囲者
「あー……サヤも戻ったし、俺の用件の話、ここでして良いか?」
ギルがそう言うと、サヤが緊張したのが分かった。
……え……何?
食事は進めているけれど、気持ちは食事にいっていないらしいサヤの態度に、不安が膨らむ。
サヤが緊張するようなことなのか?
サヤを見ると、視線が合った。けれど、次の瞬間逸らされて、サヤが頬を赤らめたものだから、俺の混乱は更に拍車が掛かった。
ギルの方を見ると、サヤを見つつ、苦笑い。
…………何か……得体の知れない、もやもやとしたものが、胸の中を蠢く。
二人の反応が、嫌なことを連想させられたのだ。
嫌な……って、違う。俺が口を挟むようなことじゃ、無いことだ。
前も、こんなことを考えた。あれはいつだった……? たしか、サヤが倒れた時だ。カナくんの話を聞いた時。
そう、サヤがカナくんのことを、眠りに落ちる前の、譫言のように口にしたのだ。幼馴染だと。
家族以外で唯一出て来た名前。そして、俺の予感は的中して、サヤがカナくんのことを、想っていると知った。
……そう、サヤの想い人はカナくんだ。そしてギルにだって、サヤを恋愛対象として見るなと言ってある。だから、サヤがギルとどうこうということは、無い……はず、だ……。
本店命令と、ギルは言った。それはつまり、ギルのご両親や、兄のアルバートさんが絡んでくるということだ。
今、家督はアルバートさんが継いでいるわけだから、そちらが主なのかな……。
でも、アルバートさんが俺に相談してくることが分からない。
学舎を辞めてから、ギル越しの接点しか無いのだ。王都に居た時は、優しくしてもらった。
結構熱血で、突っ走る傾向のあるギルと正反対の、温和で実直な方だ。貴族との付き合いを熟知されていて、無理難題を言うような方じゃない。そもそも、頼み事をされたことって、無いよな。ギルとかなり年の差があり、ルーシーの父でもあるわけで……あ、ルーシー絡みなのか? いや、それも変だ。だって、サヤの事でと、ギルは言ったのだから。
「あのな、サヤの着ている従者服、サヤが意匠を考案したって話はしたよな。
それの図案を買い取らせてもらって、写しを本店にも送ったんだよ。
多分こうなるとは思ってたんだが……やっぱりというか……早馬で、返事が届いてな。
いくら積んでも構わない。どんな条件でも飲む。……っていう前提で、お前と交渉してこいって言われたんだ」
サヤの図案?
俺が感情に流されているときの話だよな……。でも図案関係なのだから、ギルとどうこうの話ではないとハッキリした。そのことに少なからずホッとする。
しかし、視界の端で、ますますサヤが縮こまって、耳まで赤くなっているのが見える。
ギルは、暫し沈黙した。そして……。
「サヤをな。なんとしてでも囲えってことなんだ」
囲う。
言葉の意味を考えた。
考えたら、頭を埋め尽くしたのは、母のことだった。
妾 思者 悪女 情婦 色女 淫乱 隠女 愛妾 手掛女 囲者 敷女 阿婆擦れ ……
陰で言われていた棘のある言葉が次々と頭の中に溢れてしまって、血の気が引いた。
「レイシール様!」
ハインに鋭く呼ばれて、囚われかけていた意識が辛うじて踏みとどまる。
唖然とした顔で皆が俺を見てて、何故だかジンとする手を見下ろしたら、拳を握った自分の左手が、机に思い切り叩き付けられた後だった。
「?……うわっ、痛っ」
「お、おぃ……」
尋常じゃなくジンジンと痛い小指側の側面。慌てて引っ込めて、右手で庇ったら、手が触れただけで痺れるほどに激痛が走って、すぐに手を離す。こっこれは……っ⁇
「あれ? なんで俺……?」
「あ、いや……すまん。紛らわしいこと、言ったな。専属契約を結ぶことを、囲うって言うだろ、あれだ。
つまりな、サヤの考案した意匠が、相当出来が良かったんだ。だから、バート商会のみに意匠案を卸す、専属の意匠師になってもらえるよう、交渉して来いって言われたわけなんだ。
その……妙な意味は、一切無い。大丈夫だ、安心してくれ」
珍しくギルが戸惑った顔で、遠慮気味にそう言う。
サヤもびっくりした様で、すっかり固まってしまっていた。
ハインが真剣な顔で俺に手を伸ばし、打ち付けた箇所を丹念に確認してから「骨を痛めてはいないと思うのですが……」と、眉を寄せた。
「えーと、つまり……どういうことです?
