第三十七話 ただの人間の日
新開市の朝は、いつも平然としている。
昨日まで戦場だった場所の上に、今日の通勤路が載る。
昨日まで泣いていた人間が、今日の昼には笑っている。
――めげない。しょげない。反省しない。
義弘は、その三本柱を呪うように、ありがたがるように眺めていた。
机の上には、回収した端末のログ、封緘の残骸、紙の切れ端。
鳴海が押さえた「中央調停局」関係者の、形式だけは完璧な資料の山。
どれもこれも、正しい顔をしている。
正しい顔をして、温度だけが違う。
「“本件担当”……ねぇ」
義弘が呟くと、肩の上のトミーが鼻で笑った。
「担当ってのは便利だな。担当が悪いんだもんな。担当がいなくなれば世界は綺麗ってか?」
「世界は綺麗にならない」
「知ってる。だからジジイは生きてんだろ」
トミーは苔色の毛を揺らし、爪で資料の端を叩いた。
「で? その“担当”は誰だよ。紙の匂いで分かんのか?」
「匂いじゃない。語彙だ」
義弘は、紙の上を指でなぞった。
短く、丁寧で、説明を拒む文章。
工程。整理。許容範囲。保全。痕跡。
人間を人間として扱わない、事務の言葉。
これを吐く口は一つじゃない。
だが、吐く口に共通の「外側」がある。
義弘は、資料束の端に挟まっていた小さな封印片をつまむ。
糊の質が、都市のそれじゃない。
紙の繊維が、妙に揃っている。
印字の癖が、国内官庁のそれとわずかに違う。
――背後が、ある。
義弘は息を吐き、端末を開いた。
呼び出し履歴の中から、一つの名前を選ぶ。
呼び出し音が二度鳴り、冷たい声が出た。
「……またあなたですか、津田さん」
真鍋佳澄。市警サイバー課。
義弘を“取り締まりたい”顔と、“助けられた”顔が同居している女。
「朝から嫌味か」
「嫌味じゃありません。事実です」
正論だ。正論はいつも、遅れてくる。
義弘は笑わずに言った。
「訊きたい。中央調停局の文面、あれはどこのテンプレだ」
「テンプレ……?」
「語彙の癖が違う。封緘の形式も違う。欠番の流れも――」
真鍋が、呼吸を一つ置いた。
“警察の呼吸”だ。言い方を選び、責任の線を引く呼吸。
「……津田さん。あなたが触れるべき案件じゃありません」
「触れなければ、次はもっと死人が出る」
「それを決めるのは、あなたじゃない」
正論だ。正論はいつも、遅れてくる。
トミーが、義弘の耳元で小さく囁いた。
「正論ってのは便利だな。遅れてくるくせに偉そうだ」
義弘は無視した。
「八重蔵を通す」
「情報屋……またですか」
「まただ」
義弘が通話を切ろうとした、その瞬間だった。
インターホンが鳴った。
短く、連打。
控えめではない。礼儀でもない。
襲来だ。
義弘が眉を動かすより早く、トミーが言った。
「来たぞ」
「何が」
「血縁っていう災害」
ドアを開けた瞬間、風が吹き込んだ。
冬の風じゃない。
若さと、汗と、興奮の風だ。
「おじいちゃん!!」
少年――いや、少年に見える年齢の男が、玄関先で身を乗り出していた。
髪は整えてあるのに、目が落ち着かない。
笑顔が大きすぎる。声がでかすぎる。
背中には、妙に立派なバッグ。
そこから覗くのは、金属板、ベルト、黒いパッド、何かの固定具。
義弘は一瞬で理解した。
「……お前、誰の息子だ」
「透です! 津田透! 父さんの! いや、つまり恒一郎さんの!」
津田恒一郎の息子。
義弘の孫。
嫌なほど、血の繋がりが早口で押し寄せてくる。
「おじいちゃん、会いたかった! 俺、やっと分かったんだよ! サムライ・ヒーローって何か! “人間を守る”って何か!」
