壱之参
旅寝駅夫と星路羅針の二人が竹生島に上陸してすぐ目に入ったのが、〔琵琶湖周航の歌〕の歌碑である。竹生島が唄われた4番の歌詞が大きな一枚の石碑に刻まれていた。
「これ、さっき資料館で見たやつだろ。」
旅寝駅夫が嬉しそうに、石碑に駆け寄る。
「そうだな。」
そう言って星路羅針もゆっくりとその後を追う。
「予習しておいて良かったな。こんなの普通スルーだぜ。」
実際ほとんどの観光客は一瞥もせずに通り過ぎていく。
「まあな。記念に写真撮っておくか。」
羅針は駅夫を石碑の脇に立たせて、一枚撮る。その後交代して、駅夫が羅針を撮った。そして駅夫がスマホの自撮りモードで二人一緒にして撮る。
その歌碑の奥にも何やら石碑が建っていた。碑文には〔琵琶湖八景 深緑竹生島の沈影〕とある。
羅針がスマホで調べてみると、琵琶湖が国定公園に指定された際に、8箇所の景勝地が選定された。その一つ竹生島は「琵琶湖に濃い影を落とす、緑豊かな竹生島」と称されるほどで、湖面に映る木々の緑の美しさが選ばれて、この石碑が建てられたとあった。
この石碑には観光客が群がっていたが、皆この石碑の意味を知っているのかと訝りながらも、撮りたい物を撮れば良いのかと、人が減った頃を見計らって、いつものとおり各々と二人一緒の記念撮影をする。
土産物屋の前を通り過ぎて奥へ進むと、ゲートがあり、拝観料を求められた。券売機で購入し、パンフレットを頂いていよいよ参詣である。
「この階段を登るのか。」
目の前に現れた石段に駅夫が溜め息をつく。
「全165段、〔祈りの階段〕だね。寄進した方の名前や住所が彫られているらしいから、ありがたく登ろうぜ。」
登る前から草臥れたような顔の駅夫に羅針は追い打ちを掛けた。
「165段もあるのかよ。まあ寄進した人がいなければ、登り難い山道を行くことになるんだろうから、確かにありがたいけど、まじかよ。」
駅夫は文句を言いながらも、意を決して登り始めた。
石段を少し上がったところに〔竹生島神社〕と書かれた神額が掲げられた鳥居がある。二人は帽子を取り一礼して歩を進める。
「ここ、お寺さんだよな。鳥居って言うのはなんか奇妙な感じだな。」
石段を上がりながら、駅夫が呟く。
「たしかにな。でも、鳥居の所を右に行くと都久夫須麻神社の境内だから、鳥居じゃなきゃおかしいんだよ。宝厳寺がまだ都久夫須麻神社と一緒だった、神仏習合時代の名残だから。船で見た紹介動画でもそんなこと言ってたぜ。」
羅針が駅夫の疑問に答える。
二人とも息を切らしながら更に石段を上がり、2つ目の鳥居を潜ると、左手に瑞祥水と書かれた竜の置物があり、竜の口からは水が出ていた。
「この水飲めるらしいぞ。」
駅夫が早速食いついた。
「霊水って言われていて、神様のお告げで地下230mまで一年掛けて掘った井戸水なんだって。健康になるって汲んで帰る人もいるらしいぞ。」
スマホを見ながら羅針が教えた。
「へえ。それはありがたい。確かに美味いな。霊験灼かかどうかは、あんまりピンとこないけど。」
駅夫は湧き水を一口含み、感想を言う。
「罰当たりなこと言ってるよ。ポーションじゃないんだから、そんな一口二口飲んだくらいで健康になれたら、苦労はないっつうの。」
そう窘めつつも羅針も一口含む。冷たい井戸水が喉を通り、汗が噴き出していた身体に心地よく感じた。駅夫が言うとおり、霊験灼かかどうかは確かに分からなかったが、美味い水であることは確かだった。
瑞祥水の反対側にある手水舎でお清めをし、残りの石段を上がる。
石段の前には〔本尊大辯才天〕と刻まれた大きな石碑が建っていた。
「この宝厳寺には、江ノ島、厳島と並んで〔日本三弁財天〕とされる弁財天の一柱が祀られていて、〔大〕の字が付く弁財天はこの竹生島宝厳寺の弁財天だけらしい。」