サヤくんが意匠師になるという話ですか? 従者を辞めて?」
一人、たいして動じた様子もなく、マルがそんなことを口にしたものだから、サヤが慌てて両手を振った。
「ちっ、違います! 私、従者を辞めるつもりなんてありませんから‼︎
ただあの……ギルさんにはお世話になりっぱなしで……お返しできるものがあるならば、お手伝いしたいなって、そう思ってます。
ちょっと恥ずかしいんですけど……それほどまで言って頂けるって、光栄なことだと思いますし……。
それでその……、契約条件は、全部こちらの都合で構わないそうなんです。どんな条件でも飲んで良いって、ギルさんのお兄様方は仰ってるそうで……」
「ああ、そこは俺の一存で決めて良いってなってるから、安心してくれ。
それに元々な、意匠師には兼業の者が多い。だから身元を伏せてる者も多い。
この際だから、サヤに、メバックでの仮姿を作っちまうのはどうかって思ってな、それを提案しに来たんだよ」
「ああ、それは名案ですね。仮姿ですか。確かにサヤくんの為にも、良いように思いますよ」
そう前置いてから、マルはサヤに仮姿を作ることの利点を教えてくれた。
「例えばですよ? こちらで何かしらあって、サヤくんがメバックに避難したとします。
ただ闇雲に、メバックの中に姿を隠しても、いつ頃逃げて来たどんな人物なんてのが分かっている以上、見つけるのは案外簡単です。サヤくんには特徴的な黒髪もありますしねぇ。
ですが、元からメバックに居る筈の誰かに成り代わられると、これがまあ、とたんに難しくなるんですよ。
また、サヤくんがただ女装するより、メバックに住む誰かという肩書きを名乗る方が、正体が判明しにくい。前々からそうである人が、居たことになっているわけですから、疑う余地がないでしょう?サヤくんとその人物が同一だと考えるのも難しくなります。セイバーンとメバック。住んでる場所が違いますしねぇ。
図案は手紙でやり取りしたっていいわけですし、馬なら三時間で届けることができます。セイバーンに居ながらでも仕事は出来ますよ。
しかもギルの一家が身元を保証してます。王都に店を構えた大店の専属意匠師ですからね。
サヤの隠れ蓑にもってこいですよ!
あと、意匠師って案外、女性が多いのでね。顔を隠し易いですよ。あ、紫紺の鬘のサヤを意匠師のサヤとするのは如何ですか? 僕が情報の補強をすればもう鉄壁ですよ」
乗り気で楽しそうに話すマル。
場の空気がここだけ違う。そう、マル以外は全く楽しそうじゃなかった。
俺を心配そうに見る三人。その表情に、俺の無意識の行動が相当衝撃だったことが伺えて、俺の背中に汗が伝った。
「そ、その……すまない。事情はちゃんと、理解した。サヤがやりたいと思う事を、止める理由は無いよ。従者をやりながらだと、大変かもしれないけれど……それは承知の上なんだろう?
サヤが才能豊かなのは知っていたつもりだったけど……服まで思い付けるだなんて、本当に凄いな。うん。しかも、アルバートさんまで認めるだなんて……」
「……ああ、本当にな。まあ、多分そうなるだろうと思って送ったけどな……。なんせワドが、サヤの下図を買い取りましょうって言い出したくらいだから」
「そ、そんな大層なことじゃないんです! 私の世界の服を写してるだけなんですよ?」
「だからぁ……、写せねぇよ! 普通着てたって、写せねぇんだよ! それが出来りゃあそこらじゅう意匠師だらけだっつーの!