義弘は表情を変えなかった。
変えられなかった。
透の背中のバッグから、さらに覗く。
黒いパッドの縁に、見覚えのある繊維。
固定具の角に、見覚えのある印字の癖。
個人の趣味じゃない。
個人の憧れじゃない。
――線が、繋がっている。
「入れ」
「え、いいの!? やった!」
透が靴を脱ぐ。脱ぎ方が雑だ。
雑さが若い。若さが怖い。
トミーが肩の上から透を見下ろし、ため息を吐いた。
「おい。増殖すんなよ、ジジイ」
「増殖してねえ!」
「してる。目の前で」
透はトミーを見て、目を輝かせた。
「うわ! ウサギ! 喋った! 本物!? 配信で見たやつ!?」
「配信で見たやつって言うな。俺は俺だ」
「すげえ……!」
透はバッグを下ろし、勝手に中身を広げ始めた。
床の上に、板、ベルト、バイザー、謎のパーツ。
「見て! これ! 俺の“簡易サムライ・スーツ”!」
義弘は目を細めた。
簡易という言葉が、どこをどう簡易にしているのか分からない。
「どこで手に入れた」
「え? クラファン! あと、――あ、これ言っていいのかな。えっと……“正規の補給品”っぽいやつ!」
透は悪びれずに笑った。
義弘の胃が、静かに沈んだ。
トミーが舌打ちする。
「言っていいわけねえだろ。お前の口、風穴開いてんのか?」
「え? だって、みんなやってるし! 新開市、今そういう感じじゃん!」
透の言葉が、軽い。
軽さが、街と同じだ。
義弘は透の首根っこを掴んだ。
力を入れない。だが逃げられない程度に。
「“みんな”の中に、死ぬ奴が出る」
「でも、ヒーローが助けるだろ?」
透は本気で言った。
義弘は、その無邪気さに――一瞬だけ、怒りより先に疲れが来た。
「助ける側が、いつも助けられるとは限らない」
「おじいちゃんは助けてる! 俺、見た! 背面ラック、切り飛ばして……!」
透は語り始めた。
切り抜き動画の語彙で。
解説動画のテンションで。
コメント欄の熱で。
義弘は、胸の奥が冷えた。
昨日の勝利が、今日の模倣を生み、模倣が今日の災害を増やす。
反省しない街が、血縁にまで浸透している。
義弘は透の顎を上げさせ、目を見た。
「お前はヒーローになりたいのか」
「なりたい!」
「なって、何を守る」
「新開市! みんな! あと……アリスちゃん!」
最後の単語が、吐き捨てられるように軽かった。
軽いのに、刺さる。
トミーが、鼻で笑う。
「アリスちゃんって言えばヒーローになれんのかよ。安いな」
「安くねえよ! 俺、本気だよ!」
透は拳を握った。
拳が震えている。興奮で。憧れで。
そして、危険で。
義弘は透のバッグの中の“補給品”に視線を落とし、静かに言った。
「父親に連絡する」
「あっ、待って! 父さんには言わないで! また怒られる!」
「怒られる程度で済むなら、安い」
「安いって何!?」
義弘は端末を取り、恒一郎に発信した。
呼び出し音が長い。
忙しい。圧力がかかっている。
義弘は知っている。だから余計に嫌になる。
ようやく繋がった声は、疲れていた。
『……父さん? 今? 何かあったのか』
「透が来た」
『……透? え? 今どこだ、あいつ――』
「俺のところだ」
『……すみません。すぐ――』
「いい。来なくていい」
『父さん、透は――』
「今、俺が叱る」
『……父さん』
恒一郎の声に、苦いものが混ざる。
父と息子と孫。三世代分の苦さ。
義弘は通話を切った。
透が唇を尖らせる。
「おじいちゃん、冷たい」
「冷たい方が死ににくい」