羅針の説明がすかさず入る。
「なんで、この弁財天だけ大なんだ?」
「一番古くから祀られているからだって。」
「へえ。てっきり巨大な仏像が祀られているからだと思ったよ。」
そんなことを言いながら二人は石段を登っていく。
漸く石段を登り切ると、〔祈りの階段〕を無事制覇ということになる。
二人とも息が上がり、汗が吹き出ていたが、やはり駅夫の方がまだピンピンしていて、羅針の方は青息吐息だった。
「お前運動不足なんだよ。」
学生時代運動部で鍛えた駅夫がからかう。
「何言ってんだよ、お前も息上がってるじゃねぇか、歳食った証拠だよ。」
羅針も負けじと言い返すが、二人とも水筒を取り出して、一息つく。さすがに初老にかかる二人に165段の石段はキツかった。
汗を拭いた二人は、本殿へと向かう。
本殿は藤原様式であるが、昭和17年に建てられたようで、見た目にも新しく、美しい佇まいである。
本殿内はやはり厳かな雰囲気が漂っていた。
御本尊は秘仏で、60年に一度の御開帳となり、次は2037年らしく、今日は〔前立本尊〕(御前立像)に参拝ということになった。
二人並んで賽銭を投じ、静かにお祈りをした。
「この赤いの、達磨だったんだな。」
参拝を終えた駅夫が、目の前の赤い物体の山を見て呟く。
「〔弁天様の幸せ願いダルマ〕って言うらしいな。願い事を書いた紙を中に詰めて願掛けするらしいぞ。やってみるか。」
羅針が説明書きを見ながら、駅夫に教えてやる。
赤い達磨は、よく見る鶴亀顔ではなく、おかめ顔で、なかなか愛らしくて可愛い。それが山のように積まれていたので、二人とも内陣に入った時から気にはなっていたのだ。
「おう、是非やろうぜ。こういうのは体験してなんぼだ。」
駅夫は乗り気である。
「願掛けだけと、分身のストラップが貰えるのと2つあるけど、どうする。」
「もちろん、ストラップ付きだね。分身でも連れて帰れば、願掛けしたことを忘れないし、気も引き締まるだろ。努力しないやつに神様は願い事を叶えてくれないって言うからな。」
「それ、おばさんの口癖な。」
駅夫の母親は、彼らが子供の頃から初詣とかに行くたんび、口癖のように言っていた。お陰で、羅針も努力信奉者になってしまった。
二人は、この旅の安全祈願を用紙に書き、ダルマに収めて奉納した。そして頂いたストラップをそれぞれバッグのファスナーに取り付け、旅のお供とした。
二人は納経所で御朱印の拝受もお願いする。御朱印は3種類あり、本尊大弁才天の御朱印、西国札所第三十番千手千眼観音菩薩の御朱印、御詠歌である。二人とも折角だからと3種類すべてをお願いした。
本殿を出ると、左手に更に登る階段がある。
二人は、石段を前にして、本殿に来るまでに、嫌という程見た石段でうんざりしていたが、意を決して登る。
石段を登った先には、鮮やかな朱色が映える三重塔があった。真っ先にその三重塔に向かおうとする駅夫を呼び止め、羅針はスマホ片手に、その手前にある傘型に剪定された樹木について説明する。
この木は〔片桐且元お手植えのもちの木〕で、豊臣秀吉の七本槍の一人である片桐且元が、秀吉亡き後に秀頼の命で京都の豊国廟から唐門などの移築をした際に普請奉行を担い、それを記念して植えられたそうだ。
「この木をスルーしちゃダメだろ。」
羅針が説明した上で、駅夫を咎める。
「いや、スルーするだろ、俺たちだけだぞ、ここに立ち止まってるの。でも、秀吉と関係の深い人物のお手植えとあっちゃ、確かにスルーはできないな。まあ、見た目は普通のモチノキと何ら変わらないけどな。」
駅夫も反論するが、歴史的価値を示されては、トーンダウンする。
「そうだろ。こんな木一本でも歴史と深く関わってると思うと、感慨深いだろ。歴史の生き証人だからな。しゃべってはくれないけど。」
