第六十話 手順の胃袋
新開市の朝は、噂で始まる。
掲示板の新着。
学校のグループチャット。
飯屋の貼り紙。
それらが同じ速度で回り始めるとき、都市はだいたい“面倒”を起こす。
「角折り、効いた」
「効いたっていうか増え方遅いだけ」
「《緊急確認:最優先》出たの見た?」
「最優先って何w」
「笑うな、笑ってると机に札来るぞ」
笑う。
恐れる。
そしてすぐ慣れる。
新開市は、めげない、しょげない、反省しない。
その三本柱で、今日も生きている。
——だからこそ、怖い。
市役所の会議室は、紙の匂いが濃かった。
義弘は机の端に一枚の札を置いていた。
拾ってきた“異物”だ。
《注意喚起:空白階回避》
行政の顔をしているのに、行政の匂いがしない。
生活の言葉を借りて、制度の形に擬態している。
「……一時的に、被害は減っています」
都市管理課の係長が、喉を磨くように言った。
言い方が勝利報告なのに、目が負けている。
「市民の行動変容により、剥がす行為が減少したため——」
「増え方が遅いだけだ」
義弘が切った。
係長は一瞬、口を閉じた。閉じたまま、続きを出す。
「……はい。増え方は遅い。
ただし、その代わりに——札の“上位化”が確認されました」
スクリーンに映る文字が、冷たい。
《緊急確認:最優先》
《健康管理:最優先》
《安全点検:優先》
《定期確認:再実施》
《経路確認:要再計算》
誰かが、息を飲む。
だが、誰も“誰が”とは言わない。言えない。
「発行元は?」
義弘の質問は短い。短いほど、会議室が遠くなる。
「現時点では……発行を確認できる部署が——」
「存在しない」
義弘が先に言った。
係長が頷く。頷けることが、もう怖い。
「……はい。存在しない部署からの通知である可能性がございます」
真鍋佳澄が、ファイルを叩くように机に置いた。
「ログが変わりました」
「変わった?」
「“綺麗”じゃなくなりました。
同一の札が、同時刻に複数地点で貼付完了になっています。
そして——」
真鍋は一枚を抜き、読み上げた。
《保留:剥離判定待ち》
「この“待ち”が長い。
角折りのせいで、剥がした判定にもできない。剥がしていない判定にもできない。
つまり、手順が詰まってる」
「詰まったらどうなる」
「……優先順位を上げます。現場が勝手に。
これは不正の形じゃない。システムが自分で優先順位を書き換えている」
義弘は、置いた異物札を指先で軽く叩いた。
「誰かが“周知”した」
八重蔵が、いつもの軽さで笑った。
軽いのに重い笑いだ。
「周知、ね。いい言葉だ。責任が薄まる。
でもこの札——行政の口を借りてるくせに、行政の匂いがしない。
“市民の言葉”で書いてる。……それが一番いやらしい」
義弘は立ち上がった。
「空白階には入らない」
「え?」
職員が声を漏らす。
義弘は続けた。
「公式が踏み込めば、手順が増える。
だから触れない。……だが、見張る」
「どうやって」
真鍋が聞く。義弘は短く答えた。
「人間で」
会議室に、嫌な沈黙が落ちた。
人間は遅い。弱い。壊れる。
それでも——人間しかできない観測がある。
トミーが椅子の背もたれに前足を乗せ、鼻を鳴らした。
「市長サマ、札に“お伺い”立ててどうすんの。札は返事しないよ」
「返事をさせるんじゃない」
義弘は、目だけで遠くを見る。
「……腹を見つける」
一方その頃、アリスは“裂け目”の中にいた。
空白階は、通れた。
通れることが、いちばん不気味だった。
リングの内側は紙の匂いがする。
湿った紙。
古い書類の束。
誰も読まないまま積まれて、勝手に発酵した匂い。
足音が、同じ距離でついてくる。
急かさない。追い立てない。
ただ、そこにいる。
消灯が、断続的に起きる。
非常灯が点いているはずなのに、いったん“無”が差し込む。
アリスは翼のような端末群を半分だけ浮かべた。
NECROの奥が軋む。
痛みが、計算の端にノイズとして乗る。
「……最優先とか、やめろよ」
毒を吐く声が、壁に吸われた。
返事はない。返事がないのが返事だ。
背後から紙の擦れる音。
来た。
札だらけの作業ドロイドが、暗闇の向こうから滑るように現れる。
殺意ではない。
“善意”の形をしている。
《健康管理:最優先》
《対象照合》
《逸脱原因:現地対応》
《経路確保:障害排除》