「でも……!」
透の“でも”は続かない。
義弘の目が、透の“補給品”に落ちたままだったからだ。
「それ、どこの誰が流した」
「えっと……“担当”って人」
透は、さらっと言った。
義弘の背筋が凍った。
「……何だって?」
「“担当”って。DMで。『会えるよ』って」
トミーが低く唸った。
「おいジジイ。これ、笑えねえやつだぞ」
義弘は、息を吐いた。
「透。端末を出せ」
「え?」
「今すぐ」
透が渋りながら端末を出す。
義弘は画面を一瞥し、目だけで理解した。
文面の温度。
言葉の選び方。
丁寧さの過剰。
“本件担当”と同じ温度。
義弘は透の端末を机に置き、指を止めた。
ここで追えば餌になる。
だが追わなければ、次の工程が進む。
工程。整理。
義弘は立ち上がった。
そして同じ時刻、別の場所で――“ただの人間”が作られていた。
アリスは、制服の襟元が気に入らなかった。
胸元がどうとかではない。
布の感触が、戦場のそれと違う。
違うのに、身体は弱っている。
情報の翼がない。
いつもなら視界の端に勝手に並ぶはずの情報がない。
いつもなら耳の奥で十人分の作業音が鳴るはずなのに、静かだ。
静かすぎて落ち着かない。
「……最悪」
アリスが吐き捨てると、目の前の男は表情を変えなかった。
整った顔。仕事ができる企業人の外観。
机の端に小さな鉢植えが並んでいる。サボテンだ。
オスカーは、そのサボテンを指先で軽く撫でた。
撫で方が丁寧すぎて、逆に気味が悪い。
「停止」
単語だけが落ちる。冷たいビジネスの声。
「修理」
「保全」
アリスは椅子の背に体を預け、目を細めた。
「……止めたら、私ただの人間になるんだけど」
「人間であることは不都合か」
「不都合。だって、弱い」
強がりではない。事実だ。
オスカーは微笑んだ。いつもの微笑。
その微笑は、いつも何かを容認する。
「弱い状態で動けば、壊れる。壊れれば、君は“備品”に戻る」
アリスの胸が、きゅっと縮んだ。
備品扱い。
それが彼女の原点だ。
「……脅し?」
「管理」
オスカーはサボテンを見たまま言った。
「サボテンは余計なことを言わない。だから正しい」
アリスは吐き捨てた。
「キモい」
オスカーは微笑のまま資料を一枚滑らせた。
「学校」
単語だけで命令が成立するのがいちばん嫌だった。
「今日から“ただの女子高生”だ。修理が終わるまで」
「……ふざけんな」
「ふざけていない」
オスカーは淡々と続けた。
「君が戦場に出れば、次の工程が進む。君を狙う者がいる。――君が思っているより、ずっと準備が整っている」
アリスは目を細めた。
その“準備”の匂いが、都市のそれじゃないことだけは分かる。
でも、情報翼がない。嗅げない。掴めない。
だから余計に腹が立つ。
「……私のドローンは」
「整備中」
「シュヴァロフは」
「別件」
アリスは椅子を蹴りたい衝動を抑え、立ち上がった。
「……行けばいいんでしょ。学校」
オスカーは微笑のまま頷いた。
「行け。――普通に」
普通。
その単語が、アリスにとっては罰だった。
学校の門は、戦場のゲートより薄っぺらい。
薄っぺらいものほど、人を簡単に通す。
通して、簡単に刺す。
校門をくぐった瞬間、空気が一段軽くなる。
軽い空気ほど、人を刺す。
目線が多い。
好奇心と、憧れと、軽蔑と、便乗が、同じレンズで光っている。
“撮ってないよ?”という顔ほど、撮っている。
端末を胸に抱える角度。
笑っているのに瞳だけが冷たい。
「ねえ、あれ……」
