異話 追想 3
レイが帰ってこないと、レイと同寮の町人から連絡があり、俺は慌てて寮の部屋を飛び出した。
ついさっきまで、俺と一緒だった。
俺の実家で、夏の長期休暇を過ごす準備に追われていた。天候があやしかったから、一足先に帰らせたのだ。
レイは相変わらず小さく、俺と歩幅が合わない。
俺が走って間に合う距離が、あいつには長いのだ。
「何処ほっつき歩いてやがるんだああぁぁ!」
おんなじ道を通って帰っているはずなのに、なんで途中で会わなかった。まさか、美少女と間違われて男に声掛けられたとか?それにのこのこついてったとか⁉なんかありそうで笑えねえぇぇ!
先ほどまでぱらついていた小雨は、本格的に降り始め、ただでさえ暗い夜道なのに、より視界が効かない状態だ。
間もなく門限だ。間に合わなければ締め出される。
レイは王都に知り合いが少ない。気を利かせて俺ん家に帰ってくれれば良いが、遠慮しそうでまた怖い。そうなったらどうなる?夜の街を徘徊?あの美少女みたいな顔で?ずぶ濡れで?酔っ払いに絡まれるじゃすまねぇぞ絶対!
「あ、ギル」
とりあえず家に帰って、レイを探すようにお願いしようと走り出したら、呆気なくレイに声を掛けられ、俺は膝をつきそうになった。
いるじゃねぇか………。何処で何してやがったこの野郎!
「レイ!お前はどこほっつき…………何拾ったんだ…お前…」
レイの両肩から、腕が垂れていた。
苦しそうに荒い呼吸で、それでもどこか気の抜けたような、平和な顔で。何かを背中に負うている。右の肩には、頭らしきもの…暗くてよく分からないが、髪の毛だよな…それ…。
「途中の、路地でね。倒れて、たから。
嫌がって、逃げるし…でも、怪我してて…置いとけない、から」
お前…優しいにも程があるって分かってるか?
言いたいことは幾つかあったが、丁度そこで門限を知らせる鐘の音が鳴り始め、俺は慌てて、レイの背中のものを取り上げる。こんなん担いでたら間に合わねぇ。
「走れ。話は、門の中で聞く」
レイが担いでいたのは、レイと同じくらいの子供だった。
最近急激に背が伸び、大人とそう変わらない背丈となった俺なら問題なく担げるが、よく一人でここまで来たものだ。
なんとか門の中に滑り込み、学舎内の、街灯下で改めて確認すると、やっぱりというか…案の定というか…薄汚れ、すえた臭いがする、なんで拾ったんだと言いたくなるような、汚い子供だ。
「お前なぁ……。孤児だろこれ…しかも浮浪児。なんで拾うんだ…話し掛けられても、答えちゃダメだって、前教えた筈だよな」
もう一回捨てて来なさい。
門限を過ぎてなかったらそう言えたのにと歯噛みするが、レイは予想外の言葉を返す。
「話し掛けられてないよ。僕が話し掛けても、返事してくれなかった」
「よりダメだろうが!」
「でも……痣だらけだよ…擦り傷もあった。痛いのに…道に寝てたら、熱出すよ。雨も降って来てた。そんなの……ほっといたら、駄目だよ…」
懇願するような顔でそう言われて、改めて孤児を見る。
成る程…顔や腕に腫れたり、変色している部分がある。血が滲む箇所もあった。
それにしても…多分青い髪は、ざんばらでボサボサ。目は閉じてて分からないがずっと体を洗っていないであろう汚い肌。なんの躊躇もなく拾える外観じゃないと思うんだが……いくら怪我をしていようともだ。
「たぶん…抗争か…盗みでもして捕まったか…仕置きされたんじゃね?
