第30話 中継役
ループ30回目。今日の目的:高瀬を“運ぶ役”から外し、神崎と藤崎を繋ぐ流れそのものを断つ。新変数:高瀬は15:45、仕事に失敗すると東貨物ヤード脇の喫煙所で神崎に直接報告する。
7:02
アラームの音で目を開けた瞬間、胸の奥に残っていたのは、白い封筒でも赤帯の通知でもなかった。
高瀬の背中だ。
紙も、箱も、連絡も、結局はあの男が運んでいる。
白封筒を机まで。B-3を搬入口まで。Mの鍵で余白の箱まで。
神崎の意図を、藤崎の手の届く場所まで運ぶ役。
だから、そこが切れれば、線はかなり細くなる。
前のループで、真壁は自分の手で神崎メモをシュレッダーにかけた。
17:20の一文も、もう紙を見ずに言えた。
だから今日の相手は、真壁じゃない。
もっと手前。
高瀬だ。
ベッドから起き上がりながら、私は深呼吸をした。
捕まえるのが目的じゃない。
切り離すこと。
できれば、向こうから手を離させること。
人を動かすなら、その方が強い。
7:30
警備詰所の前で、飯田さんが鍵束を鳴らしていた。今日も初対面の目。
だから入口の言葉は、もう決めてある。
「迷子は、守りたいです。あの時の後悔ごと」
飯田さんの指が止まる。
私はそのまま、本題を置いた。
「今日は高瀬です。神崎と藤崎を繋いでるあの人を、流れから外したい」
飯田さんが眉を寄せる。
「捕まえるのか」
「まだです。まず、どこで神崎と話してるかを見たい」
飯田さんは少し考えて、それから低く言った。
「高瀬、失敗したあとに一人で煙草吸いに行く。東貨物ヤード脇の喫煙所だ。
中で電話すると監視に残るから、外でやる」
喫煙所。
胸の奥がひやりとした。
神崎の声が、そこへ来る。
「いつですか」
「白封筒が置けなかった日なら、15:45あたりだ」
ちょうどいい。
15:39のあと。
机へ紙が置けなかった直後。
一番、綻びやすい時間だ。
8:00
危機管理課に電話を入れる。
短い声が返る。
「篠原」
「今日は高瀬です。15:45に東貨物ヤード脇の喫煙所へ行きます。失敗報告の直電です」
向こうが一拍黙った。
「……中継役を止めるのね」
「はい。紙も箱も切ってきたので、次は人です」
「分かった。八時五分と11:10はいつも通り回す。15:45はあなたが見る。私は16時台の配置を前倒しで整える」
「お願いします」
「追い詰めすぎないで」
短い声。
でも、その一言は重かった。
高瀬を神崎の側へ押し返さないようにしろ、という意味だ。
8:05
掲示板前。
紙の貼り替え。高瀬の顎の傷。藤崎の手袋。
いつもの始まりが、今日も同じ順番で来る。
高瀬が掲示板脇の細い扉へ向かった瞬間、飯田さんが塞ぐ。
「そこは通さない」
「点検です」
「点検なら、なおさら通さない。今日は人が多い」
篠原が来て、狭い通路を開ける。赤いレバー。『設備点検モード』。
「今日は封鎖。触らせない」
高瀬のスマホが二音鳴る。
藤崎の肩がわずかに揺れる。
計画変更の合図。
その揺れを見ながら、私は高瀬の顔を見た。
穏やかそうな目。いつもと同じ。
でも、口元だけが少し固い。
封筒も箱も切られて、向こうも余裕がなくなっている。
11:10
換気室。
巡回員のスマホが二音鳴る。
手がスイッチへ伸びる前に、篠原が遮る。
「封鎖。触るな」
巡回員は電話口で小さく言った。
「神崎さん、無理っす。危機管理が……」
換気は止まらない。
甘い匂いも薄いまま。
駅の普通は守れている。
だから、今日の勝負はよりはっきり見えた。
高瀬が“何を運べないか”じゃなく、神崎が“高瀬をどう扱うか”を見る勝負だ。
12:30
軽事故の交差点。
今日も群衆が膨らみ、スマホが向けられ、苛立った男が「救急車呼ぶほどじゃない」と吐き捨てる。
私は処置の補助をしながら、高瀬を探した。
いた。
輪の外。スマホ。二音。
でも今日は、その指が少しだけ震えていた。
打ち終わったあと、親指の腹でスマホの角を二回撫でる。
無意識の癖だ。
緊張している時の手。
15:39
駅務区画。
高瀬が白封筒を持ってくる。
でも、前と同じだ。
庶務棚の前に佐々木さん。受領番号票。青い受領印。
「受領番号をどうぞ」
佐々木さんの淡々とした声。
高瀬が一瞬だけ笑って、すぐに引っ込める。
「保全部です。至急で」
「はい。番号を」
「……あとで」
「だめです」
短いやりとり。
高瀬は封筒を引いて、結局置けない。
その横顔に、今日ははっきりと苛立ちが出た。
でも怒鳴らない。
怒鳴れない。
怒鳴った瞬間、庶務の流れから外れるのは自分だと分かっているからだ。
15:45
東貨物ヤード脇の喫煙所は、潮と古い灰の匂いがした。
プレハブの影、金網の向こうの空、足元の吸い殻。
私は自販機の陰に身を寄せた。
救急の上着は脱いで腕に掛け、ただの通りがかりの顔をする。
高瀬が来る。
ポケットからスマホを出す。
指先が少し乱れている。
通話。
相手は、出るのが早い。
