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水嶺のフィラメント  作者: 朧 月夜
◇ 第四章 ◇
19/20

[19]名の秘め事、母の愛

 スウルムは胸を詰まらせたような表情で深く頷き、語るための準備を始めるように外套(マント)を脱いだ。中から現れたのはナフィルにはない鮮やかな紺地の上下だが、留め具の装飾はナフィルの紋様に良く似ていた。


「レインが生まれたのは、私がクレネと風の渓谷へ向かう少し前のことだった。前王であった父と共に、姉と私はレインの生誕祭に招かれたのだ。広間でお披露目された生まれて間もないレインは、まるで天使のようなまばゆい輝きを放っていた。姉はそんな赤子の彼を抱かせてもらってね、随分と気に入った様子だった。それから数日してクレネと私が継承を決め、別れの挨拶に訪れた折、姉はこっそりと私に耳打ちしたんだ。「もし将来わたしに娘が生まれることがあったら、あの子(、、、)と一緒に「風を継承する者」にしてあげたい」と」

「え?」


 自分の母親が将来恋人となるレインを、そんな小さな頃から見初(みそ)めていたなんて──レインはそれほど光を集めた存在だった──アンはこの泉で出逢ったあの天使のような笑顔を思い出し、また肖像画でしか知らない母がレインを見詰めて微笑む姿を想像した。


「姉は風の渓谷に行ったことはなかったが、幼き頃から前継承者に様子を聞かされていてね、いつか自分が継承出来る日をずっと夢見ていた。峰から見下ろすリムナトの街並み、高き山々に沈む美しい夕陽、其処から吹く風は水気を含んで甘く、この泉の水の匂いに似ている。この水をずっと身体に染みつかせてきた私たちにはとても心地良い匂いだ……だが姉には渓谷を目指せるほどの強い身体が欠けていた。例え辿り着けたとしても、朝晩の礼拝をこなすことなど到底不可能だ……クレネが快諾してくれたこともあり、その任務は私たちが請け負うことになった。姉は本当に申し訳ないと心から詫びてくれたが、私たちもいつか自然の中で子を育てたいという想いはあったんだ。アンシェルヌ、君にも同じ経験があると思うが、王家の子供は大抵親しき友には恵まれない。姉はいつか生まれる自身の子と、そして愛らしいレインの将来を懸念したのだ。王子・王女という確固たる高位はもちろんのこと、外見の美しさは時に嫉妬の対象となる。姉もそれを十二分に感じて生きてきた。だからこそ例え肉親との別れは辛くとも、例え二国を支える重責が課されたとしても、国家を(にな)(おさ)としてではなく、自然の中で民たちと平等に伸び伸びと生かしてやりたい……姉の言葉にはそのような祈りが込められていた」

「お母さま……」


 物心つく遥か昔に天に召された自分の母を、アンはこれほど近くに感じたことはなかった。そして死する可能性を胸に秘めつつ病弱な身体をおしてまで、自分を産んでくれたことに感謝の想いしか見つからない。


「十三年前に息子を得て、クレネも私もその言葉の意味を痛感したものだったよ。渓谷の場所を悟られぬよう、私を除いた山の民は渓谷から外へは一切出ない。その分若い時期は旅をさせて、世の見聞を広めさせるのだ。その間会えないのはとても寂しいことだが……風を継承する者には旅する民たちの動向を見守る力がある。それを今回もクレネが感じ取って、私が此処へ駆けつけた訳だが……残念ながら何歩も遅すぎた」


 スウルムは首を反らし、自身の息子パニ、メティアとリーフを熱い眼差しで見詰めた。数秒して再びアンに顔を戻したが、その視線はアンの瞳に戻ることなく、贖罪(しょくざい)を持って手元の砂を見下ろした。


 何歩も遅かったのは、きっとレインのことを意味しているのだろう。しかしスウルムがあと数時間でも早く到着していたら、レインの運命は変わっていたのだろうか?


