第二章 五節
五節
【安寧】
何とも熟していて
何とも新鮮で
何とも言えぬ
身が引き千切られるような、不味い味がした。
地が割れ、抉られ、焦げ付く。曇ってもいない黄昏の下、冷たい色をした紫電が走り、赤黒い血溜まりが点々とできては、それをどちらかが踏んで、赤い飛沫が踊る。その全てを真っ赤な夕日が照らして、地面にその画を描く。
ユヴァシャズの腕は、確かに再生してはいるものの、皮膚の完成が未熟というべきか。生物の授業でよくお世話になった人体模型さながらに、筋肉繊維が露出しておりなんとも痛々しい、見ていられない状況になっていた。それでも手の皮膚はなんとか再生したらしく、両手にあの漆黒の剣を持ち、苛烈に、破壊の限りを尽くさんとしてデビリスに斬りかかる。その度に幾度か鎧のようなそれを胴や背にぶつけられ血を吐いたりしているが、やはり痛みはないのだろう。勝手に出るものだとでもいうかのように、全く気にしていない。何度も何度も傷つけられても、前しか見ずに斬りかかり、蹴り上げ、踵を落とし─滅茶苦茶だった。彼の意志とは反対に、防御も回避もあまりしないせいで傷ついた体はどんどん衰弱していく。機敏だった反応も鈍くなってきたのが見て取れる。
それを見ても、デビリスの挙動は変わらなかった。やや機械的な、サイボーグのようにも見える見た目に相応しく、冷徹に、作業のように、処理的にユヴァシャズを傷つけていく。一切の感情も無いかのようだった。たとえ傷ついたとしても、すぐに完治する。
いや、違う。
ユヴァシャズの攻撃が。剣を一度振っただけで地に爪痕を残し、一度地を蹴り上げただけで抉ってしまうような理不尽な力が、デビリスには大したダメージになっていないのだ。まるで平等では無い戦いなのだ。蓄えた瘴気とやらが違うのか、悪魔の体質がそもそも強固なのか、デビリスの“性質”かはわからない。友ならば、久々に力比べをしたいだとかならば、それを前提としてこんな不毛な戦いに臨まないはずだ。こんな、相手の体力が尽きるのを待つかのような。何か意図があってこの戦いを続けているのか。
それとも、ユヴァシャズは彼を友だと言っていたけれど、騙されていたのではなかろうか。ユヴァシャズの性格はここ数日過ごしてきて、やや短気な一面もあるけど、真面目で穏やかで優しい、父母のようなそれだと私は思っている。そんなだから、今までデビリスのいいように利用され、友だと吹き込まれていたのじゃあないかと疑問に思う。ここへ来て、初めてデビリスと相見えた時の、あの声の震えも。もしや恐怖で支配されていた過去を思い出したのではないかと。
考えていた刹那、ユヴァシャズが吹っ飛ばされ、すぐ隣に頭から着地してきた。ゴッ、という音。こちらの頭まで割れてしまいそうな、致命的な音だ。
「だ、大丈夫?!」
「…ク、クソが…あの筋肉野郎…絶対に殺してやるッ… 目ん玉抉り取ってケツの穴に詰め込んだ後、蹴っ飛ばしてやるぞッ…」
頭から血をダラダラ流し、怒りが臨界点を突破したのだろうか口汚く恨み言を垂れているのを見て、その考えは変わった。別に騙されていたりだとかはなさそうだ。本当に友達だったのかもしれない。果たして怒り狂っている状態で私と会話してくれるのかと不安に思ったけれど、恐る恐る声をかける。デビリスは追撃してくる様子はなく、こちらを伺っていた。
「…ゆ、ユヴァシャズさん…」
「?なんでしょう、美代子…」
鼻血や頭から出てる血を拭いながら、よろよろと立ちあがる。
やはり、弱ってきている。それとも今ので頭をやられたせいなのだろうか。再生する早さが遅いようで、血が流れるのをうざったそうにしていた。
「あの…デビリスさん…?とは、本当に仲よかったの?どんな人?」
「それはもう、親友だとか無二の存在だとか言って良いくらいの仲でした。心優しくて、お節介焼きというべきか…我輩は勉強嫌いだったのでよく取っ捕まえられては勉強をさせられたし、お互い下品なジョークを言い合う仲で…女子供に優しい、紳士の中の紳士で…穏やかで。それが…それが。我輩の知るデビリスでした。今はもう、我が敵となり果てましたが」
「…何か事情があるんじゃあないかな」
