あなたの痛みにいつか癒しの訪れることを
ムガマ・オ・トウリは、斎殿での沐浴後のひとときを翠緑苑の静けさの中で過ごす。
最近、その時間に二人の少女が加わった。
ファラとルントゥである。
あの日、トウリと出会ったファラは、その後すぐに現れた侍女に呼ばれて立ち去ろうとする彼に、片言のムルカ語ですがるように、「また、会いたい」と言った。
トウリは微笑み、うなずいた。
そしてこの時間がある。
――露が纏う
あなたの髪に
まばゆくふるえる
草の葉といった恰好で――
翠緑苑の東屋の椅子に座るトウリにむかい、ファラは二弦琴を弾きながら、繊絹のように艶やかな声で歌っていた。
トウリは目を閉じ、つま弾かれる二弦琴の調べと歌に耳を傾けている。東屋の出入口にはルントゥと、トウリに仕えるチェスカという女性が控え、同じくファラの歌に聴き入っている。
――恐る恐るに
手を伸ばすのは
触れては消えると
知っているから――
ファラが歌い、トウリが聴く。それがこの時間であった。翠緑苑の緑と水の静謐に、歌の調べが流れていく。それはかけがえのない時間であった。ファラは北の言葉で歌われる唄の意を、彼がわからないと知るからこそ、そこに密やかな想いを込める。彼女は彼の前でだけ、自分の小さな望みを歌にする。
――なのにこの手が止まらずに
そのきらめきに触れるのは
消えずに残ると
知りたいから――
二弦琴の音色が、長い名残を引いて消えていく。絶えた残響を惜しむような沈黙。そこに風が吹き、トウリが立ち上がってファラの前へと歩いた。
自分の前に立ったトウリに戸惑い、ファラは胸を押さえて恐る恐るに彼を見上げた。赤い刺青の顔が自分を見つめる。
そしてその手が伸び、彼女の髪に触れた。
「私は消えませんよ」
微笑むトウリの手の感触が、髪の上を優しく撫でる。知らない言葉だった。けれどそれでファラは自分の歌が届いたことを知り、そして髪を撫でるその手に為すすべを知らず、ただただ身を委ねるのであった。
「あなたは痛みの中にいますね」
トウリの声はいつでも春の雨のように、しとりと胸に沁みていく。凍らせた痛みが疼いて苦しい。それでもファラは、その疼きを求めて彼の瞳を覗き込む。
どこまでも深く透明な湖のような、静穏の色を――。
「痛みは水とともに流れると伝わります」
その声は翠緑苑を流れる水路のせせらぎと混じりながら、穏やかにファラの心に浸透する。
「あなたの痛みも涙とともに流れ、やがて雨とともに遥かへと流れていくでしょう」
トウリはそう告げると目を瞑り、すっと息を吸って澄んだ声で歌い出した。
――雨は悲しみとともに流れ
痛みは水とともに去ろう
涙よ、絶えぬ悲痛の川となり
海よ、青き泉下の水底へ――
それは太陽の地に古くから伝わる歌だった。あらゆる痛みも悲しみも、雨が川となって海へと流れる自然の働きのように、すべては水が運んでいく――。これがこの地に暮らす人々の、悲しみという感情に対する考え方であった。
トウリはファラへの返歌のように、この歌を優しく歌う。
――悲痛の海よ
忘れ去られし涙を湛え
冥茫にたゆたい
眠る海よ
あなたの悲しみに
慈しみの恵みを与え
あなたの痛みに
いつか癒しの訪れることを――
歌い終えたトウリが目を開ける。ファラは自然と頬を流れる涙にも気付かずに、吸い込まれるようにその瞳を見つめる。溶けゆく氷が軋んだ音をたてるように、胸に凍る痛みが疼きとともに緩んでいく。もしも許しがこの世にあるのなら、ファラはそれを目の当たりにしていると感じた。湧き上がるその感情に戸惑う彼女は言葉を失い、ただ茫然とトウリの前に立ち尽くす。
そんなファラにトウリは微笑み、
「あなたの痛みに、いつか癒しの訪れることを――」
もう一度、歌の終わりをそう告げて、ファラの頭を胸に抱いた。
耳に届いた彼の胸の鼓動は静かであたたかく、やすらぎとともにファラの心を包んだ。
ファラは目を閉じ、このやすらぎがいつまでもいつまでもあることを、願わずにいられなかった。




