第五十八話 札のない場所
新開市の朝は、怪談から始まる。
学校の廊下で。
掲示板で。
飯屋の無音配信で。
避難所跡の列で。
そして、ネットのコメント欄で。
——誰もが同じ口調をする。
「見た?」
「来た?」
「増えた?」
高校の下駄箱前。
アリスが靴を履き替えるより先に、声が刺さってくる。
「ねえ、未完成リングの足音、昨日の夜も聞こえたって」
「え、また? あれさ、近づかないのに同じ距離でついてくるんでしょ?」
「それそれ。やばくない? 何それ、ホラーじゃん」
別の輪が、別の怪談を回している。
「うち、差し戻しの封筒来たんだけど。役所に出してないのに“受領印”だけある」
「え、なにそれ。ヤバ」
「ヤバいって。あれ来ると玄関の札が増えるって」
「札って、《健康管理》とか?」
その単語が出た瞬間、空気がひとつ冷える。
笑い声が、ほんの少しだけ乾く。
教室に入ると、机の上にスマホが並んでいる。
画面は同じ。
同じスレ、同じまとめ、同じ切り抜き。
誰かが、声を潜めて言う。
「影が点検してた」
「は?」
「朝、廊下で。自分の影が床なぞってた。こう、指で、確認してるみたいに」
「それ、盛りすぎ」
「盛ってないって。しかもさ、変に“正しい”感じだったんだよ……」
アリスは、席に座ってカバンを置く。
視線を合わせない。
合わせた瞬間、話題に“並ばされる”気がする。
黒板の前で、担任が咳払いをした。
「えー……最近、妙な噂が流れているが」
先生の目が、どこか遠い。
遠いのに、言葉は丁寧だ。
「夜間の危険区域への立ち入りは禁止。未完成リングも同様。
それと、行政の通知を勝手に剥がさないように」
教室の後ろで、誰かが小さく笑った。
「剥がすと増えるんだってさ」
笑いが波になって、すぐに消える。
先生は笑わない。
「……冗談にしない。
《安全点検予定》《健康管理》《定期確認》の札を見たら、触らずに報告」
札の文言が教室に落ちた瞬間、アリスの胃がきゅっと縮む。
休み時間。
掲示板スレが、また更新される。
【怪談】未完成リングの足音って結局なんなん?
1:「空白階踏んだら足音増えた」
2:「列の最後尾が移動する。人増えてないのに伸びる」
3:「ログにない自販機、レシートが“定期確認”」
4:「ハンコの音だけする。翌朝同意書が承諾済み」
5:「影が点検してた。指で床なぞるやつ」
6:「差し戻し封筒来た。中身空。受領印だけ」
7:「保留が剥がれない。剥がしても戻る」
8:「草」
9:「草じゃねぇ、札増えるぞ」
10:「札って行政の顔してるから誰も剥がせないのが怖い」
11:「剥がしたやつ、次の日“丁寧語”になる」
12:「やめろ」
まとめ動画が、もっと雑にする。
『【新開市怪談まとめ】足音/札増殖/影点検/ログ無し自販機【検証】』
サムネには派手な矢印。
“ここがヤバい”の赤丸。
視聴者コメントは、いつもの調子だ。
「検証班乙w」
「義弘呼べ」
「アリスちゃん出番だろ」
「札はがしてみた(ドヤ)」
「※真似しないでください(真似する)」
「新開市、ほんと飽きない」
「これ官僚ホラー?オカルト?」
「どっちでもいい、面白ければ」
飯屋でも、同じ。
昼の定食屋。
テレビは消音。画面だけが流れる。
客は、箸を動かしながらコメント欄を眺める。
「……また“無音配信の部屋”ってやつか」
「音出すとブレーカー落ちるって?」
「この店、前それやって落ちたろ」
「やめろ、縁起でもない。札増える」
避難所跡の広場では、もっと露骨だ。
床に引かれたテープの列。
いつのまにか引き直されている。
誰も文句を言わない。
文句を言うより先に、並び直す。
「最後尾どこ?」
「……後ろ。昨日より後ろ」
「人、増えてないのに?」
「増えてないのに伸びてる。最後尾が逃げてるって」
