嫌なことは忘れるに限る
「いやあああ!!」
ぬめる舌の上に転がされたリサは、もがき腹ばいになって、我武者羅に手を伸ばした。なにかしらの取っ掛かりにしがみつこうとした手が、力強い手にがっしりと掴まれる。
ニック=ショックが、リサの手首を掴んでいた。
ニック=ショックは腐敗キメラの口腔に自ら飛び込んだのだ。つっかえ棒の代わりにした右腕に、腐敗キメラの尾が噛みついており、淋漓と滴る血は赤紫色をしている。たぶん、ニック=ショックの血の色ではない。蛇の牙から、毒々しい紫色の粘液が溢れている。
リサは息をのんだ。この窮地に立たされてもなお、ニック=ショックの口元は相変わらず不遜な笑みを浮かべている。
リサを見つめる笑みを含んだ鷹の目が、場違いに明るい。
「情が強い女だ……イイね。ますます気に入ったぜ」
凶暴な男の、無邪気といっても良いような微笑みに、リサは目を奪われる。タイガーが胸元でもぞもぞと暴れたので、辛うじて我に返る。
ニック=ショックはリサを左腕でのみで引き上げたので、思いがけない程に二人は接近していた。かちんこちんに固まってしまったリサの耳許に、ニック=ショックはにやけた唇をつけて言った。
「左腕が使えねぇと不便だ。しがみついてな」
しがみついていろと言われても、とリサは目をきょときょとさせる。男らしい喉仏が浮いた喉元、逞しい筋肉で隆起した胸板、引きしまった腰から臀部にかけての流線、しっかりと筋肉のついた脚線美。
リサは変わり者だ。それでも、一応は淑女の端くれ。恥じらいは持ち合わせている。
この身体の何処にしがみつけば良いのだろう。
リサがまごついていると、がくんと視界が揺れる。腐敗キメラの顎が閉ざされかけていた。上顎を支えるニック=ショックの右腕はどす黒く変色しており、萎え始めているのだろう。ニック=ショックは面倒くさそうに舌を打った。
「喰っちまうのが早ぇんだが……気が進まねぇんだよ。気持ち悪ぃんだもん」
ニック=ショックはリサの腕をとると、強引に自らの首に巻き付け、両手でしがみつくように促す。リサは顔から火が出るような思いをして、ニック=ショックに要求された通りにした。
(私、なんてはしたないの。見ず知らずの方に、こんなにぴったりくっついて……!)
リサの胸元に収まったタイガーが、前足を突っ張って、ニック=ショックとリサの体が密着しそうになるのを防いでいる。
ニック=ショックはそんなことはお構い無しで、タイガーを押し潰してしまいそうなくらい、グイグイと体を押し付けてくる。
「イイだろ、俺の体。最高だろ。欲情してもいいぜ。責任はとってやるよ」
リサはニック=ショックの妄言を黙殺した。彼の恥知らずな行為のお陰で、リサの頭はだいぶ冷えた。
リサの冷え冷えとした視線を投げ掛けても、ニック=ショックはちっとも堪えないようだ。寧ろ、リサの凝視に好意的な意味を強引に見いだしたのかもしれない。。
リサがしっかりとしがみついていることを確認すると、ニック=ショックは肩越しに背後を振り返った。
リサの目から、ニック=ショックの表情は見えなくなった。ただし、ニック=ショックに睨まれた蛇がびくりと竦むのはわかった。
どんな恐ろしい形相をしていたのだろう。
ニック=ショックは目にもとまらぬ速さで拳を繰り出して、蛇を振り払い、殴りつけた。蛇の頭が火花のように弾ける。すかさず両足を肩幅にひらき、ぶんぶんと頭を振って暴れる腐敗キメラの上顎を左の拳で下から突き上げた。
腐敗キメラの顎ががくんと外れる。ニック=ショックは腐敗キメラが苦痛でもんどり打っても、体制を崩さずにしっかりと立ち上がった。首を巡らせたリサの目に、ニック=ショックの獰猛な横顔がうつった。
「おネンネの時間だ」
ニック=ショックに突き飛ばされたリサの、天地がひっくり返った視界には、ニック=ショックの腕が腐敗キメラの上顎を貫き、脳天を突き上げる凄惨な光景が写っていた。身の毛もよだつ断末魔の叫びを上げて、腐敗キメラの体がはじけ飛ぶ。
目映い光に目を閉ざしたリサの耳に、冷たく涼やかな音が聞こえる。唐突にふわりと浮かび上がるような、睡魔に襲われた。
「オォイ、てめぇ、コラ! この俺様は寛大なお心で、汚ぇケツ向けて逃げるてめぇを、百歩譲って見逃してやるが……オンナは置いて行け!」
ニック=ショックの怒声が、劈くような金属音に掻き消される。酷い耳鳴りだと思って、リサは頭を抱えた。
頭が、割れそうなほどに痛む。それは比喩ではなくて、鋭い刃物がリサの脳天に突き刺さっていたことが、わからなかったのは、リサにとってこの上ない幸運だっただろう。
リサの意識はふっつりと途切れた。
「すまない、リサ。君に怖い思いをさせてしまうなんて、情けないよ。……やはり、ここは君にふさわしくない。もっといい所へ行こう。腐乱王にも暴食王にも、縁もゆかりもない所へ」
そんな声を、聞いた気がした。
リサは恐る恐ると瞼を持ち上げた。天辺からじょじょに宵闇に染まりつつある空を、たくさんの鳥が飛んでいく。
リサは唖然として茜色の空を見上げる。カラスの群はガアガアとけたたましく鳴きながら、山の方角へ帰って行く。
白と灰色のどら猫が、引っくり返ったリサを見下ろして鳴いている。リサが瞬きをすると、ナァと鳴いた。
リサはおもむろに上体を起こした。
リサが目を覚ましたのは、不思議な美しい風景のなかだった。大きな大きな空の下。白い柵のような白樺に縁取られた一体の土地は、色とりどりの布をつかったパッチワークのような畑たち。空を流れるふわりとした雲が、ゆるやかな丘に藤色の影を落としている。
小さな家家はぽちっとしたボタンのようで、遠くに点々と落ちていた。
透き通るような、清々しい夕方の空気が漂っていた。
湖水地方に似ているけれど、決定的に違う。
リサは頬を抓った。そうしながら、呟いた。
「……私は……ここは……なぁに?」