「……すみません。庶務が戻ってて」
高瀬の声は低い。
少しだけ、言い訳の匂いがした。
神崎の声は、ここまでは聞こえない。
でも、高瀬の顔だけで十分だった。
「いや、今日は……」
「……分かってます」
「でも、佐々木が——」
そこで高瀬の顔色が変わった。
完全に血の気が引くんじゃなく、顎のあたりだけが固まる。
次の言葉で、何を言われたか分かった。
「それは俺の……」
一拍。
「違います、俺は運んだだけで——」
胸が冷えた。
“運んだだけ”
つまり、神崎はもう高瀬に責任を押しつける話をしている。
高瀬は小さく首を振った。
「Mも、白便も、俺が勝手にやったことに……?」
喉の奥がひやりと凍る。
やっぱりだ。
使えなくなった中継役を、神崎は最初から切るつもりでいる。
電話の向こうで何か言われたのだろう。
高瀬は目を閉じた。
長くじゃない。
一瞬だけ。
でもそれは、“まだ逆らえない”人間の閉じ方だった。
「……はい」
低い声。
そこで通話が切れた。
高瀬はスマホを下ろして、しばらく動かなかった。
煙草も吸わない。
ただ、風の中で立ち尽くしている。
ヒヤリ。
今だ。
ここで声をかけるなら、今しかない。
でも一歩間違えたら、神崎に押し戻す。
私は呼吸を一つ整えた。
「高瀬さん」
高瀬が弾かれたように振り向く。
目に出たのは、怒りじゃない。
恐怖だ。
見られた、という恐怖。
「……誰だよ」
「救急の実習です」
私は正直に言った。
「あなた、運んだだけなんですよね」
その一言で、高瀬の喉が動いた。
否定しない。
できない。
いま神崎に言われたことと、まるで同じ場所を刺しているからだ。
「神崎さんは、使えなくなったら切る気です」
私が言うと、高瀬は笑った。
笑ったというより、口の端が引きつった。
「今さら何だよ」
低い声。
乾いている。
でも、まだ反発の方へは振れていない。
「逃げ道があります」
私は続けた。
「今日の中で、あなたが“運んだだけ”だったことを残せばいい。
Mも白便も、箱も、全部あなたの独断じゃないって」
高瀬の目が、ほんの少しだけ揺れた。
それで十分だった。
ゼロじゃない。
まだ、神崎の側に立ち切っていない。
でも、ここで押しすぎるのは違う。
私はそれ以上は言わなかった。
高瀬も何も答えない。
ただ、スマホを握る手だけが白くなっていた。
16:25
花火警備へ警察車両が流れる時間。
私たちは折返しの配置についた。
篠原は手前。
警察は死角。
飯田さんは一般導線の出口。
私は壁沿い。
そして、胸の奥には高瀬の「運んだだけ」という言葉が残っていた。
使い捨ての音がした。
17:18
藤崎が来る。
鏡面広告板の前で、一拍。
でも今日は、その一拍がほんの少しだけ長かった。
袖から腰ポーチへ銀の筒。
顔が一般導線へ向く。
篠原の左手が下がる。
警察が出る。
鏡板に肘が当たり、ガン、と音が鳴る。
私は振り返らず、壁沿いへ声を出す。
「そのまま前へ! 止まらないでください!」
波は小さい。
藤崎はまた、ぎりぎりで抜ける。
でも、今日はいつもならこのタイミングで来る高瀬の二音が、遅かった。
ほんの一拍。
たったそれだけ。
でも、その一拍で藤崎の動きに迷いが乗った。
胸が鳴る。
高瀬は、もう“完璧な中継役”じゃない。
17:20
火災報知器が鳴る。電子音。
真壁がマイクを取る。
一拍。
もう胸ポケットには何もない。
声はまっすぐ出た。
「火災報知です。係員の案内に従い、走らず壁沿いにお進みください。現場確認は後続班が行います」
人が止まらない。
押し合いが小さい。
中央柱の逆流も起きにくい。
そして今日は、折返しの手前での“迷い”が、前よりはっきり見えた。
高瀬の一拍の遅れが、あちこちへ波及している。
17:35
煙は上がった。甘い匂いも一瞬だけ強くなる。
それでも爆発の衝撃は来ない。
換気も放送も生きている。
私は喉が枯れるまで誘導しながら、高瀬の顔を何度も思い出していた。
使えなくなったら、お前がやったことにする。
そう言われた顔。
あれは、もう引き返せない人の顔じゃなかった。
18:50
耳の奥で、アラームの気配が鳴り始める。戻る準備の音。
篠原が低く言った。
「高瀬、何かあった?」
私は頷く。
「15:45に神崎と直で話してました。
Mも白便も、自分が勝手にやったことにされる話でした」
飯田さんが短く息を吐く。
「やっぱ切る気か」
私は頷いた。
「でも、高瀬はまだ完全にはあっちじゃない。
17:18の二音が遅れました」
篠原の目が細くなる。
「なら次は、“運んだだけ”を記録に残させる」
その言葉に、胸の奥が静かに鳴った。
そうだ。
責めるんじゃなくて、残す。
その方が、高瀬には効く。
19:00
空気が薄くなり、視界が暗く落ちた。
7:02
アラーム。
私は飛び起き、胸の奥で高瀬の声を反復した。
運んだだけ。
次は、それを高瀬自身の口で残させる。




