表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/34

あなたの痛みにいつか癒しの訪れることを

 ムガマ・オ・トウリは、斎殿(ウィルカ・ファシ)での沐浴後のひとときを翠緑苑(コメ・ムヤ)の静けさの中で過ごす。

 最近、その時間に二人の少女が加わった。

 ファラとルントゥである。

 あの日、トウリと出会ったファラは、その後すぐに現れた侍女に呼ばれて立ち去ろうとする彼に、片言のムルカ語ですがるように、「また、会いたい(ヤパ・トゥパムナイ)」と言った。

 トウリは微笑み、うなずいた。

 そしてこの時間がある。


 ――露が纏う

 あなたの髪に

 まばゆくふるえる

 草の葉といった恰好で――


 翠緑苑(コメ・ムヤ)の東屋の椅子に座るトウリにむかい、ファラは二弦琴(リュリュト)を弾きながら、繊絹(ほそぎぬ)のように(つや)やかな声で歌っていた。

 トウリは目を閉じ、つま弾かれる二弦琴(リュリュト)の調べと歌に耳を傾けている。東屋の出入口にはルントゥと、トウリに仕えるチェスカという女性が控え、同じくファラの歌に聴き入っている。


 ――恐る恐るに

 手を伸ばすのは

 触れては消えると

 知っているから――


 ファラが歌い、トウリが聴く。それがこの時間であった。翠緑苑(コメ・ムヤ)の緑と水の静謐に、歌の調べが流れていく。それはかけがえのない時間であった。ファラは北の言葉で歌われる唄の意を、彼がわからないと知るからこそ、そこに密やかな想いを込める。彼女は彼の前でだけ、自分の小さな望みを歌にする。


 ――なのにこの手が止まらずに

 そのきらめきに触れるのは

 消えずに残ると

 知りたいから――


 二弦琴(リュリュト)の音色が、長い名残を引いて消えていく。絶えた残響を惜しむような沈黙。そこに風が吹き、トウリが立ち上がってファラの前へと歩いた。

 自分の前に立ったトウリに戸惑い、ファラは胸を押さえて恐る恐るに彼を見上げた。赤い刺青の顔が自分を見つめる。

 そしてその手が伸び、彼女の髪に触れた。


私は(ノカ・)消えませんよ(ナ・チンクゥ)


 微笑むトウリの手の感触が、髪の上を優しく撫でる。知らない言葉だった。けれどそれでファラは自分の歌が届いたことを知り、そして髪を撫でるその手に為すすべを知らず、ただただ身を委ねるのであった。


あなたは(カン・)痛みの中にいますね(ナナフ・カイ)


 トウリの声はいつでも春の雨のように、しとりと胸に沁みていく。凍らせた痛みが疼いて苦しい。それでもファラは、その疼きを求めて彼の瞳を覗き込む。

 どこまでも深く透明な湖のような、静穏の色を――。


痛みは水とともに(ナナフ・ウヌ・クスカ)流れると伝わります(・スリュ・ウリャイ)


 その声は翠緑苑(コメ・ムヤ)を流れる水路のせせらぎと混じりながら、穏やかにファラの心に浸透する。


あなたの痛みも涙と(カン・ナナイ・ウェケ)ともに流れ(・クスカ・スリュ)やがて(ウテク・)雨とともに(ルアオ・クスカ)遥かへと(・カル)流れていくでしょう(・スリュリュ)


 トウリはそう告げると目を瞑り、すっと息を吸って澄んだ声で歌い出した。


  ――雨は悲しみと(ルアオ・リャキ・)ともに流れ(クスカ・スリュ)

  痛みは水と(ナナフ・ウヌ・)ともに去ろう(クスカ・パサイ)

  涙よ(ウェケ)絶えぬ悲痛の(トゥクラ・カリャイ)川となり(・マユチュ)

  海よ(クォチャ)青き泉下の(アンカ・ワヌス)水底へ(・ウヌシ)――


 それは太陽の地(インティ・パチャ)に古くから伝わる歌だった。あらゆる痛みも悲しみも、雨が川となって海へと流れる自然の働きのように、すべては水が運んでいく――。これがこの地に暮らす人々の、悲しみという感情に対する考え方であった。

 トウリはファラへの返歌のように、この歌を優しく歌う。


  ――悲痛の海よ(カリャイ・クォチャ)

  忘れ去られし(クォンサイ・)涙を湛え(ウェケ・フンティ)

  冥茫にたゆたい(ラチャ・チャパチュイ)

  眠る海よ(プヌイ・クォチャ)

  あなたの悲しみに(カン・リャキ)

  慈しみの(トゥリ・)恵みを与え(ムガマ・オ・トウリ)

  あなたの痛みに(カン・ナナ)

  いつか癒しの(ウテク・ジャンピ)訪れることを(・ワツクゥヤ)――


 歌い終えたトウリが目を開ける。ファラは自然と頬を流れる涙にも気付かずに、吸い込まれるようにその瞳を見つめる。溶けゆく氷が軋んだ音をたてるように、胸に凍る痛みが疼きとともに緩んでいく。もしも許しがこの世にあるのなら、ファラはそれを目の当たりにしていると感じた。湧き上がるその感情に戸惑う彼女は言葉を失い、ただ茫然とトウリの前に立ち尽くす。

 そんなファラにトウリは微笑み、


あなたの痛みに(カン・ナナ)いつか癒しの(ウテク・ジャンピ)訪れることを(・ワツクゥヤ)――」


 もう一度、歌の終わりをそう告げて、ファラの頭を胸に抱いた。

 耳に届いた彼の胸の鼓動は静かであたたかく、やすらぎとともにファラの心を包んだ。

 ファラは目を閉じ、このやすらぎがいつまでもいつまでもあることを、願わずにいられなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