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Session.8 Massacre particles Part.3



 空に昇った月も後は沈むだけ。夜というより、夜明けの前触れと言ったほうがいい深い宵の闇の中、葦原学園の敷地内は実に閑散としていた。一応、学校の中でなければ一般人も敷地に入ることは認められているわけだが、誰が好き好んで学生のための土地に足を踏み入れるのだろうか。ましてや今は夜。多くの者はもう眠っている時間だ。

 一人の男を除いて。


 その男は、高等部の女子寮に向かってゆっくりと歩いていた。舗装された道の両脇に一定間隔で並ぶ街灯の光は、深夜であっても周囲にそれなりの明るさを保っている。複数の光源に当てられ、男の影がいくつも別々の方向に地面に投影されていた。四方へと伸びる影は全て、男の足元に繋がっている。それがさながら、歪な灰色の花のようにも見える。

 そしてその花は、もう一輪咲いていた。


「どうも~先輩。こんな夜中になにやってるんです? 俺も人のこと言えないけど」

 不意に、男の背後から響く声があった。御剣だ。この場にいるのは、彼と男の二人だけだった。正しくはもう一人いるわけだが。

 立ち止まり、ゆっくりと振り返った男は、ただ黙って御剣の顔を見ていた。その眼には生気がない。顔面蒼白で、心臓が止まり死体になりながらも動いているような感じだった。

前川マエカワ 亮次リョウジ。二年生。《Bランク騎士型保有者ナイトタイプ・ホルダー》」と、御剣が男の名を呼ぶ。

 ロニーから教えられたことだ。御剣の周囲の、それなりに広い範囲を自由に行動できる彼女は、授業中など暇な時には、職員室などに忍び込んで生徒の名簿などを盗み見たりしていた。その上、《因子人ファクトリアン》としての能力があれば、名簿に載ってある名前を全て暗記することもできなくはない。眼の前の男の名前も、当然覚えているわけだ。

 前川は返事をしない。石膏でかためられたかのように微動だにせず、ただ御剣を見据えるばかりだ。リアクションがなかろうと構わず、彼は言葉を続ける。

「もうとっくに寮の門限は過ぎてますよ。鍵まで閉まってる。俺だって、窓からこっそり飛び降りて外に出たんですよ。こんなことが誰かにバレたら、また月詠にどやされるし、佐原副会長に首焼かれるかもしれない。お~こわ! ……で、なんでわざわざそこまでして俺がここに――あんたの前に来たのか、先輩には分かりますよね?」

 そこでようやく前川は口を開いた。が、御剣の声に応えるわけではない。ただ、うわ言のように呟くだけだった。

「……寝てる間にこっそり暗殺してやろうかと、思ってた、んだが……バレてたのか」

 それから彼は、何事もなかったかのように踵を返し、再び歩きはじめた。向かう先は、先ほどと同じく女子寮だ。

 前川の背中に向かって、御剣は声は張り上げて叫んだ。叫ぶというか、野次を飛ばすというか……

「ヘェーイ! ユゥー! ヘイユーヘイユー! どこ行こうってんだよオイ、《因子人》さんよォ!」

 前川は再び立ち止まり、くるりと首をもたげて顔だけ振り向いてきた。その横目にこちらを見る眼は、薄気味悪かった。光がなく虚ろで、御剣を見ているのか、実際は別のどこかを見つめているのかも分からなかった。しかし御剣としては、こういう眼をしてくれなければ“逆に困る”といったところだ。焦点の合わない虚ろな眼というのは、《因子人》に精神を支配されている人間の特徴なのだから。

「とぼけんなよクソ野郎。昼休みにこっちを見てたのも分かってるんだ。まさか、このままやり過ごせるなんて思ってなかったよな? んな馬鹿なことあるかよ」

 それは、宣戦布告だった。御剣は、前川が《因子人》であるということを知っている。すなわち、前川としては、己の正体を知る者を必ず始末しなければならないということだ。彼は、青ざめた頬をひきつらせ、喉を鳴らして笑んだ。

「クッ、クッ、クッ……」

 その押し殺すような笑みは、段々と大きくなっていく。

「フヒッ、ヒヒ。ヒッヒッヒッヒヒヒヒ……ハッハハハハハハ!」

 やがて、己の喜悦を誇示するかのような高らかな笑いへと転じた。

 が、その次の瞬間には、彼は突如気絶して、地面に倒れ込んだ。前触れもなく脳髄を抜き取られたかのように一瞬にして脱力し、間接をぐにゃぐにゃと折り曲げながら倒れていった。