浮浪児は手癖が悪いからな…自業自得ってやつだろ」
「え……そう…なの?」
「人のもん取ったら殴られる。当然だ」
ごくごく当たり前の一般常識。そのつもりでそう口にした。
「………そう…。じゃあ、僕も、この子と一緒だ……」
「えっ?違うだろ、何言うんだ?」
急に変なことを言い出したレイに、俺は慌てる。レイは何も悪いことなんてしない。そんなことできる奴じゃないと、俺は嫌という程知ってるのだ。
「一緒だよ?異母様から父上を取った妾の子だから殴られる。当然だ」
俺の口真似までして返されて、頬を殴られたような気分を味わう。
レイは、何も思っていないのか、さらりと言った。そして、平然とした顔で、俺が抱く浮浪児を見ている。
忘れてた…。出会った時の、レイの顔が久しぶりに思い出された。綺麗な、美少女みたいな顔の左側に、赤紫の大きな痣が我が物顔で張り付いてた…。あの、出来損ないの蝋人形みたいだったレイを。
「同類相哀れむ…って言うんでしょ。だから気になったんだね…。
なら、尚のことほっとけないよ…だって僕は、助けてもらったし…。
ありがとうギル、あとは僕が面倒見るから。もう、帰っていいよ。ごめんね、遅くなってしまって」
先程のレイの言葉に衝撃を受けて、言葉を返せない俺。
レイはそれを肯定と受け取ったのか、俺の方を見ようとせず、浮浪児の肩に手を回し、抱き上げる。そのままヨロヨロと、自身の寮に帰って行った。
それを見送っても、俺は動けなかった。
傷付けた。レイを傷付けてしまった。あいつは何も悪くない。妾の子だと言ったって、それは親の問題だ。産まれたレイには、何の関係もないことだ。
だけど、あいつはずっとそれを、責められて来たのだ。たかだか6歳の子供が流暢に、うすぎたないめかけばらのにせものきぞく…と言えてしまうほど、繰り返されていたのだ。
どうしよう…なんて言えばいい?お前はその浮浪児と違うって分からせるには、どうすれば…?
きっとこのままを言っても、あいつは納得しない。異母様や兄上が正しいと、壊れたようになって繰り返すのが目に見える…。
本当は、すぐにレイを追いかければよかった。俺が間違ってたと、言えばよかった。
けれど、レイにする上手い言い訳が思い浮かばず、俺はフラフラと、自分の寮に帰るしか出来なかった。
翌日。
濡れたままで寝た俺は。案の定風邪を引いた。咳が止まらず、頭もガンガンする。二日ほど安静に寝ていたのだが、熱が引かない。
寮の管理者が、俺の容態を確認しに来て、これはダメだと結論付けた。実家に連絡が入り、迎えが来ることになる。
くそっ、王都に家があると不便だ…熱くらいでいちいち連絡しやがって……。
いやだああぁぁ、一人で帰って寝といても暇だし。親父とか兄貴とか絶対小言言いに来るし。そういえば姪のルーシーが最近俺のこと毛嫌いして来やがった。でかい怖いって、顔見るだけで逃げやがる…。おかげで俺の部屋に寄り付かないから、未だレイを自慢できない。
……あれ、そうだ、レイだ。やばい。あいつも俺と一緒に雨に濡れた。もしかしてあいつも風邪引いてるんじゃ…。あああ、そういや拾った浮浪児はどうなってる?捨ててこいって言い忘れてるし!
熱でグラグラした頭では全く考えがまとまらない。
レイと気まずい状態だったことも忘れ、俺はフラフラと部屋を抜け出す。
寮を出る団体に紛れて外に出て、レイの寮に向かった。
「こんちは。レイの部屋、行っていい?」
顔なじみの寮管理者に短く挨拶すると、待ってましたとばかりに飛びつかれる。
数日前、レイが浮浪児を連れ帰り、そのまま授業にも出ず面倒を見てると涙ながらに訴えられた。あいつは実家が遠いから、連絡して迎えに来てもらうわけにもいかないと言う。
……助かった。連絡されんのだけは勘弁だ。あいつの実家は最悪だ。帰したらレイがまた壊されてしまう。
「俺の実家で引き取ります。今すぐに」
もうすぐ迎えが来るならちょうどいいや。と、そう言って奥に進む。
レイの部屋はすぐそこだ。あー…頭がいたい。家に帰ったら一旦寝よう。
「レイ、開けるぞ〜」
「あれ、ギル?」
元気そうな声だった。内心ホッとしながら扉を開ける。すると、視界に入ったのはこちらを振り返ったレイの姿。寝台横の椅子に座っていた。
相変わらずの美少女ぶりだが、目の下が黒い。明らかに寝不足…。そして、その向こうに、若干小綺麗になった例の浮浪児が、包帯や塗り薬にまみれた姿で、レイの寝台に身を起こしていた。そして何故か……短剣を鞘から引き抜く。
……………え?
