第384話 王冠の熱
「アリス女王陛下」という言葉が新開市を一周するのに、一晩もかからなかった。正式な役職ではない。オールドユニオンが提案しているのは《新開市特別調停官》であり、新開市代表団が議論しているのも、日本国側が警戒しているのも、あくまでその制度だった。市政執行権もなければ、議会を解散する権限もない。まして王位など、どの条文にも存在しない。それでも翌朝の新開市中央通りには、白い布へ銀色の開いた王冠を印刷した旗が何十本も並び、駅前の大型映像板には《特別調停官制度を考える》という真面目な討論番組の横で、《速報・アリス女王陛下誕生へ?》という露骨な見出しが回っていた。商店街のパン屋は白いクリームへ赤いベリーを一粒載せた《女王陛下パン》を売り出し、向かいの食堂は《戴冠記念・白冠カレー》を始め、その二軒先では「権力の私物化に反対します」と書かれた真面目な市民団体のテントが張られている。その横では若者が、王冠型の紙帽子を百円で売っていた。
「……何これ」
朝、保護施設から出てきたアリスは、門の向こうを見て立ち止まった。もう車椅子はない。白いフードパーカー。黒いバッグ。自分の足で立つアリスの左右にはグリンフォンとダム/ディーが待機し、少し後ろにはコロボチェニィク。シュヴァロフだけは、まだ病院で義弘の監視を任されている。
トミーが足元から答えた。
「戴冠景気じゃねえの」
「戴冠してない」
「市場は事実より期待で動く」
「お前いつから経済評論家になった」
「昨日テレビで言ってた」
道路の反対側から若い店員が手を振った。
「女王陛下! パン一個どうですか!」
「女王じゃない!」
「売上の一部、NECROテック被害者支援に寄付します!」
「……」
アリスが止まる。
トミーが横から見上げた。
「止めにくくなったな」
「ムカつく」
「買う?」
「一個」
*
笑って済ませられるのは、そこまでだった。中央区の別の通りでは、《アリス特別調停官就任を支持する市民連絡会》が朝から行進を始めていた。その多くは、昨日の集会へ偶然集まった人間ではない。揺り篭の日に公式避難経路から外れた者。企業事故で家族を失った者。NECROMANCERとして一括して危険人物扱いされ、その後社会へ戻った者。新開市の外縁で、行政の対象にすらなっていなかった者。アリスのドローンに助けられた者。本人と直接話したことがある者。話したことはなくても、「対象かどうかを確認せず助ける」機械を見た者。白い旗の下を歩いているのは、単なるファンだけではなかった。
「俺は王様なんか要らないと思ってたよ」
行進の途中で、元NECROMANCERの男が配信者のマイクへ答えた。
「では、なぜ参加を?」
「誰か一人を上に置くなら、って話だ」
「王政には賛成?」
「違うって。王様なんか要らない」
「でもアリス氏は?」
男は少し考えた。
「……あの子なら、話は聞くだろ」
「それだけ?」
「それができない奴が多すぎたんだよ」
隣を歩いていた女が口を挟む。
「私も別に女王が欲しいわけじゃない。でも、企業も国も市も、私らのことを数字で見る時がある。アリスは、そうしなかった」
「だから王冠を?」
「王冠っていうか」
一拍。
「発言権を」
配信者は頷いた。数分後、その映像には別の配信者が《民衆、自らアリスを王に選ぶ》という派手な字幕をつけた。
*
当然、反対する者もいた。
「善人だから権力を集中させていい、という発想そのものが危険なんです!」
市庁舎前では、《特別調停官権限集中反対市民会議》が演説していた。
「アリス本人が善良かどうかは論点ではありません! 一人の善意を制度の代わりにすることに反対している!」
別の参加者。
「今はアリスだからいい? では次は? 十年後は? 同じ権限を別の人間が持ったらどうするんです!」
記者。
「アリス氏本人は、任期や監査を受け入れる姿勢を示しています」
「それは評価します!」
「では支持する?」
「しません!」
「アリス氏個人については?」
男は一瞬詰まった。
「……嫌いじゃないですよ」
「それは」
「だから面倒なんだ!」
ちょうどそこへ、本人が通りかかった。
「アリスだ!」
反対派の一部がざわめく。アリスは足を止めた。
