行く手に立つものはすべて
駅長のクアンライは、そこで厩舎から燃え上がる火柱を見た。
「何事だっ!」
「か、火事です! 突然に火が上がって……!」
「火事は見ればわかる! ええい、眠っているものを叩き起こせ! サパナの隊は消火を! イトマルカの隊は旅人の避難だ! 急がせろ!」
部下に矢継ぎ早に指示を出しながらクアンライは、そこで燃え上がる厩舎からこちらに駆けてくる毛長馬を見た。
「クアンライ殿!」
「カマルパイ殿、これはいったい何事ですか!?」
呼びかけに手綱を引いて毛長馬を止めたカマルパイは、馬上からクアンライに状況を説明した。
「案内の兵が持っていた松明の火の粉が迂闊にも飼い葉に燃え移りました」
火の不始末。アトコは兵士たちの間でもそつのない堅実な仕事をすることに定評のある男で、このような粗忽な失敗にクアンライの脳裏にはまさかとの思いが過ったが、その思考は間髪なく告げられたカマルパイの言葉に遮られた。
「このような状況ですが、私には急使の使命が御座います。開門を願いませんか?」
「今ですか?」
クアンライは夜空を焦がす炎に混乱する駅家を見ながら思わずそうこぼした。この困惑にカマルパイは申し訳なさそうに首を振って答える。
「元々、毛長馬を替えたらすぐに出る予定でした。このような騒がしい状況で大変恐縮ではありますが王命には従わねばなりません」
印符には間違いがない。王法に定められた権限内の伝令官の要求を拒否する権利は駅長にはない。それはまた伝令官にとってもどのような理由であれ王命に逆らう権利はないということであった。
「わかりました」
クアンライには判断の余地はなかった。王法と王命には従うのみである。部下に門を開けるよう指示を出す。
「感謝します。では!」
「あなたの行く先に太陽の光が射さんことを!」
謝辞を告げると馬首を門へと向けて走り去るカマルパイの背中に、クアンライは旅先での幸運を祈る言葉を贈った。そして火事のより正確な状況を把握するべく燃える厩舎へと足を向けると、その途中で二頭の毛長馬が厩舎から駆け出してくるのが見えた。
「火に追われた毛長馬か?」
クアンライの頭に最初に浮かんだその推測を否定するように、その二頭の毛長馬は逃げ惑うような混乱の様子を見せず、火事への対応に辺りを走り回る兵士たちを蹴散らしながら、明確な指向性をもってまっすぐに駆けていた。
「――な、いかん! その毛長馬を止めろ!」
クアンライはその二頭の毛長馬の背中に跨る人影を見た。
前を走る毛長馬には子どもと思しき小さな影が二つ、その後ろを綱で引かれて追走する毛長馬には馬首にしがみつくようにして乗る女性と思しき人影がひとつ――夜を焦がして赫々と燃え盛る炎に照らされ、赤光と黒影の陰影の狭間に輪郭を結んだその人影の組み合わせは、火事の前に伝令官とともに駅家の門の内へと通した皮膚病の母子以外に思い当たるものはなく、これが迷いなく伝令官のカマルパイが出立のために向かった門の方へ疾走する様に、クアンライはこの火事の犯人が誰であるのかを直感した。
「門を破る気だ! 止めろ!」
そう左右の兵士に命じ、自身も毛長馬の進路を塞がんと駆け出したクアンライは腰の剣を抜き放ち、突進してくる毛長馬の前に躍り出ると、その脚に狙いを定めて低い構えから大きく剣を薙ぎ振るった。
剣と毛長馬が交差する――瞬間、クアンライは自身を見下ろす温度のない視線の存在を感じた。つられて思わず馬上に動いたクアンライの目は、そこに白い顔を見た。
美貌の少女。
(なんだ、この恐ろしく美しい――)
皎月のような白面に、黒曜石のような紫闇の瞳――交錯した少女の視線はクアンライを路傍の石でも見るように冷然と睥睨し、そして邪魔な路傍の石に人が与えるごく自然な行為でもって、行く手に立ちはだかったクアンライに応えた。
(悪魔は――)
その直感の印象が戦慄を生み出す前に眼前の毛長馬が跳び、剣閃を躱した三つ割れの馬蹄がまっすぐにクアンライの頭を蹴り飛ばした。
「あ――」
衝撃とともに頭蓋を打ち砕かれて仰向けに倒れるクアンライを一瞥することもなく毛長馬は疾走する。
その目指す先には開かれようとする駅家の門があった。
「――な! と、とまれ!」
伝令官の出発のために開門にあたっていた兵士たちが気づいて制止する間もなく、二頭の毛長馬は門を走り抜けて、夜を焦がして燃え上がる駅家の火事の明かりも届かない闇の内へと消えていった。
それを見送ったカマルパイ――伝令官を演じるサタハは、計略通りに事が進んだことに内心ほくそ笑みながら、突然の事態に狼狽して為す術を知らずに立ち尽くしている周囲の兵士たちに向かって大声で告げた。
「門破りとは大それた真似を――すぐに私が追い掛けて捕らえる! まずは駅家の混乱を収めるように! 私が追うので追手は後からで問題ないと駅長殿にお伝えをっ!」
その堂々たる音声に兵士たちは思わずうなずき、それぞれに指示された行動に移り出す。それを見届けたサタハは毛長馬に鞭をくれ、走り去った二頭の毛長馬――ファラたちに合流するべく駅家の門を走り出た。
後に残された駅家の兵士たちは、この後に駅長クアンライの死を知ってさらなる混乱に陥ることになる。