レイ、サヤはな、学校で服を作るクラブカツドウとやらをしてたそうでな、下手な意匠師よりよっぽどなもんを描くぞ」
ギルが、意図して空気を和ませようとしてくれているのは、嫌という程分かった。
ドキドキと早鐘を打つ心臓に、俺も静まれと、言い聞かせていた。
手が痛い……。なんであんな事をしてまったのか、全く分からない。今までだって、そういった言葉を聞いたことは幾らだってある。なのに、何故ギルの言葉に、今更頭が真っ白になってしまったのか……。あんな風に、振り切れるくらいの怒りが、瞬時に湧き上がってしまったのか……っ駄目だ……今は、保留にしよう。下手なことを考えて、また振り切れてしまったら、皆を心配させてしまう……。
「じゃあ決まりですね。
あ、名前を決めませんか? 意匠師は通り名を持ってる人が多いですよね?
会議の時のサヤくんは結構大人っぽく見えましたしねぇ……あれなら二十歳としておいても大丈夫そうです。メバック在住の二十歳。うん。良い感じだ。男装のサヤくんと、本来のサヤくんとの年齢差も生じますし、同一人物としての特定が、よりしにくくなるでしょうね。
そうそう、異国めいた名前は却下ですよ? あまりサヤくんを連想しない名前にしてくださいね」
「そんなこと急に言われてもな……知り合いの名前しか思い浮かばねぇよ……」
頭を掻くギル。ハインは元から考える気が無いようで、ルーシーくらいしか思い当たりませんねと言って、ギルに怒られていた。
サヤも同じく考えていたのだが、あ。と、呟いてから少し逡巡し……。
「あの……カメリア、というのは如何でしょう」
「カメリア……アメリアでもメアリでもなくカメリア……。聞き慣れてるような、慣れてないような、絶妙な名前ですねぇ。由来はなんですか?」
「え……、椿の、英名です。植物の名ですね」
サヤの返答に、マルはにこりと笑った。
「ああ、それなら良くありますねぇ!地方の植物なら、知らない名前なんて幾らだってあるでしょうし、女児に花の名を付けるのも一般的です。良いんじゃないですかね。
ではそれで決めちゃいましょう。
メバック在住の二十歳女性意匠師、通り名はカメリア。それで専属契約をお願いしますよ、ギル」
「なんでお前が仕切ってんだ……。まぁ、いいけどよ……。
じゃあ、それで兄貴に報告するぞ。細かい契約はこっちに任せてくれ。悪いようにはしないから。サヤの事情を踏まえて取り決めとく」
俺もそれにこくりと頷いて応えた。
そうか……これでサヤは、従者だけでなく、意匠師となったわけだ。万が一、従者を辞めても、もう問題無い。サヤは、俺の助けなど無くても生きていけるよう、手に職を持ったのだ。
……あれ……?
なんだ……? なんでこんな、不安になるんだ……?
心臓が、痛い気がした。だけど実際痛い訳がない。痛いのは左手だ。俺は何かを勘違いしている。感情と、痛む場所が錯綜している。どういう訳か、サヤが遠くなったような気がしてる……。
それは、当然起こることだ。起こらなければならないことだ。近い未来に、サヤは故郷に戻る。俺の前に留まっていたりはしないのだ。それでもサヤは、この世界に自分の痕跡を残すと決めた。ここに居る間は俺と時間を共有するのだと決めた。俺の罰と戦うと決めた。俺を大切な思い出に分類してくれると言った。サヤは、元からカナくんを想っていて、サヤの世界で幸せになるべきで、サヤはそうなるに相応しい、素晴らしい娘で、俺なんかが想って良いような相手じゃなくて、そもそもが、前提が、俺とは絶対に、交わらない、異界の、娘で……。
住む世界が、違いすぎる。
「ご馳走様でした。
あの、レイシール様、ちょっと良いですか? 少し気になることがあって。相談に乗って下さい」