「続けて」
演説者。
「え?」
「私に反対してるんでしょ」
「……はい」
「じゃあ言えば」
「止めない?」
「何で」
一拍。
「私に反対するの、止めたら駄目でしょ」
男は数秒黙った後、頭を掻いた。
「……だから、あなた個人を嫌いになれないんですよ!」
「知らない」
アリスはそのまま歩いていった。
配信コメントが爆発した。
《女王陛下、反対派の演説を保障》
《これもう名君では?》
《いや王じゃないって言ってるだろ》
《反王政派が王に救われてて草》
《だからそういう話じゃない》
アリスは五分後、それを見て頭を抱えた。
「何で」
トミー。
「仕事したからだろ」
「反対させただけ」
「そこが仕事なんじゃね」
「最悪」
*
昼前になると、完全に新開市だった。
中央大通りの東側から、白と銀の戴冠支持行進が来た。
「アリス!」
「アリス女王陛下!」
西側から、黒と灰色の《専制反対》デモ。
「王政反対!」
「権力集中反対!」
二つの集団が、交差点で正面から向き合った。
治安機関。
緊張。
真鍋。
「距離取らせろ!」
その瞬間。
道路工事区画の表示が変わった。
両集団。
同じ迂回路へ。
真鍋が固まった。
「……誰だ」
部下。
「何がです」
「この導線組んだ奴」
遠くの屋上。
誰かが。
カメラ。
導線屋だった。
「捕まえろ!」
「違法行為は?」
「今から探せ!」
下。
戴冠派。
「そっち詰めろ!」
反対派。
「お前らが人数多いんだよ!」
「王政反対とか言いながら道占領すんな!」
「女王陛下とか言ってる方が――」
救急車。
サイレン。
両方。
「道!」
「開けろ!」
「端寄れ!」
白い旗と黒い旗が、一斉に左右へ分かれた。救急車が中央を通る。
通過。
数秒。
戴冠派。
「アリス女王陛下!」
反対派。
「王政反対!」
今度は自然に別々の道へ分かれていく。
報道用ドローンでそれを見ていた鳴海が、額を押さえた。
「……何なんですか、この街」
隣の環。
「通常運転です」
「それ言います?」
「言ってから自分でも嫌になりました」
*
祝祭化も止まらなかった。《アリス祭り》と勝手に名付けられた小規模イベントが外縁市場から始まり、夕方には中央区へまで増殖していた。白いフードを模した菓子。開いた王冠型のペンダント。アリスの「うるさい」を音声素材にした音楽。NECROテック救助史を展示する真面目なパネルの横で、子供向けの《シュヴァロフの手に掴まれよう》遊具が設置されている。
「誰が許可した」
アリス。
「イベント自体は合法です」
環。
「私の名前」
「商標登録していませんので」
「すればいい?」
「それはそれで政治的所有権の問題が」
「面倒」
「はい」
さらにサムライ・ヒーローたちまで妙な方向へ張り切り始めた。義弘が重傷で動けない。アリスは特別調停官候補。街では女王陛下。なら、その隣に立つ「守護者」の席が空いているように見える。
「アリスさん」
神代朔、《KASANE》が真面目な顔で言った。
「津田さんが復帰するまで」
一拍。
「俺があなたの盾になります」
「いらない」
「即答ですか」
「いるならグリンフォンいる」
「人間の盾として」
「もっといらない」
そこへ外様サムライ隊の一人。
「特定の一人だけに任せるべきではないと思います」
別。
「新開市のサムライ全体で輪番護衛を」
「いらない」
「ですが女王陛下の――」
「女王じゃない!」
「失礼しました!」
「じゃあ何で並んでる!」
気づけば五人。
KASANE。
さらに企業系ヒーロー。
アリスを中心に。
半円。
環が遠くから見た。
「……宮廷ですね」
アリス。
「違う!」
オスカー。
「非常にそれらしく見えます」
「黙れサボテン!」
*
だが、その滑稽さの下で、もっと大きな変化が起きていた。前日まで晴翔の歯車は、新開市の各所で誰かを「次の悪党」へ押し出そうとしていた。日本国への怒り。企業への不信。NECROMANCERへの偏見。アリス派内部の対立。晴翔支持者への反発。どれも、少し条件を間違えれば暴力へ変わり得る熱だった。ところが今、その熱の大部分が別の問いへ集まり始めている。
アリスは女王か。
特別調停官にどこまで権限を与えるのか。
アリスに反対する自由は保障されるか。
