願うものはただひとつ
トゥパク・ユパンキはその日の夜伽にファラを選んだ。
伽羅の薄衣に身を包んだファラは、膝に置いた二弦琴の首に寄り添うように頬を当て、寝台の上で王の訪れを待っていた。
半ば以上を欠けた月は深更まで昇らない。棕櫚を編んだ簾からぼんやりと滲むように見える光は弱々しい星の明かりだけで、部屋のほとんどは黒く重い夜の影に覆われていた。
ファラの白い肌も夜の影に浸されるように輪郭もなく溶ける。しかし簾が開かれ、そこに人影が現れると、夜影を裂いてその目が爛と輝いた。
「変わらず、お前は私を畏れぬな」
王トゥパク・ユパンキは手燭を掲げてファラの顔を照らし、愉快気に口を歪めた。
「私の言うことはわかるな。もう、だいぶ言葉を覚えたのだろう?」
燭台に灯りを移しながらそう訊くトゥパク・ユパンキに、ファラは無言でうなずく。
「ふふ、しかし言葉は使わずか? その愛想はもとよりか」
乾いた笑いを上げながらトゥパク・ユパンキは寝台の端に座り、ファラの目を覗き見て言った。
「初めてこの目を見たときから、お前は私を畏れてはいなかった」
その手が伸び、ファラの顎を持ち上げる。それでも少しの揺らぎもなく自分を見つめ返す瞳に、トゥパク・ユパンキは満足気にうなずいた。そしてその瞳の強さを試すように言った。
「言葉を覚えればどう変わるかと思ったが、まさかムガマ・オ・トウリに色目を遣うとはな。なかなかに愉快だったぞ」
ファラの目が見開かれる。その反応に口元を緩めたトゥパク・ユパンキは、ファラのうなじを掴んで自分の胸に引き寄せた。身じろぐファラを押さえ込み、その耳元に口を寄せる。
「知らぬとでも思ったか? 私が不在でも宮殿のあらゆることはオクリョから手紙で書き送られる。会うことを禁止され、それでもお前たちが密やかに夜会を重ねていることもな。邪魔がなかったのは、放っておけと私が指示したからだ」
生ぬるい息とともに注ぎ込まれる言葉に、ファラの身体が強張る。それを感じたか、トゥパク・ユパンキは胸から彼女を解放した。寝台に倒れ込んだファラが顔を上げると、トゥパク・ユパンキは彼女を見下ろし、ゆっくりと両手を広げて言った。
「この地では、皆、私を畏れ敬う。私が太陽の御子であり、この地のすべての人々の運命をこの背に負い、誰の運命をこの背から降ろすのかも決める権利を持つからだ」
それは傲慢だった。
しかし、それが彼の――王の権利であり、義務であった。
そしてファラは、この傲慢に王の孤独の影の正体を見た気がした。
誰もが彼を見ているけれど、誰も彼の顔は見ていない――。
「だが、お前は畏れない。私をただの独りの男だと思っているのだろう?」
トゥパク・ユパンキはそう自虐するように笑うと、ファラに覆い被さり、その唇を塞いだ。
熱くざらりとした男の舌の感触が唇を押し割り、少女の舌との交わりを求めて口の中を激しく蠢く。
「それが小気味よく、面白い」
思う存分に少女の口を蹂躙し、白く光る唾液の線を引いて離された唇が、苛虐の愉悦に歪んだ。
けれど、それでもファラの瞳には少しの恐れの色もなく、変わらず王の顔を強いまなざしで見返していた。
「どうした? 何か言いたそうだな。言ってみるがいい」
その言葉にファラはトゥパク・ユパンキの身体を押しどかすと、傍らに転がっていた二弦琴を拾った。そして着衣の乱れを直して居住まいを正し、毅然とトゥパク・ユパンキの目を見据えて二弦琴を構える。
これにトゥパク・ユパンキは悠然と腕を組み、促すように顎を動かした。
それを合図に二弦琴が奏でられ、歌声が響いた。
――恋というのは
ひそやかなもの
淡く静かな月を望んで
草葉に光る夜露に似たもの――
その唄にトゥパク・ユパンキが眉根を寄せた。その唄が北の言葉ではなく、ムルカ語で歌われていたからだ。
たゆたう水のようにしっとりとした曲の調べに、ファラの声が切々と添い歌われる。
――恋というのは
もの悲しいもの
月はいつしか夜と去りゆき
夜露ははじけて朝に散るもの――
いじらしく痛ましく、張り詰めた細糸の震えのように千切れ消えそうな声。ファラの指が止まり、二弦琴の弦に残る震えが夜燭のゆらめきの中に溶けていく――。
そこで、音が転じた。
――それでもわたしが恋をするのなら
わたしの髪よ
火のように逆立つがいい――
二弦琴の弦が凛と鳴り、敢然とした声がゆらめく夜の陰影を震わせた。
――恋するわたしを
どんな責苦が襲うのか
この身に思い知らせてほしい――
挑むようにトゥパク・ユパンキを正面に見据え、燃えるような声でファラは歌う。
――そんな脅しもこの身の紅蓮を
掻き消すことができぬとならば
わたしの願うものはただひとつ――
炎のように炯々と輝く眼で、ファラはその覚悟を告げる。
――あの人の側にあることを
燃えさかる炎の中で
焼き尽きるまで求めることだけ――
断つように音が絶え、沈黙が二人の視線の間に交わされる。
燭台の灯りに二人の影が壁に揺れ動く。けれどその視線の交わりは一瞬の揺らぎもなく、時の流れから切り離されたように張り詰めた。
この緊迫を破ったのは、トゥパク・ユパンキの大笑だった。
「ははは! それがお前の意志か!」
痛快だとでも言うように笑い続けたトゥパク・ユパンキは、やがて笑いを収めると、再びファラの顔に手を伸ばし、その頬に指を沿わせて言った。
「太陽の御子たる私をここまで畏れぬお前は、悪魔が人の形を為したものかもしれんな」
頬を撫でる指は顎から首筋へと滑り、喉笛の上で止まる。
「せいぜい抗ってみるがいい。けれどお前は私のものだ」
そしてトゥパク・ユパンキは乱暴にファラの服を剥ぎ取り、その白い肢体を自身の浅黒い肌の下に組み敷いた。
「ひとつ言っておこう」
肌を縛るような荒々しい愛撫の中で、トゥパク・ユパンキは言った。
「あれを、どれだけ汚そうと意味などないぞ――」
その言葉の意味をただす間もなく、炎の波濤にも似た激情が、少女の細い身体を焼き尽くすように襲った。