「マジで本人?」
「制服、普通じゃん」
「普通に可愛い」
「いや、絶対やばいだろ。あのゴーストって――」
名前が勝手に更新される。
物語が勝手に保存される。
アリスはフードを被りたい衝動を抑え、制服のまま歩いた。
口元が勝手に悪態の形になる。
「……うるさい」
声には出さない。出せない。
今の自分は、ただの女子高生だから。
廊下に入ると、掲示板が目に入った。
進路。文化祭。清掃当番。保健だより。
紙は、きれいに整列している。
戦場には、こんな整列はない。
整列は安心のはずなのに、アリスには息苦しい。
校内放送が流れた。
声は丁寧すぎる。
『安全に配慮して、落ち着いて行動してください』
安全。配慮。落ち着いて。
その言葉は銃より逃げ道を塞ぐ。
靴音が揃っているのが気持ち悪い。
揃っている音は、逃げ道を殺す。
教室のドアを開ける。
視線が一斉に刺さる。
刺さって、すぐに逸らされる。
逸らされるのに、刺し続けられている感じが残る。
机が軽い。
軽いものは信用できない。
椅子の背もたれが低い。
身体が収まりきらない。
チョークの粉が舞う。
戦場の粉塵よりずっと薄いのに、喉が詰まる。
消しゴムの屑が指に触れる。
無害なのに、耐えがたい。
アリスは、いちばん後ろの席に座った。
背中が壁につく場所。
背中を守る癖が、まだ抜けない。
授業が始まる。
板書。ノート。先生の声。
――普通だ。
普通のはずなのに、普通が一番怖い。
だって普通は、アリスの武器を全部取り上げる。
手を挙げて発言する?
馬鹿らしい。
教室のルールは、戦場のルールより理不尽だ。
休み時間になった瞬間、“質問”が飛んでくる。
銃弾より軽いのに、避けられない。
「ねえ、義弘さんって本当に優しいの?」
「戦うの、怖くないの?」
「ドローン、今も家にいる?」
「ゴーストって呼ばれるの、どんな気分?」
「ヒーローって稼げるの?」
最後の一言が、いちばん下品で現実的で、刺さる。
アリスは、口を開きかける。
毒を吐くのは簡単だ。
でも今は吐けない。
吐けば「感じ悪い」。
黙れば「怖い」。
笑えば「媚びてる」。
どれを選んでも、誰かの物語の材料になる。
アリスは、短く言った。
「知らない」
知らない、は本当じゃない。
でも、知らない、は逃げ道だ。
担任が、やけに丁寧な声で近づいてきた。
「体調、大丈夫? 無理しないでね。何かあったら、すぐ言って」
無理しないで。
優しさの形をした命令だ。
「……別に」
アリスは吐き捨てるように言った。
担任は笑って、笑いながら距離を取った。
外部への対応に追われている目だ。
“有名人対策”の目だ。
昼休み、食堂の匂いが廊下に流れてくる。
揚げ物。甘いパン。薄いスープ。
その匂いの中で、みんなが“本人”の匂いを探している。
ここは学校なのに、コメント欄と同じ温度だ。
アリスの視界の端で、誰かが端末を立てた。
音は出ていない。
無音配信の視線。
飯屋で、避難所で、無音で見られていたあの目と同じ。
アリスは、胃の奥がきゅっとなった。
吐き気じゃない。怒りだ。
その怒りが、体調の悪さと混ざって――視界が一瞬、揺れた。
耳鳴り。
ノイズの残滓。
情報翼がないから、ただの身体の揺れとして来る。
アリスは机に肘をつき、呼吸を整えようとした。
だが、静かすぎる。
自分の呼吸が、耳にうるさい。
担任が気づいて言う。
善意の声。善意はいつも、逃げ道を塞ぐ。
「大丈夫? 保健室行く?」
クラスの視線が集まる。
“アリスちゃん、保健室だって!”