 そして、先ほどまで彼が立っていた場所には、別の人間が佇んでいた。彼の身に宿っていた《因子人》である。青白い肌に、血管が浮き上がったかのような頬の模様。前川が着ているのと同じ、芦原高の制服に身を包んでいる。以前あやめを襲った者と、外見がかなり似通っていた。

 御剣は無言の内に、空より大刀を出現させ、それを手にとった。戦闘態勢に入る。

 それに応えるように、《因子人》が軽く手のひらを広げる。そこから、巨大な円錐状の物体が飛び出してきた。その円錐は長い一本の柄と繋がっており、彼はそれを両手で握り、構えた。

 ランスだ。刺突に特化した西洋の武器。前川は《特Bランク騎士型》だった。

 先程までの彼の亡者のような様子に反して、《因子人》はかなり饒舌になっていた。人間の肉体から離れて実体化した清々しさに酔っているのだろう。

「調子に乗ってんじゃねえぞお前。今までそこら辺の雑魚ばかり相手にして、自分は強いと勘違いしてるのかもしれねえが、俺はそいつらとは一味違うんだぜ?」

 そう誇らしげに語る声に、御剣は挑発を返した。

「一味違う? “マズく”なってんのか?」


 その挑発に乗った。というわけではない。元々こうするつもりだったのだ。それなら、グダグダと言い合うよりも、さっさと行動に入った方がいい。ということだ。

「オアァッ!」

 雄叫びと共に《因子人》が御剣との間合いをつめ、ランスを撫でるように振りぬいてくる。御剣はそれを、大剣で受け止めた。《因子ファクト》によって形成されたとはいえ、互いが持つ武器の質感は金属に似ている。巨大な衝突音が、月をも割らんばかりに盛大に響き渡った。

「エエェア!!」

 さらに続けざまに、《因子人》は連続で突きを繰り出してきた。見るからに重そうな武器であるが、向こうは相当素早く取り回している。《騎士型因子》が、わざわざ己の身体能力を殺すような武器を生み出すわけがない。ヤツにとってもっとも扱いやすく相性がいい武器が、これなのだろう。

 だが、それは御剣の大剣も同じことだった。彼は、絶え間なく襲い来る神速の刺突を、上体を後方に、そして左右に逸らし、ボクシングのスウェーイングのような動きでことごとくかわす。

 それだけでない。数度目の突きのタイミングを見計らい。相手の腕が伸びきったところでランスの刃に大剣をぶつけ、思いっきり弾いた。

「うっ!」

 得物ごと右腕を強引に弾かれ、《因子人》の胴ががら空きになる。その隙を逃すわけがなく、返す刀で横薙ぎの斬撃を放った。しかし、敵は瞬時に後方へ飛び退いて、紙一重のところでそれを回避した。互いの距離が開く。

 叫び声に、金属がぶつかり合う轟音。すでに何人もの人間がこの事態に気づいてもおかしくはなかったのだが、実際にはそんな人間は一人もいなかった。この場に近づく者は誰もいない。葦原学園の夜は、変わらず静かなままだ。

 周囲の空間を歪め、音が響かない結界を張り巡らせることなど、《因子》を使えば造作も無いことだった。


 間合いを取り体勢を立て直しつつ、《因子人》が言う。

「なるほど……調子に乗ってるわけじゃあ、なさそうだな」

 さすがに多少焦りを感じているようだった。だがそれは、不意を突かれた焦燥というわけではない。“予想”していた脅威、とでも呼べるものだった。御剣の実力を、ヤツはすでに知っているのだ。

 御剣の脳裏に、ある疑惑が浮かび上がる。それは、彼の戦いにおける主なる目標の内の一つと関係していた。彼は、大剣を相手に突きつけ、その疑惑について問うた。

「あんたは、最初から俺を狙っていた……そうだろ」

「なんだって応えなきゃいけないんだ? 全部包み隠さずに言えば、その場に寝転がって煮るなり焼くなり好きにさせてくれるってのか?」

 応えるつもりはない、というわけか。だが、それでもあえて御剣は続ける。

「夏目 貴靖のことは知ってるか。あいつにも、あんたらのお仲間が隠れていた。けど、そいつは俺がぶっ殺してやったぜ――正しくは俺じゃないんだけどぉ~……で、あんたはそれも気づいていた。だから、“同胞”とやらがの被害が増える前に、早い内に始末した方がいいと考えて、襲ってきたんじゃないのか?」

