素敵な魔女
耕したばかりの土の深い茶色。風をうけて波のようにそよぐ牧草の瑞々しい緑色。陽の光を浴びてきらきらと輝く麦の黄金色。赤、白、黄色、紫の、色とりどりの花花が青空の下で咲き誇れば、どんなに価値のある宝石よりも美しい。
色んな畑が、丁寧に縫われたパッチワークのように、緩やかな坂にはりついている。その間を縫う小道を、莉沙は短い手足をぱたぱたと振り回して走る。ぴょこぴょこと跳びはねる、小さくて丸い子ウサギみたいだ。滝のように背中に流れる黒髪をなびかせて坂を駆け上がる。
目指す先は、とてつもなく大きな青空を、ゆったりと流れる雲が落とす影のなかで蹲る、くるみのような小さなお家。
化粧漆喰の壁を小さな白い花が叩いている。莉沙の小さな手も同じ様に、網戸の木枠をとんとんと叩いた。ベルは壊れていて、使えない。莉沙はツグミのように高らかに声を張る。
「莉沙だよ、クラリッサ! 莉沙がきたよ! ドアを開けて、中に入れて! 一緒に遊ぼう、今日もいっぱい遊ぼう!」
程なくして、そっとドアを押し開かれる。ふんわりと暖かくて、甘くて、ほっとする、良い匂いがする。長い黒髪がさらりと靡いて香ったのは、クラリッサの匂いだ。クラリッサは背筋がぴんと伸びた、すらりと背の高い女性だった。彼女の優しい小さな顔を見上げる為に、莉沙はぐいっと項を逸らさなければいけない。莉沙はクラリッサの不思議な青い目がとても好きだから、背伸びをして少しでも顔を近づけようとする。
クラリッサはそのことを心得ていて、すぐにすとんと腰を落とした。小さな友人のきらきら輝くつぶらな黒い瞳を覗き込み、優しい双眸を和ませる、
「ようこそいらっしゃい、私の小さな可愛いお友達。さぁ、どうぞ中へ入って。お茶のお支度は整っているのよ」
「今日のお菓子はなぁに?」
「それは後のお楽しみにとっておきましょう。待ちきれない気持ちはわかるけれど、その前に手を洗って、お席についてね」
クラリッサは少女のように悪戯っぽく笑う。莉沙は期待に胸を膨らませて、クラリッサの家に飛び込んだ。靴を脱がずに家に入ることには、もうすっかり慣れた。
クラリッサの家は、鳥やリスが木の洞に拵える巣のようだ。街にある両親のマンションとも、ここの近所にある父方の祖父母の邸とも違う。マンションの部屋みたいに素っ気なくないし、お邸みたいな閉塞感もない。こんなに胸がわくわくする家は他にない。
なにもかも古いものだが、きちんと手入れが行き届いているので、機能美を損ねずに味わい深さが増している。リビングに敷かれた深緑のカーペットには毎日ブラシをかけているそうで、ふわふわのパイルの感触が、靴裏越しに伝わってくる。
朝露に濡れた緑のようなダークグリーンのドレップカーテンが、硝子窓を三分の一程隠している。その脇には座り心地の良い木の揺り椅子が置かれていて、傍には花が飾られた、素敵な黒い暖炉がある。
莉沙は小鳥のような足取りでリビングを抜ける。正方形のアーチの先が食堂だ。手作りの丸テーブルに、かけられた白地にグリーンのタータンチェック柄のクロスも手作りだ。クラリッサが言ったとおり、既に茶器がセットされている。バスケットの中身が気になるけれど、伸ばした手をぎゅっと握りしめ、先に手を洗う。
もこもこと泡立つ石鹸から、薔薇の良い香りがした。クラリッサが庭で育てた薔薇から香りを抽出してつくった薔薇水を混ぜて作った石鹸である。莉沙はこの香りが大好きだ。面倒くさい筈の手洗いが楽しくなる。
クラリッサは手作りが好きだ。料理はもちろんのこと、洋服から装飾品、家具、さらには簡単なリフォームまで。なんでもセルフメイドでやってしまう。キッチンの可愛らしいタイルを張り付ける作業は、莉沙も手伝った。
「お願い、莉沙。あなたの力をかしてくれる?」
クラリッサに頼られると、莉沙は胸が膨らむような誇りを感じるのだ。
クラリッサは、他の大人たちとは違う。理沙が小さいからって、邪魔者にしないし、のけものにもしない。刃物を使うときに傍にいても「危ないから向こうへいきなさい」なんて言わない。「注意深くするのよ」と助言をして、ぴったりと張り付いて、莉沙にやらせてくれる。
きちんと手を拭いてから、スイングドアを押し開き食堂に戻ると、クラリッサがお茶を入れているところだった。ひだまりの中で微笑むクラリッサは、莉沙のお母さんとあまり歳が変わらない筈なのに、夢をみている少女のようだ。
莉沙は急いで席についた。期待に満ちた目でバスケットを凝視すると、クラリッサはほんわかと心温まる笑顔で「どうぞ」と言った。
クリスマスプレゼントの包みをびりびり破いて開けるように、待ちきれない気持ちでバスケットを開く。良い焼き色のパイ生地の上に、角が立ったメレンゲに囲まれた、つやつやの真っ赤なチェリーがぎっしりと並んでいる。
「チェリーパイ!」
莉沙は両手を振り絞って歓声を上げた。クラリッサのチェリーパイは莉沙の大好物だ。