「レイ!危な…‼」
熱に浮かれた身体と頭は反応が鈍かった。
本来ならレイを庇うくらい出来たはずだ。だけど俺は、声を上げることしかできなかった。
レイが、ハッとしたように浮浪児の方を見て、慌てて中腰になるが、その時にはもう遅かった。寝台を下りた浮浪児が、レイに身体をぶつける。レイの座っていた椅子が、音を立てて倒れた。
「ハイン……」
びっくりしたように、レイが呟く。
俺の位置からは見えない。けれど、足元に赤い飛沫が、ボタボタと落ちた……。
「レイ!」
よろめいたレイを、必死で受け止めた。覗き込むと、右の腰辺りがべったりと血濡れている。そこから伸びる、短剣の柄。
それを同じく血濡れた右手で押さえたレイは、いまいち状況を理解できていないのか、蒼白な顔だが、無言だった。
「レイ!手を離すな、そのまま押さえとけよ!」
俺が怒鳴ると、こっちを見てこくりと頷く。そして、自分を刺した浮浪児を見て「大丈夫だよ」と、声を掛けた。馬鹿だ!刺した相手に何言ってんだ‼
「あのー、ギルバートくん、執事だって人が、君を探しに……な、なに⁉なんで血が⁇」
騒がしいので様子を見に来たという感じの寮管理者が、部屋の惨状に悲鳴をあげる。
俺はとっさにその胸ぐらを掴んだ。
「騒ぐなよ。大ごとになるだろうが。ワドが来たんなら、ここに呼べ。急げ!」
「もうお邪魔しました。ギル様。これは一体?ああ、時間がありませんね。
寮管様、部屋の掃除の手配をお願い致します。費用はバート商会に請求していただいて構いません。それと、他言無用で願います。こちらで足りますか?では、お願い致します」
やって来たワドが、状況に動じることもなく、使用人に指示を出し、寮管理者に口止め料を握らせる。そして、レイを刺した浮浪児は、体格の良い使用人に取り押さえられた。
レイは、ワドに抱き抱えられ、俺には別の使用人が手を差し出すが、それを振り払う。
「そのガキは役人に突きだせ!レイは医者だ!」
「ギル様、声を鎮めてください。騒ぎが広がります。
担がれて運ばれるのがお嫌でしたら、ちゃんと歩いてください。馬車はすぐ外です」
ワドに窘められ、悔しいながらも頷くしかない。
レイは、律儀に傷を押さえたまま、ワドに何かを言っていた。ただ、痛いと泣いたり、取り乱したりはしていない。俺の方がよほど慌てていた。状況に頭がついていっていなかった。
レイを使用人で隠すようにして運び、二台並ぶ馬車に乗り込む。手前の馬車にレイとワドが。後ろの馬車に俺と、浮浪児のガキが、縛られて放り込まれる。
「レイシール様はあのまま治療院に運びます。手当てが済んで、問題無い様なら連れ帰るそうです。
ギル様は、お熱がありますから…。怪我で消耗したレイシール様に、飛び火してもことですし、しばらく安静にしておくようにとのことですよ」
朦朧とする頭に、女中のそんな言葉が痛い。
俺はレイについていてやれないことの八つ当たりを、浮浪児にぶつけた。足元に転がったそいつの肩を蹴る。
「いい気味だ…死ねばいい。貴族なんて」
俺に蹴られた腹いせか、そんな悪態を突かれ、俺のただでさえ短くなっていた気が、呆気なくブチ切れた。
胸ぐらを掴んで持ち上げる。
体勢なんて気にしない。息ができないで喘ぐそいつをそのまま釣り上げて、顔を覗き込むと、黄金色の瞳に睨み付けられた。
殺気を撒き散らす様な、世の中全部が敵だという様な、鋭い眼光。爛々としたその眼は、猫科の獰猛な獣みたいだった。
「レイを、その辺の貴族と一緒にすんなよ…。
どこの貴族が、道に転がった浮浪児拾って、寝ないで看病するってんだ…」
俺の言葉に、そのガキが言葉を詰まらせる。
鋭かった眼光が、急に陰った。