そんなことを言い合いながら、モチノキをバックに記念撮影をした。
その後、三重塔の下に移動してそこでも記念撮影をする。
「この三重塔は、江戸時代に落雷で焼失してて、平成12年に350年ぶりに設計図が見つかって再建されたらしいよ。」
「へえ、道理で綺麗なわけだ。」
「桜の時期は、映えるらしいぞ。」
「あそこにある桜の木か。あれが満開になったら確かに綺麗だろうな。」
「ほら、これ。」
羅針が検索した写真を駅夫に見せる。
「これはすげぇな。よし、桜の時期に……」
「来ねぇよ。どうせお前のことだから、来年になったら忘れてるよ。」
「まあ、確かにそうだけど。俺が忘れてたら誘ってくれよ。お前なら覚えてるだろ。」
駅夫が科を作って、上目遣いで猫なで声を出す。
「猫なで声出したって知らねぇよ。おっさんの猫なで声なんて、一銭の価値にもならねぇ。」
羅針は駅夫を追い払うように手で払う。駅夫は残念そうな顔で先へ進む。
二人は、そんなことを言いながら、三重塔の奥にある宝物殿に向かった。
三重塔の裏手に白木造りのお堂があり、説明書きに雨宝堂とある。天照大神が地上に降りてきた時の姿、雨宝童子が祀られているそうで、まさにここが神仏習合の地であったことを示す名残である。
二人はここでもしっかり参拝し、宝物殿に入る。
この宝物殿は、湖国における文化財の一大宝庫として、国宝や重要文化財が数多く保管されている。しかし、残念ながら現在、国宝の法華経序品(竹生島経)は奈良の博物館に寄託されているため、ここで見ることはできない。
「見られないものを嘆いてもしょうがないだろ。そういうのは後の楽しみにして、今度奈良に行った時に見れば良いよ。それよりもこの亀が凄くないか。背負ってるのは地球かな。玄武とか言うんだろ。造形が素晴らしいと思わないか。」
羅針が国宝を見られないことについて嘆いたら、駅夫はそんな風に慰めた。
「いや、これは玄武じゃないな。蛇のようなものを纏ってないから、おそらく贔屓だな。確かにこの贔屓は造形が素晴らしいな。見入ってしまうよ。」
羅針が駅夫を訂正して、贔屓をじっくりと見る。
「贔屓って、あの依怙贔屓の贔屓か?」
「そうだな。依怙贔屓の由来になった龍の子供だな。」
「龍の子供?この亀が?」
「だから亀じゃなくて、龍の第九子、九番目の子供で、龍になれなかった不遇の子だよ。地球とか世界の柱を支える縁の下の力持ちなんだよ。確かに亀みたいな形だけど。」
「へえ、じゃ俺みたいな奴だな。」
「お前、いつ人を支えたよ。人の足掬ってばかりで、人を救ったことないクセに。」
「ひっでぇ。俺だって世のため人のために働いてるんだぞ。」
「それ、普通に仕事してるだけだろ。皆してるから。」
「まあ、そうとも言う。」
そんなこと言い合って、二人して笑う。
宝物殿内を一通り見て、外に出てくると、既に時刻は12時を回っていた。
「ちょっと時間を掛けすぎたかな。」
駅夫が殊勝なことを言う。
「いいよ。無理言って帰りの便を遅らせて貰ってるんだから。まだ時間はあるし、ゆっくり廻ろうぜ。次はないかも知れないんだから。」
「桜の時期に来るって言ったろ。」
「まあ、忘れてるだろうけどな。」
「だからぁ。」
有名どころだけ見て廻るなら、時間も余るだろうが、二人にとっては、とにかく見所が沢山あって、じっくりと解説を読んだり、写真を撮ったり、景色を堪能したりしていたら、とても設定された時間では見て廻ることはできなかった。無理言って、1便遅くして貰って正解だった、と羅針は思った。
今立っているこの場所は、観光客が訪れることができる、最高地点になるため、後は下るだけである。木々の間から覗く琵琶湖がキラキラと輝き、青い湖面がどこまでも続いていた。あちこちから聞こえてくる蛙や鳥の鳴き声も相まって、素晴らしい景色を堪能できた。