「ほざけ」

「それは、《先導会》の手引き……だったりするんじゃねえのか?」

「おいお前よォ、折角おっぱじめておきながら、そうやっていつまでもくっちゃべってるつもりなのか? ビビってんのか。小便漏らすんなら漏らしていいぜ。どうせ俺以外誰も見ちゃいねえよ、別に笑いはしねえ。小便と一緒に血でズボン濡れるだけだから、“後”で見つかっても分かりゃしねえよ。アンモニアよりも鉄の匂いの方がキツいだろうぜ」

 完全に聞く耳持たないといった様子だ。しかし、夏目の名前を聞いた瞬間、僅かに眼の色が変わっていた。《先導会》との繋がりを探ろうとしたが、さすがにそれは無理だった。それでも、夏目の身の宿っていた《因子人》は少なからず関係しているということはおそらく間違いない。そして、その死についてもすでに知っているのも確かだ。

 それは、ヤツには仲間の状況を把握する情報網――《因子人》同士のコネクションがあるという推測の裏付けになり得る。後は、そのコネクションが《先導会》であるか、ということだ。

 とはいえ、これ以上のことは何も得られないだろう。ヤツの台詞に賛同するわけではないが、今は長々としゃべっている時ではない。


「鉄の匂いを撒き散らすのは、お前の方だ」

 その声と共に、今度は御剣の方から敵に接近した。大剣のリーチに捉えるやいなや、縦一直線に振りぬく。刃がモロに当たる必要はない。ほんの先端が数cm食い込むだけでも、当たりどころ次第では人間だろうと《因子人》だろうと死ぬのだ。

 が、そう簡単にはいかない。当然のごとく敵は、飛来する斬撃をランスで受け止めた。続けざまに、大剣の刃を斜め下へと押しのけ、地面に叩きつける。そのまますかさず、無防備になった頭に突きを放った。

「ケァ!」

「シッ!」

 短く切るように息を吐き捨てつつ、御剣は姿勢を低くしてそれをかわす。地面についた刃を強引に横薙ぎに振り、《因子人》の膝を狙った。敵は大きく飛び上がり回避する。が、それによってヤツの身体が宙に浮き上がった。地に足がつかなければ、身を翻すことも飛び退くこともできない。

「貰ったァ!」

 ここぞとばかりに、頭上の敵目掛けて斜めに大振りの一撃を放った。

 しかし。

「馬鹿が!」

 またしてもランスで受け止められ、遠心力に乗った勢いが押し殺される。大剣の動きが一瞬止まった。御剣が、再度振りぬくために一旦手元に引き戻すその間隙をつき、敵は素早く槍を構え直し、下方目掛けて突きを放つ。こればかりは一旦退避するしかなかった。

 咄嗟に地面を蹴り、刺突から逃れる御剣。太い針のような鉄塊が地面に突き刺さった。その柄を握ったまま、敵は頭を地面に向け、天地が逆転したような体勢になった。まだ相手の隙は消えていない。むしろ、武器の動きが封じられ、ますます大きくなったほどだ。

 好機とばかりに、大剣を大きく振りかざし、今まさに振り下ろさんと身構えた。

 しかし次の瞬間、敵の放った蹴りが右肩の付け根に命中し、大きくよろけ後方へと後ずさりした。鎖骨にヒビが入った……ような気がする。

 《Aランク保有者》にとっては武器というのは強靭な肉体の延長でしかない。丸腰になろうと、足一本、指一本でも戦えるのだ。勿論、御剣もそれを忘れていたわけではない。とはいえ、敵を僅かに侮っていたのも確かだということを、思い知った。

「甘く見てんじゃ……ねェーーよッ!」

 敵は、蹴りの勢いのままくるりと着地し、ランスを引き抜くと同時に御剣目掛けて力任せに振る。大剣でそれを受け止めつつ、すぐさまカウンターの突きを放つ。敵はそれを難なく回避するが、続けざまに斜めから肩を抉るように撫で斬りに斬りつける。それは、鏡のように滑らかな表面と光沢を持つ、神話に語られる塔のような重厚さのランスの刃に受け止められた。お返しと言わんばかりに、敵が連続の突きを放ってくる。

 戦闘は膠着状態に入りつつあった。互いに攻撃を繰り出しつつ、相手がそれを、回避するなり得物で防御するなりしてやり過ごす。

 一進一退。一秒間に九回を超えるめまぐるしい攻防が展開された。ふたつの鉄塊が衝突する度に、鐘楼の音色のような金属質の轟音がドラムのツーバスのごとく連続で鳴り響く。だが、それを耳にする者は、御剣と《因子人》、そして彼女以外にいない。