冗談みたいに言って、冗談じゃなくなる。
アリスは、その全部を“視界の端”で見ていた。
見ていないふりで、見ている。
なぜなら、隠れ家にも来ているからだ。
玄関。ポスト。窓枠。
境界という境界に、丁寧な紙が増えていく。
《安全点検予定》
《健康管理》
《定期確認》
紙は薄い。
だが刃みたいに刺さる。
行政の顔で貼られると、人は剥がせない。剥がしたら増える。
増えると見慣れる。見慣れると、「前からあった気がする」。
——その手順が、一番怖い。
アリスは椅子に座り、翼を半分だけ広げた。
半分、というのが肝だ。
全開にすればできる。できるが、NECROが軋む。頭の奥が痛む。
最近は、“できる”の代償が重い。
モニタに、作業路が幾重にも重なって流れる。
部署名がない。署名がない。責任がない。
あるのは矢印と条件分岐と、「確認待ち」と「再確認」。
「……なにこれ。市役所の手順って普通もっと怠慢だろ」
毒を吐いても、手順は笑わない。
ただ増える。
アリスは指を滑らせた。
①通知の発信元を書き換える。
②対象区画の属性を“対象外”に改竄する。
③実施命令に「中止」を差し込む。
④実施部隊のルートを迂回させる。
——いつもの戦い方。
だが、命令は“通る”のに“効かない”。
中止命令は「受領」される。
そのあと「確認」される。
そして「保留」に回される。
保留は剥がせない。剥がすと増える。
アリスは舌打ちした。
「受領してんじゃねぇよ……止まれよ……!」
翼の端がチカ、と光る。
頭の奥が嫌な痛みで脈打つ。
NECROが、無言で「もう少し丁寧に扱え」と言っている。
アリスは、別の手を選ぶ。
——作業路の終端を見に行く。
この手順が、どこから湧いて、どこへ流れているのか。
“命令”じゃない。“道”を辿る。
アリスはパーカーのフードを被り、スカーフを引き上げた。
胸の奥が変な速さで打つのを、苛立ちで誤魔化す。
外へ出ると、街は平気な顔をしていた。
飯屋は無音で配信を流し、避難所跡には新しいテープが引かれ、
学校帰りの子どもが「足音ごっこ」をして笑っている。
——新開市は、めげない、しょげない、反省しない。
反省しないまま、手順に並ぶ。
アリスは都市システムの裏を歩き、ログの糸を引いた。
糸は、なぜか上へ、上へ伸びる。
未完成リングへ向かって。
工事が止まった都市中枢リング。
広いのに狭い場所。照明が生きていない場所。
音が遅れて反響する場所。
そして——足音の怪談が生まれる場所。
リングの内側へ入った瞬間、空気が変わった。
外の喧騒が、一枚膜を隔てて遠ざかる。
代わりに、静けさが“貼られる”。
アリスは、壁面の札を見つけて眉をひそめた。
《安全点検予定》
《健康管理》
《定期確認》
「……ここまで来て、まだこれかよ」
だが、次の瞬間。
その札が、すっと剥がされた。
——剥がしたのは、人間の手だった。
「ん? ああ、これ? 誰かの悪戯だろう?」
気のいい声。
中年男性。作業着。手には箒。
清掃員だ。場違いなほど生活の匂いがする。
彼は札を丸めて、ゴミ袋に放り投げた。
剥がしてはいけないはずの札を、あっさり。
アリスは反射で叫びかけた。
「剥がすな! 増える——」
清掃員はきょとんとする。
「増える? ここにはそんな通知、来てないよ。
点検? 健康管理? いやいや。今日の予定は清掃だけ。
誰かが貼ったんだろう。余計だよ」
余計。
その言葉が、リングの内側に落ちて妙に響いた。
アリスは翼を半分だけ広げた。
清掃員をスキャンする。
——薄い。
IDが掴めない。ログが取れない。
存在は濃いのに、記録は薄い。
アリスの喉が少し乾く。
「……誰が貼った」
清掃員は、箒を動かしながら笑う。
「誰だろうね。
でも貼ってあったなら剥がすしかないだろう?