「事情?!あんなに仲良く語り合ったり互いの家のチャイムに細工をしあっては揃って怒られていたような親友をこんなボロ雑巾同然に打ちのめして良いほどの事情があるんですかねエ?!我輩は無いと思います、仮に我輩がその立場だったとしたら絶対にしない、例え地獄の王からの命令だったとしても、家族のためだったとしても!してなるものか!裏切り者のクソッタレめ!ええいっあの畜生!」
「お、落ち着いて」
ギリリと鋭い歯を鳴らすユヴァシャズを必死に宥めながら、一つの策にたどり着く。思いつくことはこれしか無いのだ。ユヴァシャズは満身創痍、それに対してデビリスは容赦は無いし、この一方的なだけの殺し合いを始める前にユヴァシャズは彼に対し情は持たないと言っていたけれど、デビリスさんについて話した彼の目を見てそんなことは出来ないというのは十分に理解できた。ユヴァシャズにはどこか迷いがあった。だから彼ばかり傷つく。きっと、本来はもっと力を出せるはずだ。これ以上ユヴァシャズが、自分の家族が一方的にボロボロにされていくのは見たくない。一歩間違えれば最悪自分が危ないが、その“一歩間違えれば”を今まで一度も経験したことがない、しないように出来たのは自分の冷静さ故だ。冷静に、確実にその策を完遂させる。それに、万が一死んでも─
「美代子」
ユヴァシャズの声に、制されたような気がした。
何を考えているかわからない無表情。血に塗れた顔でも、その目だけは鋭く、傷一つなく私を見据える。何遍も言わせるな、とでもいうように歪んでいく。私は今日一日で二回も彼を怒らせているようだ。流石に嫌われてもおかしくない気がして、
少し、怖く思った。
「良からぬことを考えてる時、顔に出ますね。さっき言ったこと…忘れないように。」
「…かお?うそ…」
「そんなことより一つお願いがあります」
「え、あ、うん」
何やら真剣そうな顔で私と向き合い、見下ろす。敵前だということを忘れてしまうような、時が止まったような─そんな風に感じた。これから大事な話をする、かのような。慎重に言葉を選んで、紡いでいく。
「感情をひとつ、頂きたいのです」
「感情…?」
「そう。正確には、瘴気が欲しい。ここら一帯のでも良いのですが、誰彼構わずの様々な負の感情が混ざった純度の低い瘴気では、精々治癒が出来る程の魔力しか作り出せない。おまけにその…恥ずかしい話なんですが。我輩相当弱っていたと言いますか。聖域…封印されていた場所や、教会やらに近付き過ぎていたせいで瘴気を魔力に変換する効率が悪く、ちょっと程度の瘴気じゃすぐ魔力切れを起こしてしまいます。言い訳のようですが、そのせいでまあ、こんな薄汚い手負いの状態なわけなのです。」
「えっと…負の感情ならなんでも良いの?なくなったらどうなる?」
「今まで蓄積されていたその感情がなくなります。」
「あなたに悪影響は?」
「ありません。寧ろとても元気になるぐらいです。我々は他者の不幸で力を得る底意地の悪い生物…“悪魔”なのですから」
ああ、そうだったなあ。悪魔とはそういうものだったことをすっかり忘れていたのは、彼の優しさや、暖かさのせいだ。悪魔であることを悔やむほどに優しくて、穏やかなひと。そのひとが自嘲的にそう言うのに、ちくりと胸が痛くなった。
差し出すための、今までの負の感情をどうするか考える。思えば今まで寂しさだらけだった。私が最も苦しめられた、世界で一番要らない感情だ。お父さんとお母さんがいなくなった、がらんどうのお家で泣いた記憶。すこしでも暖かかったお母さんに戻ってきてほしくて送ったあの花と共に、抜け殻の家に残されたあの記憶。テーブルに無造作に置かれた、出張に行ってきますという一文だけ書かれたメモを握りしめて、丸一日泣いていた記憶。きっとこれからは感じることがない感情であって欲しい。
最期まで、ずっと一緒にいてくれると。
そう言ったよね、貴方は。
「わかった。じゃあ“これ”を、あなたに─ユヴァシャズさん。あまり見ないでね」
「…御意 我が主」
ユヴァシャズが血みどろの手袋を脱ぎ、その大きな手を差し出す。どうすれば良いのだろうとおどおどしていれば、握って、とそっと微笑まれた。なんて痛々しいのだろう、優しいその微笑みも血で塗れているのが、嫌だ。早く良くなって欲しい。早く私も楽になりたい。胸の奥に突っかかって取れない、重たいこの寂しさを、取り除いて欲しい。
両手で、血がべっとりとついた彼の大きな手を、きゅうと握る。