 いつ破られるのかも分からない打ち合いがしばらく続いたその時、刃の衝突音の中に隠れるように、不意に敵の呟きが御剣の耳をついた。ヤツは、笑っていた。

「フ……フヘへッ。お互いなかなかやるみたいじゃあねえか」

「……言っとくが、俺はまだ本気出してないぜ。お前はどうなんだ」

「へぇ~、そうかい。そんじゃあ、そろそろその本気とやらを出してもらおうじゃねえか……」

「なんだと?」

 特別不利ではないが、決して有利でもない状況だというのに、敵は明らかに余裕を見せていた。一体何故なのかと考えるより前に、今度はこの攻防を傍から眺めていたロニーが大声で呼びかけてくる声が聞こえた。

「セーイチ、《因子獣ビースト》が出た! しかも場所は、女子寮の中……あやめの部屋よ!」

「何ッ?」

 驚愕のために、思わずランスの切っ先を見逃してしまいそうになった。僅かに頬に掠め一条の赤い線を描きながらも、なんとか回避する。それと同時に、反射的にその場から飛び退き、敵から離れた。

 視界から遠ざかった《因子人》が、嘲るように両手を広げる。

「どうした? 何か急用でも出来たのか? だったらしょうがねえな、ホラ行ってこいよ」

 その態度が、《因子獣》を出現させたのが自分であることを明示していた。

 ヤツに言われるまでもなく、御剣はすぐにでも踵を返して女子寮に向かい、《因子獣》を仕留めなければならなかった。が、それが分かっていながら、彼はすぐに行動することができなかった。身を強張らせ、眼前の敵を睨みながら、しばらく固まっていた。それにはある理由がある。

「このままだとあやめが危ない。急ごう!」

 ロニーにそう催促されて、ようやく動くことができた。

「分かってる!」

 そう短く応え、地面を蹴った。その瞬間には、彼の姿はこの場から消え去り、すでに女子寮のすぐ傍にまで移動していた。《Aランク》の瞬発力と脚力を発揮、音速を超える速度で駆けたのだ。

 ロニーを実体化させて向かわせるという手もあるが、それはできない。今ロニーは、己の《因子》の力を御剣に預ける形になっている。もし彼女が実体化すれば、それも失われ、彼はただの人間になってしまう。そうなれば、それこそ瞬きする間に相手に殺されるのがオチだ。

 そして、消えたのは御剣だけではない。《因子人》もまた、彼を追うように移動していた。寮の建物の壁にいくつも並ぶ窓、その内のひとつに向かって飛び上がろうとする御剣の背後から、ヤツが迫る。御剣が一瞬でももたつけば、その背中に刃を突き刺すことができるというほどの距離まで……




    ※




 あやめとしては、再びこのような事態に直面するということは予感していたし、覚悟もしていたつもりだった。だが、いざ実際に、しかもこんな時間帯にばったりと直面してしまうと、心臓が胸から飛び出して、天井にゴムボールのようにぶつかるのではないかと思った。

 不意に目が覚めた時、部屋の中、窓のあたりにあの化け物――《因子獣》がいたのだ。

「びゃあァーーッ!」

 という奇っ怪な叫び声をあげながら、彼女は狩人の存在に気づいた兎のように飛び起きた。それと共に、《因子獣》の、暗闇でも怪しく揺らめく眼光と眼が合ってしまう。

「ひ、ひぃ!」

 慌てふためき、ドアに駆け寄って外に出ようとノブに手を伸ばす。が、その直前で、何かに遮られるかのように腕の動きが止まった。

「え……えぇっ!?」

 《因子獣》に出くわしたら、とにかく逃げて御剣に助けを求めようということだけは肝に命じていたのに、その逃げるという行動が取れない。飛び出しそうになった心臓が、今度はコンクリートの中に浸け込まれて固まりそうな気分になった。

 彼女は混乱の中で、《因子》を使えば、物理法則を歪めることができるというのを思い出した。

「み、見えない壁を作ったんだ……誰か助けて、聞こえたら返事して! ……御剣くん!」

 大声で叫んでも、返事はない。誰にも聞こえていないようだった。ただの不可視な壁ではない。音の波も遮っているのだ。今あやめの部屋は、完全なる密室。しかも、全面ゴム張りのまったく隔離された密室同然になっていた。今この瞬間、ここで何が起こっても、誰も気づかない。

 あの日――初めて《因子》というものの脅威を戦慄と共に知ったあの日の恐怖が、鮮やかに蘇った。全身が悪寒に包まれながらも、真夏のごとく汗が噴き出してくる。怪物の喉の奥から沸き起こる唸り声が背中越しに聞こえる度に、手足の震えが強くなる。

