして、抹茶アイスが出て、食べきれない程の、地元の食材と郷土料理で二人に最高の宴をもたらした夕食は、こうして終わりを迎えた。
ビールを飲みながら、最高の夕餉に、食事の感想だけでなく、今日の出来事やこれからのこと、昔の話などに花を咲かせ、二人はたっぷり時間を掛けて、最後まで夕食を楽しんだのだった。
「それにしても、美味かったな。」
部屋に戻ると、布団に横になった駅夫が夕飯を思い出して、しみじみという。
「たしかに美味かった。この旅館にして正解だったな。」
座卓の上でパソコンを弄りながら、羅針も夕食の一品一品を思い出し、噛みしめるように応えた。
「ああ。料理自慢の宿とは伊達に名乗ってなかったな。料理もたっぷりだったし。それにさ、あの近江牛もビワマスももちろん美味かったけど、特に丁字麩は反則だよな。」
「まったくだよ。なんなんだよな、あれ。あんなの入れられたら、こっちまでふやけちまうよな。」
「確かに。あのもちもち感は人をダメにするな。近江の人は毎日あれを食べてるんだろ。それで理性を保ってるんだから、きっと近江人は強靱なハートの持ち主だぞ。」
駅夫が何の根拠もないことを言う。
「いつもなら、何馬鹿なこと言ってんだよって一蹴するところだが、その戯れ言には俺も賛成する。」
羅針もそう言って珍しく駅夫に同調した。
「おっ、珍しく賛同したぞ。明日は雨か?」
駅夫がからかい、二人して声を上げて笑った。
「さて、夕飯の反芻会はこれぐらいにして、次の行き先を決めようぜ。」
眠くなる前に、明日の行き先を決めることを、羅針が提案する。
「わかった。今スマホ用意するから、ちょっと待って。」
駅夫がバッグからスマホを取りだし、ルーレットアプリを起動する。
「それじゃ、明日の行き先はぁ、ドゥルドゥルドゥルドゥル……ジャン。こくぶのみやえきに決定!」
駅夫がセルフドラムロールをして、大げさにルーレットを回し、出てきた駅名を読み上げた。
「えっ、どこそれ。」
そう言って、駅夫が見せてきた画面を見ると〔国府宮駅〕とある。
「これ〔こうのみやえき〕な。愛知県にある名鉄の駅だろ。」
「そうとも読む。」
「おいおい。まあ良いけど。ここも結構大きな駅じゃないか。周辺の観光地はよく知らないけど。旅行動画では時折見るぞ。確か、有名な祭りを開く神社があったんじゃないかな。」
「へぇ、そうなんだ。取り敢えずここからどう行くんだ。」
「行き方は2つあって、京都へ出て新幹線で名古屋方面に向かう方法と、敦賀方面に行って近江塩津で北陸本線に乗り換えて、米原経由で名古屋方面に向かう方法だな。早いのは新幹線を使う方法で、安いのは近江塩津を経由する方だね。時間は約50分差、値段は3倍程違う。」
「う~ん。そうだな。まあ急ぐ旅でもないし、その近江塩津経由で行くか。京都は今朝通ったし、違うルートで行こう。」
「分かった。明日は朝食を摂ってからだから、9時頃出るとして、9時22分発の新快速があるからこれに乗ろう。」
スマホでルート検索した羅針が提案する。
「それなら、朝風呂はできそうだな。」
「ああ。堪能してこい。」
「お前も入るんだよ。」
「なんだよ、連れ風呂かよ。」
「良いじゃねぇか。裸の付き合いは大切だろ。」
「お前とは散々やってきたから、今更だけどな。」
「そうとも言う。」
羅針の言葉に駅夫がそう返すと、二人して声を上げて笑った。
こうして二人の次の目的地は愛知県の国府宮駅と決まった。
二人の珍道中は始まったばかりだが、一日目から早速濃密な旅行となった。果たして次の目的地ではどんなことが起こるのやら。
その後二人は遅くまでとりとめのない話をし、夜中過ぎに布団へと潜り込むのだった。




