翠緑苑
「ムガマ・オ・トウリ」
トゥパク・ユパンキが太陽の神殿へと旅立つのを見送った後、ファラはサタハにあの少年について訊ねた。
「宮殿の奥にある斎殿で育てられ、この国を潤すために神に“心”を捧げる子供だよ」
どこか忌々しく、皮肉気な口調でサタハはそう答え、それ以上のことは話してくれなかった。
だからファラは、まだあの少年について何も知らない。
(知る必要もないこと――ということかしらね)
ファラは宮中の廊下を歩きながら、そのようなことをふと思って、望むものなどない身分で何をと、苦笑を漏らす。後ろに従う侍女が、不思議そうな目でそんな彼女の様子を見ていた。静けさの中に廊下の踏み板がきしりと鳴った。
王の離れた荘厳宮には、どこか賑わいを欠いた静けさが漂っている。トゥパク・ユパンキとともに、多くの人がこの宮殿を離れたためであるが、それはどことなく、夏の太陽から隠れた木立の陰の、湿り気を帯びた空気に似ていた。
ファラの寝所も静かになった。毎朝のサタハとのムルカ語の授業が終われば、するべきことは何もない。ファラはときおり侍女を伴って、今のように宮中を歩くようになった。
ファラの侍女は、つぶらな瞳と丸い顔にまだあどけなさを残す、ファラより一つ二つ程度に年上の少女だった。そう教育されているのだろう、普段はほとんど無言でファラにかしずく少女だったが、サタハに教わったムルカ語で名前を訊ねると、彼女は丸みのある可愛い声で少し恥ずかしげにルントゥと答えた。卵という意味らしい。彼女の丸顔にぴったりの名前だなと思い、それからファラはこの少女に少しばかりの親しみを覚えた。
「どうされました?」
彼女にもその親しみが伝わったのだろうか、彼女との距離は人に慣れ始めた子犬のように少しずつ近づいて、ファラの様子が変わった時などに、このように声をかけるようになった。
「いいえ、大丈夫」
ファラは首を横に振って小さく笑顔を作り、心配そうな顔のルントゥに片言のムルカ語で返事をする。控え目な彼女は、そう返されるとそれ以上の詮索はせず、また黙ってファラの後ろに従うだけだった。
(そう、大丈夫)
ファラは軽く胸を押さえ、心の中でそう呟く。今までもそうしてきたし、これからもそうだ。望むものなど何もない。そう心の中で繰り返す。それが必要だった。その必要の意味を、ファラは繰り返す言葉の下に沈めて、凍らせていった。
歩く廊下の先に青々と茂る木々の姿が見えてきた。翠緑苑と呼ばれる荘厳宮の外苑である。静謐で緑豊かな庭園であり、ファラがこの宮殿の中で気に入った、数少ない場所でもあった。
ルントゥが差し出した靴に履き替え、廊下を降りて庭園の石畳を踏む。清らかな水の流れる水路に沿って道を進む。道の脇を赤、白、黄色と彩り咲く異国の花々を眺めながら、ファラは翠緑苑の池を望む、小さな丘の上に建てられた葦葺き屋根の東屋へと向かう。そこが、この庭でファラがいつも過ごす場所であった。
東屋の椅子に腰かける。ルントゥはいつもの通りに東屋の出入口の辺りにそっと立つ。雲の出ている空に、庭の眺めは少し薄暗くあったが、そのしっとりとした静けさが、むしろファラには心地よかった。
風はなく、池の水面は静かに庭の風景を映している。ときおり遠く聞こえるのは鳥の声か。
ファラは目を閉じて窓辺に頬杖をつく。心の波を鎮めるように細く息を漏らしながら、小さな木々のざわめき、水のせせらぎ、小鳥のさえずりに耳を傾け、穏やかな庭園の空気に自らを溶け込ませていく。
(このまま、この穏やかさの中に消えてしまえれば――)
その望みの儚さを知るファラは、知らずに唄を口ずさんでいた。
――ここは天国か