「……」

 だが、あやめはこの恐怖に、このまま屈したくなかった。御剣が、頑張って――いるのかは分からないが、戦ってくれているのだ。だったら、自分だって彼ほどは無理にせよ、ヤツらと戦いたかった。どれほど絶望的な状況だろうと、すぐに死んでもおかしくなかろうと、それならばとことんまで抵抗してから死んでやる。死ぬのは怖い。それは彼女が目指す当たり前の感性だった。それならば、少しでも死なない可能性を掴み取ろうと、足掻くのだ。

 否、御剣なら、こんな状況でも必ず助けに来てくれる。確証などあるわけがない。だが、絶対、何が何でも助けに来る。それまでの、時間稼ぎをするのだ。


「んもおおーーっ!!」

 脱力しそうになる身体に活を入れ、心を奮い立たせる。珍妙な雄叫びをあげながら、あやめは近くにあった本棚から、教科書やら辞書やら、故郷から持ってきたマンガ本、いつも買ってる週刊誌やらを、無造作に投げつけた。

「わ、私を食べたって、美味しくないわよー! 三日ぐらい放置した刺身みたいな味がするんだから、お腹壊したくなかったらどっかいけ、このー!」

 が、辞書の背表紙の角が命中したところで、人間なら痛かろうが、《因子獣》にとっては何事でもない。何をしているのか分からないといった顔――をしているのかは分からないが、ゆっくりと、涎を垂らしながらこちらに近づいてくる。抵抗も虚しく、互いの距離はもう2mほどにまでなってしまった。

 このままでは、本当に死んでしまう。極限の恐怖のために目元に涙がたまるのを止められない。だが、それでもあやめは決して、泣き言を言わなかった。どうせ死ぬなら泥の中でも前のめり、ではないが、とことん開き直ってやる。

「あぁーー!! もう分かったよ食べなさいよー! 細胞から有毒なガスまき散らして胃袋腐らせてやるー!!」

 

 が、その時だ。彼女の、神ではなく人間へと向ける囁かな信仰は、今実を結んだ。窓ガラスを突き破り、御剣が部屋に入ってきた。《因子》が作る結界は、同じ《因子》を持つものになら破れる。

 トップスピード。超音速を維持したまま、彼は窓枠を蹴り、大剣をかざしながら《因子獣》の背中に飛び込んだ。

 しかし、その時にはすでに、彼を追って部屋へと入ってきた前川――もとい、彼に宿った《因子人》が、窓枠の上に乗って、ランスの切っ先を引き絞っていた。突きを放つために。

 これこそヤツの目論見だった。《因子獣》を当て馬にして、御剣をおびき寄せたのだ。一般人を襲わせれば、彼は優先的に《因子獣》を倒すしかない。だがそのために、必ず攻撃するための隙を生じてしまう。今がまさにそれだ。この一瞬のチャンスを逃さず、致命の一撃を喰らわせるというわけだ。

 振り下ろされた大剣が怪物の黒光りする肉体に食い込み、両断していく。そして今にも《因子人》は窓枠を蹴って飛びかかろうとしていた。これでは回避はできない。

――仕方がねえ。なんとか急所は避けて、一撃貰ってやるしかないか……――

 御剣が覚悟を決め、敵が足を足に力を込め、窓枠を蹴ら……

 なかった。


 絶好の、というより、おそらく唯一の好機でありながら、ヤツは動くことができなかった。それは何故か。

 己の眼の前。産毛の一本ほどの距離に、鋭く光輝を放つ銀色の刃があったからだ。三日月のごとく歪曲した、巨大な刃。それは、大鎌と呼べるものだった。

 あわよくば間に合え、というつもりで背後に振り返る動きを見せた御剣だったが、腹か胸を貫かれる痛みがないことに、いっそ呆気に取られた。続けて、敵の前に佇む、黒衣に身を包んだ何者かの存在に、息を呑んだ。彼とて、不測の事態が起これば戸惑いもするし、焦りもする。

 その黒衣の人間は、少女のようだった。大鎌を担ぎながら、御剣と正面を向いている。それと共に、後ろ向きに伸びた刃が、《因子人》の鼻先に突きつけられていた。

「……誰だあんた」

 無意識の内にそう呟いていた。

 黒衣の向こうに覗くうつむき気味白い肌の顔が、同じく白い髪を微かに揺らして上げられた。鮮血でできた宝石のような赤い眼が彼を見据え、その静逸せいいつとした声が、《因子》の力で作られた小さな処刑場の中に、溶けこむように響いた。

 そう。処刑場だ。


「はじめまして、御剣……誠一くん。私は霧島キリシマ 阿頼耶アラヤ。貴方の……仲間」



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