サヤが、早口でそんな風に言い、埋もれかけていた俺の意識が、そちらに引かれた。
「……相談?」
「はい。すぐ片付けますから、ちょっと待ってて下さ……あっ、ハインさん……」
「片付けておきますから、どうぞ、行って下さい」
ハインに礼を言ったサヤが、俺の右手を握った。
温かい手に包まれて、暴れそうになっていた気持ちが少し、宥められて……そのまま引っ張られるように、食堂を後にした。
なんだろう……どうしてサヤは急いでるんだ……俺はなぜサヤに手を引かれているのだろう……いつか居なくなってしまう、遠くに行ってしまう、絶対に手の届かないはずの、出会うわけもなかった相手。なのになんで俺は、今サヤと……。
「レイ!」
結構な大声で呼ばれてびっくりした。
何⁉︎ 視線を彷徨わせると、妙に暗い視界の中、鳶色の、少々釣り気味な瞳が間近にあって、俺を真っ直ぐに見据えていた。
「朝から、少しピリピリしとる気ぃは、しとったんや。
レイ、夢、見たん? 沈んでしもたん? それとも、異母様やお兄様が、なんや言わはったん? 今、またあん時みたいになってる。って、こっちを見ぃ! 視線逸らしたら怒るしな!」
夢や、異母様たちを持ち出され、つい逃げ腰になって視線を逸らしてしまった俺に、サヤの鋭い声が飛んだ。
怒ると言われ、びくりと身が竦むが、そんな俺をサヤが近くから見上げていて、視線が合うと、俺の両手を取り、そのまま引っ張るようにして座らされる。
左手の打ち付けた部分にサヤの指が触れ、ビリッ! と、痛みが走った。おかげで混乱しかけていた意識が痛みに捕らわれ、更に、サヤの手が俺に触れていることに気付き、そのままサヤに引き寄せられて、その肩に頭が当たって、ハッとする。
「さ、サヤっ!
ごめんっ、大丈夫だから! ちょっと気が動転しただけで、別に今俺は……」
「じっとしとき! 大丈夫やない。大丈夫な時のレイは、そんな風と違う」
がっちりと頭を抱え込まれていて、動けずに焦る。ちょっ、ほんと待って、他のみんなが見たら……こんな状況見せられないから! サヤの沽券に関わるから!
どうやって逃れようかと視線を彷徨わせると、薄暗い視界に、ぼんやりと白く浮き上がる、見慣れない小机と、自分が今座る長椅子の一部が見えた。
灯りがついていないから分かりにくいけれど、どうやらサヤの部屋だ。ならすぐには見られたりまはしないか……サヤの部屋? うわっ、更に問題だと思う!
「大丈夫やから。
誰か来ても聞こえるんやから、レイが恥ずかしい思うようなら離す。安心し。
それに、訪い無しに部屋に入ってくるような、不躾な人は居らへんやろ?
兎に角じっとしとき。レイが落ち着いたて、私が思えるまでは離さへん。観念し!」
「む、無理! せめて灯り……部屋を明るくしてサヤ!」
こんな薄暗い自室に男を入れるな! この状態で俺を抱きしめるな!
万が一ってことを考えてくれ‼︎
灯りを付けろと必死で懇願する俺に、それでもサヤは暫く手を離してくれなかったのだが、あまりにしつこいからか、そこにちゃんと座っておくようにと前置きしてから、やっと動いてくれた。いったん廊下に出て、廊下の行灯を持って来る。火皿を取り出し、室内の行灯に火を移していった。
最後の行灯に火が入り、壁に戻されてから、俺は打ち拉がれ、盛大に溜息を吐いた。
サヤ……危機感を持とう。
いくら俺が女顔で、警戒心が湧かないのだとしても、それでも一応、男なんだよ……。
普段は警戒し過ぎなくらいに警戒しているだろうに、なんで俺には無頓着なんだ……。いくら俺が警戒するに値しない相手なのだとしてもだ。何かあって傷付くのはサヤなんだから……!