「私は姉の願いを汲んで、幼いレインの元へ向かった。彼は従順に私の話す言葉を吸収していったよ。彼もまた王宮では孤独だった……近い内に友達を紹介しようと約束をして……数日後、今度は君に接触したという訳だ」


 三歳のアンの前に突如現れた黒い使者。叔父スウルムは既にレインに話をつけて、アンに出逢いの機会を与えた。


「リムナト王宮への道筋に湖畔への分かれ道があるね? あれはかつて風の継承者が作った抜け道だ。リムナト王家から継承者を得る場合には、あの入り口から王宮に侵入してコンタクトを取る。無論ナフィル側にも抜け道があるのだが……それを私が使わなかったのは、レインが希望したからだった」

「レインが?」


 その反応に、スウルムはやっと(おもて)を上げた。


「君の素性を知ったレインは、私にこれ以上何も話さないでくれと嘆願したのだ。生まれてすぐに母親を亡くし、近しい人は父王のみ。そんな孤独な生活の中でも、いつしか風を継承するとなれば……君にはやがて父親との別れが来てしまう。それまでレインは君に何も気にすることなく過ごしてほしいと願っていた。だから私はレインにのみ接触を図り、その後君に会いに行くことはなかったという訳だ」


 レインのアンへの想いは、母から感じた愛情にとても似ている気がした。異性への恋愛感情だけではない、親が子を慈しむが如き大きな愛。もしかしたら──アンはレインが選んだ最後の道にも、もっとれっきとした意味があったのではないかと感じた。


「もしかしたらレインは……初めからこうするつもりだったのではないでしょうか? あの鉄格子が僅かでも開かれたのは、その証拠とは考えられませんか? レインはずっと神に祈りを捧げていたのかも知れません。代々風を継承した者が、渓谷で祈りを捧げるのではなく、この泉に身を捧げ、両国を見守る役を一手に担おうと……だからこそ彼はあたしに、風を継承する未来を話さなかったに違いありません」

「そんな、まさか……。い、いや……そうかも、知れないな……」


 アンの見解には全員たじろがずにいられなかったが、今までのレインの全ての民への優しさを思えば、それを肯定せざるを得ない気持ちもあった。


「確かに、レインがかつてそういった心情を口にしたことはあった。この二国を根底から(くつがえ)したいのだと。渓谷に暮らしていても、必ず「国」という足枷(あしかせ)に囚われてしまう。風の継承者となれば、親との永遠の別れ、生まれた子供とのしばしの別れが訪れてしまう。しかし自分が命を()してしまっては……それこそ君を独りにしてしまう行為ではなかったのか?」


 スウルムは納得と同時に否定をした。しかし彼の言葉がよりアンに確信をもたらしていた。父王が病床に倒れ、レインは一層アンに別れの選択をさせたくなかったに違いない。ましてや彼女以外ナフィルを支えられる人物がいなくなってしまった今、レインの決断は尚のこと強く固められていったに違いなかった。


 母が娘に望んだ渓谷での生活を、レインは与えてあげられない道を選んだ。その分母と同じ愛情をアンに与えてくれたのだった。


「だからこそレインはあたしに友を授けてくださったのでしょう。もちろんあたしにとってレインに代われる存在など有り得ませんが……レインは一生心の()り所となる「場所」を与えてくれました」


 スウルムの後ろでじっと唇を噛み締めるメティアに、アンは温かな視線を送った。


 その眼差しにスウルムは安堵の表情を浮かべる。それから深く息を吐き出し再び言葉を繋いだ。


「彼は神の気持ちさえも変えさせたのかも知れないな……(いにしえ)、神は既に怒りを鎮めていたと話したが、分かれた二国を元に戻すことはなかった。それは神が人を憂いたからだ。リムナトはナフィルに水を分け与えても、自国より繁栄させぬよう手段を講じてきた。必要最低限の水量しか与えなかった人の(いや)しさに、神はいつしか失望した。レインはきっと神に進言したのだろう。リムナトとナフィルが共に思いやり、共に発展していく未来を約束すると」