日本国よりアリスを信頼するのは自治なのか。
アリス本人の意思をどこまで尊重するべきか。
議論は激しい。
しかし。
以前より。
殴り合いは減った。
日本国代表団の分析室。
晴翔の側近が画面を見ていた。
「先生」
「はい」
「市内の予測暴力発生率」
「昨日より大幅に下がっています」
晴翔は資料を受け取る。
「NECROMANCER関連の衝突も」
「減少」
「企業間の抗議行動も」
「制度議論へ移っています」
「アリス派二派も」
「対立はありますが、特別調停官制度の権限制限へ議題が集中」
側近が晴翔を見る。
「あなたの歯車」
一拍。
「止まりましたね」
晴翔は少し考えた。
「違います」
「では?」
「つっかえ棒が」
一拍。
「入りました」
画面。
白いフード。
歩くアリス。
群衆。
王冠。
「しかも」
「思ったより」
一拍。
「大きい」
側近が少し笑う。
「困りました?」
「ええ」
「先生にとって」
晴翔は首を振った。
「アリスさんにとって」
側近の笑みが消える。
「私の歯車は」
晴翔。
「人を悪党の席へ座らせやすくしていた」
「今」
「この街は」
一拍。
「アリスさんを」
「女王の席へ」
「押し込もうとしている」
「それは」
「本人が権限を求めたからでは」
「始まりは」
「でも」
晴翔は群衆を見る。
「役割に固定するという意味では」
「同じです」
側近。
「先生が心配するんですか」
「私だから」
晴翔は静かに答えた。
「分かるんですよ」
*
新開市代表団側は、それどころではなかった。
「このまま自治協定をまとめるのは危険です」
三岐透子。
祝部マコトが驚く。
「今までまとめる側だったじゃないですか」
「内容が悪いとは言っていません」
「じゃあ」
「代表性です」
刀禰ミコトが静かに頷いた。
「市民が」
「私たちを」
「代表として見なくなり始めています」
祝部。
「いや、そこまでは」
三岐が端末を出す。
《協定案、アリスは承認したのか?》
《女王陛下抜きで決めるな》
《市議会だけで日本と話をまとめるのはおかしい》
《特別調停官制度決定前に協定を署名するのは逃げ切りでは》
祝部が黙った。
「……もう言われてる」
「はい」
三岐。
「私たちは」
「正式な手続きで」
「新開市を代表しています」
「ですが」
一拍。
「社会的代表性が」
「アリスへ」
「移り始めている」
刀禰。
「この状態で」
「日本国と調印しても」
「市民が」
「“アリスは認めたのか”」
「と問う」
祝部。
「認めてなくても、法律上は」
「それで街が納得するかが問題です」
誰も。
すぐには。
答えられなかった。
*
日本国側では、もっと露骨だった。
「実態として」
代表団の年長議員。
「アリス氏が新開市の最高権威になりつつあるのでは?」
比嘉日向。
「なってません!」
「しかし」
「正式に選挙されたわけではありません!」
「市民の支持は明らかだ」
「支持と統治権は別です!」
「なら、新開市側が最終的にアリス氏の反応を気にする理由は?」
「それは!」
別の議員。
「交渉を効率化するなら」
「アリス氏を中心窓口に」
「駄目です!」
「なぜ」
「正式代表団がいるでしょう!」
さらに日本国内。
討論番組。
「新開市の意思決定機構は複雑すぎるんですよ」
「その点、アリス氏なら非常に分かりやすい」
「海外知名度もあります」
「日本国そのものを拒否しているわけでもない」
「しかも見た目にも象徴性がありますし」
「かわいいですからね」
比嘉が控室でテレビへ叫んだ。
「最後の要る!?」
隣の職員。
「世論的には結構重要なのでは」
「外交を何だと思ってるんです!」
だが。
笑えなかった。
国家外交まで。
複雑な制度より。
分かりやすい。
一人の顔へ。
寄り始めている。
*
「アリス」
刀禰ミコトが本人を呼んだ。
市庁舎の小会議室。アリスは椅子へ座っている。歩けるようになったと言っても、一日中立っていられるわけではない。既に午前から市内を何度も移動しており、脚には疲労が出ていた。
「何」
「あなたは」
一拍。
「まだ」
「特別調停官ですらありません」
「知ってる」
「でも」
刀禰。
「街は既に」
「あなたを通して」
「私たちを」