よくよく見れば、顔が青い。唇が震えていた。自分のしでかしたことにビビってるのか、自分の今後にビビってるのか…。どっちでもいい。レイの害になる奴の今後なんか、知ったことか。
「俺は、お前を拾ったあいつに言ったんだ。
人のもんを取った奴は殴られる。当然だと。どうせお前、その怪我の理由はそんなもんだろ」
「………」
ガキは答えない。俺はそいつを、そのまま床に投げ捨てた。どこをぶつけたって気にしない。レイの怪我に比べたら…なんてこともない筈だ。
「あいつ、それを聞いて、自分と一緒だって言ったんだ。正妻から夫を奪った妾の子だからって。でも自分は助けてもらったからって、お前を連れ帰って…ほとんど寝ないで看病してたはずだ…。
見てないとは言わせねぇ…。包帯の巻き方や、傷薬の塗り方、そんなもんも知らなかったあいつに、それを教えたのは俺だからな。お前の比じゃないような暴力の中で育ってんのにな…なんであんな、優しく育つんだか…」
しかも、自分を刺した相手に「大丈夫だよ」と声まで掛けた。
尋常じゃない痛みだろうに、悲鳴も上げず。
「どうせあいつは、お前を何一つ責めなかったろ。
人のものを取っちゃダメだよとか、そんなことすら言わなかったろ。
痛くないか、辛くないか、腹は減ってないか、嫌なことはないか、そればっか聞いてたろ。
きみ悪いくらい…優しくされたはずだ…それしかできない奴だ。
優しすぎて…優しすぎて…可哀想な奴だ……」
熱が上がってきたのか、頭が割れるように痛かった。
咳をして、壁にもたれかかる。ああ、いてぇ…馬車の揺れすら、頭に響く…。けど、レイはもっと痛いだろう…助けたやつに刺されて、どれほど悲しんでるか……。いや、あいつのことだしな…心配してるかもしれない…酷い扱いされてないかとか、ご飯はちゃんと食えてるかとか…傷の具合は、大丈夫か、とか……。馬鹿だもんな…。ほんと馬鹿だ…。
「役人は、中止…。説教小屋だ。飯と、傷の手当ては、忘れるな…どうせまたレイが、世話を焼こうとするんだ……」
ガキを役人に突き出すのは中止にして、実家にある、悪さをした時反省するまで閉じ込められる、物置小屋を指定しておく。間も無く夏だ。路上で生活してた奴なら、それくらいの環境へでもないだろう。
実家に帰り着き、俺はフラフラのまま、自力で部屋に向かった。ガキのことはもう念頭になかった。そんなことより風邪だ。早く治さないと…レイに会いに行けない…。
未だ嘗てないほど真剣に風邪と格闘した。アミ神にまで風邪撃退を願った。
願いは通じたのか、二日目には熱が引き、食欲も回復。しっかり食って、体力を回復させる。
そんな俺に、ワドがお話がありますと、言ってきたのは夜だった。
俺の体調の回復を、見計らっていたのだと思う。
「レイシール様のことですが…お聞きになりますか?」
「当たり前だろ。様子はどうなんだ?痛がったり、寂しがったり…してねぇよなきっと…」
「淡々としておられます。動けば痛む様ですが、それでも…顔をしかめる程度で、にこやかにされています。迷惑を掛けたと、ギル様の様子はどうかと気にされて…例の子供に、会いに行きたいとおっしゃいます。悪気は無かったのだと。あの子供の怪我は、通りすがりの貴族に、無体を働かれたのだと、仰いました。小さな子供の浮浪児を庇って、打たれたとのことです…」
思ってたのと、違った。
そんな理由で怪我をしたのか?いやけど…自分でそう言っただけなら、嘘かもしれない…。
「裏も取りました。同日、確かに似たようないざこざがあったようです。目撃したものが複数上がりました。
それともう一つ、重要なお話が…。
レイシール様ですが…腹部の傷は、問題ございません。咄嗟に手で庇われたようで、浅くすんだ様です。しかし……指の筋を、傷付けている可能性が高いと……。薬指は、動かなくなるかもしれないとのことでした」
なん……だって?