廊下に借りた行燈を戻しに行ったサヤが、部屋に戻って来て俺の横に座るので、説教しようと口を開きかけたのだが、サヤの手が俺の頬に触れたので、また身を引く羽目になった。
「…………良かった。ピリピリ、おさまらはったみたいやね……」
間近に眼を覗き込まれ、ホッと、安堵に溶けてしまったような表情をされて、言うに言えなくなる……。
邪なことを考えてしまっているのは俺だけで、サヤは、ただひたすら純粋に、俺を心配してくれていたのだと、嫌という程分かったから。
「堪忍な。なんとのぅ、感じとったのに……もっと早う、聞けば良かった」
「ち、違う……から。俺は何も、なんともなかったのに……」
「レイ。なんともないレイは、急に机を叩いたりしいひん。
ギルさんの言葉の、何かがあかんかったんやとしても、あんな風に、拳を振り上げたりしいひんの」
真剣な眼差しでそう返されて、ぐうの音も出なかった……。
反論出来ずにいる俺の頬から、サヤは手を離す。そうしてから、その両手で俺の右手を包む様にして握った。
「何が、あかんかったん?
私には、ギルさんが、囲うて言うたことに、もの凄く怒らはったように見えた」
囲う……。
そう、ギルが、サヤを見てそう言ったのが、俺には許せなかった。
あの時はあまりに一瞬で、自分がどうしていきなり、振り切れるほどに感情を爆発させてしまったのか、分からなかったけれど……今度は、明確に認識できた。
けど……その説明を、サヤにして良いものか……。サヤには気分良く聞ける話ではないだろうから……。
だがサヤは、言うまでは離さないとでもいう様に、しっかりと俺の右手を握っている。
誤魔化そうにも、上手い言い方が思い付かない……困った……。
悩んだ挙句、言うしかないかという結論に至る。けれど、当たり障りのない部分までにしようと決めた。
「…………その言葉が、嫌だったんだ。
俺と母は…………囲われていた者だったから……」
そう、貴族となる前、俺たち親子は囲われていた。
母は、妻ではなく、妾であったから……。
それは、籠の鳥と一緒だ。繋がれて、環境からも、呪詛からも、逃げ出せない。そんな場所に母を括り付けた、母の鎖は………………多分、俺だった。
俺の苛立ちが伝わってしまったらしい。
サヤが俺を引き寄せようとするのが分かって、慌てて逃げる。
そんなにすぐに抱きすくめられてたら、身がもたない。理性が保てるうちに全力で逃げるべきだ。
「子供じゃないんだから、そこまでしなくていい!
サヤも、そんな簡単に、俺に触れるなよ」
そう言うと、サヤの眉が下がった。
うわっ、傷付けた? 違う、サヤが思うような意味じゃないんだ!
「違うから……、サヤに触れられるのが嫌とか、そういうんじゃないから……。
サヤはあまりに無防備だって言ってるんだ。俺が何かしたらどうするの!」
「え? レイは、そないなことせえへんの、知ってるし」
うわ……本当に、全く、意識されてない……いっそ清々しいくらいに……。
それはそれでとても辛い……。ま、まあ、信頼されてるってことだ。うん。サヤから信頼が得られているって、素晴らしいことじゃないか。
「レイは、嫌なことなんもせえへん。せやし、私、平気なんやで? 無理とかはしてへん。
レイかて、私が怖い時、そうしてくれてはるんやから、遠慮とか、心配とかせんでええ。私はちゃんと、やりとうてやってる。
それにな、これは手当や。心の傷は、こうやって治すのやて、私の世界のお医者様が教えてくらはった」
また妙なことを言うサヤ。なんとなく言うことの意味は分かるような、分からないような……。
俺が訝しげな表情をしているからか、いまいち伝わってないと分かってしまった様だ。
サヤは、両手で包み込んだ俺の右手に視線を落とし、言葉を続ける。
「温めてもらうと、ホッとするやろ……。せやからおばあちゃんは、私が不安になる時は、そうしててくらはった……。
レイも、そうしてくれてるやろ……私が震える時は、いつもそうしてくれる……。
せやし私、この世界に一人でも、不安に負けんで済んでるんやで……」