ケーブルが伸びる。
拘束帯が飛ぶ。
白い霧——薬剤噴霧が、空気を舐める。
アリスは顔をしかめた。
「うわ……これ逮捕じゃない。保護だ。最悪」
ドロイドは躊躇しない。
躊躇しないのが、制度の強さだ。
アリスは走らない。
走ったら増える。
急ぐふりだけする。
掲示板で揃えた言葉が、頭の中で地図になる。
空白階は踏むな。
踏まない導線。
ログ無し自販機の位置。
影が点検する床——そこで手順が迷う。
彼女はその“影の床”へ滑り込むように足を置き、端末の翼を小さく広げた。
光が一瞬だけ歪む。
ドロイドが、ほんの一拍だけ動きを止めた。
《経路確認:要再計算》
札が、焦る。
「よし」
アリスは舌打ちして、空白階へ身体を滑り込ませた。
消灯。
暗闇。
紙の匂いが濃くなる。
その奥で——気のいい中年の清掃員が、また札を剥がしていた。
剥がしてはいけないはずの札を。
悪戯を掃除するみたいに。
「ここには来てないんだよ、そういう通知は」
清掃員は、こちらを見ずに言った。
アリスは返事をしない。名前を聞かない。
名前が要ると、手順に登録される気がする。
清掃員の手元で札が剥がれる。
剥がれるたび、空気が少しだけ軽くなる。
それが救いに見えるのが、また怖い。
奥へ進むと、空白階は“空白”ではなくなる。
空白のままにされていたはずの場所に、何かが詰まっている。
作業ドロイドが集まっていた。
数十。
いや、もっと。
彼らは同じ仕事を繰り返している。
札を発行し。
札を貼り。
札を剥がした痕跡を回収し。
札を束ねて棚に格納し。
また発行する。
循環。
維持管理。
誰も担当していないのに、完璧に回っている。
壁は札の層になっていた。
壁紙ではない。
臓器の膜みたいに、湿っている気がした。
そして——そこに、端末があった。
端末は、札を貼られまくっていた。
画面を読ませないように、札が画面を覆い。
それでも、モニターは点滅していた。
規則正しく。
秒針のようでも、警告灯のようでもない。
——心臓の鼓動に近い。
光るたび、貼り付いた札の影が脈を打つように伸び縮みする。
音はないはずなのに、アリスの耳は勝手に“とく、とく”を拾う。
拾ったのが自分の鼓動なのか、モニターの点滅なのか——区別がつかない。
点滅のリズムが、アリスの呼吸に合わせて——ほんの少しだけ、速くなる。
アリスは笑いそうになって、笑えなかった。
「……生きてるじゃん。最悪」
背筋が冷える。
怖いのはオカルトではない。
怖いのは、これが“業務”として成立していることだ。
担当者はいない。
だが、手順は維持管理されている。
その瞬間、彼女の端末が弾かれた。
画面の端に、札が生成される。
《対象確認:NE.C.R.O.個体》
《対象保護:未成年(最優先)》
《健康管理:最優先》
名前がない。
名前がなくても固定される。
属性で。
骨で。
神経で。
——逃げにくくなる。
ドロイドが一斉に向きを変える。
広域ではない。列ではない。
一点。
アリス。
アリスは歯を剥いた。
「はいはい。原因を塞ぎたいんだろ。
でもさ——原因って、口じゃなくて“胃袋”だろ」
彼女は端末の翼を狭く畳み、空白階へ戻る。
戻る途中、消灯。
女の子の影がいた。
NECROでも観測できない輪郭。
言葉はない。指だけが動く。
あっち。
清掃員が、札を剥がす手を止めずに言った。
「急ぐと、増えるよ」
「知ってる」
アリスは吐き捨てる。
「だから急がない。——急ぐふりだけする」
彼女は空白階へ滑り込み、影の指す方向へ身を投げた。
背後で札が増える。
焦った札。怒った札。
《緊急確認:最優先》
《経路確保:障害排除》
《健康管理:最優先(再掲)》
《対象保護:最優先(再掲)》
手順が学習している。
手順が、外へ出たがっている。
リングの外。
義弘の監視に立っていた市職員が、震える指で写真を送ってきた。
リング入口の柵に、見たことのない札が貼られている。
《緊急確認:最優先》
そして——その隣。
《注意喚起:空白階回避(再掲)》
義弘は写真を見つめ、ゆっくり息を吐いた。
リングの内側だけの話ではない。
裂け目が縮む。
それでも、裂け目はある。
「中にいるのは、ひとりじゃない」
誰に向けた言葉でもなく、義弘は言った。
返事はない。
返事がないのが、いちばん怖い。