「見るようになり始めています」
「嫌」
「私も困っています」
「じゃあ止めて」
刀禰は。
少しだけ。
目を細める。
「市長権限で」
「市民があなたを」
「女王と呼ぶのを」
「禁止しましょうか?」
アリス。
「……」
「できますか」
「できるかどうかじゃなくて」
「した方がいいですか」
アリスは。
少し考えた。
「駄目」
「でしょう?」
「でも」
「止まらない」
「はい」
刀禰は静かに言った。
「王冠とは」
「権限だけでは」
「ないようですね」
「面倒」
「ええ」
*
午後三時過ぎ、最初の危険な接触が起きた。戴冠支持派の一部と、専制反対団体の若者が駅前で口論。互いに手は出していない。しかし双方の後ろに人が集まり始めた。
アリスへ連絡。
『こちら中央駅』
「今行く」
医療担当。
『走らないでください』
「急いでる」
『走らないで!』
「グリンフォン」
翼が開く。
『飛ぶのも禁止です!』
「……歩く」
『速歩も――』
「うるさい!」
結局、アリスは早歩きだった。グリンフォンが先行。ダム/ディーが周囲の障害物を移し、コロボチェニィクが後ろを警戒する。現場へ着く。
「女王陛下が来た!」
「だから違う!」
双方が一瞬静まる。
アリスは真ん中へ。
「何で揉めてる」
戴冠派。
「こいつらがアリスさんを独裁者呼ばわりして」
反対派。
「権力集中の話をしてるだけだ!」
「先に煽ったのそっちだろ!」
「黙れ」
静かになる。
「私に賛成してる奴」
戴冠派が反応。
「反対してる奴」
反対派。
「どっちも」
一拍。
「殴るな」
「でも」
「でもじゃない」
アリス。
「私に反対するのは」
「いい」
「私を女王って呼ぶのも」
嫌そうに。
「……勝手にしろ」
歓声が少し上がる。
「でも」
赤い目。
「私の名前で」
「相手殴ったら」
「私が止める」
反対派の男。
「あなた自身が?」
「うん」
「特別調停官だから?」
「まだなってない」
「じゃあ」
「アリスだから」
一拍。
「今までと同じ」
数分後。
双方。
分かれた。
暴力なし。
ネット。
《女王陛下、反王政派と親政》
《アリス、自ら街頭調停》
《護衛に任せず本人が現場へ》
アリス。
「何で増えるの!」
トミー。
「働いてるから」
「働いたら支持増えるのやめろ!」
「政治家に聞かせたい台詞だな」
*
病室。
義弘は映像を見続けていた。
「晴翔の歯車」
トミー。
「止まったんじゃね?」
「違う」
「また?」
「噛み直した」
「どこへ」
義弘は。
画面の。
アリスを見る。
「今まで」
「大泉の歯車は」
「悪党の席を」
「回してた」
一拍。
「今度は」
「王様の席を」
「回し始めてる」
トミー。
「誰が」
「大泉?」
「違う」
「アザド?」
「違う」
「じゃあ」
義弘は。
疲れた目で。
街頭映像を見る。
「全員だよ」
戴冠派。
反対派。
企業。
政治家。
報道。
導線屋。
サムライ。
NECROMANCER。
新開市代表団。
日本国。
「アリスまで」
トミー。
「本人も?」
「権限欲しいって言った」
「そうだけど」
「だから余計に」
義弘は。
ベッドの柵を掴んだ。
「自分で一個」
「歯車に」
「手ぇかけちまった」
立とうとする。
病室入口。
シュヴァロフ。
巨大腕。
「……まだいるのかよ」
押される。
「分かった! 座る!」
トミー。
「女王陛下の命令だぞ」
「お前まで言うな!」
*
夕方。
アリスは何度目か分からない声明を出した。
「私に賛成でも」
一拍。
「反対でも」
「殴るな」
カメラ。
配信。
「物壊すな」
「店燃やすな」
「人追いかけるな」
「あと」
アリスの顔が険しくなる。
「私の名前で」
「誰かを敵にするな」
一拍。
「私の敵を」
「勝手に決めるな」
その言葉は。
何百万回も。
再生された。
多くの人間が。
その通りだと。
思った。
戴冠派の多くも。
反対派も。
NECROMANCERも。
企業も。
治安機関も。
頷いた。
だからこそ。
ごく少数の人間だけが。
別の意味を。
そこから。
拾った。
*
「女王陛下は」
夜。
新開市外縁。
使われていない小さな事務所。
数人。
白い帯。
銀色の開いた王冠。
「自分の敵を」
「討てとは」
「言えない」