「ええ……きっと」


 そしてその意思を理解し、その意志を継ぐことの出来る『王女』アンを、レインは国に残したかったに違いなかった。


 今一度泉を振り返り、アンは光の漂う波間にレインの幻を見た気がした。


 レインはもう二度と誰も離れ離れになどさせたくなかったのだろう。イシュケルと娘クレネ、スウルムとクレネと息子パニ、そしてアンと父王を……


 ──でもその中に、貴方もいてくれる未来が一番良かった……。


 微笑みながら涙が溢れる。アンは零れないように一度強く目を閉じて、スウルムの言葉に顔を戻した。


「ずっと昔に忘れ去られた語源だ……この湖水地方はかつて「リムネー」と呼ばれ、それは『湖』を意味していた。対して今ナフィルが有する地域は『河』を意味する「ナハル」と呼ばれていた。ナフィルとは『砂』を意味してなどいなかったのだよ。この天上に水を湛える湖から悠々と流れる河を(とうと)んでつけられた名であったのだ」

「ナフィルが……河を?」


 スウルムの説明は、アンにレインとの最後の時間を思い出させてくれた。




『いいね? 僕はずっと君の傍にいる。それをどうか忘れないで。ナフィルの民の──「砂の民」のためにも、今は国王代理として国を支えることを優先するんだよ』



 ──レインが敢えて「砂の民」と言ったのは、ナフィルが「砂の国」ではないのだと伝えたかったからかも知れない。




 驚く皆の顔をぐるりと見回したのち、スウルムはアンに向けて話を続けた。


「湖から派生したリムナトには、水にちなんだ名の民が多い。レインという名も遠き国の『雨』を意味していたのは知っているね? では、アンシェルヌ。君の名にはどんな語源があるのか知っているかい?」

「私の名前に? 母がつけてくれたことだけは存じていますが……」


 突如自分の名に話を変えられて、アンは戸惑いと共に想いを巡らせた。此処へ来るまでの道中にメティアにも訊かれた質問だが、今まで自身の名に意味があるなど考えたこともなかったのだ。


「別れ際に姉が教えてくれたのだよ。もし娘が生まれたら、アンシェルヌと名付けるだろうと。語源は「エシェルニュー」……『傘』を意味する異国の言葉だと」

「エシェルニュー……か、さ……?」


 レインの『雨』と、アンの『傘』。


 明らかにレインの名と(つい)になる名前であることだけには気付かされるが。


 傘とは雨を「遮る」ものではないのだろうか? そうではないとしたら一体何を想って捧げられた名であるのか? アンにはすぐには分からなかった。


「気が付かないかい? 『傘』は「雨に守られる者」だ。そして「恵みの雨を受けとめる者」。姉は娘にレインと共にあってほしいと願っていた。そしてレインもその気持ちに気付いていたのかも知れないね。彼は一途に君を「守り」続けた」


 先刻耐え忍んだ涙が、途端ぽろぽろと零れ落ちていった。アンの頬をかつてナハルを潤した河の如く流れゆく。母の祈りもレインの愛も、余りに大き過ぎて、アンという傘からは溢れてしまいそうだった。


 そして──




 ──あたしはレインの想いを今までどれだけ「受けとめ」られていたのだろうか?



 ……いえ、もしかしたら──




「叔父さま、あたしに「時間」を戴けないでしょうか?」


 アンは立ち上がって、見上げるスウルムに問い掛けた。


 その真摯な趣に、スウルムもまた表情を引き締めて腰を上げたのは、アンの考えに気付いたからかも知れない。


「もちろん構わないよ。ゆっくり会って(、、、)くるといい。私たちはナフィル側の出口付近で待とう。君がこの空間から出てこない限り、私以外は動けなくなってしまうからね」

「ありがとうございます、叔父さま。叔父さまもどうぞ、パニたちと良い時間をお過ごしください」


 二人のやり取りを聞いた一同は、誰からともなく立ち上がった。


 しばしの別れにアンはまず、落ち込んだ様子で佇むメティアに歩み寄る。高いヒールを脱いだメティアは、アンとそう変わらぬ身長だった。アンはその視線が辿り着く前に、メティアをひっしと抱き締めた。