「なんでだ………」
「当たりどころが、悪かった様です」
「違う!なんでだ⁈あいつが、何かしたか、神に背くようなことだったか⁈
怪我した孤児を助けようとしたんだぞ。褒められこそすれ、責められる謂れはないだろうが!
なんでそんな、次々辛い目に、合わなきゃならない‼」
久しぶりに泣けてきた。アミ神は馬鹿か!俺の風邪の治癒なんかどうでもいいから、レイの手を救えば良かったのに‼
なんで俺は、風邪なんか引いた…なんであの時、レイに謝らなかった。レイにガキを連れ帰らせたりせず、俺が診ておけば、どうとでもできたのに!
「レイは…知ってんのか……」
「ご存知です。…持つことを許されていないから、持とうとした罰だと、仰いました」
「…………どういう意味だ?」
「ご自身の意思で、行動してしまった罰だそうです」
「そんな訳があるか‼」
ワドを怒鳴りつけても仕方がない。けれど、怒りをぶつける場所が無かった。
意味が分からねぇ!なんで孤児を拾って、看病して、罰を受けるんだ!
感情のまま、椅子を蹴倒し、壁を殴りつけた俺に、ワドが淡々と言う。
「レイシール様が、自発的に行動されたのは、初めてではございませんか?
言われるがまま、望まれるがまま。それがレイシール様でした。
言葉にしないことまで拾って、望むままの人を演じるレイシール様が、自分から孤児を救おうとされたのです。ギル様は、レイシール様の怪我を嘆くのではなく、褒めて差し上げるべきです。
間違ったことはしていないと。怪我は罰ではない。偶然だと。違いますか?」
ワドに指摘され、より悲しみが大きくなる。
その通りだ…その通りだとも。けれど……レイの試練の時は、いつまで続くんだ…。どこまで善行を積めば、あいつが報われる時がやってくるんだ…。
「今すぐは…無理だ…。頭冷やしてくる」
「そうなさいませ」
ワドに見送られ、部屋を出た。自然と足が向いたのは説教小屋で、行くと使用人が一人、表に立っていた。見張りか…ワドの指示かな…。
「中に入る」
声をかけると、鍵を開けてくれた。
俺の腕を理解している使用人は、中の子供が俺に危害を加えるなんて無理だと知っている。だから、何も言われず通された。
説教小屋の中は薄暗かった。奥に人影が一つある。
小屋の壁際に座り込んでいるガキが、俺を見た。
「なんだよ…殴りにでも来たのか」
「そうだよ」
挑発されたので、そのまま望み通り思い切り殴った。
手加減は一切しなかった。
レイと変わらない小柄なガキは、簡単に吹き飛び、壁に頭をぶつける。
「レイの指が、お前の所為で、使えなくなるってよ…。
右手…利き手だ。……筋を傷つけたんだと…。
なんでだろう…あいつ…馬鹿で、人を傷つけたりなんて、絶対しないのに…自分ばっか、傷を負う。お前を助けたから罰を受けたんだと。意志を持って動いたことの報いなんだと。
意味がわかんねぇ…。妾腹ってのは、そんなご大層なもんか?自分の意志すら、持つことが許されないって………しかも神は、それを肯定するかのように、レイを不幸にする…」
勝手に涙が溢れて来て、ガキを見据えたまま泣いた。
ガキは、殴られたことも忘れたように、俺を見上げていた。
そして、しばらくしてからボソリと言う。
「神なんて…いねぇよ。馬鹿じゃねぇの?そんなもんに助けられたこと、一度だってあるのか?姿を見たことが、一度だってあるのか?」
「ねぇな…。どうでもいい願いは叶うのに、本当に必要な願いは叶えてくれないしな…。馬鹿なのか、いないのか、どっちかだ」