右手を包み込んだまま、それを額に押し付けるようにして、サヤは消えそうな小声で「せやから、触れるなやなんて、言わんといて」と言った。
泣いている? 怒っている? それとも怯えているのか? 顔が見えないから分からない……。けれど、サヤを突き放すことだけはしてはいけないのだと、それだけは分かったから、もう何も言えなかった。
「ごめん……。もう、言わない」
要は、耐えれば良いのだ。サヤの優しさにつけ込むような愚行だけは犯さない。自分にそう言い聞かせる。
そして、サヤが安心して手を離せる様に、俺が気持ちを乱さなければ良いのだ。
「母は、父上に囲われていたから。妻ではなく、妾だったから……。
サヤを、繋がれてしまうと、身体が勘違いしたんだ。
頭では違うと分かってたのに、身体が反射で動いてしまった。
もう、大丈夫。落ち着いたから。ちゃんと理解したから」
繋がれた母は、結果的に死を選ぼうとし、失敗した。俺という鎖すら断ち切れず、父上に繋がれたまま……だけど、父上は慈悲深い方だったから、俺の身を案じ、母の身を案じ、手元に引き取ってくださった。母にとっては、それが結果的に、良かったのだ……。
サヤが「繋がれてしまう?」と、俺の言葉を拾って返すから、少し緊張した。
「貴族にとって、囲うってのは、そういうことだからね。その家や、相手に、繋がれるってことだよ……。
でも、ギルが言ったのは、そんな意味じゃないって、分かったから」
無理矢理話を引き戻す。母のことは、掘り起こしたくない。
ギルは……バート商会は、サヤを閉じ込めたりはしない。あの人たちは、商人だけれど、ただ儲けを追うようなことはしない。数代に渡り大店と言われてきた矜持がある。与えられる為に、与えることを知っている人たちだ。
だからきっと、専属契約というのは名目だ。サヤが天涯孤独の身の上であるということを、ギルは報告しているだろう。そして、才能豊かな、立場の弱い女性を保護することと、店の利益を両方取ったのだ。
仮姿を作ることも、サヤの為に考えたのだと思う。
俺の傍にサヤを置いておけと、そう言ってセイバーンに戻したギルだけれど、そのことで万が一、サヤが危険なことになったら、すぐに助け出せるよう……手を打っているのだと思う。
あいつは本当に、女性に手厚いから。サヤをただ危険に近付けたりはしない。
そうだよな。ギルが、女性のサヤにそんな危ない橋を、ただ渡らせる筈がない。
この契約は、ギルの懐にサヤを入れる為のものなのだ。それはつまり、アギー家の庇護も、サヤに及ぶ様になるという……っ。
鋭い痛みが胸を刺した。
「サヤ、戻ろう。風呂に入らなきゃだろう?」
サヤに気取られる前に、俺はそう言って、サヤを促す。
唐突すぎたのか、サヤが少し、不思議そうな顔をしたけれど、気付かれはしなかった様だ。いえ、その前に相談があります。と、そう言われ、食堂で言っていたのは方便ではなかったのかと、少々驚く。
「あの、警備をしていたのは、理由があるんです。
賄いを配膳している時に、話し声を拾いました。『思ったよりやりにくそうだな』『馬鹿、今はよせ』って、そんな話し声だったんですけど……なんとなく、気に掛かってしまって……。
その後も何か拾えないものかと粘ってたんですけれど、それ以後は特に何も……。
ただの普通の会話だったのかもしれないなと、思ったんですけど、何か引っかかって、一応、お伝えしておこうかと」
仕事の口調に戻ったサヤに、俺も腕を組んで考える。
思ったよりやりにくそう……今はよせ……確かに引っかかりはするけれど、ただそれだけの会話だ。今というのは、誰が聞いているか分からない、集会場の中を指すのだろうか。それとも、サヤが居たことだろうか……。
「ん……確かに気になるけれど、まだなんとも言えないな……。
今はよせって言ったなら、集会場の中ではもう話さないことなのかもしれない。明日以降、ちょっと注意を払う様、皆にも伝えておこうか」
「はい。ではそうします。あの、日中私も、暇な時間は見回りをする様にしますね」