「ありがとう、メティア」


 触れた頬が小刻みな震えを感じ取る。


「……ちっとも……ありがとう、じゃない……レインを……助けられなかった……!」


 そこまでどうにか言葉を紡いだが、メティアはアンの胸の中で(せき)を切ったように泣き出してしまった。


「違うの。レインがこの(みち)を選んだのよ」


 アンがそのように割り切っても、メティアはどうにも割り切れずにいた。愛する者を遺して逝く覚悟などどうして出来ようか? それほどレインがアンを愛していたとは分かっていても、到底理解の出来ることではない。


「大丈夫よ。あたしが信じている限り、レインにはまた会えるから」

「え……?」


 驚いて上げた涙の溢れ出す瞳に、ニッコリとしたアンの笑顔が映り込む。その雰囲気は何度も見たレインの微笑みにとても似ていた。


「パニ、来て」


 アンはメティアの頬を優しく(ぬぐ)って解き放ち、今度はリーフの横で心配そうに見詰めるパニを呼んだ。


「アンさま……」


 こんな時、自分はどのようにして王女を慰めることが出来るのか? パニはどんな顔をしたら良いのかもまだ分からない状態だった。


「パニも何も気にしないで。それより貴方が従弟だったと知って、とっても嬉しいの」

「は、はい! ボクもです! アンさまと従姉弟だなんて、本当に光栄です」

「ありがとう、パニ」


 アンはパニの背中に腕を回して軽く抱擁を交わし、近くで見守るスウルムに質問した。


「叔父さま、パニの名前にはどのような意味があるのですか?」


 スウルムは背後のイシュケルに一度目を向けて、照れ臭そうにアンに答えた。


「君と同じく母親が名付けた。パニは此処から東南にある国の言葉で……『水』を意味する」

「……きっとクレネさまが故郷を想って名付けたのね」

「『水』……母さんが付けてくれたんだ……」


 パニは感慨深くスウルムへ、そしてイシュケルに笑む。


「パニ、メティアたちと一緒に旅を続けても、今後は時々立ち寄ってお母さまに甘えるといいわ。レインもそれを望んだの。そして……いつかふるさとの力になりたいと思ったら……どうか戻ってきてちょうだい。リムナトでもナフィルでも、王家は貴方を歓迎致します。貴方とレインに恥じない王家となるよう、それまであたしが責任を持って務めます」

「アンさま……それって」


 アンはパニの途切れた言葉の先には答えなかったが、その微笑みが物語っていた。世界を旅して見聞を広め、両親の愛を理解した将来のパニは、きっと両国の王にふさわしい。


 パニの(はしばみ)色の髪と緑青(ろくしょう)の瞳は、きっと二国の融合した(あかし)だ。母であるクレネの髪はおそらくレインと同じ金色で、瞳も同じく碧いのだろう。アンと同じ黒髪と翠眼を持つスウルムの血と交わって、パニという『(いろ)』が生み出された。


「ありがとう、アンシェルヌ。これからは私も両王家に協力しよう」


 そしてスウルムの呼ぶ自分の名がこれほど心震わせるのは、彼がその名の意味を知るからこそに違いなかった。母の愛情が込められた名前は、アンの奥底に刻まれた生まれる前の記憶にまで、強い力をもって浸透した。


「ありがとうございます、叔父さま」


 スウルムが頭を下げた向こう側で、イシュケルも深く腰を折っていた。


「イシュケルも本当にありがとう」




 * * *




「じゃあね、アン! ちゃんと帰ってこなくちゃ承知しないからね!」

「もちろんよ、メティア! ちゃんと(、、、、)待っててちょうだい!」


 白い岸辺で見送るアンに、一行は手を振りながら倒れた鉄格子の上を歩き出した。依然立つ格子に挟まれた真中で立ち止まり、全員が水面に額を浸けてレインを偲ぶ。やがて彼らの影が向こう岸からも消え去って──


 一人きりとなったアンは、今一度心の中で決意した。




 ──待っててレイン、あたしは貴方を決して独りにはしない──




◆次回の更新は四月十五日の予定です。

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