コメントみたいな空気が漂う。
アリスは舌打ちを飲み込み、立った。
「……別に。……ただ、だるい」
「無理しないで。保健室、行こう」
保健委員が付き添う。
善意がまた一枚重なる。
その歩幅は、アリスに合わせているようで、逃げ道を塞ぐ速度だった。
廊下の途中、ふと、見慣れないものが目に入った。
壁際に置かれた新しい消毒器。
校内の隅に増えた「安全のため」の設備。
増えた設備は、安心のはずなのに。
アリスには、増えた監視に見えた。
保健室の扉の前で、保健委員が笑う。
「ここなら安心だよ」
安心、という単語が、また刃に聞こえる。
保健室の匂いは、消毒と紙と薄いお茶だった。
保健の先生は忙しそうで、優しかった。
優しさは、細部を見ない。
「横になって。血圧測るね」
「……触んな」
「大丈夫大丈夫、すぐ終わるから」
アリスはベッドに腰を下ろし、天井を見た。
情報翼がない天井は、ただ白いだけだ。
白さが、怖い。
カーテンの向こうで、何かが動いた気配がした。
音はない。
なのに、空気が変わる。
保健の先生は、朝から端末に追われていた。
“安全対策強化”――その四文字が、今の学校を支配している。
有名人がいる。危険が寄ってくる。
外部からの問い合わせ。保護者の不安。教育委員会の確認。
そして、企業からの「無償提供」。
機器は増えた。紙も増えた。手順も増えた。
先生の仕事は、子どもの体調を見ることから、手順を守ることへ少しずつすり替わっていく。
保健室の備品庫の奥。
薄い布をかけた新しい“補助”が、そこにいる。
静かで、優しくて、怪我をさせない。
そう説明されていた。
そう説明されているものは、責任を軽くする。
先生は、目の前の少女――小学生に見えるのに、妙に言葉が刺々しい子を見た。
呼吸は浅い。目の焦点が時々ずれる。
本人は「大丈夫」と言う顔をしているが、大丈夫と言える種類の子ではない。
端末が小さく震えた。
画面に、丁寧すぎる文面が浮かぶ。
《安全管理モード:搬送補助の使用が可能です》
――無理をさせたら、面倒になる。
――面倒になったら、報告書になる。
――報告書になったら、“責任”が生まれる。
先生は、今日も責任を増やしたくなかった。
増やしたくないのに、守りたい気持ちは本物だった。
だから、簡単な方へ手を伸ばす。
「補助、お願い」
それは、善意の言葉の形をした――手順だった。
保健の先生が、当然のように言った。
補助。
カーテンがわずかに揺れ、奥から“それ”が出てきた。
人型に見えそうで見えない。
細身で、首が曖昧で、顔が平たい。
表面は布みたいで、光を吸う。
医療用搬送補助機。
そう言われれば、そう見える。
そう言われる前に見たら、ただの異物だ。
アリスは背筋が凍るのを感じた。
情報翼がないから確信できない。
確信できないから叫べない。
叫べば自分が悪者にされる。
“体調悪い子がパニックになった”で終わる。
アリスは唇を噛んだ。
「……それ、何」
保健の先生が笑う。
笑いが、事務的だ。
「最近の設備よ。静かで優しいの。あなた、疲れてるから」
優しい。
優しいという言葉が、刃に聞こえる。
“それ”――VX-31 HUSHは、ゆっくりと近づいた。
ゆっくりなのに、距離が詰まるのが早い。
アリスは立ち上がろうとした。
脚が重い。
自分の脚なのに、自分の脚じゃない。
HUSHの腕が、アリスの手首に触れた。
冷たい布みたいな感触。
痛みはない。
痛みがないのに、反射が遅れる。
「……っ、なに……」
言葉が口に届く前に、息が甘くなった。
世界がほんの少し遠のく。