「あ、ちょっと待って。
日中なんだけどね、ハインとやってた見回りを、サヤに交代してもらおうと思ってるんだ。
サヤに、馬術を教えようって話が出てね」
俺の言葉に、サヤの顔が輝いた。
「馬術……教えて頂けるんですか⁉︎」
「う? うん… …馬は怖くない?」
「怖くないです! 乗りたいです! 練習します! あの、どなたに習えば良いですか?」
「いや、見回りついでだから俺が教えるんだけど……嫌じゃなければ……」
「嫌じゃないです!」
嬉しそうに顔を輝かせるので呆気にとられてしまった。
そんなに、乗りたかったんだ……。なら、言ってくれれば良かったのに……。
そう思いつつも、サヤがそれほどまでに喜んでくれるならと、気持ちが少し軽くなる。しかし……。
「ギルさんも仰ってたんです。馬に乗れる様になれって。行動範囲が断然広がるし、従者には必須だって。
そうすれば、メバックにもほんの数時間で来れる様になるからって」
サヤが笑顔でそう口にしたことが、何故か俺を搔き乱した。
静まれ。気持ちを荒らすな。サヤが気付く。
「じゃあ、明日から頑張ろう」と、笑顔で伝え、先に出るよと、サヤの部屋を逃げ出した。
そのまま自室に逃げ込んで、薄暗い部屋で、扉を背に呆然と立ち竦む。
どうしよう。
なんだこれ、なんでこんな気分になるんだろう。
どうして俺は……怖いと感じてるんだろう……。
自分が信じられなかった。ギルが……ギルが、怖い。
ギルは俺の為に行動してくれているって、分かっているのに、なのにどうして……。
サヤが、どんどん俺を必要としなくなる……俺から遠くなる……彼女は、どんどん離れ、進んでいってしまう。そしてその先に、ギルがいる様な気がするのだ。彼女の進もうとしている道は、俺なんかじゃなく、ギルの進む道に沿っている……そんな気がするのだ。
どうしよう……いや、どうしようってなんだ?
サヤがそれを望むなら、それが正しい道だ。恙無く笑って過ごす為に、サヤが、幸せである為に、その道が正しいなら……。
正しいって、なんだ……サヤが望むなら、それが全てだ。
そうやって、外堀を埋めていく様にして、ギルは、サヤを、囲うのか?
違う! そういう意味じゃない、ギルは純粋に、サヤを保護するために、そうしているだけだ!
混乱していた。
囲われていた母と、囲われようとしているサヤと、仮面の笑顔で微笑む母と、優しく微笑むサヤと、自分が今、何に焦り、不安を感じ、恐怖に怯えているのか分からなくなってきていた。
兎に角落ち着けと、自分に言い聞かせる。ただただそれだけを、延々と繰り返す。
そうやって無心になって、サヤが呼びに来る頃には、なんとか心を凪ぐことに成功していた。
「レイシール様、お風呂の準備が整いました」
丁度部屋を出たところで、階段を上がって来たサヤとかち合い、俺にそう言ったから、有難うと礼を言ってから、ともに階段を下りる。
「お部屋で何をされていたんですか?」
「うん、学舎で、馬の乗り方をどんな風に習ったかなって、思い出してたんだ。
よくよく考えたら、人に教えるって初めてなんだ……大丈夫かなと思って」
当たり障りないことを、当たり障りない顔で話し、食堂に向かう。
風呂を利用し、サヤと交代した。久しぶりだから、ゆっくりしたらいいよと前置きして、食堂で順番を待つギルに、風呂の使い方を説明して過ごす。少し心配そうな顔をしているギルに、さっきは悪かった、なんでもないんだよと、笑顔で伝えた。
乱れては駄目だ。あんな醜態、もう晒したくない。
明日からが本番なのに、日数が限られているのに、これ以上はもう、駄目だ。
全力で顔に仮面を貼り付けて、俺はその後の時間を過ごした。
今週も間に合った……。ホッとしました。
だけど一区切りで考えてた内容が長すぎた……おかげで書きためしたいのに出来ない上に三話を上げるとか意味不明……一話分貯蓄したかったけどキリが悪いんだもの!
明日からまたギリギリの日々ですぅ。
来週の更新も日曜日を予定しております。何時も見て下さって有難うございます。