ここは地獄か
この一瞬にあるものは
命の春はいつのまにかに暮れ
あなたの面影だけが
水面に映る顔のように
揺らぎの中でたゆたっている――
そんな恋唄を歌声にして、ふっと可笑しさを覚えてファラは目を開ける。ふと、ルントゥに目をやると、彼女はその褐色の肌でもわかるぐらいに顔を紅潮させ、口を薄く開けた茫然とした表情で自分を見ていた。その表情があまりに間の抜けたものであったので、ファラは自然と微笑み、ルントゥの側に歩み寄って、その手を取った。
「少し、踊りましょうか」
北の言葉でそう言われて戸惑うルントゥの手を引いて、ファラは東屋の外で彼女と踊った。
それは北で収穫祭の踊りと呼ばれる踊りだった。軽快なステップで代わる代わるに中心を変えながら、二つの円が連続して交わるような軌跡を描いて二人は踊る。振り回されそうになりながらも必死な顔で踊るルントゥに微笑みかけつつ、ファラは鮮やかな足運びで彼女を導くように踊りながら、弾む声で唄を歌った。
――踊りましょう
それが人生のあかし
青春の唯一のしるし
花とお酒
あなたと音楽
皆が浮かれる収穫の季節に
楽しみましょう
一瞬を
それこそ本当の人生なのだから――
歌い終わりに足を止め、弾む息を押さえながらルントゥの顔を見る。彼女は赤く昂揚した顔でファラと同じように息を弾ませながら、普段の侍女としての控えた態度などどこにもない、恋に夢見る村娘のような瞳でファラを見ていた。
そのとき、雲間から光が射した。陽射しが地面に降りる。ファラは眩しさに目を細めつつ、ルントゥに言った。
「楽しかったわ」
彼女はその声に夢から覚めたように手を離し、地面に額をつけて跪いた。そして「お許しを、お許しを」と、慈悲を請うように繰り返した。
答える言葉を知らないファラは困ってしまい、なだめるように彼女の肩をさするが、ルントゥはますます身を縮めるばかりだった。
「怖がる必要はありませんよ」
そこで、その声がかけられた。春にあたたかく降る細雨のように静かでやわらかな声。丘の下からこちらを見上げる少年の姿に、ファラは自分の心臓が強く跳ねるのを感じた。
鳶色の瞳に雨上がりの夜月のような静かで優しい光を湛えた、顔に刺青のある少年。
「あなたは今、愛された。それが許しです」
丘を登り、ルントゥの側に立った少年は、呆けた顔で自分を見上げる彼女にそう告げた。
「ト、トウリ様……、私は、私は……」
動揺するルントゥの手を取って立ち上がらせる。
「怯えないで。あなたも彼女を愛しているのでしょう?」
微笑む少年に、ルントゥの顔が見る間に紅潮していく。そして何かを心に決めたようなまなざしで、少年の顔を見た。
「――はい」
うなずいたルントゥは、そこで少年に手を取られていることに気づいたのだろう、慌てて手を離し、その足元に跪いて深々と頭を下げた。
「――ありがとうございます、トウリ様」
感謝を述べるルントゥに、静かにうなずき返す少年。その横顔をファラは胸を押さえて見つめることだけしかできなかった。
ムガマ・オ・トウリ。
その名を持つ少年に三度見え、ファラはその度に自分の胸の奥底に生じる熱に戸惑い、言葉を失う。
(――どうして?)
その理由に、この熱の意味に、ファラは気づきながら自問する。それは出してはいけない答えであると、彼女の人生が教えているから。
奪われるものは望んではいけない。
それは失うものだから。
だから、秘めて、凍らせるのだ。
失わないように、秘めて――、
「また、お会いしましたね」
なのに、その声は溶かしてしまう。春の雨のようにあたたかなその声は、溶かしてしまう。
ファラの頬に、涙が流れた。