瞬間、体の奥から何かが抜き取られる、引っ張られるような吸い取られるような感覚があった。目が覚め、体が軽くなったすっきりとした気分になる。今まで抱えていたものが無くなり、暗いトンネルから抜け出た安堵。記憶は奪われていないし、悲しかったのも覚えているけれど、あまり気にならない。今まであんなに悲しんでいたのが嘘のようだった。本当に、無くなったんだ。
ユヴァシャズを見上げる。ボロボロで血みどろだったのが再生されていく。顔を覆っていた血液も消え去っていって、心なしか顔色が良くなっているように見えた。血の滲んだ服も、焦げ付いたスラックスも、先ほどまで皮膚の下が露出していた腕も、すべて治っていく。掴んでいた手はさらさらしていて、血でべとべとしてすらいなかった。そこにいたユヴァシャズは、見違えるほどに。戦いを始める前と同じくらいに、ぴんぴんしていた。よかった、といえば、両手で頬を挟まれる。何だろう。足りない、出し惜しまないでもっと出せとでもいうのかと身構えていれば、右手の親指が、そっと頬を撫でてきた。
「もう、二度と…あんなものを味わうことはさせません。ずっと一緒ですよ。ずっとね」
これまでに無いくらいに優しい微笑を見せて私の頭を撫で、彼は再びデビリスに向き合う。さっきは彼がデビリスに向き合った時、不安で仕方なくて、死んじゃうんじゃ無いかとすら思っていたのに、今はそんなことなかった。安心できる、後ろ姿。
「…ずっと、一緒」
その言葉はまるでおまじないのように、私の心の暗雲を取り払っていく。心のどこかで諦めていたのだ、彼に対しても。絶対では無いんでしょう、どうせ貴方も、だなんて。それさえも汲み取ったのだろうか。何よりも重い言葉が、寂しさが消えて出来た空白に、ぱちんとパズルの如くはめ込まれたような、そんな気がしたのだ。
「それではとくとご覧あれ、我が主! 過度なる者…『冒涜者』の本領を!」
声を張り上げ、その長い腕の片方を振り上げたと思えば、逆十字を描くようにして水平に腕で空を切る。すると、彼の周囲に何本も漆黒の逆十字剣が出現していった。その数はざっと、左側で二十本、右側で二三本といったところか。征け、という彼の号令と共に、それらの切っ先が一斉にデビリスの方へ向き、彼を目掛けて弾丸のように襲いかかる。しかしそれだけでは収まらず、ユヴァシャズの周囲には再び先ほどのように無数の剣が現れ、同じくしてデビリス目掛けて飛んでいった。その総攻撃が届いたのを見計らって、両腕に剣を携え閃光の速さでデビリスの背後に回るが、相手もそれに対応し、周囲に浮く自身の得物をユヴァシャズにぶつけようとする。それを、あろうことかユヴァシャズは剣をデビリスに突き刺したと思えば、手で金属製であろうそれを掴み、紙を裂くような要領で真っ二つにすると、デビリスに向かって至近距離でぶつけたのだから、もうめちゃくちゃで、まさに理不尽な暴力のようなものだった。
自慢の武器を至近距離でぶつけられて吹っ飛ばされたデビリスの方では、土煙が上がっていて様子が見えない。先ほどはユヴァシャズが劣勢を強いられていたが、逆転…できたのだろうか。というよりも、あれだけ友だ無二の存在だと言っていた相手を、こんな惨いことになってそうな方法で攻撃してよかったのだろうか。視認できないような速さで戻ってきたユヴァシャズに、おそるおそる尋ねる。
「ユヴァシャズ、さん…」
「フフハハハハハハ!どうです?凄いでしょう?強いでしょう?我輩は。そうです、本来はこんなに強力なのですよ。名誉挽回、汚名返上とはまさにこのこと。何を気取ったか我輩に楯突くからこうなる!」
「確かに凄いけど…強いけど…友達、だよね…いいの?」
「ええ、ええ。大丈夫です。悪魔は自分の故郷でないと死ねない生き物だ。ここは地獄でないので、彼は死なない。今頃、動けない体を惜しく思いながら痛みに苦しんでいるところでしょう」
「慈悲はないんだね…」
「先に手を出してきたのはあちらだ。さて、我輩は彼に事情や動機やらを、例えるなら面接官が緊張して硬直している就活生に威圧的な態度で答えにくい質問や罵倒を投げかけるように聞き出してきます。美代子はそこで待っていてください。万が一何かあって巻き込まれては困るので」