「いねぇよ。無神の民だろうが、神の民だろうが、不幸は人を選んだりしねぇ」
「本当にな……お前は救われたもんな…あの馬鹿に」
「殴ったのは貴族だ」
「救ったのもな」
しばらく沈黙する。そして、「本当に神なんて、いねぇな」と、二人で納得した。
「指…動かないのか…」
「その算段が高い。なのにレイは…怒りも嘆きもしない…。きっと意味が分かってない。後になってびっくりするだろうな…馬鹿だし」
でも、びっくりするだけなんだろう…。怪我の原因を、恨める様な奴じゃないから。
「確かに馬鹿だな…」
「座学は高成績なのに馬鹿だ。あいつは、考えたり、決めたりすることを、家で咎められてた節がある。
虐待ってやつだな。6歳のガキがお前より酷い大痣で顔を半分、変色させて、入学してきたんだ。つるむようになって、知った。身体にも、痣の跡や、変な傷が、沢山あった。不幸だろ。なのにあいつはそれも分からねぇでやがるんだ。貴族なのに…使用人一人すら、連れていない…。三年間、誰一人会いに来ないし、家にも帰らない…。ああ…俺よく考えたら……未だあいつが、泣くのを見たことすらない……」
殴られれば瞳に涙をためる。でもそれは条件反射だ。感情を動かす涙を、未だにあいつは流さない。笑うようになった。拗ねるようになった。けど……。未だ、縛られているのだ。
「会わせてくれ、馬鹿なガキに」
「…………信用できると思うのか?」
「出来ないなら、斬りゃいいよ。本当なら、もう死んでる」
皮肉げに笑ってガキが言った。
そういや、レイはこいつをハインって呼んでたな…。
「お前の名は、ハインでいいのか…」
「あの馬鹿が勝手にそう呼んだんだ。……けど、ハインでいい。俺は今日からそれになる」
レイのところにハインを連れて行った。
するとこいつは、崩れるように座り込んで、床に頭をすりつけるようにしてレイに言った。手の代わりをさせてくれと。
もう二度と、お前を傷つけないと誓う。命を救われたのだから、命で返すと。
レイは意味がわからないような顔をして、気にしてないと答えた。
元気になったら、自由にしていいと。自分が勝手にしたことだから、ハインも好きにして良いのだと言った。
「分かった。じゃあ好きにする」
ハインはそう言い、少しだけ涙をこぼした。
その日からこいつはハインとして、レイの従者になる道を選ぶ。
怪我の治療のため、夏期休暇までを俺の実家で過ごし、そのまま夏期休暇も過ごしたレイは、寮に戻る時、従者を一人連れ帰った。
ワドの猛特訓で、従者見習いとなったハインだ。
寮管理者は悲鳴を上げた。まさか帰ってくるとは。
僕は持ってはいけないのに…と、ぼやくレイに、ハインは素知らぬ顔でこう返す。
「レイシール様は押し付けられただけです。持ってませんから大丈夫です」
◇
レイの生活は一変した。
手の包帯は、長期休暇の間に外れて、外見的にはなんの問題も無かったレイだが、利き手の薬指が一本動かないだけで、出来ることが格段に減った。特に貴族社会において、手の障害というのは致命的であるらしい。
まず筆を握ることがままならない。
指三本しか使わないと思っていたが、薬指が曲がらないと邪魔で仕方がないのだ。
苦肉の策として、レイは薬指と小指を、曲げて紐で縛った。
座学の授業を受ける間はずっとその状態だ。当然、自分では縛れないので、従者となったハインがその仕事を担う。