別の男。
「当たり前だ」
「特別調停官になる人間が」
「個人的な復讐なんて」
「できるわけない」
「義弘も」
「証拠がないから」
「晴翔を止めなかった」
「だからやられた」
一人が。
低い声。
「じゃあ」
一拍。
「誰がやる」
沈黙。
元NECROMANCER。
アリス派強硬派。
どこにも正式所属していない市民。
彼らは。
アリスから。
命令を。
受けていない。
御堂環も知らない。
NECROMANCER全体も。
知らない。
義弘も。
知らない。
「殺すのは」
「違う」
一人。
「アリスの名前を」
「汚す」
「じゃあ」
「捕まえる」
「証拠を出させる」
「街の前で」
一拍。
「認めさせる」
誰かが。
白い帯を。
腕へ巻いた。
「大泉晴翔」
その名前。
「女王陛下の」
一拍。
「敵だ」
*
同じ頃。
晴翔の側近は。
一つの異常な通信傾向を。
拾っていた。
「先生」
「はい」
「妙な動きがあります」
晴翔が顔を上げる。
「どこに」
「戴冠支持派」
「……の」
一拍。
「一部です」
「私に?」
「恐らく」
晴翔は。
数秒。
黙った。
以前なら。
笑ったかもしれない。
自分が悪党の席へ。
押し込まれる。
自分の歯車が。
自分へ戻ってくる。
待っていた瞬間。
そう。
言えたかもしれない。
「なるほど」
側近。
「何が」
「歯車が」
一拍。
「戻ってきました」
「嬉しそうにしないでください」
晴翔は。
笑わなかった。
「今回は」
「……あまり」
「嬉しくありません」
「怖い?」
「それもあります」
「では」
晴翔は。
アリスの声明を。
もう一度。
再生した。
『私の名前で』
『誰かを敵にするな』
「彼女は」
一拍。
「そういうために」
「王冠を拾ったわけではない」
側近。
「先生が言います?」
「ええ」
晴翔。
「私は」
「自分の悪党くらい」
「自分で作ります」
*
夜の新開市を、アリスは歩いていた。最後の小競り合いを収め、医療担当から三度目の「もう帰れ」という連絡を受けた後だった。脚は重い。治ったとはいっても、昨日まで長距離を車椅子で移動していた身体だ。グリンフォンが横を飛び、ダムとディーが少し後ろ。遠くにはまだ白い旗。
「アリス女王陛下!」
誰か。
アリスは顔をしかめる。
「……まだ言ってる」
トミー。
「今日中には無理だろ」
「明日なら?」
「もっと増えてそう」
「最悪」
アリスは。
それでも。
自分の足で。
歩いた。
彼女が求めた。
王冠。
その王冠は。
確かに。
大泉晴翔の。
悪党を作り続ける歯車へ。
一度。
つっかえ棒として。
噛み込んだ。
誰かを悪党にしようとしていた怒りは、アリスの権限を巡る議論へ流れた。市内の暴力は減った。次の悪党を作るために回り始めていた歯車は、確かにその瞬間、止まった。
だが。
止まった歯車へ。
新開市の。
別の熱が。
押し寄せた。
救われた記憶。
聞いてもらえた記憶。
制度に拾われなかった時に。
拾われた記憶。
企業でも。
国でも。
党でも。
組織でもなく。
アリスという。
一人の少女へ。
向けられた。
無数の。
個人的な感情。
それが。
王冠へ。
集まった。
誰も。
一斉に。
回せとは。
言っていない。
それでも。
歯車は。
別の軸へ。
噛み直した。
今度の中心は。
悪党ではなかった。
王だった。
アリスは。
まだ。
そのことを。
完全には。
理解していない。
自分が歩けば。
女王が立ったと言われる。
反対派を守れば。
名君と呼ばれる。
暴力を止めれば。
親政と呼ばれる。
怒れば。
民を思う王の怒りと言われる。
否定すれば。
謙虚な女王と。
呼ばれる。
何をしても。
王冠へ。
戻っていく。
そして。
その王冠を。
守ろうとする者の中から。
新しい。
悪党の席が。
生まれ始めていた。
夜。
白い帯を。
腕へ巻いた。
数人の人間が。
静かに。
動き始める。
アリスは。
命令していない。
義弘も。
知らない。
御堂環も。
NECROMANCERも。
新開市も。
まだ。
知らない。
彼らが。
口にしたのは。
ただ。
一つだった。
「女王陛下の」
一拍。
「敵を」
そして。
その敵として。
選ばれた男も。
今夜だけは。
笑っていなかった。