清掃ってのはね、余計なものを取り除く仕事なんだ」
言い方が、朗らかすぎて逆に怖い。
アリスは、札の粘着が残る壁面を指でなぞった。
指先に、薄く糊の匂い。
“保留が剥がれない”と同じ匂い。
「……余計なもの、ね」
「そうそう。
あんた、こんなとこに来ちゃだめだよ。危ない。
リングの内側はね、足元が空白だ」
空白。
その単語が、掲示板の怪談と重なった。
アリスは一瞬だけ、背中が冷える。
「空白階って、ほんとにあるのかよ……」
清掃員は、あっけらかんと言う。
「あるよ。踏まなきゃいい」
その簡単さが、嘘みたいだった。
——そのとき。
リングが、息を止めた。
消灯。
あらゆる照明が、同時に落ちる。
機械音も、遠い風音も、すっと消える。
無音。
アリスの翼のUIは、何も出さない。
センサーは沈黙。ログも取れない。
なのに。
廊下の端、非常灯の残光の下に、女の子が立っていた。
制服でも病衣でもない。
古い布みたいな服。
顔は見えないのに、口だけがはっきり動く。
声は聞こえない。
でも言葉が刺さる。
「……そっち」
女の子が、通路の向こうを指さした。
指の先は、暗闇のもっと暗い部分。
アリスは、息を止めたまま視線を追う。
そこに、何かが動いた。
——作業ドロイド。
本来は保守と清掃のための、無害な機体。
なのに、全身に紙が貼られている。
札が鎧みたいに貼り重ねられている。
《安全点検予定》
《健康管理》
《定期確認》
札が、関節の隙間にまで食い込んでいる。
紙なのに、装甲みたいに見える。
言葉が武器になっている。
ドロイドが歩き出す。
歩き方が、人間の意志じゃない。
“手順の歩行”。
スピーカーが、無機質に鳴った。
「対象、確認」
もう一体。
もう一体。
暗闇から、札付きが増える。
「健康管理、実施」
「定期確認、開始」
アリスは反射で通信を投げた。
停止命令。中止命令。権限上書き。
——どれも“受領”される。
そして“確認待ち”になる。
アリスは笑いそうになって、笑えなかった。
「……許可待ちで殺す気かよ」
女の子の亡霊が、もう一度、指を差した。
——違う。
指は、札付きドロイドではなく、そのさらに奥を指している。
“逃げ道”だ。
アリスは身体を捻り、段差を選び、柵を掴んだ。
脚が細い。力がない。だからこそ、落ちる場所を選べる。
鉄パイプが転がっている。
工事の残骸。生活の残骸。手順の外側の道具。
アリスはそれを拾い、構えた。
構えが、子どもみたいに軽い。
でも目だけは戦場の目だ。
札付きドロイドが迫る。
腕を伸ばす。
掴む動きが“優しい”。優しすぎて怖い。
「健康管理——」
アリスは鉄パイプで、腕を払う。
金属音。札が擦れる音。紙が裂ける音。
紙が裂けても、止まらない。
アリスは一歩下がり、段差へ誘導する。
札が関節に絡み、動きが鈍る一瞬がある。
そこを突く。
ただの作業ドロイドだ。構造は分かる。
分かるから、壊せる。壊せるが——
壊すと、増える。
だからアリスは、“壊さない”で止める。
転ばせる。挟ませる。絡ませる。
——並ばせない。
背後で、何かが落ちる音。
清掃員の箒が倒れたような音。
アリスが振り返る。
清掃員がいない。
さっきまでそこにいたのに、気配も足音もない。
床には箒だけが残っている。
それも、最初からそこにあった気がしてくる。
——いけない。
“前からあった気がする”に引きずられる。
アリスは歯を食いしばり、翼を少しだけ広げた。
頭の奥が痛む。NECROが軋む。
それでも、視界に細い線が引ける。
作業路。
ドロイドの進行ベクトル。
紙の札の密度。
“実施”の優先順位。
女の子の指差しの先に、狭いメンテ通路があった。
人間一人、やっと通れる幅。
ドロイドは入れない。札が邪魔をする。
アリスはそこへ滑り込む。
背中を擦る。パーカーが引っかかる。
札付きドロイドの指が伸びる。
届かない。
届かないのに、言葉は届いてくる。
「定期確認——」
「対象——」
「並——」
並べ。
言ってないのに、言葉が脳の奥で勝手に完成する。
アリスは、わざと乱暴に息を吐いた。
「……うるせぇ。並ぶかよ」
通路の奥、薄暗い階段。
一段だけ、妙に空白に見える段がある。
——空白階。
アリスは踏まない。
踏まないように、手すりに体重を預けて跳ぶ。
跳んだ瞬間、背後で音がした。
コツ。
ドロイドの足音じゃない。
機械の音でもない。
靴の音。
コツ、コツ。
近づかない。遠ざからない。
同じ距離で、歩き続ける。
アリスは振り向かない。
振り向いたら、“並ぶ”気がした。
その代わり、心の中で悪態をついた。
(……味方なら、もうちょい分かりやすく助けろよ)
返事はない。
足音だけが、同じ距離で答える。
《健康管理》
《定期確認》
《——開始》
リングの内側で、紙が擦れる音がした。
誰かが、また丁寧に貼っている。
アリスは、通路の奥へ走った。
走るほど、頭の奥が軋む。
それでも止まれない。
止まったら、並ぶ。