昏倒じゃない。判断が遅くなる。
最悪の鎮静。
アリスは叫びたいのに、叫ぶタイミングを失う。
叫ぶほどでもない不快感が、喉を塞ぐ。
布状のバンドが、手首に“添う”。
きつくない。痛くない。
なのに、動くと締まる。
「……違う。これ……は……」
アリスの悪態が、遅れて落ちる。
落ちたときには、もう遅い。
保健の先生が、淡々と言った。
「動かないで。危ないから」
危ないから。
危ないからと言われるたび、逃げ道が塞がる。
HUSHは、アリスの足首にもバンドを添えた。
胴にも。
締め付けないのに、逃げられない。
アリスは最後の力で端末を探った。
制服のポケットの中。指が震える。
画面を開く。
メモ。
たった一語。
「ほけ……」
指が滑る。
それでも打った。送った。宛先は、頭の中で一番近い“安全”――義弘の古い暗号チャンネル。
届けばいい。届かなくてもいい。
何かを残したい。
視界がまた遠のく。
HUSHが、アリスを持ち上げた。
丁寧に。怪我をさせないように。
それが逆に恐ろしい。
保健室のドアが開く。
廊下の空気が入る。
誰も騒がない。
騒げない。
“具合悪い子を運んでいる”風景だから。
アリスは、薄れていく意識の中で最後の悪態を絞り出した。
「……勝手に……“健康”……とか……」
言葉が途中で途切れた。
廊下の蛍光灯が一つだけ瞬いた。
瞬いたのは照明じゃない。
世界の方だ。
義弘の端末が震えた。
透が机に身を乗り出し、「何それ!?」と覗き込もうとする。
トミーが透の額を爪で押し返した。
「見るな。お前の目、軽いんだよ」
「軽いって何だよ!」
義弘は通知を開いた。
送信者は、アリスの暗号チャンネル。
内容は一語だけ。
「ほけん」
義弘の呼吸が、止まった。
透が嬉しそうに言う。
「え? アリスちゃん!? おじいちゃん、アリスちゃんから!? やっぱ繋がって――」
「黙れ」
義弘の声が低かった。
透の口が閉じる。
次の瞬間、別の通知が滑り込んできた。
差出人欄が空白。署名なし。連絡先なし。
丁寧すぎる形式だけが残る。
件名は短い。
「通知」
義弘は指で開いた。
健康管理のため、一時保全。
対象は搬送済み。
問い合わせは不要。
主語がない。
主語がないのに、権限だけがある。
トミーが低く言った。
「……来たな」
透が顔を青くする。
「え、なに……なにそれ……?」
義弘は端末を閉じた。
閉じても、文字の温度が消えない。
工程。整理。保全。痕跡。
そして今、“健康管理”。
義弘は透を見た。
透の目は、さっきまでの熱が消え、怖さだけが残っている。
義弘は静かに言った。
「透。お前は今日から外に出るな」
「でも……」
「黙れ。これは遊びじゃない」
透の“でも”は、喉で潰れた。
義弘は立ち上がり、刀の柄に触れた。
都市戦用ブレード。
状況を斬るための刃。
だが今日は、戦場じゃない。
学校だ。保健室だ。廊下だ。
戦場の外で戦う最悪の日だ。
義弘はトミーを肩に乗せ直し、玄関に向かった。
「真鍋に連絡する」
「正論が遅れてくる前にか?」
「遅れてきても、押し込む」
義弘はドアを開けた。
新開市の朝の平然とした空気が、顔を叩く。
めげない。しょげない。反省しない。
その上に、工程が載ってくる。
義弘は、その工程を止めるために歩き出した。
背中で、透が震える声を出した。
「おじいちゃん……アリスちゃん、死ぬの?」
義弘は振り向かずに答えた。
「死なせない」
その言葉は誓いというより、命令だった。
誰に対しての命令かは、自分でも分からない。
だが、命令にしなければ――工程に飲まれる。