「おいしい!」
「ふふふ、喜んで貰えて良かったわ。魔法がちゃんと効いたのね」
クラリッサの言う魔法とは、幸せの魔法のことだ。
「私の魔法は、おばあさまに教えて頂いたの。相手がいなければどうしようもないの。手作りの贈り物をするときに使うのよ。贈るひとへの想いをこめるの。受け取ってくれた人が、ほんの少しだけだったとしても、幸せな気持ちになれたら、私の魔法は成功よ」
本物の魔法ではない。おまじないみたいなものである。でもクラリッサの魔法は、ほんとうによく効くのだ。少なくとも莉沙には効果てきめんである。
クラリッサは他の大人たちとは違う。理沙の為に、いくらでも時間を割いてくれる。他の大人たちみたいに、せかせかしていない。
「魔法は本当にあるのよ、莉沙」
そう言って微笑むクラリッサこそが魔法のようだと、莉沙は思った。
ささやかなお茶会を終えると、莉沙はクラリッサに誘われて庭に出た。可愛らしいクマイチゴ、真っ赤なラズベリー、瑞々しいグーズベリーを摘んで、籠に入れる。
「今日はワイルドベリーでジャムを作りましょう。私もあなたくらいの年の頃に、おばあさまに教わって、一緒につくったのよ。スコーンにつけて食べると美味しいの」
夢中になって収穫を楽しんでいた莉沙が、足元に転がっているものに気がつく。劈くような悲鳴を上げた。
「クラリッサ!」
「どうしたの、莉沙」
ぱたぱたと駆けつけて来たクラリッサの背に隠れる莉沙。
「あれ……あれ……」
震える莉沙の指が示す先には、黄色い小鳥の死骸があった。以前、二人で庭の手入れをしているときに寄って来て、二人が巻いたパン屑を啄ばんだ小鳥たちと、同じ種類のようだ。クラリッサの白い顔がぬっと曇る。
「まぁ……仕方がないことだけれど、かわいそうにね」
莉沙は目を瞠った。
「クラリッサ、怖くないの? 気持ち悪くないの?」
クラリッサはくるりとまわって、莉沙に向き合った。腰を下ろして莉沙と視線の高さを合わせると、こてんと小首を傾げる。
「どうして怖いの? どうして気持ち悪いの? 莉沙、小鳥さん可愛いね、って言っていたでしょう。同じ小鳥さんよ。莉沙が可愛い可愛いって、あんなに喜んで眺めていた、小鳥さんなのよ」
「だって、赤くてぐちゃぐちゃだもん。お目目が飛び出してるし、千切れそうだもん。嫌だよぉ、怖いよぉ」
言っているうちに、莉沙は泣きだしてしまった。上手に気持ちを伝えられないことで、クラリッサと離れ離れにされてしまったような気がして、心細くなったのだ。
莉沙の涙を見たクラリッサは、目を丸くして驚いた。エプロンで両手を拭うと、ポケットからハンカチーフを取り出して、莉沙の濡れた顔を拭う。
「ごめんなさい、莉沙。あなたを混乱させるつもりはなかったの。ああ、泣かないで、莉沙。大丈夫?」
心から心配してくれるクラリッサに慰められて、莉沙は落ちついた。しゃくり上げながら、小鳥の死骸をちらりと見る。しゃくり上げながら、クラリッサに訊ねた。
「小鳥さんのお墓、作ってあげる?」
するとクラリッサは、莉沙が思ったとおり、莉沙の頭を撫でた。優しさと悲しさを感じる複雑な笑みを浮かべて、クラリッサは頭をふる。
「あなたは優しい子ね、莉沙。でも、このままにしておきましょう。この子を必要としている誰かが、迎えに来る筈だから」
お迎え? と首を傾げた莉沙の疑問に、クラリッサはあえて応えなかった。莉沙の籠を覗き込むと、とっておきの笑顔と、とっておきのお楽しみで煙にまいてしまう。
「たくさん摘んでくれたわね。これだけあれば十分だわ。さぁ、キッチンに戻って、ジャムを作りましょう。お茶会をもっと楽しく、もっと幸せにするためにね」
「ジャム!」
ぴょんと跳ねて喜ぶ莉沙の小さな手をとるクラリッサ。二人は手を繋いで、小さな庭をあとにした。
莉沙はクラリッサが大好き。ずっと一緒にいたい。クラリッサも莉沙が大好きだと言ってくれるから、二人は大の仲良しだ。
お父さんの田舎にやって来て、初めのうち、莉沙は悲しかった。お母さんとお父さんに邪魔にされて、追いやられて来たような気がしたから。おじいちゃまとおばあちゃまも、優しいけれど、とっても忙しいから、邪魔にならないようにしなくちゃいけないと思って、緊張していた。邪魔になってしまったら、今度は何処へやられてしまうだろう。どんどん遠くへ追いやられて、大好きなお父さんとお母さんにはもう、会えなくなってしまうかも。そんなの嫌だ。とても怖くて、泣いてしまいそう。
そんな莉沙を笑顔にしてくれたのが、クラリッサだった。おじいちゃまの言う通り、クラリッサはきっと魔女だ。素敵な魔法で、莉沙の不安と心配を取り除いて、かわりに楽しさと嬉しさを詰め込んでくれた。
クラリッサは莉沙の大切なお友達だ。クラリッサの不思議な世界をもっと知りたい。そうすれば、二人はもっと、仲良くなれる。クラリッサはきっと、寂しくなくなる。