わかった、と頷いた時だ。重厚な金属製の部品と部品が組み合わさるような音が、連続して聞こえる。土煙の向こうで、デビリスが何かをしているのだ。目をこらして、ようやっと見えた。バチバチという音。紫色の電気。ユヴァシャズもそれに気づいて再び無数の剣を出現させたが、もう遅い。デビリスの鎧袖めいたあの武器が幾つも重なり、砲台のような筒が出来上がっていた。望遠鏡のようにその砲の向こうから、こちらを覗いている。さらに、カシャカシャと鋭い音を立てて、彼の仮面が左右に開いた。それを皮切りに、鎧袖の武器に施された装飾のような光線のラインが光り始め、マシンが起動するかのような高い音が響く。傷だらけのサイボーグが、照準を定めるようにして両手の先をこちらに向ける。
私たちは、直感した。
『彼は目からレーザー砲を放とうとしている』
『なんてカッコいいんだ!』
と。
日本人であろうと外国人であろうと、メカニック、レーザー砲、最終奥義の3要素にはカッコよさ、ロマンを感じるものなのだ。それがまさか悪魔にもあるとは。心なしか目が輝いて見えるユヴァシャズには、まさにそういうものが大好きな男の子の面影があった。
「かっこいいね」
「ええ…っいや、ロマンに浸っている場合では…!」
──
眩む。空間全体が白一色に染め上げられた─正確には、私の視界が真っ白になったのだが。一瞬の発光、それ以前か同時かを争う刹那の中で、腹部に少しだけ鈍い痛みが走って、突如として重力のようなものに従い、自身の体が仰向けにして転がった。吹っ飛ばされた?それにしては地はそこまで硬くなく、体温のような物すら感じる。もしやと思い掴んでみればそれは衣類だ。
「大丈夫ですか」
「うん…ごめんなさい」
ユヴァシャズを下敷きにしていた。というよりは、彼があの一瞬に咄嗟に判断し、私を抱き上げて光線の軌道上から抜け出、怪我をさせないように上手く受け身をとってくれたのだろう。慌てて立ち上がれば、目に入ったのは光線が地を焼いた、その跡。当たれば無事では済まないということなど容易に想像がついた。
だが、動きは単調で、その上照射まで準備が必要そうだ。軌道上に入らず、撃たれる前に襲い掛かれば良い…気がする。気がするが、見て判断するなら簡単なのだ。それをユヴァシャズが実践しようと考えるかどうかはわからない。だって、彼は前へ前へと進み、その圧倒的理不尽な力でねじ伏せるのみの動きを多々していて、どうにも理性的に戦況を判断して上手く立ち回ることをできるようには見えないのだ。ただ目前の敵を消すことしか、考えていないような。自分を省みていないような気がして、なんだか虫酸が走った。それはつまり自分の人生を見ていないということだ。自分の人生を諦めているようなものなのである。言うなれば、同属嫌悪だ。身勝手な私個人の意志に他人の信条などを曲げさせるのは本来好まないししたくないけれど、少しでも長くこの家族で在る状況を長引かせたい私は、少し躍起になっていた。
「ユヴァシャズさん、その…私が言えた立場ではないけれど。なるべく避けなきゃ、本当に死んじゃうよ」
「避けろと…?退け、と?このユヴァシャズに?」
「…うん、そうです。いなくなってほしくない」
「なら貴様もそうしてください。してくれない限りは我輩もしない。いいですね」
「…は?」
ちょっと待ってよ、という言葉も聞こえていないのか、そのまま猪突なんとやらの勢いで、デビリスの元へ、両手に剣を握り駆けていく。駆けるというよりも、超低空飛行のような、跳躍。雷のような速さで、一直線に、無鉄砲に。せっかく体制が整えられたというのに、また進んでボロボロになるというのか?そして、また私の感情を要求するのだろうか?次は何を渡せばいいのだろう。次は何を失えばいいのだろう。彼を失うのも嫌だけれど、寂しさを失って気付いたのだ。寂しさを感じない─それは言い換えれば、満たされているということ。となりに誰かいることが当たり前になってしまうこと。きっと、これで彼がいなくなってしまったら。死んでしまったら。またあれを味わう羽目になるのだろうか?悪魔は自分の故郷でないと死ねないといっていたけど、それは例え話だとかなのではなかろうか。数々の不安が頭に浮かんでは、積み木のように積まれていく。デビリスは彼の“それ”を分かっているのだろう。先ほどと同じように、再び機械音を立てて照準を定める。私が私を大切にしない限りは、彼もそうしてくれないってどういうことだろう。大事にするからと宣言すればいいの?今はどうやって自分を大事にすればいいの?嫌だ行かないで、と手を伸ばしかけて、降ろす。
私は、また、自分の人生を諦めたのだ。