レイは慣れた日常の様に、その工程を自然に受け入れているのだが、ハインは違った。毎日、毎日、自身の負わせた怪我の世話をするのだ。気にならない筈がない。
武術の時間は、より不便だった。
剣を長く握っていられないのだ。
数回の素振りが限界で、すぐに剣が手からすっぽ抜け、あらぬ方向に飛んでいってしまう。
だからといって、手に剣を括り付けたり、逆の手で武器を扱うことは許されなかった。武術の師範は、そういった補助を認めない人だった。
だからレイは、素振りの時は、型を丁寧に、無手で繰り返した。
試合の時は、剣を振る回数、握る時間を考えて行動する様にした。
体力や筋力の向上に努め、剣を振れる回数を増やす努力をした。
そうやって、勝率は格段に落ちたけれど、最低限の成績を確保することにはなんとか成功した。
馬術の時も、手綱を長く握っていられない為、駈歩程度で振り落とされそうになる。右手での指示が小さく、馬に伝わらず、見当違いの方向に動くなんてことはザラだった。
片手で馬を制御するのは難しい……まして、レイは小柄だ。足の力だけで馬を操作出来なかった。相当苦労した様だ。
けれど、泣き言は言わない。振り落とされて全身打撲で寝込むこともあったけれど、治れば補習を欠かさなかった。きちんと馬に乗れる様になるまで、それは繰り返された。
全てにおいて、レイは泣き言を言わなかった。
そして、補助してくれるハインに「ありがとう」と、礼を欠かさなかった。
ハインはどんどんレイに傾倒していった。依存していったと言ってもいいだろう…。
ハインはきっと、責められたかった筈だ。お前の所為でと罵られていれば、もっと楽だったのではないだろうか。
ハインは、レイを過剰に保護する様になり、一時期軋轢を生んだ。
事情を知らない者がレイの手を気にしたり、からかったりするとハインがキレた。
おかげで俺がしょっちゅう呼び出される。ハインを取り押さえるのが大変だったのだ。
レイは根気強くハインに言い聞かせた。
手のことは気にしてない。僕は別に、不自由してない。だってハインがいる。僕の手助けをしてくれる。感謝してもしきれない。ハインに人を傷つけてほしくない。ハインがそれで傷つくのも嫌だ。出来ないことは増えたけれど、練習すれば出来る様になった。多分、大抵のことがそうだ。だから全然、問題無い。大丈夫だよ。
そう言い聞かす度に、ハインは苦しそうな顔をした。
そうじゃない。
本当はしなくてよかった苦労だ。それを、背負いこませてしまった。
ハインはどうしても、そう考えてしまう様だった。
ハインがキレると、レイがとばっちりを食う。そして聞きたくないことを聞かされる。不自由してない、困ってないと言わせてしまう。
それが理解出来てからは、ふつりと暴走しなくなった。けれど、気持ちを抑え込むその姿は殺気立っていて、手負いの獣そのもので……酷く危うげで、怖かった。
溜め込み過ぎると、きっと何処かで決壊する。そんな気がしたから、俺はハインをからかった。いらぬちょっかいを出し、喧嘩を売った。そしてそのうち、それが日常になった。
本編が全く進まず、異話でお茶を濁すこととなりました。ごめんなさい。
来週金曜日にはと思うのですが、正直かなり引っかかっております。どうしよう!まだ一話すら進んでないんだ!
とはいえ、異話も書きだめ分出しちゃったしねぇ…次はねぇぞって自分に言い聞かせております。
何が何でも毎週の更新だけは続けようと決意だけはしてますんで、どうぞよろしくお願い致します。